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 26年1月~12月

  随想 「親友と歩んできた法の道」 瀬戸のなぎさ

 立冬を過ぎると瀬戸内にも冷たい西風が吹きはじめ、紅葉した庭の木々の落ち葉を掃くことが日課になりました。
 そんな日の午後、親友の淳子さんから「今夜から家族揃って支部登山に行ってくるね」と明るい電話がありました。
 自動車修理工場を経営している淳子さん夫妻と息子さん二人にその家族、総勢九人が車で出発されるとのこと。
 「気を付けて行ってらっしゃい!私たちも来週、親子三代揃って慈本寺の支部登山に参詣させて頂くのよ」と答えながら、四国の高松から大石寺までの往復千キロに余る道程をどうぞ無事故でと祈らずにはいられません。
 淳子さんと私は娘時代からの親友で、もう半世紀もの長いお付き合いです。
 昔、社会の出て初めて就職した建設会社で淳子さんは総務課、私は設計課勤務でした。
 同い年ですが社では淳子さんが先輩で、新入社員の私は男性ばかりの課で女一人、心細い思いをしている時、何かと声をかけて頂き昼休みを一緒に過ごすようになりました。
 そんな折、淳子さんから深い家庭の悩みを打ち明けられて、私は初めて折伏しました。
 以来、度々淳子さん宅を訪ね、若くして精神を病み、食事から下の世話まで一人っ子の淳子さんとその父親に委ねている彼女の母親の介護を手伝いながら折伏を続けたのです。
 やがて私にとっての初めての折伏が成就し、後に淳子さんの結婚相手も折伏できました。
 彼女よりひと足先に私たち夫婦は正宗寺院で挙式していたのですが、以来、淳子さん夫妻と私たち夫婦は生まれた息子たちも交えて家族ぐるみのお付き合いが続いているのです。
 お互い妙法を護持する同志としての絆で結ばれた親友の存在は人生を豊かに癒してくれ、今では両夫婦とも息子たちに法統相続して、可愛いい孫たちに囲まれた幸せな境涯です。
 四条金吾殿御返事(新編九九一)に
 一切衆生、南無妙法蓮華経と唱ふるより外の遊楽なきなり。経に云はく「衆生所遊楽」云云。此の文あに自受法楽にあらずや(中略)法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし。現世安穏・後生善処とは是なり。
 とあります。折伏を行じて一人でも多くの人を幸せに導き、広宣流布のお役に立ちたいと願う此の頃です。(せとのなぎさ)

 

 (26.12月)



  随想 「お宝箱」 瀬戸のなぎさ

 きょう(十月八日)は二十四節気の寒露です。季節の移ろいと共にしのぎやすくなりましたので、かねて気がかりだった古い母屋の片付けを始めました。
 昔、私が嫁ぎ、義父母と共に三十年余り住んでいた築七十年の家ですが老朽化して、道を挟んだ向い側に、新築移転してからは空家になっています。
 けれど、夫が定年退職後に二間続きの座敷に大きな囲炉裏を手造りして、古い蓄音機やステレオ、カラオケなどを置き、時々、夫の友達が集う憩の場になっているので、座敷と台所だけは片づいていますが、それ以外は物置状態なのです。
 最近、急速に体力の衰えを感じている私は、まだ体力が残っている内に不用な物の処分をしておかなくてはと思いつつ、日々の雑用に追われて時が過ぎていました。
 かつて自室にしていた部屋に入ると、使っていない家具や家電製品、陶器類や衣裳箱などでいっぱいです。
 そんな中に「お宝箱」とマジックで書いた大きなダンボール箱が三つありました。
 それぞれのお宝箱に三人の息子の名前が書かれているのは、若い頃の自分の筆跡。
 中をのぞくと、懐かしい母子手帳や育児日誌、幼稚園時代の絵や工作、ノート、作文など、どれも忘れかけていた物ばかりです。
 昔、息子たちに残してあげたいと、その都度それぞれの箱に納めたのを思い出します。
 長男が四歳の時に描いてくれた「おかあさん」の絵や次男の書き初め。三男が園で作り、母の日にプレゼントしてくれた赤いバラのペンダント。
 振るとカラカラ音がする小さな桐箱から出てきたのは、息子達が産院を退院する時に看護婦さんから手渡された乾いたヘソの緒です。
 昭和六十三年四月に讃岐本門寺で行わなれた「四国地方部少年部結成式」で当時小五だった三男が「ぼくと信心」と題して体験発表した原稿も出てきました。
 小学入学と同時に始めた早朝の家族との勤行は大変だったが、兄も頑張っていたので頑張れたことや、テストや柔道の試合がある朝は、しっかり御祈念すると落ち着いて臨め、百点やメダルを貰えた時は、ご宝前にそれをお供して、お礼の唱題をしている事など。
 前年の夏休みに三泊四日の少年部夏期登山合宿に、所属寺院から一人で、他の寺院の少年たち六人と四国から初参加して楽しかった様子も書かれ、当時を思い出します。
 長男が得度して中学で書いた作文が富士宮市から賞を頂き、賞状と共に送られてきた作文には、将来の夢や大坊生活の様子と共に、自身の下着などの洗濯をしながら、離れて気付いた親の恩など、読む内に涙がにじみます。
 そんなひとつひとつに目を通し、思い出や感傷にひたっていたのでは、何も捗(はかど)りません。
 その部屋にある嫁入り道具の和簞笥や和服類、数が揃った座布団なども久しく使用していないけれど、処分するには忍び難く、結局ゴミ袋一杯分の古着と一束の古本処分だけで片づけを終えました。
 今は、こうしてはいられない折伏の時!
「我が門家は夜は眠りを断ち昼は 暇(いとま)を止めて之を案ぜ よ。一生空しく過ごして万歳悔 ゆること勿れ」(御書一一六九)
の御文を思い出し、昔から折伏しながら、今だ成就できてない同級生のAさんに「明日、お茶しませんか」とメールしたのでした。(せとのなぎさ)
(26.11月)



  随想  「秋に想う」 瀬戸のなぎさ

 秋分が過ぎると青空が広がり、吹く風も爽やかになりました。
 遠くで獅子舞の練習をしているのか、太鼓や鉦の音が風に流され聞こえてきます。
 香川では神社の獅子舞の数が多く、かつて県内には約一二〇〇組もあったそうですが、現在は推定約八百組とか。
 獅子舞は獅子頭と油単(ゆたん・胴体部分の布)を大人二人で操るスタイルが基本ですが、一人獅子や五十~六十人舞う大獅子もあり、舞い方や太鼓と鉦(かね)の音もさまざまで、この季節になると秋祭りの為に練習が始まるのです。
 私が嫁いだ昭和四0年年頃の我が家の仏壇には御本尊様がご安置され、日蓮正宗寺院で結婚式を挙げさせて頂きましたのに、居住地の同行(どうぎょう・自治会)の組織の中で、地域神社の氏子としての役割をまだ担っていたことは意外でした。
 折にふれ、夫は両親に他宗教の行事に関わってはいけないと、法華経の教えで諭していましたが、この家で生まれ育った義母は、昔からの風習だからと聴き入れてもらえませんでした。
 ある年の秋祭りに私たちの同行が頭屋(地域を代表して、その年の氏神の祭りの世話をする役)になり、義父がみこしを担ぐ役に決まりました。
 この時ばかりは私も義父に「謗法になるから辞退して下さい」と頼みましたが、婿養子でおとなしい義父は周囲に反論もできず、私たちに内緒で祭りみこしを担ぎ、脳梗塞で倒れたのは、還暦を迎えたばかりの頃でした。
 働き者でやさしかった義父が言語障害と半身不随で入退院を繰り返しながら、残りの人生の二十年近くを障害者として暮したことは、私にとっても辛く残念なことでした。
 それ以前から義母は怪我で脊椎を痛めていたので夫が他県へ転勤になっても同伴ができず、単身赴任の夫に代って、農協や水利組合、同行などの常会はすべて私が出席するようになりました。
 家族と共に謗法の怖さを再確認していた私は、子孫の為にも今、神社の氏子から離脱しておかなくてはと家族と話し合い、勇気を出して同行の常会の席でその旨を申し出ました。
 予想通り、その場は長老たちから、
「昔からのしきたりを町から来た 若い嫁が・・・」
と叱責され大騒ぎになりましたが、可愛いい息子たちの為にも今、謗法から縁を切っておかなくてはと耐えながら、心の中で唱題しておりました。
 そんな時、
「みなさん!もう今は信仰も自由 な時代やけん。氏子から退けて あげましょうよ!」
と、日頃から何かと私にやさしく接して下さっていた近所の老婦人が声を上げ、皆を納得させてくれました。
 すると、私が折伏してまだ入信が浅かった隣家の婦人も「うちも氏子から退かせて下さい」と続いて申し出て、お互いに謗法から縁を切ることができました。
 以来、私は神社境内などの掃除に行かない代りに、常に自宅前にある自治会のゴミ収集場所や道路清掃を心がけ、学校のPTAや自治会、県、市などから頼まれる役はできるだけ引き受けて誠意を尽してきました。
 夫も定年退職後は農協総代や水利組合長、民生委員として、地域のボランティア活動に励みながら、折伏もしています。
 時が流れ、世代交替した当方の自治会では獅子舞を習う人もなく廃れて、私にとっては平和な秋になりました。
「何に法華経を信じ給うとも、謗 法あらば必らず地獄にをつべ し」     (御書一〇四〇)
を拝し、環境に流されることなく、正しく信心をしなくてはと心がけています。(せとのなぎさ)
 (26.10月)


 

  随想 「アライグマとブドウ」  瀬戸のなぎさ

 今日(九月一目)は防災の日です。
 このところ全国での記録的豪雨による甚大な災害ニュースにおののき、私はひたすら平安を祈るばかりです。
 そんな天候不順な日々でも周辺の植物にとっては十分な雨と、その合い間に降り注ぐ太陽の光にキバナコスモスやバーベナ・ヘメロカリスなどが花盛りですが、雑草の育ちもよく晴れ間の草抜きに忙しい日々です。
 ふと見上げるとカーポート内の天上から無数に垂れている緑のブドウが赤黒く色づき始めて輝いています。
 もう半世紀以上も前の中学生の時、国語の教科書に「ひと房のぶどう」という西洋の物語が載っていました。
 内容の詳細は忘れましたが、教員室で少年がうな垂れて立されていた時、女先生が窓辺に熟っていたひと房のブドウを摘み、少年の手の平にそおっと載せます。すると泣き顔の少年は笑を浮かべて先生を見上げるのです。
 なぜか、そんなひと餉のシーンがほのぼのと私の脳裏に残り、いつか自分が家を建てた時には、窓辺にブドウの木を植えたいと夢見ていました。
 二十年ほど前に家を建てた時、南の窓辺にニューピオーネという品種のブドウの苗木を一本植えました。
 横のカーポートの屋根を越すまでに育った時、夫の協力でカーポートの屋根から五十センチほど下げた所に桟本と溶接金網でブドウ棚を作り、そこへ枝を誘導しました。
 すると蔓(つる)が金網にからまり、数年後にはカーポートの隅々まで枝が延い、秋になると熟れて垂れ下っているブドウの初摘みを御宝前にお供えできるのが楽しみになりました。
 ところが近年、熟れるかたっぱしから夜中に何者かが食い荒し、下に駐車している二台の車の屋根はブドウの皮と種で汚され、毎朝洗車が日課になりました。
 昨年のある日のこと「納屋でタヌキがお産してるぞ!」と夫が駆け込んできました。
 さりとて私は納屋まで見に行く勇気もなく、近くの支所へ電話相談すると、その動物を連れて来るようにとの事です、親は逃げたので残された三匹の子をダンボール箱に入れて夫が持参すると、職員は一見して「これはアライグマや」言われ、思わぬ事態に夫も驚きました。
 北アメリカ原産のアライグマをペットとして移人後に繁殖して野生化し、全国で農産物に被害をおよぼし、生態系を破壊するおそれがあるので、現在は飼育、輸入は原則禁止になっているからと、市に引き取られました。
 私かネットでアライグマを見ると、クヌキ似顔の眉間とふさふさした長い尾に黒い横縞模様の愛らしい風貌で、かつてペットとして人気があったことが、うなづけます。
 日本の気候に順応し、手先が器用で脱走しやすい動物であり、雑食性で野菜や果物、錦鯉や乳牛までに被害を及ぼし、木登りも得意とあればブドウ荒しはアライグマの仕業だったのだと確信したのでした。
 先日、まだ未熟な緑色のブドウ房を見上げていた夫は、慈本寺の駐車場のセンサ上ワイドからヒン卜を得て、我が家の庭やカーポートの柱などにセンサーライトを取り付けてくれました。
 夜中、アライグマを感知してライトがブドウ棚をパッーと照らせば、アライグマも驚いて退散するだろうと期待してのことです。
 人間もアライグマも、生きものすべてが食することに懸命なのだと複雑な想いにかられながら、私は来世も又、御本尊様を拝せる処に人間として生まれ替りたいものと、改めて思ったのでした。(せとのなぎさ)
(25.9月)
     

  随想 「半夏生とさぬきうどん」  瀬戸のなぎさ

 夜明けが早い季節には、朝の勤行が終ると外に出るのが日課です。
 作業服に着替えると夫は田植えを終えた田の見回わりに、私は庭先の菜園や花壇などの手入れをするのですが、涼しく爽やかな空気に包まれての作業は、はかどります。
 昨日までつぼみだったアガパンサスの太い花茎の先に青紫色の花が群れて咲き始め、サルスベリは自由自在に伸ばした枝先にピンクの小花をこんもりと波打たせて、季節の移ろいの美しさに心も和みます。
 小鳥たちの囀りを聞きながら無心に草抜きをしていると、やがて夫が帰宅して、
 「今日は半夏生や、昼はうどん食いに行こう」と誘われました。
 半夏生(はんげしょう)とは古代中国から伝わる七十二候の一つで、季節の節目を伝える言葉です。
 毎年七月二日頃に当たり、さぬき(香川)ではうどんを食べる風習があることから、本場さぬきうどん協同組合が一九八〇年に七月二日を「うどんの日」と定めました。
 うどんを食べる風習は農家の米作りと深い関わりがあり「半夏半作」という言葉があるように、この日までに田植えを終わらせないと、米の収穫量が半分になると言われていたそうです。そして無事田植えを終えた半夏には、二毛作で先に収穫したばかりの小麦粉でうどんを打ち、労をねぎらっていたのです。
 私が嫁いで初めての田植えは驚くことばかりでした。
 朝食の片付けなどを終えて長靴を履き、すでに家族が作業をしている田へと急いでいる時「どちらへ?」と近所の人から声をかけられました。
 「田植えのお手伝いです」と答えると「長靴履いて田植え?」と首をかしげています。
 ぬかるんでいる水田では、素足か足首が締る田植え靴でなければ、足を取られて歩けない事を初めて知りました。
 義母や義姉、手伝いの農夫たちと定木を水面に並べて腰を曲げ、苗を手植えするのですが、すべて初体験で失敗ばかり。腰の痛さに振り返れば畦岸ははるかに遠く、夕暮れまでの田植えが数日続きました。
 ようやく田植えが終り、ほっとしていると「今日は半夏せないかんで」と義母に言われ、何のことやら、その意味も解らない私でした。
 半夏には義父が自家製の小麦粉を練り、しばらくねかせてから麺棒で伸し、たたんで切って、うどんを作ります。
 その間、私たちはうどんの茹鍋に湯を沸かしたり、別鍋でだし汁を作ります。
 草刈りなどで大勢が集った時などは、庭先の炉に直径が八十センチもある大鍋をかけ、里いも、ニンジン、シイタケ、油揚げなどの具材を入れた汁にドジョウや生うどんを入れて煮込み、味噌で味付けした「ドジョウ汁」を作ります。
 元気にピチピチ跳ねている養殖のドジョウをザルに上げ、臭い消しに清酒を振りかけると煮えたぎっている鍋の中へ生うどんと共に入れるのですが、その光景は残酷すぎて私はドジョウが食べられませんでした。
 そのドジョウ汁を肴に酒盛りを楽しむ半夏生は、当時の農民たちが麦刈りや田植えを無事達成できた祝日だったように思えます。
 今では辺りの田畑が住宅団地やマンション、商業施設などに様変りして、至る所に「手打うどん」の看板があり、いつでも美味しい打ちたてうどんが、手軽に食べられます。
 何ごとも便利になった世の中で、祖先から継承した農地を守りながら農業を機械化し、晴耕雨読で自給自足の生活を満喫しながら、健康で暮せることをしみじみ功徳と有り難く思います。(せとのなぎさ)
(26.8月)


  随想 胃がんを克服して  瀬戸のなぎさ

  オレンジ色のノウゼンカズラが華やかに咲き始め、青葉の透き間からキラキラと朝日が揺れています。
「行ってらっしゃい!」と手作りの弁当やお茶などを入れた鞄を手渡すと助手席に置き、夫は軽く片手を挙げて合図してから、静かに車は出て行きます。
(今日も無事故で)と見送りながら、高齢の夫が再び元気で職場へ喜々として出かける姿に、健康を取り戻せたことを感謝します。
 ゼネコンを夫が定年退職してから十年目の一昨年のこと。関連会社からぜひにと頼まれて週に二~三日程度、会社や現場に出勤しだして二年になろうとしています。
 出勤する日は朝の勤行が終っても労働安全コンサルタントとして、工事現場の安全と折伏成就を願って、しっかり唱題しています。
 そんな日の夕食は晩酌などしながら、
「今日は職場で『お元気でしたか!』と昔、一緒に仕事していたAさんとBさんに声をかけられて懐しかったよ!若かったAさんは部長に、Bさんは貫録ある所長になっていて、後輩が頑張っている姿は嬉しいよ!」
などと、仕事が楽しい様子にほっとします。そして七十歳になってから健康で自分の技能を生かせる仕事に自由出勤で復帰でき、やり甲斐を感じながら周囲と仏法対話ができる境涯を有り難く思います。
 あれは宗旨建立七百五十年を、夫が七月に還暦を迎えて月末には定年退職などの佳節を控えていた平成十四年の春のことでした。
 六月十五日の法華講三十万慶祝登山には家族全員で登山させて頂き、御開扉を受けた夜は富士市内のホテルで家族揃って泊り、夫の還暦と退職のお祝をしたいと、家族揃っていろいろ企画していた矢先のことです。
 四月に例年通り、夫婦で人間ドック入りして、夫の胃に腫瘍が見つかり驚きました。
 日赤での精密検査の結果、癌が三ヶ所で見つかり、五月の支部登山前日に(七月一日入院。七月五日、胃の八割を摘出手術)などが決まりました。
 翌日の支部登山ではひたすら(慶祝登山に家族全員で参詣でき、夫の癌手術も成功しますように)とご祈念しました。
 そして六月十四日の夜、予定通り息子たちが運転するワゴン車で次男一家と三男、私たち夫婦の七人揃って慶祝登山に出発できました。何よりも結婚時に入信して、まだ信心浅い次男の嫁や幼い孫たちが瀬戸内海を渡り、無事初登山できたことが嬉しい三日間でした。
 本山では長男一家とも合流して一緒に御開扉を受けることができ、大御本尊様にこれまで私たちをお導き下さったお礼と新なる折伏成就の決意、そして夫の癌手術成功をご祈念しました。
 その夜は久しぶりにホテルで三人の息子と嫁、孫たちが私たち夫婦を囲み、和やかな雰囲気の中で、いつの日か再び全員が元気でお登山でき、ここに集える日を夢見ていました。
 あれから十二年、常に信心第一の夫は胃癌を克服し、それ以前から持病だった糖尿病も治り、健康で働きながら周囲を折伏しています。
 崇峻天皇御書(一一七三)に
 「人身は受けがたし、爪の上の 土。人身は持ちがたし、草の上 の露。百二十まで持ちて名をく た(腐)して死せんよりは、生 きて一日たりとも名をあげん事 こそ大切なれ。ー中略ー蔵の財 よりも身の財すぐれたり。身の 財より心の財第一なり。此の御 文を御覧あらんよりは心の財を つませ給ふべし。」
と日蓮大聖人は仰せです。
 夫婦二人で末長く健康で多くの人々と交わり、仏法対話を重ね、一人でも多くの人たちに日蓮正宗の素晴らしさを伝えてゆきたいと願っています。 (せとのなぎさ)
(26.7月)

 


  随想 ベトナムを旅して 瀬戸のなぎさ

 四月末の支部登山に参詣させて頂いた一週間後には、私はベトナムの上空から青や赤の屋根が連らなるホーチミンの街を見下ろしていました。
 某企業からの招待旅行で体力の自信はなかったのですが、兼々、一度は訪問したいと思っていた国だったので、出かけました。
 と言うのも昔、高校時代にひょんな事からサイゴンの女子高生を紹介されて、数年間、文通を楽しんだことがあるのです。
 かつてのベトナムはフランスの植民地で、貴族の家柄だった彼女はフランス系の学校に通っていて「フランス語は上手だが英語は苦手」と初めての手紙に書かれていましたが、その英語文章もスペルも素晴しく、本当に英語が苦手な私は、一通の手紙を書くのにも辞書を片手に四苦八苦したものです。
 それでも何とか意志疎通でき、お互いに日々の生活や夢を語り、絵葉書や家族の写真を交換したり、珍しい記念切手を張って文通したのですが、その内ベトナム戦争も激しくなりどちらからともなく途絶えてしまいました。
 二十四名のツアー一行が空港から出迎えのバスでホテルに向う道中、おびただしいバイクが人と荷物を満載して、ひしめき流れ行く様に驚き、現地のガイドさんに交通違反にはならないのかと訊ねると
「バイクは一台に大人二人と子供二人の計四人までOK。運搬費用が車の十分の一ですむから、冷蔵庫も洗濯機もバイクで運びます。国内の年間交通事故死亡者は約一万三千人」
との説明に驚くばかりです。
 宿泊ホテルはサイゴン川辺の日系ホテル。眺望や設備が良く、広すぎるほどの一人部屋でこれからの三日間、他人に気づかいなく朝夕の勤行が出来ることにホッとしました。
 前夜は関空内のホテルで前泊し、企業側とのレセプションも終えていたので、ホーチミンでの最初の夜はベトナム伝統芸能の水上人形劇鑑賞と海鮮料理の後、全身マッサージで旅の疲れが取れました。
 翌朝はベトナム戦争当時、解放戦線の拠点が置かれた地下トンネルが掘られているクチへ行きました。
 熱帯林のカヤ葺小屋で戦争記録映像を観た後、ジャングルの地下トンネルを見学。猛暑の中、蚊やムカデなどが居て汗が流れます。
 午後からは統一教会、サイゴン大教会見学の後、戦争証跡博物館へ行きました。
 そこには実際にベトナム戦争で使用された米軍機や銃などと共に、枯れ葉剤散布により奇形で死産したアルコール漬けの胎児なども展示。日本人ジャーナリスト石川文洋らによるレポート写真で死体の山や多くの奇形児のあまりに悲惨な写真に言葉を失いました。
 戦争とは何と残酷な行為でしょう・・・!
 その夜はベトナム民族舞踊と音楽鑑賞しながらの夕食が予定されていましたが、私は疲れて食欲もないので欠席を伝え、早々にホテルへ帰り、シャワーを浴び勤行を終えると深い眠りにつきました。
 翌朝は爽やかに目覚めテレビをつけると、南シナ海で領地権をめぐり、中国とベトナムの艦船が衝突する様が放映されています。
 その日、メコン川クルーズ観光で乗船場までバスで移動しましたが、車窓から見える人々の暮しぶりは決して豊かには見えません。
 クルーズ中にガイドさんに、この国の宗教のことを訊くと、昔からの仏教とキリスト教以外に新しくカオダイ教の布教が盛んになり、信者数は四百万人に達しているとのこと。その教えはボランティア精神で、信者は毎朝・昼・晩の三回、寺院で平和を祈るということでした。
 この国にも日蓮正宗が流布して、人々が平和で豊に暮せるには・・・と考えながら、茶色に濁ったメコン川の水面を眺めていました。(せとのなぎさ) 
 (26.6月)


 

  随想「アニメと読書」  瀬戸のなぎさ 

  桜の花びらが風に舞う季節になりました。「東京アニメアワードフェスティバル二〇一四」が東京で開かれ、特別賞「アニメドール」がアニメ監督の高畑勲さんに贈られたと、ニュースで報じられていました。
 高畑さんは「アルプスの少女ハイジ」や「母をたずねて三千里」などの人気アニメを手がけ、同じくアニメ監督の宮崎駿さんとともに、日本のアニメの草分け的存在です。
 昨年は宮崎駿監督のアニメ「風立ちぬ」を久しぶりの映画館で観て感動しました。
 映画館といえば昔、学校行事だった「映画教室」を思い出します。
 私が小学生の頃は「映画教室」と称して時々、先生に引率され列をなして徒歩で二十分前後の高松繁華街にあった映画館へ行きました。
 その時のディズニーの「シンデレラ」や「白雪姫」「ピノキオ」「ダンボ」などのアニメから「二十四の瞳」や「原爆の子」などの邦画、「エベレスト初登頂」の記録映画などが今も、部分的に脳裏に焼きついています。
 それらの映画教室からは教室で学ぶ学問以外のいろいろな事柄を学べたように思えます。
 家庭にまだテレビがない時代に育った私にとって学校からの映画教室や家族に連れられての映画や芝居、本やマンガなどから正義とか思いやり、反戦・平和・人間の幸・不幸など、考えさせられるものも多くありました。
 毎月、少女雑誌を買ってもらっていた私は、近所の男子の雑誌と交換して合って読む雑誌に、手塚治虫作の「鉄腕アトム」が連載されていて毎号が待ち遠しく思ったものです。
 当時は近所にいっぱい子供たちが居て、年齢に関係なく一緒に遊び、助け合い、ゆずり合っておおらかに育ったものです。
 今、「妙教」で「日蓮大聖人物語」のマンガが連載されています。
 その前は「阿仏房物語」や「熱原の三烈士」など、ごとうみねお氏が歴史をひも繙(と)き、忠実に日蓮大聖人様の仏法をマンガでわかりやすく表現されているので楽しみに読んでいますが、その内、孫たちにもと思います。
 すぐ隣りに一歳と四歳の孫たちが住んでいて、よく子守りを頼まれますが、そんな時など、絵本の読み聞かせをします。
 小学館出版の年齢別の絵本だったり、お山で買った大日蓮出版のえほん「三車火宅のたとえ」なども声色で読み、難しそうな言葉があれば私流にアレンジして分りやすく話してあげると喜びます。
 おやつの時間になると孫たちと一緒に仏間に行き、一緒に御題目三唱してから御宝前のお供えをお下げし、居間で頂きます。
 上の子が一人でトイレに行くのを怖がったりした時などは、
 「心の中で御題目を唱えながら行くと、御本尊様がしっかりお守り下さるから、おばけなんか出ないよ」
などと勇気づけると
 「おばあちゃんが言ったとおりに南無妙って言ったら怖くなかったよ!」
と用を足し、嬉しそうに駆け戻ります。
 日々の生活の中で自然に信心を身につけ、勇気とやさしさを備えた広布のお役に立てる青年に育って欲しいと願いながら、幼い孫たちとのひとときを楽しんでいます。 
 (H26.5月)   

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  随想 世界中に平和を 瀬戸のなぎさ

   全国的に雪が多かった寒い冬も過ぎ、庭のスモモの白い花や赤い椿の花が見頃になりました。
 昨日(三月二十三日)は午前中にお塔婆を携えて墓参を済ませてから、瀬戸内海に面したサンポートホール高松へ「第三回高松国際ピアノコンクール」の表彰式と入賞者の演奏を聴きに出かけました。
 これは音楽で世界の舞台を志す若者が、夢を実現するための目標になるように、香川県内の有志により創設された国際文化事業のピアノコンクールで、〇六年から四年毎に開催されています。
 今回は二十ヶ国から二三九人の応募があり、DVDによる予備審査を経て日本・中国・イタリアなど七ヶ国から十八~三十四歳の男女三十三人が出場を決め、十二日から同ホールで審査が行われていたものです。
 これまで懸命に練習に励み、国際ピアノコンクールで三度の関門を突破した世界のファイナリストの演奏をぜひ拝聴したいと、チケットを予約していました。
 華やいた舞台には国内外十人の審査員や来賓・同組織委員会の人々と前日の演奏で入賞を決めた五人のピアニストが出場しました。
 そこでチャンピオンに韓国の大学生ムン・ジョンさん(女性・十八歳)、二位はベラルーシのアンドレイ・シチコさん(男性・十九歳)、三位は韓国のノ・イエジさん(女性・二十七歳)、四位はロシアのアンナ・ツィプレバさん(女性・二十三歳)、五位は日米両国籍を持つ東京芸大一年のリード希亜奈さん(女性・十九歳)の発表がありました。
 それぞれに賞状と記念品や賞金が贈られた後、次々と入賞者によるシューマンのピアノソナタやリストのハンガリー狂詩曲などがダイナミックに、かつ繊細に演奏され、しばし鑑賞にひたりました。
 各演奏が終る度、大きな拍手と「ブラボー」の声援が飛び交う内に、才能あふれる精鋭たちの祭典は爽やかな感動のもとに幕を閉じました。
 感動醒めやらぬままロビーに出ると、目前のガラス越しに瀬戸内海が広がっています。
 明るい西日に海面が輝き、行き交う大小さまざまな船の向こうには島々が浮かび、その穏やかで美しい風景に再び感激して、しばし佇ずみました。
 瀬戸内海国立公園が、わが国最初の国立公園に指定されて今年で八十周年になります。
 県内各地では秋までの期間、数多くの記念行事が予定されていて、平和な日々に感謝しながら、ふと、東日本震災で今も二十数万人の人々が避難先で暮していることを思い出し、心が痛みます。
 世界のあちこちで死者を伴うテロや紛争が続き、最近は国際社会の日本を見る目が厳しい状況をニュースなどで知る度、自身の幸福だけに満足していてはいけないことに気づかされ広宣流布を願います。
 聖愚問答抄(御書四〇三頁)に「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦、書写の修業も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行じて力あらば威勢を以って謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり。」
との御書を拝し、誓願目標に向って努力しなければと、自身を叱咤激励するのです。(せとのなぎさ)


(H26.4月今月より掲載)
      
  


  随想 親友とのお別れ 瀬戸のなぎさ H26.3

 庭の梅が咲き始めましたが、今日も空はどんよりと風も冷たく、まだ春は遠いようです。
 昨日は親友のJさんの葬儀でした。
 祭壇には数年前にJさん夫婦と私たち夫婦で、四国山脈の紅葉刈りに出かけ、谷間の温泉宿に一泊した時の笑顔が、遺影として飾られていました。
 私にとって、彼女は娘時代からの無二の親友でした。
 その事は、一昨年十二月号から執筆させて頂いている「妙彩」の初投稿で「親友と歩んできた法の道」と題して掲載されました。
 実はあの頃、すでに彼女は末期の肺癌で、医大の医師から余命二週間、お正月を越すのはむづかしいと宣言されていたのです。
 にもかかわらず、彼女はお講や唱題会、お登山などもそれまで通り続け、昨年末には御影堂大改修落慶法要にも家族全員で自家用車で登山され、宣告から三度目のお正月を自宅で過ごされていたのです。
 そんなJさんに残された日々を御本尊様ご安置の自宅で家族と共に穏やかに過ごさせてあげたいと、ご主人は設備を整えた病室を造り、家中をバリアフリーにリフォームして、訪問診療や介護を受けていました。
 二週間ほど前のこと、ご主人から彼女が酸素吸入を始め、私と会いたがっているとの知らせに、車で一時間余りの道程を駆け付けると「よう来てくれたなあ」と、想像していたより元気そうな笑顔でソファにもたれ、酸素吸入をしながら迎えてくれました。
「私、いったい、これからどうるん?」
と訊かれ、しばし彼女の手を握りながら
「私も淳子さんも、いつの間にか古稀の年になったなぁ。お互い いろんな事あったけど、常に信心の功徳で乗り越えられて真面 目な主人や子供達や孫らにも恵まれて、今や淳子さんは社長夫人や。けどあんたも私も体のあちこちが故障しだして、いつかは死ぬ時が来るんよなぁ。でも、肉体は滅びても魂は又、新しい体に宿って来世に生まれ替れると法華経では説かれてるから、私たちは生れ替って、来世も巡り会えると思うよ。その時は又、友達になろうねぇ。それとも姉 妹か夫婦もええなぁ。夫婦になれば又、いっぱいおしゃべりしながら信心根本に幸せになろうね・・・」
 冗談ぽくそう答えると
 「そうや、そうや!それもええなぁ・・・!」
 彼女は童女のようなほほ笑みをくれました。
 それから数日後に彼女は昏睡状態に落ち入り、家族をはじめ親しい人たちに看取られながら、穏やかに成仏されたのです。
 私にとりましては半世紀間という長いお付き合いで、何ごとも話し合い支えあってきた同志であり親友との別れは悲しいことです。
 しかし、彼女一家の日蓮正宗所属寺院・御住職様のご導師のもと、納棺、通夜、葬儀、初七日と続く法要に六歳から十三歳までの四人の孫たちも、きちんと大きな声で勤行・唱題する姿に、他宗の弔問客らは感心して共に「南無妙法蓮華経」と唱えて下さっている姿に感動しました。
 そして折伏と法統相続の大切さを改めて実感した壮厳なお葬式でした。
 『妙法尼御前御返事』(一四八二頁)に
 「人の寿命(いのち)は無常なり、出づる気(いき)は入る気を待つことなし。風の前の露、尚譬(なおたと)へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたる も若きも、定め無き習いなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし、云々」
とあります。日々、雑事に追われて時に流される私ですが、「南無妙法蓮華経臨終正念」と祈念し、これからの日々を大切に生きたいと思います。(せとのなぎさ)
(26.3月)

 


  随想 コーラスと私 瀬戸のなぎさ  

 新しい年が明けました。

 子供の頃からあまり丈夫でなかった私が、健康で古稀のお正月を迎えられたことが有り難く、幼い頃の正月に御授戒をして頂いた琴平の福成寺へ、家族揃って初詣に参りました。

 勤行の後、御住職様より「十字御書」(新編一五五一)が拝読されましたが、この御書は私も大好きで、中でも「わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる」の一節は私の指針にしています。

 私は趣味で三十四年間続けてきたコーラスを年末のコンサート出演を最後に退団しました。

 たかがコーラス。されどこのコーラスは長い間、私の信心と共に自分を鍛え、癒してくれました。

 七十九年春のこと、長男の志でめでたく得度させて頂きましたものの、まだ十二歳になったばかりで親元から巣立って行った子を案じて弱い私の心は潰れそうでした。

 そんな時、次男の小学校PTAの親睦に何か部を創設しては?という問いかけありました。

 私は好きな歌で当時の自分を癒したいと「お母さんコーラス部」を提案したところ、幸にも約三十名の母親たちで部が結成されました。

 部員の中の音大卒業生の一人が指導者に、もう一人がピアノ伴奏を引き受けてくれ、さっそく月二回、夜の音楽室での練習が始まりました。当時は仕事と家庭の両立で多忙な日々でしたが、夕食後に三歳の三男を連れてのコーラス練習は楽しみになりました。

 時が流れ、PTAを卒業すると新たに合唱団を結成し、プロのピアニストと声楽の指導者を迎え、童謡からシャンソン、組曲などジャンルを広げて練習に励み、定期演奏会なども開催できるようになりました。

 そんな頃の九十八年、立正安国論正義顕揚七百五十年記念に向い「地涌倍増大結集推進決起大会」が全国四ヶ所で開催と決まりました。

 私は当時の所属寺院のコーラス部員として「富士山」や「世界に一つだけの花」など四曲をあちらこちらの寺院へ出かけ、合同練習に励みました。

 そして「西日本大会」当日、御僧侶、法華講員の精鋭三万三千余名が大阪の京セラドームに集い、御法主日如上人、御隠尊日顕上人の御臨席を賜わり、歓喜の中で六百人コーラスで歌わせて頂いた時、日頃からコーラスをしていて良かったと、しみじみ思いました。 若い頃はソプラノを歌っていましたが、後にアルトに替わりり施律が難しくなりました。

 暗符できるまで家のピアノで音取りしたり練習時に録音しておいたものを料理や庭の草抜きなどをしながらイヤホンで聴いて覚える日々でした。

 一昨年は「第三十五回全国おかあさんコーラス全国大会」に県代表に選ばれて上京。文京シビック大ホールのステージで歌え、昨年末には地元に完成したばかりの音楽ホールでコンサートを開催できたことで悔いなく、若い後輩たちに後を托して退団しました。

 指揮者から、普段の会話もハ長調の「ソ」の音で話せば声が落ちないと教わりましたが、唱題もその音を意識して、背を伸ばし、リズム正しく声を出せばよく響き、肺活量も多くなり、軽やかに元気が湧いてくるように感じます。

 これからは、しっかり唱題に励み、ゆとりを持って人々と交わり、折伏を成就したいと願っています。(せとのなぎさ)
 (26.2月)



  随想 「大坊市」にて 瀬戸のなぎさ  H26.1

 十一月二十三日の讃岐の空は朝から晴れ渡り、暖かな小春日和の一日でした。
 四国新聞朝刊を開くと「冬の風物詩大坊市始まる」との見出しで、地元小児童が栽培した新米の販売に、長い行列ができている記事が写真入りで載っています。
 私が所属している慈本寺での御会式は先月行われて参詣させて頂きましたが、昔から親しんでいる大坊へも参詣したく、三十キロ余りの道のりを夫と共に車で出かけました。
 昔、日興上人に教化されて入信していた甲斐の国の青島の領主、秋山左右衛門とその子息泰忠が所領替えにより讃岐に移られました。
 日興上人のお供をして身延離山されていた日仙上人は、この秋山氏の請いと、御自身の強盛な折伏教化の志によって建武元年(一三三四年)二月、讃岐に移られて秋山氏の外護のもと大法弘通に励まれました。
 後に秋山泰忠殿の領地・高瀬に法華堂を建立したのが、現在の高瀬大坊、すなわち本門寺とのことです。
 歴史ある本門寺周辺には、現在も秋山氏をはじめ先祖代々法統相続されてきた信徒も多く、日蓮大聖人の命日法要に合わせて江戸時代から境内で縁日が開かれ、現在も御会式前後の四日間は「大坊市」として人々に慕われているのです。
 この日も塔中にはたこ焼、りんごあめ、甘酒などの屋台が並び、境内の広場には庭木や果木・花などの苗木市と農道具や土佐刃物などの露店が家族づれで賑わっていました。
 客殿前では超ノッポのピエロたちがバルンアートで風船をふくらませて、ねじり細工で動物や花などを手早く造る様子を子供たちがワクワクしながら見守っています。
 出来上った作品はすぐ無料で子供たちにプレゼントしている光景などは、さすが正宗寺院境内なればこそと、微笑ましく思いながら私たちは御影堂へ向いました。
 受け付を終え、正面で唱題しながら見上げますと、白い綿帽子姿の日蓮大聖人の像である御影様がやさしい眼指しで鎮座されておられるお姿に懐かしさが込み上げてきます。
 昔、夫が在職中、二十年ほどは松山や伊予三島・高知などへ単身赴任していましたので、私はよく車で夫のもとへ通いましたが、そんな道中によく立ち寄り、御影堂で唱題させて頂くのが楽しみでした。
 当時の御影堂は日中、扉が開放されていて、いつも近所のお年寄りなどが自由に太鼓を打ちながら唱題されていたり、縁側などで日なたぼっこなどして和やかに雑談されている様子は、私もひと息つけ癒されたものです。
 近年は防犯のため、平日に訪れても扉が閉ざされているので、久しぶりに御影様を拝し、幸せな気分の一日でした。
 『聖愚問答抄』(新編四〇六)に
「只南無妙法蓮華経とだにも唱え 奉らば滅せぬ罪や有るべき、来 たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし。」
とあります。
 未熟者の私は、これまで失敗や
反省すべきことも沢山経験してきましたが、いかなる時も、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えることでそれらを乗り越えられて今日の幸せがあることをしみじみ思い感謝申し上げているのです。(せとのなぎさ)
(26.1月)



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