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27年1月~12月

  随想 「友の御授戒」 瀬戸のなぎさ

 小春日和の午後でした。友人のアヤさんがウォーキングがてらに家(うち)に立ち寄り、一緒にお茶を飲みながら雑談していました。
「いい季節になったねぇ」
と彼女。
「私は暑さに弱いから、この季  節が一番好きやわ。これから紅 葉が美しくなるし・・・ねぇ、 二人で慈本寺へ行かない?」
 前から思っていたことを勇気を出して唐突に誘ってみると、
「私、前から慈本寺へ行ってみた いと思ってたんよ。帰りに世界 遺産の姫路城も見学したいし、 一緒に行くよ」
との思いがけない彼女の即答が嬉しくて、すぐ共に計画を立て、夫やご住職に伺いました。
 アヤさんとは高校時代の同級生です。
 卒業後は別々の進路で長く疎遠になっていましたが、同窓会で同じ町内に住んでいることが分り、同じ趣味を一緒に楽しむようになってからは、友情も深まりました。
 よく家へも来られるので、そんな折は仏法対話も心がけ、以前には我が家で御住職をお迎えしての宅御講に参加したり、一緒に大石寺へ見学にも行ったことがありますが、入信には至りませんでした。
 私たちが慈本寺の信徒にして頂いてからは、慈本寺発刊の「妙彩」を渡すと読んで感想を述べてくれ「又、次も読ませてね」と言われるので、早く御授戒を受けられて、一緒に信心したいものと御祈念していたのです。
 当日は予定通りに始発のJR瀬戸大橋線から新幹線を乗り継ぎ、時を忘れてお喋りしている内に青梅に着きました。
 駅まで出迎えて下さった御住職の車で慈本寺へ着くと、色づいた落ち葉を掃いておられた信徒の方や奥さんに笑顔で迎えられ、彼女もすっかり、リラックスされた様子です。
 しばらく御住職と話し合った後、彼女はお念珠や教本などを頂き、本堂の御本尊様に勤行唱題して御授戒を受けられた時は、感激で目が潤みました。
 その夜は青梅かんぽの宿でお互いに心ゆくまで語り合い、ぐっすり眠むりました。
 青梅へは毎年、何度となく訪れていますが翌朝に、初めて街を散策しました。
 当地のマンガ家・赤塚不二夫会館や昭和レトロ商品博物館などを巡りながら、古い街並を歩いていると、私たちが育った昭和時代が懐しく思い出されて、癒されます。
 古民家の粋な店での昼食後に姫路に向い、その夜はお城近くのホテルで宿泊。
 次の日も秋晴れで、朝から姫路城周辺は国内外からの観光客であふれています。
 紺碧の空に別名「白鷺城」の真白な天守閣が、威風堂々とそびえ輝いていました。
 世界文化遺産を築城時のままの美しい姿で後世に残すため、白漆喰壁の塗り替えや屋根瓦の葺き直しなどに五年の歳月をかけたとか。
 ふと、大石寺の国の重要文化財になっている五重塔や県の有形文化財の三門などの大改修工事と想い合わせ、広宣流布の暁まで永劫に残すための工事が無事故で完成し、その為の御供養に参加できますよう祈ります。
 帰りの道すがら、
「いい旅ができて良かったわ!
 慈本寺で御授戒を受けて、なん だか、とても気分がすっきりし たんよ。これからは毎日南無妙 法蓮華経って唱えるからね」
と、晴ればれとした表情のアヤさんに安堵しながら、これからは共に勤行したり、お登山させて頂きながら、生涯の同志として手を携えて生きてゆきたいと思います。 (せとのなぎさ)
 (12月)



  随想 「いじめ」に想う 瀬戸のなぎさ

 今年は、例年より一ヶ月早くにお会式に参詣できてからは晴天が続き、今日で稲刈りが終了しました。
 機械化した近年では、足腰を痛めている私などが手伝うことなく、夫と三男だけで田植えも稲刈りもしてもらえたので、とても有り難く思います。
 夕方、田んぼへ様子を見に行くと、夕焼け空を背に稲刈りが終ったところでした。
 今朝まで一面、黄金色の稲穂が広がっていた田んぼが稲わらで覆われ、オレンジ色に染まった西空のうろこ雲の透き間から、輝く光線が降り注いでいます。
 秋の季語にもなっているうろこ雲が、夕焼け空をこんなにも幻想的に魅了させてくれるとはと、しばしその美しさに見とれました。
 最近、学校や職場などでいじめを受けて、自ら命を絶つ悲惨なニュースに心が痛みます。
 なぜ被害者が自殺するほどの悩みに、周囲が気付き、助けられなかったのかと残念です。
 昨年の「妙教第二百六十二号」の(中学生のためのやさしい教学)《先生の叱責》の欄を読んでいて、これは執筆者である道芳さんの担任だったT先生のことだと分かりました。
 内容は道芳さんが小四の時、突然、担任の先生が数名の男子をすごい剣幕で叱り始め、何事かと見ていると、それはクラスのA子の体操服の汚れをからかい、暴言を吐いていた男子への叱責だったとのことでした。
(先生は「A子はお母さんが亡くなって、みんなのように洗濯してくれる人がいなくなったんだから、仕方ないじゃないか。なぜ馬鹿にするんだ。小さな弟の世話をしながら、毎日仕事で帰りが遅いお父さんを待っているA子の気持ちをなぜ解ろうとしないんだ」とクラス全員に泣きながら訴えかけました。)
とのくだりで、四十年前のT先生や、突然な母親の死で、葬儀の時、幼い弟を抱く父親に、目を潤ませて寄り添っていたA子ちゃんの姿を思い出しました。
 T先生はその春、新任教師で担任になり、早朝出勤でドッチボールや会話で生徒達と触れ合い、教育に情熱を傾けておられたから、A子ちゃんの家庭事情もよく把握されていたのでしょう。
 道芳さんが小六の夏休みに家族と大石寺へ参詣したのが動機で「お坊さんになりたい」と言う生徒と戸惑う親にも、T先生は真面目に向き合ってくれました。
 そして、得度試験の受験に必要な成績証明証や健康診断証などの取得に協力頂いたのです。
 道芳さんの今日があるのも、少年時代のT先生の教育の影響もあってのことと、この春、改めてお礼と近況報告の手紙を書き、「妙教」のコピーも同封して送りました。
 しばらくして、T先生から懐かしい筆跡の分厚い手紙が届きました。
 それには(小橋君が執筆された「妙教」の内容は、私が語ったものと思います。三十九年前のことですが、私も内容は覚えています。そのことを書いてくれたこと大変うれしく思っています。ー中略ー正義感、思いやりのある小学校時代のことは、昨日のように思い出します)などと書かれていて、さっそく慈本寺のホームページで教え子の僧侶の姿を見つけられたとの文面に恩師の温さを感じます。
 当時、青年だった先生も昨年、定年退職されたそうで、上京の折は連絡をとってみたいとのお便りを嬉しく読ませて頂きました。
 今朝の新聞に(全国の国公立の小学校が二〇一四年度に把握したいじめが、十二万二千七百二十一件で過去最多)とありました。
 一念三千の法門が流布すれば、もう少し世の中が穏やかに暮しやすくなるのではと、折伏に励んでいる此の頃です。 (せとのなぎさ)

 (11月)
 

  随想 「ながつき」 瀬戸のなぎさ
九月になり、日暮れが早くなりました。
 夜がだんだん長くなる夜長月という言葉から、陰暦の別称「長月」となったようです。
 庭のキバナコスモスが爽やかな風に揺れる午後、久しぶりに、かつて私が再折伏したKさんの美容室へ行きました。
 七十代後半になられたKさんは「おととい、私、支部登山で大石寺へ行ってきたんよ!」
と、弾んだ声で迎えてくれました。 昔から酒豪で、泥酔いしては失態を重ねてアル中になり、入退院を繰り返していたご主人が、寺院へ参詣するようになってから自ら断酒し、現在、幹事として活躍されているとの事。
 私の長男と小学校で同級生だった一人息子さんに、先月、長男が誕生して
「息子夫婦が高齢出産で心配しとったけど、母子共に元気で産まれて、ほんまに大きな功徳を頂いたと、家族中で喜んでるんよ!」
と、私の髪を切りながら鏡の中の私に満面の笑で話し、可愛いい赤ちゃん写真を見せて、信心していて善かったと、しみじみ話します。
 一時は学会からの脱講運動に狙(ねら)われ、心が揺れていた彼女を説得するのに一生懸命だった私ですが、今日の彼女の輝く笑顔に安堵して、私も幸福な気持に満たされました。
 経王殿御返事(御書六八五~六)に
「あひかまへて御信心を出だし此 の御本尊に祈念せしめ給へ。何 事か成就せざるべき。『充満其 願、如清涼池』『現世安穏、後 生善処』疑ひなからん。」
と仰せです。
 常に折伏を心がけ、十一月の支部登山までに、仏法対話を続けている友人をぜひ慈本寺へお連れしたいと、唱題に励んでいる此の頃です。 (せとのなぎさ)

  (10月)



  随想 「戦後七十年を迎えて」 瀬戸のなぎさ

 高松では七月末から三十五度以上の猛暑日が二週間も続きましたが、旧盆には小雨もパラつき、風が爽やかになり、ほっとひと息ついています。
 盆には親戚の人たちや三男家族と車を連らね、家から三キロほどの墓園へ墓参に出かけました。
 前日に墓掃除は終えていたので、水を汲み新しいシキミやお塔婆を供え、盆灯籠に火を灯して、みんなで勤行唱題し、先祖の追善供養をしました。
 隣には日蓮正宗の親戚の墓も並んでいるので、同様にシキミやお塔婆を供えて唱題しながら、故人を偲びます。
 ちょうどその日は孫娘の三歳の誕生日。上手にお念珠を手に掛けて唱題できた事を誉めてあげると、笑顔で恥しそうな顔をします。
 幼い頃から自然に正しい仏法に縁をして、生涯、揺るぎない幸福な人生を送って欲しいものと願います。
 来週はソウル在勤の次男一家が帰省するので、又、一緒に墓参できるのが楽しみです。
 今年は太平洋戦後七十年の節目を迎え、連日、新聞やテレビも戦争当時の報道であふれています。
 私が生まれ育った高松旧市街地は八割が米軍の焼夷弾で焼け野原になり、一三五九人が命を奪(うば)われ、八万六千四百人が被災したそうです。かろうじて戦災をまぬがれた私の生家は昭和初期の面影のまま、今も高齢になった兄夫婦が、常住御本尊様をお守りし、先祖供養しながら住んでいます。
 出征した兄たちも、戦場で負傷したものの、戦後は社会復起できました。
 そんな訳で、戦中生まれの私などは幼すぎて、空襲の怖さも食料難のひもじさも知らず、戦後の平和のもとで、のびのびと育ちました。
 ところがここ数日間、戦事中の未公開の悲惨な情景や証言などを見聞する度、怒りや恐怖で眠れぬ夜が続いています。
 一昨夜、NHKスペシャル「あの日僕らは戦場で」というアニメ・ドキュメントを見ました。
 太平洋戦争中に多くの兵士が戦死した日本では十三才から十五才の少年を『護郷隊』として召集し、各地で陸軍中野学校の将校たちからゲリラ戦の訓練を受けていたのです。『特攻隊』のことは知っていましたが、まだあどけない少年たちの『護郷隊』という軍隊の存在は初めて知りました。
 家族と引き裂かれて過酷な訓練を受け、凄惨(せいさん)な戦闘を繰り広げて、生き残った元少年兵たちは今、九十近い高齢になっています。その七十年間に、心に秘め語れなかった当時の真実を証言している雄姿に、頭が下がります。
 目の前で友が戦死したり、負傷して動けなくなった友が、日本の軍医に射殺された様子を遺族に初めて明かす老人と、遺族の様子をカメラが追っています。双方の長い間の苦悩を思うと、私も涙が溢れます。
 将校が少年に刀を突きつけて
 「おまえはお国のために死ねる  か!」
 「死にます!」
の問答を、少年が無分別に行動できる妄動(もうどう)状態になるまで繰り返し、ゲリラ兵に仕立てあげる酷(むご)い様子に心が裂ける思いでした。
 平和になった国で七十年も生かされてきた私は、未来永劫の世界平和を願って、今、何をなすべき時か、自身を叱咤しながら、眠むれぬ夜に唱題している此の頃です。 (せとのなぎさ)

  (9月)
     

  随想 「緑の連なり」 瀬戸のなぎさ

 高松地方気象台は七月二十四日、四国地方の梅雨明けを発表しました。
 先日の台風十一号直撃で、庭のリンゴや柿の実が青いままに沢山落下して、ナスやトマトなどの枝が折れたのを直している内に、いよいよ夏本番です。
 体調を整えて、これからの暑さを乗り越えねばと、自身に気合いを入れます。
 先日、雲が低く垂れたお昼前のこと、同人誌『四国作家』の会、会員の池下玲子さん(ペンネーム堀川佳)の「床頭台」が第五十回香川菊池寛賞を受賞し、受賞祝賀会に出かけました。
 会場はサンポート高松シンボルタワーの三十階にあるフランス料理店です。
 その日の地上はどんより曇り空でしたが、会場のガラス越しにはビルより低く真白な雲が広がり、雲海の間から瀬戸内海に浮かぶ女木島の頂上だけが姿を現わしている幻想的風景の中での祝賀会となりました。
 『香川菊池寛賞』とは、芥川賞と直木賞の創設者である高松市出身の文壇の大御書、菊池寛を顕彰するとともに、優れた作品の発掘や育成、郷土の文学の振興を図ることを目的に、昭和四十年に創設されたものです。
 はじめに同人誌『四国作家』の池内武会長からの祝辞や花束贈呈などの後、受賞者からのお礼の挨拶とこれまでの経緯や感想などが述べられ、乾杯の後、長いテーブルを囲み、和やかに会食が始まりました。
 その様子を見ていると、これまでに受賞された方々や作家として、あるいはご自身の専門分野で研究したものなどを出版されている方とか大学教授、会社社長、歌人などと、そうそうたる人たちばかりで、圧倒されます。
 この会に入会以来、浅識(せんしき)で稚拙(ちせつ)な文章しか書けない私が、なぜ、ここに居るのだろうかと、こればゆい思いをしながら、恩師の故佐々木正夫先生を偲んでいました。
 私が三十代の育児真最中の頃、唐突な長男の希望で得度試験を受け、小学校卒業と同時に遠く離れた大石寺の仏門に入った息子を案じ歓びと淋しさの複雑な思いを持て余している頃でした。
 新聞社の文化教室「小説・随筆作法」の広告が目に止まり、さっそく月二回の講座に通い始めました。
 講師は「讃岐の文学散歩」で第六回香川菊池寛賞を受賞された佐々木正夫先生でした。
 授講生は学生から八十代までの老若男女。まずは、原稿用紙の使い方から文章の書き方など、先生の体験を通して、親切で細やかな講義をして頂きました。
 宿題に自宅で書いた文章を受講者全員に配布し、後日、それぞれの作品をみんなで自由に合評しますが、それは厳しいものでした。
 数年後に佐々木先生が主宰の同人誌「四国作家」の会の会員になり、以来、失敗を重ねながら、今日まで続いています。
 「上手に書こうと思わず、自分の言葉で書きなさい。
 何でもよいから机の前に座り、毎日、書くことを癖(くせ)にしなさい。
 書き上げた原稿はしばらく寝かせて、時を経て読みかえせば間違いに気付けます。
 つまらずに、すらりと読めて理解できる文章になっていることが大事なのです。」
 等々、その都度、先生の教えを思い出しながら、縁あって慈本寺の先輩から引き継いで、「妙彩」に拙(つたな)い随想を書かせて頂いている福運に感謝しています。
 今年は故佐々木先生の七回忌。せめて俗名でお塔婆を建て、本物の仏様の元での追善供養を御住職にお願いしたいと思っています。 (せとのなぎさ)

  (27.8月)


  随想 「農に想う」 瀬戸のなぎさ

   今年は立夏を過ぎても日々の気温差が激しすぎて、毎朝、何を着てよいのか迷っている内に梅雨入りしました。
 どんよりと曇った朝、朝食を摂っていると、チッチッ・ジュジュと外が騒がしくなり、何事かと庭に出てみました。
 すると私の気配に数十羽のムク鳥が、家の西側のビワの梢から一斉に羽ばたきます。
 尾が短く、全身が灰黒色で頭は白く、くちばしと足が黄色の野鳥の群れはやがて彼方に消えて、残された天辺(てっぺん)の梢に色付いたビワの実が食い荒され、無残に垂れていました。
 最近は家庭菜園の夏野菜や花壇などの手入れに忙しく、片隅のビワのことは気に止めずにいましたが、季節が巡れば確実に実が熟れてゆく自然の摂理に感動します。
 ビワは花の少ない冬に開花して、枝に密集して結実したものを摘果し、二~三個残した実を紙袋で包み育てます。
 木が低く、枝に手が届いているうちは、すべての実を摘果して袋掛けしていましたが、次第に枝を広げ大きく育つのと反比例して私の体力が落ち、梯子登りもおぼつかなくなった今年は、高枝の実は鈴生りのまま放置していたのでした。
 空を行き交う鳥からは、橙黄色に輝く鈴生りの実は恰好の御馳走に見えたようです。
 高枝の実は野鳥に、下の袋掛けしたものは人間にと分け合って共存できることは平和な証(あかし)です。
 でも、初物はまず御本尊様にと、袋包みのビワを少しばかり収穫して、我が家の御宝(原稿では「法」)前にお供えしました。
 此のところ、夫は田に肥料を撒き、トラクターで土を耕したり、畔で草刈り機を使ったりと、田植えの準備に忙しくしています。
 いくら機械化農業といえども、暑い日の農作業は重労働。高齢者の夫が熱中症にならないかと心配で、度々、冷たいポカリスエットや麦茶、塩アメなどを田圃へ持参しますが、「わしは子供の頃からおじいさんに仕込まれとるけん、そんな柔(やわ)ではないわい!農家はわしの趣味や。御本尊様が守ってくれとるけん、心配するな」と、意に介しません。
 広い納屋には大・小の耕運機や乗用トラクター、田植機、コンバイン(稲刈機)、耕運機等々、大きな農業機械が並んでいますが、どれも年間に数日しか使用しない物ばかりです。
 採算を度外視して農業を趣味と割り切り、有機肥料で美味しい農産物を家族に食べさせる事を生き甲斐にしてもらえることは、有り難いことです。
 農水省は今年の米の生産目標を七百五十一万トンと発表しました。
 これは全水田の五七・七パーセントしか米作できないとのこと。
 輸出産業の見返りに、外国から米や野菜などの農産物や畜産物等の食料輸入量がTPP(環太平洋連携協定)に加入すれば、さらに増えそうです。
 食料自給率が半分にも満たない我が国が、もし戦争などに巻き込まれて、食料輸入ができなくなれば、再び七十年前のような食料難で国民が飢える事態にならなければよいがと、この老姿心は危ぶみます。
 近年、急速に周辺農地が宅地や商業地に変貌するなかで、せめて子孫が非常時に備えて、自給自足できるようにと田畑を守りながら、平和を祈ります。
 種子をまき、発芽して、日々の成長を見守るのは楽しいもの。丹精が実り収穫する時は功徳と感謝し、実益以上の喜びにひたれるのです。 (せとのなぎさ)
 (7月)


  随想 「初夏の朝に」 瀬戸のなぎさ
 早朝の勤行を終えて外に出ると、朝焼けの東の空にまっ赤な太陽が登っています。
なんと厳かな風景でしょう!思わず合掌しました。
 立夏も過ぎた此の頃、たっぷりの雨と太陽の恵みを受けた辺りの木々は若葉が茂り、色とりどりのアヤメやジャーマンアイリス、シャクナゲ、ナデシコなどが花盛りです。
 いつの間にか私の背丈より高く育ったタチアオイがピンクの花を咲かせています。
「たのしみは朝おきいでて昨日(きのう)まで、無かりし花の咲ける見る時」
と、橘曙(あけ)覧(み)の短歌の心境で、まだ明けやらぬ爽やかな朝の散策は、至福のひととき。
 季節の移ろいに日々新たな花を咲かせては朽ちてゆく庭で、早春に咲き終え、茶色に枯れ果てたスイセンの葉などと共に雑草を抜き処理してゆくのが、この季節の朝の仕事です。
 菜園を覗くと、もう早生(わせい)のタマネギが艶やかに肥大して畝に並んでいます。
 横の畝の晩生(おくて)タマネギと赤色種のスターレッドの球はまだ小さく、葉もピンと伸びていますが、早生の葉は少し黄色く倒れているので、もう収穫時です。
 これまでは亡き姑の教え通りに、毎年、晩生のみを作付けして いましたが、隣家の百歳近いおぱ 1あちゃんから「早生と晩生の両方を作ると長く食べられて重宝するよ」とアドバイスを受けて、昨年の秋には早晩両方のタマネギ苗を植えたのです。
 タマネギは利尿や発汗作用などの薬効も認められ、含まれている硫化アリルは血栓予防にもなるそうで、よく料理に使います。
 新タマネギなら辛味が少なく、水にさらさなくても生食で美味しく頂けて私は好物。
今日は天気もよさそうなので早生だけを収穫することにしました。
 抜き取ったら、そのまま午後まで乾かし、その後は風通しのよい納屋の軒に吊します。
 次第に明るそなる太陽を背に早生タマネギを抜きながら、日蓮大聖人の「一念三千法門」(御書一一〇)
「法華経の行者は如説修行せば、必ず一生の中に一人も残らず成仏すべし。譬へば春夏田を作るに早晩(わせおく)あれども一年の中には必ず之を納む。法華の行者も上申下根あれども、必ず一生の中に証得(しょうとく)す。
の一節を思い出しておりました。
それは日々、朝タの勤行の後、日めくりの「御聖訓一読集」を開き、当日の御聖訓を家族と唱和しているのですが、この一節を拝読する度、農作物に早晩まであることをご存知の大聖人の博識に敬服していたのでした。
そして未だ信心未熟で下根の私でも、法華経に説かれているとおりに信心修行すれば、必らず一生の中に一人も残らず成仏のさとりを得られるとの御聖訓に励まされているのです。
いろんな想いにふけりながら作業している内にひと畝収穫し、日差しも眩しくなってきたので、朝食のため家に入りました。
今日も善い一日でありますように・・・・!(せとのなぎさ)

  (6月) 


  随想 「奉祝記念登山と桜」 瀬戸のなぎさ 

 二十四節気の一つ「清明」も過ぎ、桜の花が散り始めました。
 捜し物があって向いの古い屋敷へ行くと、満開を過ぎた桜の下が、ピンクの花びらで染っています。
 自然の移ろいに、つい十日ほど前の奉祝記念法要登山の折に各所で愛でた、みごとな桜を思い出しました。
 三月二十九日の早朝、三男夫婦と孫二人、私達夫婦の家族六人は三男のワゴン車で瀬戸大橋を渡り、山陽自動車道、名神高速などを通ってお山へと向いました。
 時折、小さな雨が降っていましたが、道中のサービスエリアでは傘を差すほどでもなく、幼い孫たちに合わせて休憩しながらの、のんびりドライブでした。
 夕方までには予約していた朝霧高原のロッジに着き、夕食後は湯舟で疲れを取り、ゆっくり休みました。
 翌朝、カーテンを開けると目の前に雄大な富士山が、雲ひとつない空に聳えています。
 真白な嶺の雪が朝日に輝き、野鳥の囀りが響く雑木林の間から、ピンクの花木が数本、見えたのは桜でしょうか?
 しばしデッキで富士山を眺めながら、爽やかな空気を満喫していると、やがて隣のロッジから孫たちも出てきたので、すぐ横にある牧場へ一緒に散歩に出かけました。
 まだ動物たちは飼育係の世話を受けている時間帯で、動物とふれあう事はできなかったのですが、柵の外から馬や牛、羊たちを見て孫たちは大喜び。写真撮影などして朝食後、正装して大石寺へ向いました。
 坊に着くと、すでに袖山さんご一行は着山されていて、内拝券やお弁当などを配布下さり、何かとお世話になりました。
 袖山さんのご長男は今春から中学生とか。これまで少年部員として健やかに成長してこられたご兄妹の姿に、当方の孫たちの未来を重ねて、あやかりたいと思いました。
 一緒に登山していた二歳の孫娘は二回目、五歳の男孫は三回目の登山です。
 御開扉の時(どの子供たちも信心根本に、平和で幸せな人生が送れますように)と、御祈念しました。
 続いて記念法要に参詣させて頂いた後、東山駐車場に向う途中、潤井川辺りの桜並木は八部咲きで青空に映え、咲き誇っています。
 しばし富見橋で佇み、見惚れてしまいました。
 その夜は静岡で泊り、翌朝、東名高速で帰路に発ちましたが途中、浜名湖辺りの道路の両側沿いは一面、桜花爛漫。
 こんなにも美しい季節に、家族揃って無事にお登山させて頂けた事が有り難く、自然にお題目が口からこぼれます。
 春の山は「山笑う」と表されます。新芽や若葉が萌え出て、その間に山桜が咲き、淡い色に覆われた山は笑っているように見えるからだそうです。
 夏は「山滴る」、秋は紅葉して「山粧(よそお)う」、冬は「山眠る」と言われています。
 日本には四季折々の美しい風景があり、感動しながら平和な国で暮せる事は幸せです。
 法華題目抄(御書三五四)に
 「法華経の題目は羊角のごとく せうれう(鷦鷯)の鳥の如し。 琥珀は塵をとり磁石は鉄をす  う。我らが悪業は鉄との如く、 法華経の題目は琥珀と磁石との 如し。かくをもいて常に南無妙 法蓮華経と唱へさせ給うべし。」
と、説かれています。
 常にお題目を唱えていると、善い縁に触れ、自然に守られていくように思えます。(せとのなぎさ)
 (5月)


  随想 「エンディングノート」 瀬戸のなぎさ


 春一番も過ぎ、急に春めいてきた日差しの中で、今日は庭の草抜きをしました。

 そんな時、冬枯れのアジサイの枝や芝生の中に緑色の芽吹きを見つけて、春の気配に嬉しくなります。

 今年も寒空の下で、花茎の低い薄紫色のカンザキアヤメが、長い葉に隠れるように楚々と咲いています。

 寒い季節でも庭仕事は忙しく、木々の剪定や植え替え、虫の予防や追肥などで、暖かな日中は外に出て植物と戯れます。

 そんな作業をしながら、昨日、出席した「Mさんを偲ぶ会」のことを思っていました。

 Mさんとは某新聞社の地区通信員として二十数年間、共に地域の取材活動やいろんなイベントに関ってきた仲間でした。

 私より二歳ほど上でしたが、若々しく好奇心旺盛で活発だった彼女と、何度か国内外のあちこちを旅したことがあります。

 そんな時、どこでもよく歩き見学して、何でも食べ、どのような環境の中でもぐっすり眠むれるタフさに、臆病者で不眠症の私が畏敬の念を抱くほど元気な人でした。

 そんな彼女が二ヶ月ほど前の夕方、ウォーキング中に横断歩道で車に跳ねられて、五時間後に死亡されたのでした。

 突然の訃報に、親族も周囲の人々も驚きと悲しみのなかで葬儀は終わりました。

 七七日忌も過ぎた昨日、通信員の仲間たちが、それぞれに彼女との写真や絵手紙などの思い出の品を持ち寄り、偲びあいました。

 そんな折ふと今、私が突然に死んだり、意識不明に陥れば、家族はどんなに慌てふためくだろうかと想像しました。

 日蓮大聖人は「妙法尼御前御返事」(御書一四八二)に

「人の寿命は無常なり。出づる気 は入る気を待つことなし。風の 前の露、尚譬(なおたと)へに あらず。かしこき(賢)も、は かなきも、老いたるも若きも、 定めなき習いなり。されば先づ 臨終の事を習うて後に他事を習 うべし」

と仰せです。

 高齢者の私も、何時・どこで、どのようになるか分りません。

 大切な家族を困らせないために、今からエンディングノートを準備して、家族に伝えたいことを思いつくままに記帳してゆきたいと思いました。

 突然に倒れて、自分が意思表示できない状態になった時、健康保健証や掛り付け病院の診察券、通帳と印鑑、財布などの保管場所を記入しておかなくては・・・。

 癌の末期状態や脳死状態になったとき、告知や延命措置を受けたいか、受けたくないか。

 介護が必要になった時に、どこで、どのような介護を希望するのかなど、いっぱい伝えたいことが思い浮びます。

 今年は七番目の女孫の七五三のお祝いがあります。その時、久しぶりに私も着物を着て、元気な内に遺影も事前に写し、「孫たち全員が日蓮大聖人の仏法を根本に、幸せな人生を歩んで欲しい」とのメッセージも伝えておきたいと思います。

 叶うなら、私の来世は子孫の御本尊様ご安置の家に又、生まれ替りたいと思っていると、

「願いが叶う、叶わざるはご信心 によるべし」

とのお声が、何処からか聞こえそうです。

 今一度、姿勢を正して信心に励まなければと、あれこれ思いめぐらしながら作業をしている内に時が流れ、作業が捗(はかど)りました。   (せとのなぎさ)

 (4月)
      
  

  随想 「支部登山」 瀬戸のなぎさ  

 立春を過ぎて再び寒さが戻りました。

 二月十一日の支部登山を楽しみに、一ヶ月前から夫婦のJR乗車券や駅駐車場の予約をしていた私は、当日の天候が気がかりでした。

 四国と本州を結ぶ瀬戸大橋は強風になると車も列車も通行止めになったり、積雪による新幹線運休などのニュースも時々耳にしていたので、ひたすら好天を祈っておりました。

 当日は午前二時半起床。身繕いして朝の勤行と朝食を終えて、四時過ぎに車で出発。

 駅前駐車場に車を預けての道すがら、天を仰げば無数の星が輝き、冷気が頬を包みます。

 前日までの風が和らいでいることに安堵して、高松四時三五分始発の瀬戸大橋線マリンライナーに乗りました。

 乗客のほとんどが座席に着くと、再び目を閉じ、静かな街も車内も夜が明けきらぬまま、列車は静かに走り出しました。

 やがて轟音と共に瀬戸の海を跨(また)ぐ鉄橋に差しかかり、暗い海を行き交う船が明るい光を放っている様は神秘的です。

 一時間余りで岡山駅に着き、新幹線六時三分始発の「こだま」に乗車。大阪駅で静岡駅停車の「ひかり」に乗り替えました。

 ようやく車窓からの風景が明るくなり、ひと息ついて熱いコーヒを飲みながら朝刊を読んでいると

「この列車は米原周辺の積雪のた め減速して六分ほど遅れ、ご迷 惑をおかけしております」

との車内アナウンスに驚き、外を覗くと一面真白な雪でした。

 予定の静岡駅から身延線(特急ふじかわ号)への乗り替え時間は三分しかなく、遅れると御開扉に間に合わなくなりそうです。

 新聞をたたみ、雪景色を見ながら(早く走って!)と祈る思いでした。

 名古屋近辺になると雪は消え、列車は加速して定刻に静岡駅に着き、かろうじて身延線のふじかわ三号に乗車できました。

 富士宮駅から乗車したタクシー乗務員が偶然にも法華講員で、信心の話をしながら本種坊の裏まで送ってくれ、無事、御宝前で慈本寺の皆様と合流でき、御題目三唱させて頂けました。

 雲ひとつない勇姿の富士山を背景に支部登山者全員との記念撮影の後、宿坊で章子さん姉妹の手作り弁当を美味しく頂きました。

 三ヶ月ぶりの支部登山で、懐しい方々とのお目もじは嬉しさいっぱいです。

 御開扉を受けながら、こうして皆さんと共に元気でお登山させて頂ける福運を感謝しながら(来月も無事故で、奉祝登山に参詣させて下さい)と御祈念しました。

 三月三十日の奉祝登山には、三男夫婦が運転するワゴン車で、幼い孫たちも一緒の登山を家族で楽しみにしているのです。

 私の初登山は昭和三十七年二月、高校三年の時でした。当時は瀬戸内海を連絡船で渡り、岡山から夜行列車とバスを乗り継ぎ、三日がかりのお登山でした。

 内拝は御宝蔵で大勢の人々と前後左右ぎっしり詰め合っての正座で、足がしびれました。

 宿坊で一泊し、夜中に猊下様の丑寅勤行にお伴させて頂き、時間も気力も必要でした。

 それでも大御本尊様を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)して、様々な困難を乗り越え、登山参詣をさせて頂いてきたお陰で、今日の幸せがあるように思います。

 本尊供養御書(一〇五四)に

「須弥山に近づく鳥は金色となる なり(中略)何に況んや法華経 の御力をや」

と仰せです。

 夫と共に健康に留意して、末永くお登山させて頂きたいと願っております。
 (せとのなぎさ)

 (3月)



  随想 「失敗を教訓にして」 瀬戸のなぎさ  

 今日は大寒です。
 一年で、もっとも寒さが厳しい頃とされていますが、ここ高松では日中、暖かな好天に恵まれて、庭の白梅が咲き始めました。
 この蒔期、寒さが和らぐと、大寒から二週間、本山で行われる寒経のことを思い、ホッとします。
 我が家で朝タの勤行の時、仏間を暖房しながら、本山では厳しい寒気の中、六壺の障子戸を開け放ち、所化・小僧さんたちが寒経に励まれておられることを想像するだけで、温々と勤行していては申し訳なく思うのです。
 忙しかった正月も過ぎ、平穏な日常に戻った頃、同人誌でお世話になっている方から、同人誌でお世話になっている方から、作家・阿刀
田富民の講演会の案内が届きました。そして同封の手紙の追伸に
「「一肩の葡萄は有島武郎の童話です」と、書かれていたことに、一瞬、息が止まるほど驚きました。
それは昨年の「沙彩」九月号に「アライグマとブドウ」と題して「もう半世紀も前の中学生の時、国語の教科書に「ひと房のぶどうという、西洋の物語が載っていました」 と私の随想に書いたからです。 

『 一房の葡萄』の作者も内容の詳細も、すっかり忘れていましたが、西洋人の女性教師が、窓辺の葡萄蔓(つる)から一房の西洋葡萄をもぎ取り、悲しみに打ちひしがれて泣いていた少年に、やさしく渡す情景だけが、いつまでも美じい 絵画のように私の脳裏に焼きつき、いつの間にか西洋の物語だった
錯覚したのでした。
 私はさっそく図書館へ行き、有島武郎の『一房の葡萄』を捜し、 ときめきながら一気に読みまし た。読み進むうちに
明治時代の横浜で、親の教方針から、教師も生徒も西洋人ばかりの学校へ通っていた日本の少年の物語だったこと。
 絵が上手なその少年が、日々の通学途中に見える横・海港の赤い帆前船や美しい藍色の海を描きたくて、クラスメートの舶来絵の具箱から赤と藍色の絵の具を盗んだこと。
 でも、盗みはすぐにあばかれて、少年はみんなに、好きな受け持ちの先生の所へ引っぱって行かれ、自責の念にかられて泣いていたのだったことなどを懐しく思い出しました。
 誰れの著作だったか、内容さえも忘れかけながら(西洋の物に・・・)などと安易に書いてしまった自分のミスを恥じました。
 でも、そのお陰で、長く心の片隅に残っていた教科書の本に再び出会えたことは、とても嬉しく、私の間違いをさりげなくご教示下さった方に、さっそくお礼の手紙を書きました。
 そして、自分の文章を活字にする場合(ネット配信も同様)不特定多数の人々に読まれることを認識して、決つして間違いを書き記してならないと肝に銘じました。
 十章抄(御書四六六)に
「真実に円の行に順じて常にロずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。名は必ず体にいたる徳あり」
と日蓮大聖人は仰せです。
 今年は羊年。年女の私は老年期に入る出発の年と心得て、唱題に 励みながら悔いのない日々を大切 一に生きたいと願っています。
(せとのなぎさ)
(2月)


  随想 「家計簿と私」 瀬戸のなぎさ

 (27.1月) 
 師走に入ると急速に発達した低気圧の影響で、ここ瀬戸内も寒波の日々が増えました。

 本州と四国を結ぶJR瀬戸大橋線の列車が海上の高架橋上で立ち往生したり、四国山脈の県境国道では雪積のため十四時間も多くの車が動けなくなりました。

 山村の地域では孤立状態が続き凍死者が出るほどの、四国では珍しい大雪の惨事に、ひたすら自然の安穏を祈るばかりです。

 農協から月間雑誌「家の光」十二月号が付録の家計簿付きで届けられると、一年の時の流れの早さに戸惑いながらも、無事に年越しできそうなことに感謝します。

 家計簿はこれで五十冊目。

 自身の金銭出納を記帳し始めたのは十五歳からなので、ずいぶん長く記帳していることになりますが、それらのノートや家計簿等は自分が生きてきた証(あかし)のように思えて、今もすべて手元に保管しています。

 九人兄姉(きょうだい)の末の私が高校入学時には、歳が離れている兄姉たちは皆、結婚や就職などで独立し、父は定年退職していました。

 それまで何不自由なく、のんびり育った私も私立高校入学を機に、これからは高齢の両親に金銭の不担をあまりかけないようにしようと、ごく自然に自覚し始めたのです。

 高校生活の費用がどれほどかかるのか興味もあり、父から毎月定額を貰って、自分で学費と小遣いをやり繰りして記帳してみたいと両親に頼み、一冊のノートを用意したのは一九五九年の春のことでした。

 入学金や教科書・制服代などは親から直接支払ってもらいましたが、それらもすべて記帳して四月から月額三千円を父から貰い、授業料や学用品・小遣などを管理して記帳しました。

 高一で六万六千八百三十円の支出。卒業までの三年間の支出合計は十八万一千二十六円と記帳しています。

 高校生活三年間の記帳を続けられたことが達成感と自信につながり、大阪に出て限られた仕送りでの自炊の学生生活も、薄給だった新婚時代も、家計簿を付けることで工夫とやり繰りが出来たように思えます。

 若い頃はノートに線引きして記帳していましたが、四十年程前からは付録の家計簿を愛用しています。

 それは開いた二ページ分に五日間の記帳が出来るよう項目別に仕切り、日記欄もあります。

 夜のひととき、その日の天候や一日の主な出来事を箇条書きして、その時々の捨てがたいメッセージカードや感動したチケットの半券なども隅に止めて楽しみます。

 先日、納戸の整理をした時、もう忘れかけていた日銀募集の第四十二回「わが家の家計簿・生活設計」に応募した時の原稿と大きな生活設計図や、その時頂いた賞状などが出てきました。

 改めて自分が書いた一九六五(結婚の年)~二〇二〇年までの、ぎっしり書き込まれた生活設計図の内容を見ると、わが家はほぼその計画に添って事が運び、順調に今日に至っていることに気づきました。

 上野殿後家尼御返事(御書三三七)に

「提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外には候はず。逆即是順の法華経なればなり。これ妙の一字の功徳なり。」

とあります。

 法華経を信じ持つ私たちは、その功徳により思いが成就していくことを有り難く思います
(せとのなぎさ)

 (1月) 



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