ホーム > 諸宗破折目次日蓮宗不受不施派破折

  NO7諸宗破折ガイドより
 日蓮宗不受不施派破折】

 [ 派  祖 ]日奥
 [ 本  尊 ]宗
祖奠定の文字曼茶羅
 [ 経  典 ]妙法蓮華経開結十巻・日蓮
遺文・万代亀鏡録・録内啓蒙等
 [ 本  山 ]妙覚寺
  岡山県御津郡御津町金川六〇〇
 [ 寺 院 ・教会数 ]二〇
 [ 教 師 数 ]四一
 [ 信 徒 数 ]三二、四八一

【沿 革】
 日蓮宗不受不施派(ふ
じゅふせは)は、江戸前期に仏性日奥(にちおう)(一五六五~一六三〇)を派祖として日蓮宗一致派から分立した一派で、岡山の妙覚寺を本山としている。
 同派は、僧侶が同派以外の者からの布施を受けない「不受」、また信徒が同派以外の僧侶に布施をしない「不施」の法規を、信仰上の絶対条件として強調するところから「不受不施派」と呼ばれている。 派祖の日奥は、永禄八(一五六五)年、京都に生まれ、一〇歳で日像の流れを汲む妙覚寺の実成日典のもとで出家し、文禄元(一五九二)年、二八歳で妙覚寺一九世を嗣(つ)いだ。
 同四(一五九五)年九月、日奥が三一歳のとき、豊臣秀吉の命による大仏開眼千僧供養の出仕問題が起こり、当時、身延門流の中心者であった一如日重(本満寺)をはじめとする主流派は、弾圧を回避するために国主の布施は例外として受けてもよいとする「王侯除外」の特例を設けて、法会出仕を主張した。これに対し、日奥は「たとえ国主といえども、法華不信の者から布施を受けることは謗法となる」と、頑(かたく)なに不受不施義を唱えて日重に反発し、法会出仕を拒否した。これにより京都の日蓮宗は、その対応をめぐって受派と不受派が激しく対立し、ついに教団を二分するに至った。
 身延を中心とする受派は、幕府の権力と結託して諸山に法会出仕を迫ったが、これに反発する日奥は、妙覚寺を退出して隠棲生活に入り、同年一一月秀吉に勘文を献じ、翌年七月に地震で大仏が崩壊すると、再び秀吉に「法華宗諫状」を送り、後陽成天皇にも奏状を捧げて法華最勝を説き、謗法の停止を訴えた。 また、秀吉没後の慶長四(一五九九)年一一月、身延派の日乾らが徳川家康に対し、日奥の不受義を公儀不遜の態度として訴えたため、日奥は妙顕寺日紹と大阪城で対論(大阪対論)することになった。ここでも不受義を強弁した日奥は、公命に背く反逆者として対馬流罪となり、その地で一三年間を過ごしたが、その間も著述によって自らの正当性を訴え続けた。
 同一七(一六一二)年正月、赦免されて帰洛した日奥は、日紹ら受派の改悔によって元和二(一六一六)年に妙覚寺に戻り、元和九(一六二三)年一〇月、不受不施義はようやく幕府より公許された。これによって、日奥と日蓮宗諸山との関係は表面上は収まったかに見えたが、先の元和二年に日奥が著した『法華宗諸門流禁断謗施条目』の中で、「霊鷲山を移し玉える名山、日乾の代に謗法の地とならん」と批判された日乾が『破奥記』を著して反駁したことから、その後両者は対立状態となり、身延と妙覚寺の間で「国主の供養を受くべきか否か」との受不受論が再燃し、激しい論難が応酬されることになった。
〈身延対論とその顛末〉
 寛永三(一六二六)年
、身延の日暹(にっせん)らが、二代将軍秀忠の内室である崇源院の葬儀に当たって不受不参の態度をとった池上本門寺の日樹、中山法華経寺の日賢らを幕府に訴えたことから、同七(一六三〇)年二月、幕府は日暹らの受布施と、日奥を支配する池上の日樹ら不受派の僧侶を江戸城に召喚して対決させた。
 これは「身池対論」と呼ばれ、この法論では本来謗法の供養を受けるべきではない日蓮門下の信仰を曲げて、国主の供養を受けようとする身延派の主張には道理などなく、日樹ら不受不施派の優勢は明らかであった。しかし同年四月、幕府は法論上の勝敗を避け、公命に従順な身延派を勝者とする政治的裁定を下し、日樹をはじめとする不受派の僧侶全員を流罪に処し、その拠点であった池上本門寺と京都妙覚寺を、身延の日遠と日乾に与えた。
 この採決直前の三月一〇日、日奥はすでに六六歳で没していたが、幕府は不受不施派の首謀者として日奥の遺骨を再び対馬流罪に処するなど、過酷な弾圧を加えた。
 これを機に、身延派は幕府の権威をかざして、不受布施の寺院に対し、身延派への帰一を迫った。その結果、身延派は、中山法華経寺、小湊誕生寺をはじめ、久遠寺に離反した多くの末寺支配を実現し、当時の飯高、中村、小西の談林も支配下に治めて、日蓮教団内での絶対的な主導権を握ったのである。
〈寛文の惣滅と禁制不受布施派の成立〉
 身池対論において政略的勝利をおさめた身延派は、寛文(かんぶん)五(一六六五)年、幕府の朱印状再交付の時期に合わせ、不受不施派寺院に対し、寺領を供養と認めるように手形の提出を要求した。結局、これに従わない僧侶は公命に背く者として流罪に処せられた。さらに翌年、幕府は寺領のみならず飲水、行路、五穀もすべて国主の供養であるとする「土水(どすい)供養令」を発令した。これによって、不受不施派の中には受派に変節したり、退転する者が現れた。こうした不受不施派は「寛文の惣滅(そうめつ)」と呼ばれる壊滅状態に追い込まれていった。
 このような幕府による執拗な、な弾圧によって日蓮宗内は動揺し、国主の供養(福田)に対するさまざまな解釈が生じた。すなわち、身延派の日暹を中心とする受派は、土水のすべてを国主から供養(敬田(きょうでん))解釈して受領したことから「敬田派」と呼ばれ、同じく受派の小湊日明、碑文谷日禅、谷中日純等は、幕府からの弾圧を避けるために、これを世間の慈悲哀愍の布施(悲田(ひでん))と解釈して受領したことから「悲田派」と呼ばれた。これに対し、不受不施派の安国日講、興津日堯、平賀日述、妙満寺日英等は、寺領や土水は政道上の仁恩〈恩田(おんでん)〉であり、信仰上の布施には当たらないと主張したことから「恩田派」と呼ばれた。
 その後、さらに弾圧が強まり、不受布施義を貫く「恩田派」から「敬田派」や「悲田派」に転向する僧侶が続出するようになった。一方、寺院を捨てて強盛に不受布施を貫く「法中(ほっちゅう)」
と呼ばれる僧を中心に、それに従う「法立(ほうりゅう)=清派」と呼ばれる強信者、そして表向きは受派や他宗に身を置く「内信=濁(じょく)派」と呼ばれる内得信仰者の三者による特異な秘密組織が形成されていった。
 これは、「法中」は謗法に汚れた「内信」の供養を受ければ与同罪となるため、両者の間に強信者の「法立」を置き、「内信」の謗施を浄化して「法中」に取り次ぐ役目を果たすというものである。
 寛文九(一六六九)年、さらに幕府は不受布施寺院の壊滅を謀った。これによって、公民権も奪われた僧侶による地下信仰組織「禁制不受布施派」が生まれた
津寺派と日指派の分裂〉
 
天和二(一六八二)年、岡山県で看経礼拝での「法立」と「内信」の同座をめぐり、同座を謗法とする津寺(つでら)村と、それを許す日指(ひざし)村の僧侶が対立する事件が起こった。
 このとき、津寺の法中日隆は、先の「土水供養令」に反発して日向に流罪中であった安国日向に仲裁を求めたところ、日講は「法立」と「内信」との同座同行は謗法とする厳格な指導を与え、内信に寛容な態度をとった日指村に対し、不通を申し渡した。
 これに対し、日指の法中日通は、同じく讃岐に流罪中であった興津日堯の「法立」と「内信」の同座同行を認める指導に従って、津寺の主張に反発したため、この対立がやがて教団全体に広がり、不受布施派は、日堯の説を支持する日指派(堯門派)と、日講の説を支持する津寺派(講門派)の二派に分裂した。
 両派の主張には、内信者を謗法逆縁と見るか、順縁と見るかと言う点に大きな相違がある。日堯は身口意の中の意業を重視し、強制的に改宗を迫られ、仮に外相は他宗に籍を置いても、意業である内心に不受布施義を堅持する内信者は順縁として扱い、本尊も与え、同座同行を認めた。これに対し、日講は、身業である外相は内心の表れであり、身口意が一致しない内信者は純信とはいえないとし、不浄の内信者と同座同行すること、内信者の本尊を拝むことも謗法となるという厳格な態度をとった。
 日堯の流れを汲むのが、現在の日蓮宗不受布施派であり、日講の流れを汲むのが不受布施日蓮講門宗である。
 その後、両派が対立しながら厳しい禁制時代を凌ぎ、明治の公許まで約二〇〇年間にわたって法統を存続できたのは、ともに「法中」の僧を支える「法立」「内信」の僧を支える「法立」「内信」の信徒の力によるものであった。
 明治九(一八七六)年四月、日堯派は、妙覚寺三五世日正らによって「日蓮宗不受布施派」として再興公許され、同一五(一八八二)年三月、妙覚寺(岡山県金山)を再建して祖山とした。
 日蓮宗不受布施派は、昭和十六(一九四一)年三月、宗教団体法の公布により、「日蓮宗不受布施講門派」と合同して「本化正宗」と称したが、同二一年七月に再び分立して「妙法華宗」と称し、さらに同二七年一月には「日蓮宗不受布施派」の名称に戻り、現在に至っている。
 同派が現在「宗綱」として定めている条規の中に、僧俗の「勧誡例」として、次の一〇項目を挙げている。
〈真俗奉行の勧例〉
 ・異体同心にして我が本化事観の妙行を修すべき事
 ・常に法のために不惜身命の心地あるべき事
 ・過失あれば懇ろに相い諫め、共に善に進を喜びとする事
 ・相い互いに謙下し、礼儀を重んずべき事
 ・各自其家業を大切に精進すべき事
〈真俗莫作の誡例〉
 ・謗法の堂社に参詣いたすべからざる事(但し遊覧等を除く)
 ・謗法の僧侶を供養すべからざる事(但し仁義愛礼等を除く)
 ・不信謗法の供養物を受くるべからざる事
 ・他に向かって同業者の過失を言うべからざる事
 ・他門を罵詈し、不覚の宗論を致すべからざる事
 これを見る限り、不受布施派の正統を主張する同派には、日奥の厳格な折伏精神や不受布施義を見いだすことはできない。また、再興当時、一〇〇名前後いた法中(清僧)も現在は二名に激減し、教団の存続が問題化している。そのため近年になって、教団組織を〈法主-宗務長-法中-法務係-入道-講社長-信徒〉という形に改め、在家より多くの入道(入門者)を募集し、その中から一〇余名の法務係を選び、老後、正式に出家させて法中とし、衰退する教団の維持回復をはかろうと苦慮している。

【教義の概要】
 当時、豊臣秀吉や徳川家康による宗教支配に脅かされた日蓮宗は、身延派の日重が中心となって、大聖人の信仰の根幹である謗法厳戒の精神を捨てて為政者に阿諛追従する道を選び、教団全体を摂受主義に貶めていった。これに対し、日奥は「大聖人の御本地に於いて猶豫の思いを成さず」との言葉どおり、大聖人の謗法厳戒の教えに対して寸分の躊躇も許さないという絶対信に立ち、不惜身命の不受布施の実践を強調した。
 両者の主張を要約すると、次のとおりである。
〈身延(不受施派)の主張〉
相手の得脱が目的ならば、むしろ謗施を受けて下種とし、相手を善導すべきである。
法華誹謗がない者の布施、謗施とはいえない。
大聖人も船守、阿仏房の謗施を受けて、善導されている。
受ける側の純不純で謗施であっても功徳となり、供養自体を区別すべきではない。清濁呑み込んで成仏の大道に立つ者こそ達人である。
〈日奥(不受施派)の主張〉
布施を受けて相手を善導するとのいい分は、凡僧たる自身を弁えぬ詭弁でる。
諸宗の謗法に対して立てた不受布施の法度に自ら背く事は、それ自体が謗法である。
船守、阿仏房は明白な法華誹謗の者ではなく、その施は謗施にあらず、世間の仁施である。
供養の清濁は飽くまでも施者の心の問題であり、信施すら不浄な信者の供養は受けられない。たとえ受者が清浄でも、不浄の謗瀬を受ければ不浄となる。信仰の正邪も糾さず受けるのは謗法である。 
 このように、受派が幕府の弾圧を恐れ、教団維持を図って謗施受領の言い訳を繰り返したのに対し日奥は謗法厳戒を第一として、最後まで不受布施を貫いて対立したが、教義的には日龍門流の系統に属し、身延派と同様に本迹一致を主張している。
 また、本尊について日奥は『法華宗相状』野中で「三大秘法者本門本尊、要法題目、本門戒壇也、抑末法相応本尊者本門久成教主釈尊也 」と述べ、久成の釈尊を本尊としているが、これは秀吉に対する大仏否定の言葉であって、日奥自身が釈尊の仏像を本尊としたものではない。『日本仏教基礎講座』によれば、現在同派では「日蓮奠定 の十界常住の文字曼荼羅」を本尊と規定しているが、日奥には明確な曼荼羅本尊の主張もなく、その教義的根拠は明らかではない。また同書には、明治一五年に再建された妙覚寺には、日像作と称する宗祖の御影を安置して同派の祖山としたとの記述があるが、現在本堂には「慶長一二年丁未卯月上対馬左遷刻 於宮谷草庵書之」と脇書きのある日奥直筆の曼荼羅が安置されている。
 また信徒は、それぞれ先祖から伝えられてきた教化僧書写の紙幅曼荼羅や御影などを本尊としており、必要に応じて管長書写の紙幅曼荼羅や額縁入りの曼荼羅が与えられている。
 (日蓮宗不受布施派・終わり)

 *破折は「不受布施日蓮講門宗(不受布施講門派)」(次項)に挙げる。



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