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NO諸宗破折ガイドより
 【法華宗(真門流)破折】
 
派 祖 ]日真
本 尊 人法不二の大曼茶羅(一塔両尊四士)
経 典 ]妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文
本 山 ]本隆寺 京都市上京区智慧光通五辻上ル紋屋町三三〇
寺院数・教会数 ]一六五
教師数 ]三四一

信徒数 ]六一,〇〇〇


 【沿 革】
 
法華宗真門流は、室町時代に妙顕寺から分立した常不軽日真(一四四四~
一五二八)を派祖とする勝劣派の一派で、本隆寺派、本妙法華宗とも呼ばれている。
 日真は、文安元(一四六六)年、日真二三歳のとき、 日像の開創による妙顕寺の第六世日具に師事したが、当時盛んに議論されていた本迹勝劣の研究を志し、八品正意を立てる日隆門流の妙蓮寺や本能寺を訪れ、とりわけ妙蓮寺日忠と交流を深め、次第に本迹一致から本迹勝劣へと傾倒していった。
 長享二(一四八八)年、日真が四四歳のとき、妙顕寺内で日真と行学日賢等との間で一致勝劣論争が起こった。このとき、調停に当たった師匠の日具は、日像門流の一往勝劣・再往一致を是とし、日真の勝劣義を否定したが、日真はこれに従わず、あくまで勝劣義を主張し、妙顕寺を退出した。同年、日真は親交のあった妙蓮寺日忠を訪ね、日隆門流の妙蓮寺・本能寺と同一法水の盟約を結び、四条大宮に本妙興隆寺(のちの本隆寺)を創建した。
 その後、日真は北陸方面の布教に努め、若狭(福井県小浜)に本境寺を興し、越前(福井県武生)の真言寺院を改宗させて本興寺とし、平等会寺(福井県鯖江)の住職を教化して末寺一三箇寺を改宗させている。この様な経緯から、福井県を中心とした地域に教勢が確立した。永正元(一五〇四)年、日真六〇歳のとき、本隆寺を弟子の日鎮に譲り、その後は著述や教団の維持に努めた。大永二(一五二二)年、日真が公然と『涌出品』の「不須汝等。護持此経」(開結四〇七)の「此経」を迹門の経と講釈したことに対し、本能寺・妙蓮寺・妙満寺の三山は、「ここでいう此経とは本門の妙法である」と強く抗議したため、ついに日真と本能寺日㬢との間で論争が起こった。このとき日真は、それまで支持してきた日隆教学の中心である八品正意・本因下種論を否定し、独自の寿量正意・本果下種論を主張したため、両者の論争は勝劣派内での日真・日隆両派の対立となり、大永三(一五二三)年三月、日真一門は日隆門流と決別し、独自の路線を歩むことになった。
 その後、日真は関西や北陸方面の布教に努め、享禄元(一五二八)年三月、本隆寺において八五歳で没した。
 以後、本隆寺を中心とした教団の布教活動には特に見るべきもなかったが、明治に入り、北海道の開拓に乗じて道内に教域を広げた。宗名については、それまで単に本隆寺派と呼ばれていたものを、明治九(一八七六)年二月、「真門流本隆寺派」と称し、同三一(一八九八)年には、「本妙法華宗」と改称したが、昭和一六(一九四一)年、宗教団体法によって「法華宗本門流」、「法華宗陣門流」と三派合同して「法華宗」と称した。さらに同二七(一九五二)年将来再び合同の余地を残すとの申し合わせのもとに「法華宗」より分立し、「法華宗(真門流)」として法人認可され、現在に至っている。

 【教義の概要】
 同宗の教義については、「宗憲」の第四条(教義)に「本宗の教義は、宗祖の元意に基づき、法華経一部を修行するに本勝迹劣を分かち、寿量一品の玄旨に依り、三身一正在報身、人法不二の大曼荼羅を本尊とし、末法濁機に下種即脱の本果妙を信受せしめる」(趣意)とあり、その特色は、「一分修行」「本勝迹劣」「寿量一品正意」「本果実証下種」にある。
 これは、法華経の一部読誦の修行を立てながら、その教法の中心は本門の『寿量品』であるとし、「然我実成仏已来」の文に説かれた久遠の本果脱益の仏が証得した妙法を最勝とし、迹門の始成正覚の仏の妙法を劣とする「久近本迹勝劣」を立てる。そして、この本果仏所証の妙法が、宗祖が説かれた末法下種の法体であると主張する。
 また、本尊の形態については、「人法不二の大曼荼羅を本尊とし」と規定しているが、実際には本山の本隆寺をはじめ各末寺に一塔両尊四士の仏像を安置しており
これを下種即脱の本果妙の本尊としている。

 【破折の要点】
◆ 一部読誦は、宗祖の正意にあらず
 日真門流では、信徒に与えられた数編の御消息を根拠に、宗祖が一部読誦を常の修行とされたと解釈しているが、これは個々の信徒に対する為人悉檀(いにんしつだん)の化導であり、正規の修行について指導されたものではない。
 宗祖が末法初心の行者の立場と心得を説かれた『四信五品抄』には、
 「直ちに専ら此の経を持つ(中略)一経に亘るに非ず。専ら題目を持ちて余文を雑へず、尚一経の読誦だも許さず」(新編一一一三)
と、法華経一部の読誦は正行を妨げるものであるして禁じられている。
 また、『月水御書』では日々の勤行に対する質問に答えられて、「信徒の毎日の勤行は、迹門の中心である『方便品』と、本門の中心である『寿量品』を助行として読誦し、唱題を正行とする」旨を御指南されており、一部読誦は、かえって宗祖が示された正助二品読誦の正しい修行に背くものである。

◆本勝迹劣・寿量一品正意を破す
 同抄でいう「本勝迹劣・寿量一品正意」の主張は、身延派の主張する本迹一致や、日隆門流の神力正意に比べれば、法華経本門の教理に一重近づいた解釈である。しかし、大聖人は、
 「当品(寿量品)は末法の要法に非ざるか。其の故は此の品は在世の脱益なり。題目の五字計り当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍って下種を以て末法の詮と為す」(御義口伝 新編一七六六)
と仰せのように、大聖人が末法の一切衆生のために建立された要法は、文上の寿量品ではなく、寿量品の文底下種の題目である。
 日陣や日真が脱益の教主である釈尊を本尊とする以上、彼らが主張する『寿量品』は、在世脱益の域を出ず、いかに口で文底下種と唱えても、大聖人の説かれた末法の要法ではない。
 これに対し、大聖人が仰せられた本迹勝劣とは、「日蓮が法門は第三の法門なり」(常忍抄)と示された天台伝教の未だ弘めざる法門である。寿量文底に沈められた久遠元初の法体からみれば、文上の本迹は共に迹劣となり、文底の寿量品のみ本勝であるという、種脱相対にある。
 また、『十法界事』に、
 「迹門の大教起これば爾前の大教亡じ、本門の大教起これば迹門爾前亡じ、観心の大教起これば本迹爾前共に亡ず」(新編一七六)
と示されるとおり、観心の大教である文底下種の妙法が出現すれば、彼らが勝劣を立てる本迹ともに功徳を失う。
 すでに末法に無益となった文上の法華経を立てて、「本迹勝劣」を論ずることは大聖人の正意に迷う謬論である。
 また、釈尊が文上の寿量品に明かした本地は、あくまで五百塵点劫・本果大一番の成道であり、釈尊は、その本果妙の仏果をもって垂迹化他を施してきた脱益の仏である。文上の寿量品では、この本果妙を中心に化導が説かれるが、その本果の実証を成就せしめた本因妙については明かされていない。彼らが「寿量一品正意」と主張する寿量品は、この文上体外の寿量品である。しかし、宗祖が末法の正意とされたのは文上脱益の寿量品ではなく、「寿量品の肝心」「寿量品の文の底」といわれた内証の寿量品である。
 このことを『法華取要抄』には、
 「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(新編七三六)
 と示されている。先に『常忍抄』『十法界事』を挙げて述べたとおり、宗祖の寿量品とは、寿量文底下種の妙法を指すものであり、日陣や日真の思量の及ばぬものである。

◆本果下種を破す
 大聖人が『御義口伝』に、
 「題目の五字計り当今の下種なり。然れば在世は脱益、滅後は下種なり。仍って下種を以て末法の詮と為す」(新編一七六六)
と仰せられているとおり、大聖人が説かれた末法の要法とは、法華経本門寿量品ではなく、その文の底に秘し沈められた下種の題目であることが明らかである。
 しかしこれに対し、日真の「本果下種」とは、文上の法華経に説く釈尊の本果の悟りそのものを末法の衆生に下種するというものである。
 大聖人は『総勘文抄』に、
 「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫に御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめて即座に悟りを開きたまいき」(新編一四一九)
と、寿量文底に秘された久遠元初の本地である本因妙を明かされ、この本因妙の題目を末法下種の法体として、一切衆生に死身弘法の化導を施されたのであり、日蓮大聖人こそ末法の教主である。
 宗祖の御本意である寿量文底の本因妙に迷い、文上の寿量品、文上の本果の釈尊に執着する日真門流の下種論は、仏法の基本である因果にも背く邪義である。
 (法華宗(真門流)・終わり)

 (次回は【日蓮宗不受不施派】を掲載予定)



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