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 NO2 諸宗破折ガイドより
【顕本法華宗破折】

派 祖 ]日什
本 尊 ]曼茶羅
経 典 ]妙法蓮華経開結十巻・日蓮遺文・日什  諷誦章及び置文
本 山 ]妙満寺 京都市左京区岩倉幡枝町九一[ 寺院・教会 ]二二一
教師数 ]一九六
信徒数 ]一〇一、四〇五


【沿 革】

 顕本法華宗は、大聖人滅後百年頃に玄妙日什(にちじゅう)(一三一四〜一三九二)が開いた一派で、「妙満寺派」「什門派」とも呼ばれる。

 派祖の日什は、正和三年に奥州会津の黒川に生まれ、一九歳で比叡山に登り、横川上智院の慈遍を師として出家し、玄妙と称した。以後、天台教学を学び、三八歳で学頭となり玄妙能化と称して、学徒の指導に当たった。五八歳のとき、隠棲(いんせい)するために会津に帰ったが、領主の葦名の招請により天台宗羽黒山東光寺住職となって、多くの門弟を教育した。
 しかし天授五(一三七九)年、玄妙が六六歳のとき、日蓮大聖人が著された『開目抄』『如説修行抄』をはじめて読んで感銘を受け、天台の教義を過時の教えとして捨て、日蓮門下に改衣する事を決意したと伝えられている。同年、富士門流に帰依して日什と名乗ったが、翌年三月には異見を生じて離脱し、真間弘法寺(千葉)の日宗(にっそう)へ帰伏状を捧げ、真間門流に改衣した。その後、日宗の請いにより学頭に就き、真間・中山門流の宗徒の教化に当たった。
 そして弘和元(一三八一)年には、中山法華経寺の第四世日尊の代官として上洛天奏し、翌年には鎌倉に本興寺を建立して、二度目の天奏を行っている。 しかしこの頃すでに日什は、中山門流からの分流を考えており、弘和三(一三八三)年、七一歳のとき、三度目の天奏を前に日尊と不和になり、上洛して京都室町に小庵(後の妙満寺)を結んで京都弘通の拠点とし、そこに住した。さらに奥州見附(静岡県磐田)に玄妙寺を建立し、教線を広げていった。
 元中二(一三八五)年、弟子の日仁に与えた『法華本門戒血脈』の中で、「久遠成道釈迦牟尼如来 日蓮大師 日什僧都 日仁」という独自の血脈系譜を示し、さらに元中五(一三八八)年八月二五日、弟子日妙の一周忌に諷誦文(ふじゅもん)を読み、その裏に『日什門徒等可存知事』という置文を書き残した。
 この中で日什は、「大聖の御門弟六門跡、並に天目等の門流、皆方軌弘法共に大聖の化儀に背く処有るに依って同心せざる処也、直に日什は仰せを日蓮大聖人に帰する処也」と、大聖人以来の法脈をすべて否定し、大聖人から直ちに法水を汲み、御書を師とする「直授日蓮・経巻相承」を主張するとともに、『真間帰伏状』を破棄して実質的な独立を表明した。
 その翌年、日什は京都室町の小庵を「妙満寺」と称し、後にこれを本寺と定め、自身は会津の妙法寺に移り、元中九(一三九二)年二月、七九歳で入寂した。
 日什没後の門弟には、「七里法華」(上総地方の領主酒井氏が入信し、領内を妙満寺派に改宗してできた組織)の基を成した妙満寺一六代日泰(一四三二〜一五〇六)や、強義折伏によって慶長法難を招き、徳川家康より耳鼻削ぎの刑に処せられた常楽日経(一五五一〜一六二〇)などがいる。この慶長法難のとき、窮地に立たされた本山妙満寺は、幕府の弾圧から逃れるために日経を除歴処分に付し、強義折伏を捨てた。
 以後、日什門流は、幕藩体制に迎合しながら徐々に教勢の拡大を図り、本山妙満寺を中心に発展していった。
 明治九(一八七六)年、日什門流は「日蓮宗妙満寺派」と称し、さらに同三一(一八九八)年一一月、「顕本法華宗」と改称した。また明治三八(一九〇五)年、顕本法華宗の管長職に就いた本多日生(一八六七〜一九三一)は、国柱会の田中智学とともに、大聖人の教義を国家主義に結びつけた「日蓮主義」を唱え、学者や政治家、軍部要人等に働きかけて日蓮門下の統合を図るとともに、軍国主義への協賛活動を行った。
 昭和一六(一九四一)年三月、宗教団体法により顕本法華宗は「日蓮宗」「本門宗」と合同し、しばらく身延日蓮宗の傘下にあったが、昭和二二(一九四七年四月、再び日蓮宗から分離して「顕本法華宗」と公称し、現在に至っている。


【教義の概要】

 久成の釈尊を教主、大聖人を宗祖、日什を開祖と立て、日什以外の弟子や法脈を全て邪師邪流と否定する「直授日蓮・経巻相承」を宗是としている。
 本尊は、日什の『請諷誦事』に、「此の大曼茶羅は依正不二、人法一体、生仏一如、十界互具之大曼茶羅也(中略)頓極頓証之秘法、即身成仏之亀鏡也」とあり、大聖人の曼茶羅を建前としている。
 また、修行は方便品・寿量品の読誦を助行、唱題を正行としており、本迹勝劣・寿量文上本因本果一体の本果妙の題目を正意とする。


【破折の要点】

◆経巻相承は邪義乱立の元凶
 日什が主張する「経巻相承」とは、大聖人の仏法を直接教授してくれる師(血脈伝授の人)が無くとも、法華経や御書を読み、そのまま実践することで、誰もが同じ功徳を得ることができるというものである。
 しかし、この主張は、仏法相伝の大事な規範である師資相承と、それに伴う歴史的事実をすべて否定し、何の根拠もない勝手な相承や教義を立てて、これを正当化しようとするものである。日什は、はじめ富士門流に帰依しながら、大聖人から日興上人以来、直授されてきた唯授一人の血脈相承を信解することができず、離脱して真間・中山と渡り歩いた末、その対抗手段として、止むなく打ち立てた己義が経巻相承である。
 また什門教学を大成した永昌日鑑(一八〇六〜一八六九)も、大聖人の『守護国家論』の「経巻を以て善知識と為すなり」(新編一四九)や、『顕仏未来記』の「三国四師(釈尊ー天台ー伝教ー日蓮)」(新編六七九)を「経巻相承」の根拠として、法華経や御書を学んで、釈尊や大聖人の教えを受け継ぐことが正しい相承であると主張している。
 しかし、『守護国家論』の御文は、経説を無視して法華経を誹謗する法然を「依法不依人」の理によって破折されたものであり、相承について指南されたものではない。
 また『顕仏未来記』の「三国四師」の御文を、大聖人が法華経によって経巻相承された証左としているが、これは釈尊、天台、伝教、そして日蓮という歴史的な外用相承の流れを示されたものに過ぎない。
 これに対し大聖人は、
 「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、 日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり」(南条殿御返事 新編一五六九)
と、さらに、
 「此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上 首として、日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より 口決せり相承なり」(三大秘法禀承事 新編一五九五)
と、面授口決の内証相承を明かされ、仏法本来の相伝の姿を示されている。
 さらに大聖人は、
 「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(一代聖教大意 新編九二)
といわれ、師弟相対の相伝によってはじめて法華経の深義を伝えることができ、もしこれがなければまったく仏法を亡失することになると教示されている。
 このことからも、顕本法華宗が金科玉条とする「経巻相承」は、相承の本義を知らない日什が、自分の浅識に任せ、御書を曲解して、自門を正当化しようとの意図によって創り出した邪説に過ぎないことは明らかである。

◆本尊雑乱の実態
 日什は本尊を宗祖の曼茶羅と定めたが、日什滅後、顕本法華宗は、薬師如来、鬼子母神、七面、妙見、清正公、稲荷などを祀ってきた。これが大聖人の仏法を正しく相伝する血脈相承を否定し、「経巻相承」という邪義によって謗法を招いた教団の実態である。
 後に顕本法華宗の管長となる本多日生は、明治二三(一八九〇)年、教務部長に就くや、この実態を見かね、雑乱本尊を一掃して三宝本尊に統一するように宗内に呼びかけた。
 しかし、逆に宗内の反発を買い、二年後には宗門から擯斥処分を受けた。その後日生は、僧籍に復したが、「釈迦・題目・四菩薩の三宝義が掌握できれば文字でも木像でも是認して良い」と述べ、本尊に対する前言を翻した。このように顕本法華宗の本尊雑乱の悪幣は、実に根深い。
 また、のちに日生は日蓮門下統合運動を起こすが、統合講習会の席上、「唯、純宗教的済度の側ばかりでは、日本の人心を支配する思想階級に日蓮主義を認めさせることはできない。(中略)教義や本尊雑乱問題もあるが、大道一致こそ聖意である」などと述べ、信仰の根幹である本尊に対し、実にいい加減な態度を露呈している。
 顕本法華宗では、曼茶羅本尊を立てているが、その実態はまさに本尊雑乱である。大聖人が『本尊問答抄』に、
 「本尊とは勝れたるを用ふべし」(新編一二七五)
と仰せられているように、宗旨の根本である御本尊を蔑ろにしている顕本法華宗は、まさに師敵対の大謗法である。
(顕本法華宗・おわり)

   

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