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 NO5「諸宗破折ガイド」より

 【本門法華宗】
 
[ 派 祖 ]日隆
[ 本 尊 ]宗祖奠定の大曼茶羅
[ 経 典 ]妙法蓮華経開結十巻・高祖日蓮大士遺文・門祖日隆の著述
[ 本 山 ] 妙蓮寺 京都市上京区寺ノ内通大宮東入妙蓮寺前町八七五
[ 寺院数 ]九四
[ 教師数 ]一八四
[ 信徒数 ]三〇,〇九〇


【沿 革】
〈妙蓮寺と仏性日慶〉
 本門法華宗は、法華宗(本門流)と同じく慶林日隆(一三八五〜一四六三)を門祖と仰ぐ八品勝劣派の一派で、京都の妙蓮寺を本山とする。
妙蓮寺は、六老僧の一人である日朗の弟子日像が京都弘通に赴き、最初に建立した妙法蓮華経寺の旧跡に再興された寺院である。

 仏性日慶(一三九七〜一四七八)は、日像の流れを汲む妙顕寺の月明の門下であったが、応永一二(一四〇五)年、九歳のとき、月明の優柔不断な信仰姿勢を刷新しようと立ち上がった日存・日道・日隆(当時二一歳)らとともに妙顕寺を出て、綾小路五条に草庵を結んで移り、三人に師事しながら八品勝劣義の布教に加わった。その後、三人は布教のために草庵を出たが、日慶は一人残って独自に教線を広げ、応永三〇(一四二三)年、二七歳のとき、酒屋の外護で廃寺となっていた妙法蓮華経寺を妙蓮寺と改め、再興した。
 同じ頃、尼崎(兵庫)に本興寺を再建し、再び京都弘通を目指した日隆は、永享元(一四二九)年、内野付近に本応寺を建立して京都の日蓮宗諸山に八品勝劣義を表明し、日慶に対し、恩人ともいえる日存・日道を妙蓮寺歴代に加えるように伝えた。しかし、日慶がこれを拒否したため、日隆は日慶と絶交し、以後本応寺と妙蓮寺は五〇年余にわたって対立することになる。その後、本応寺は本能寺と改めて六角大宮に移り、教線を広げていった。
 一方、日慶は本能寺への対抗手段として公家・皇室に縁の深い庭田家出身の稚児を妙蓮寺の寺主として迎え、権勢による自門の繁栄をはかった。
 それが妙蓮寺再興初代の日応である。その結果、妙蓮寺は公武の厚い庇護を受け、皇族や武家の参詣で大いに栄えた。
 また、 日慶は、天台宗の三井園成寺より常住日忠を学頭に招いて門下の育成に努めた。なお、日忠は妙蓮寺内の道輪寺学室において八品教学の振興をはかり、中興の祖と称されている。
 日慶は自ら妙蓮寺の歴代に入らず、文明一〇(一四七八)年、八一歳で没している。
〈日慶以後の妙蓮寺〉
 
日慶の没後、学頭の日忠は公家出身の日応を補佐し、妙蓮寺歴代に日存・日道・日隆を加えた相承次第を作って、本能寺との長年にわたる対立を解消し、和解へと導いた。これによって妙蓮寺は、本能寺を中心とする日隆門流に連なり、戦後独立するまでの長期にわたって、門流と同じ盛衰の歴史をたどった。
 天文五(一五三六)年の「天文法乱」では、叡山衆徒の襲撃によって堂宇は全焼したが、六年後に再建され、天正十五(一五八七)年に現在地に移転した。
 江戸時代には、法華経が説かれた諸天善神を祀って現世利益を求める番信仰が全国に広がり、妙蓮寺も本能寺・本興寺と同様に鬼子母神、十羅刹女、三十番神を祀り、これによって教勢発展をみるに至った。その一方で教団内では、尼ヶ崎勧学院の日秀と本興寺の日専との間で、逆縁の衆生の成仏をめぐる「回向成不論争」が起こり、教団を二分する大問題に発展していった。
 また、布教から遠ざかり、堕落した僧侶の姿に失望した強信徒を中心に、在家組織である八品講が全国に生まれ、活発な折伏布教を展開した。中でも長松清風(日扇(にっせん))が率いる仏立講は、法華宗門が主張する「回向成仏論」を真っ向から否定し、畜生の成仏を認めない「三途不成論」を唱え、徹底した現世利益を前面に立てた強義折伏によって、一大勢力となった。このとき、妙蓮寺は「三途不成論」を支持し、本能寺・本興寺と対立したが、慶応三(一八六七)年、この論争は同一法門の両面であるとの解釈で三山は和解している。
 明治五年(一八七二)年、妙蓮寺、光長寺(沼津)、鷲山寺(千葉)、本能寺(京都)、本興寺(尼ヶ崎)は、廃仏毀釈の難局に対処するために、一致して「本門八品五山規則」を制定し、同九年、五山は一致勝劣二派制から「日蓮宗八品派」となり、五山一派一管長制を敷き、同三一(一八九八)年、「本門法華宗」と改称した。
 昭和一六年、戦時下の思想統制によって「本門法華宗」はさらに日真門流・日陣門流合流して「法華宗」を結成したが、戦後、妙蓮寺は「法華宗」から離脱して独立し、昭和二七年再び「本門法華宗」と改称して現在に至っている。

【教義の概要】
 同宗の「宗綱」に「本宗は、久遠実成本師釈迦牟尼世尊の自詮によって建立されたもので、本化上行再誕日蓮聖人これを承けて立教開宗し、日朗、日春、日法、日辨、日像、大覚、朗源、日霽、日存、日道と伝承し、門祖日隆聖人、本門八品の正義を再興唱道し、爾来、法統連綿として今日に至る」「本宗は宗祖日蓮聖人が上行再誕の自覚にたって開顕された上行付属の、本門八品所顕上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経を以て宗旨とする」とある。
 また同宗では、自らの教義を、

 一、 当宗は本門八品の中でも神力品における上行要付の妙法を下種とし、本因妙を正意とする。
 二、 日蓮大士を末法下種益、上行菩薩再誕の大導師と尊崇する 

と、説明している。
 その教義は法華宗(本門流)と同じく、慶林日隆の「神力正意論」であり、宗祖の正意は法華経の中でも、従地涌出品第一五から嘱累品二二までの八品にあり、「八品の題目」「八品の本尊」を主張するものである。
 また、同宗の学頭の中で中興の祖とされる常住日忠は『観心本尊抄』の「在世の本門と滅後の末法の始めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但だ題目の五字なり」との文について、『本尊抄見聞』の中で次のように解釈している。「在世の本門と其の体二無し、故に一同に純円と云う。譬えば果と種と不同無きが如し、但し地に下すを種といい梢に結ぶを果という、この不同を判ずる時、彼は脱、此は種と云うなり(中略)通じて本同益異と名づく、既に一同に純円なりと云う故に本同なり、彼は脱、此は種と云う故に益異なり」(日蓮宗宗学全集九−一二八)と。
 つまり、果実と種は同じ本性をもちながら、その働きの違いがあるように、仏在世の文上脱益の一品二半も末法の文底下種の題目も本体は同じであり、単に化導利益の上で脱益と下種との異なりがあるだけ、と解釈するもので、これを「本同益異」と名付けている。


 【破折の要点】

 日忠の「本同益異説」は、日隆の「種脱一双論」と同じく、大聖人が明かされた種脱と法体の正意に背く迷論である。
 これについて日寛上人は『観心本尊抄文段』において「たとえば脱穀した米は白米であり、仏は白米(脱益の一品二半、)をもってをもって在世の衆生を養い、脱穀しない米は籾(もみ)であり、仏は籾(文底下種に題目)をもって本化菩薩に付嘱し、末法得益の種とされた。『彼は一品二半、此は題目の五字』といわれた真意は、この白米と籾との明らかな相違を示されたものである」(趣意)と説かれている。
 さらに「『本同益異』の一言に具に五箇の迷乱あり」として、「@文上・文底の迷乱(法華経に文上文底のあることを知らない)A在末種脱の迷乱(下種と脱益は化益ではなく、法体の相違であることを知らない)B今家の本迹の迷乱(末法における本門とは文底久遠元初の妙法であることを知らない)C事理の三千の迷乱(文底事の一念三千より見れば、釈尊の法華経は悉く理の一念三千であることを知らない)D教相・観心の迷乱(末法における観心とは、文底下種の妙法に限れれる事を知らない)」を指摘され、日忠の邪義を破折されている。
 (本門法華宗・終わり)


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