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創価学会破門略年表略年表 「創価学会会則」改変の欺瞞を糾す 創価学会『ニセ本尊』破折百問百答

 第一回 日顕宗を斬るを斬る!①~④
           
                                   ⇒第二回へ

《日顕宗を斬るを斬る!!》

 まず、彼等のマニュアルを一読するに、こちらの話を聞こうという真摯な姿勢も、謙虚さも一番大事な慈悲も感じられない。
 さらに悲劇なのは、この一闡提確定のマニュアルを作製した、学会職業幹部に上手く洗脳され操られている点である。

 僧宝について論じている段の、「日蓮正宗要義」を引用している箇所は、不正直な学会の真骨頂である。よく見比べるが良い。(中略)の部分に何が書かれているか。

「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境地冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする。(中略)広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である」(317頁)
「末法の三宝とは、久遠元初自受用報身如来の再誕、法即人の主師親三徳本因妙の教主日蓮大聖人が仏宝であり、人即法の本地難思境地冥合事の一念三千無作本有の南無妙法蓮華経の大曼荼羅が法宝であり、大白法を正しく継承された日興上人を僧宝の随一とする歴代の御法主上人が僧宝である。広く論ずれば正法を受持信行し随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが、僧宝である。しかし尊信の対象としては、右に述べるごとく中心に要括すべきである」

 学会幹部は、「日蓮正宗要義」を学会員が殆どもっておらず、また、確認をしないことを承知でこういう汚い手法を使っているのである。学会職業幹部は、一般会員をバカにしきっているのである。

 さらに、鬼の首でも取ったように日顕上人の「(僧侶が)自分から進んで『僧宝』なんだからもっと尊敬しろ』というようなことを思ったならば、やはりこれは間違いです」(昭和55年3月28日、在勤式得度式祝賀会)とのお言葉を出してきて、「大きな自己矛盾を生じている。」としているが、

これは、お弟子に対する師匠としての薫育のお言葉である。例え小僧であっても僧宝の一分には入るが、増上慢ではいけない、奢ってはいけないという戒めである。 わざわざこのお言葉を持ち出し、自己矛盾とする思考回路が理解不能である。

池田大作のように、「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」
(池田大作発言・『池田大作――その思想と生き方』)
と恥じることなく言い放てる人間を師と崇めるから、学会員はおかしくなるのだろう。

 洗脳され、こういう対論に出てくるような幹部は、「真実が知りたい」のではなく、「マニュアルに即して、やっつけたい」という魂胆で出てきているだけのようだ。
 マニュアルに従って論を進め、そこからは決してはみ出さず、都合の悪いところは黙殺するか話をはぐらかし、最後は「破門したくせに放っておけ」「破折パンフレットを配るな」で終わる。
「化儀は時代と共に変わって当然」と開き直り、ニセ本尊販売も、懈怠チョロチョロ勤行も受け入れる。

従って、彼等に真摯に答えるだけ、それこそ時間の無駄と言える。
 同じ学会員でも、相手をみて、話は変えていった方がいい。


【こちらから先に質問してあげる】

 彼等の常套手段として、まず、パンフレットの内容というより、彼等のマニュアルに載っている御文を持ち出し「こちらで引用している御書の御文について聞きたいのですが」と開口一番に切り出すので、まずはこちらから先に質問する。

 質問に答える形になると、どうしても受け身になり、言い訳がましくなってしまうからである。

①学会教宣部が相手だった場合は、座った途端に「学会では、●●と言うが、その文証を出しなさい」とはじめる。
大概の幹部は、当方の非常識さを主張しながら、びっくりして、挙動不審になる。でも、一歩も引かない。答えさせる。
(もちろん、御書にはそのものズバリの文証がない質問を用意しておく)
・御書に全て書いてあるというが、弘安二年十月十二日御図顕の御本尊様が戒壇の 大御本尊様であるという文証を示せ。

・引き題目や題目三唱の唱え方は御書のどこをみたらわかるのか?
・なぜ創価学会では日蓮宗のように、なむみょうほうれんげきょうと唱えないのか 。それはどの御書によるのか?

・数珠にも色々な形があるが、あなた方の念珠が大聖人の教えに叶っていることを 御書で説明せよ。
・御宝前に色花でなく樒を御供えする理由を御書で説明せよ。
②さらに、こっちから一方的に質問攻めにする。
・学会のみが御本尊をコピーして配布してよい文証は?

・選挙運動が広宣流布につながるという文証は?
・池田名誉会長が勲章をもらうことによって広宣流布の役に立つという文証は?
・広宣流布とは三大秘法の流布にある。三大秘法惣在の大御本尊を持っていない学 会の教えが広まって、それが広宣流布になるという文証は?

・時の貫主に背いてよいという文証は?

※これは誘い水の質問で、当然、「時の貫主たりといえども仏法に相違して己義を構えば之をもちうべかざる事」(『日興遺誡置文』御書1885頁・ 全集1618頁)を言ってくるので、当方としては、その次の「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧(くじ)くべき事」を言い返す。

◎次の御文を知らない幹部は大抵、閉口する。すなわち、仏法の正邪を判定し、状況に応じて衆義を摧くべき立場にあられるのはあくまで「貫首」すなわち御法主上人である。数を頼んで血脈を冒涜する創価学会こそ、「摧くべき衆義」に当たるのである。

③時に反対の立場となり、まずそうになったら、「いいから、さっきのの文証を出せ。こっちの方が先だろ」と言い続ける。


【相伝の仏法を否定する愚かさ】

まず、学会が「御書以外の口伝は用いず」というならば、当宗は相伝の仏法であるから、相伝を論ずることなくしての対論は無益です。
 そもそも口伝口伝と軽々に言うが、口伝とは誰からの口伝か考えましょう。御本仏大聖人からの口伝であります。
 創価学会版の「仏教哲学大事典」を見ても、大聖人の甚深の御法門を説明する場合、御書のみでは説明仕切れないのである。
 特に「御本尊書写」の項目はそれが如実に顕れている。
『御本尊書写の大権は唯授一人金口相承の御法主上人にあって軽々しく論ずべきではない』と冒頭述べている。学会が現在否定している項目が、この短い文章に目白押しである。
 また、さすがに私論で書けないため、『有師化儀抄註解』『百六箇抄』『日興上人詳伝』(日亨上人著)とつないでいるだけである。

これを無効として対論しようというならば、御本仏の教えを無用とする天魔の見に堕している愚に気付いたほうがいい。
 禅宗は仏無用という邪教です。創価学会は御書の外道読みに執して御本仏の御意を否定する意味で、天魔の邪教と言えます。
相伝無用というならば、学会員が拝んでいる御歴代上人の御本尊の相貌をはじめ、五座三座の勤行様式、数珠の形、しきみを供えること、線香を立てないことなど、化儀化法の全てが相伝なのです。
 大聖人様の教えは、文面上では表記されていなくても「相伝」として今日まで来ていることがあるのです。
 そこが「血脈伝持」の大事大切なところなのです。
 世間での簡単なことさえ100年間変わらず続けて来ることは容易ではないことは周知のとおりです。まして最大大事の正法を700年来、これからも末法万年尽未来際まで完璧に伝えられてゆくのは「日蓮正宗」の「正嫡の血脈」しかありえないのです。

相伝無用という学会員が相伝によって伝えられている御本尊を拝むこと自体が矛盾している事をまず説明してください。
 日蓮正宗は相伝の仏法である。
 時の猊下は大聖人の御名代です。最大の敬意を払うのは当然なのです。

 学会にしても正信会にしてもカメレオンのように教義から勤行に至るまで大聖人様がなされておられた尊い行体から外れてしまっているのは、ただ気の毒としか言いようがありません。
 勝手に思いつきで教義、行体を変えてしまう幹部は大謗法であるのは当然ですが、知らずに言われたとおりにしてる末端の会員も同罪です。一人でも救ってゆきましょう。

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 《日顕宗を斬るを斬る!!》

<血脈相伝の文証>

●唯仏と仏とのみ、乃し能く諸法の実相を究尽したまえり。
(仏が悟った智慧は、ただ仏と仏とのみがよく知り尽くすことができる)
(法華経『方便品』89頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 大聖人の教えは、いかに教学に勝れていても、何十年と信心をしていても、我々が理解し尽くすことはできない。「唯仏と仏とのみ」という境界こそが、大聖人と日興上人の境界であり、その内証が唯授一人の血脈相承によって歴代上人に伝わっているのです。

●日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。
(第2祖日興上人『御本尊七箇相承』/『富士宗学要集』第1巻32頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
後加文ではない。

●日興謹んで之を記し奉りしなり。聖人の言く此の相承は日蓮嫡々一人の口決、唯授一人の秘伝なり。
(『産湯相承書』御書1710頁・全集880頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
後加文ではない。
「嫡々」= 代々、一家の家督を受け継いでいること。正統の血筋。

「嫡々」とあるから、相承が日興上人一代に留まるものでないことは明らか。このように、日興上人へ付嘱された唯授一人の血脈が、歴代上人へ流れていることは明らかである。「代々の聖人悉く日蓮なり」と仰せのように、大聖人の御内証が伝わっている歴代上人の御指南に基づくことは当然です。

●釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。(中略)背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり。
(『身延山付嘱書』御書1675頁・全集1600頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 大聖人は、日興上人に背く者は「非法の衆」だと断定されている。この戒めは、そのまま歴代上人に対してもあてはまることは当然です。

●但し直授結要付属は一人なり、白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為して日蓮が正義悉く以て毛頭程も之れを残さず悉く付属せしめ畢んぬ、上首已下並に末弟等異論無く尽未来際に至るまで予が存日の如く日興嫡嫡付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり。

(『百六箇抄』御書1702頁・全集869頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――
 後加文だが、日亨上人は「義において支語なき所」(『富士宗学要集』第1巻25頁)だとされてる。史伝書その他多くの文献にあたられ、さらに血脈相伝の上から内容に於いて正しいと判断されたから御書にも掲載されたのである。


【御加文に難癖を付ける愚かさ】

 後加文についてはどの御方が付け加えられたかは分かりません。しかし後加文が誰が付け加えたかとか問題ではないのです。なぜならば相伝書であるからです。
相伝書と言うのは、唯授一人ですからその当事者であられる方が御所持なされるものです。故に、後の御法主上人が御相承により口伝されたものを、書き加えられたりしていくものなのです。それが相伝書の相伝書たる所以です。
 現在の学会教宣部は、御加文を平気で否定しています。今の学会員にとって都合が悪いから否定したいのであり、それを隠すために「誰が付け加えたのか分からないものを証拠に出来ないと」と言い張るのです。

●日寛上人
 【六巻抄/当家三衣抄第六】には、
『南無本門弘通の大導師 末法万年の総貫首 南無日興上人師、南無一閻浮提座主伝法日目上人師、 嫡々付法歴代の諸師。此の如き「三宝を一心に之を念じて」唯当に南無妙法蓮華経と唱え乃ち一子を過ぐべし云々、「行者謹んで次第を超越すること勿れ」』
と御指南され、 末法万年の総貫首 嫡々付法歴代の諸師。此の如き「三宝を一心に之を念じて」とし、『行者(僧俗)謹んで次第を超越すること勿れ(邪見・我見に陥るべからず)』と、結ばれています。

 一方だけ(大聖人御書等)を挙げて批判等を繰り返しても、もう一方(日寛上人等)の御文を併読することで、全てが「矛盾」と化します。そこが、創価学会の巧みな「引用切り文術」であり、又同時に最大の矛盾を自らが露呈してしまう原因となるのです。

●日亨上人
「日辰上人・日我上人等古写本に依って之を写し一校を加へ、後加と見ゆる分の中に義に於いて支吾なき所には一線を引き、疑義ある所には二線を引いて読者の注意を促す便とせり』(富士宗学要集1巻25頁)
 もし、御加文は全てが不適当な内容で、“邪義”というならば、何故、創価学会版「御書全集」に未だに掲載されているのか?

創価学会は“邪義”を容認するのか?
創価学会は邪義容認の団体なのか?
甚だしい自己矛盾である。

●日淳上人 
  百六箇抄については香浦氏は「その成立を大聖人の時ではなく後世であるか」の如く評してをるが、(中略)しかし察していへば恐らく同抄の後尾に明らかに大聖人の御時でないことが書かれてをるからそれを理由に言ふのであらうと思ひます。 若しそうであるならばそれは御相伝書の拝し方を知らないのによります。御相伝書は順次相ひ伝へるに従つて加筆があつてもそれは当然です。それが相伝書の相伝書たるところで僞作ででもあるかの如く考へるのは全く書物の読み方も知らないうつけ者です。そんなことでは仏法の筆受相承などのことを談ずる資格は遠くありません。顔を洗つて拝し直すことです。

●池田指導(百六箇抄講義)

本抄には歴代の法主上人が拝読されたおり、一種の「覚え書き」として挿入、付加された部分が織り込まれております。歴代の法主上人が、日蓮大聖人の血脈を受けられ、大聖人の口伝を一点の誤りもなく後代に伝える意味もあって、「百六箇抄」の行間、本抄の前後、各項目の注釈等として書き込まれたものであります。故にこの部分も、私達が大聖人の口伝を体得していくうえにおいて、不可決の記述といえましょう。(中略)百六箇抄の口伝はもとより、代々の法主上人が記述された箇所も、すべて日蓮大聖人の金口として拝していきたいと考えております。

 学会員は唯授一人血脈相承を否定するのであれば、何故にニセとはいえ日寛上人の本尊を拝み、文証には御歴代御法主上人の御書解釈を持ちだし根拠とするのか? その御書解釈はすべて、唯授一人血脈相承によって御相伝されてきたものです。 また、日寛上人は創価学会から出た僧侶でもなければ何でもないのですよ。 
 教義についてもしかり、創価学会はすべて日蓮正宗の教義を盗用し、都合に依っ教義を捻じ曲げ、御歴代御法主上人を否定したり肯定したりしています。
 明らかに矛盾しています。
 日蓮正宗は本門戒壇の大御本尊様と唯授一人血脈相承によって他宗と一線を画しているのです。
 かつての創価学会もそうだったのではないでしょうか?

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 《日顕宗を斬る!!を斬る》
【権実相対の文証に執着する池田学会】

《学会のマニュアル》
 §1-A.敵を攻めるは「御書」に依れ

※□は学会の引用御書 ■はこちらの破折である

□「仏法の邪正をただす事・皆経文をさきとせり」(星名五郎太郎殿御返事 新編364頁 御書1207頁)

■「仏法の邪正をただす事・皆経文をさきとせり、今当世の道俗・貴賎・皆人をあがめて法を用いず、心を師として経によらず」
(通解:仏法の正邪を明らかにするのは、すべて仏の経文を基準としている。しかし、今の世の中の僧侶や俗世間の人々、貴い人も卑しい人も、皆、人を尊敬して、法を根本として見ようとしない。また、自分自身の偏見や先入観でつくられた心を師匠として、仏の経文を根本としない)
※片手落ちのマニュアルである。しかも切り文である。今の学会のことを大聖人様は仰せではないのか?
 学会が「皆経文をさきと」しているならば、「創価学会はこれだけ広まっている」「池田センセーは世界に顕彰されている」と語ることや、選挙の戦いをもって「折伏・法戦」などととらえるはずがない。これこそ「人をあがめて法を用い」ない証拠であり、「人」とは『永遠の指導』たる池田大作のことに他ならない。

□「専ら経文を以って責め申す時」
(善無畏三蔵抄 新編436頁・全集881頁)

■「一代聖教の始末浅深等を弁へざる故に専ら経文を以て責め申す時」
 (通解:(他宗の開祖は)釈尊の御化導の次第・優劣を弁えず、自宗こそ最高であると自慢しているので、専ら経文を用いて破折を加えた)
※これも切り文である。
 そもそも御書を以て正宗を破折しようとすること自体不遜である。「大聖人様の一代聖教の始末浅深等を弁へざる」学会員は、正宗の相伝の教学を都合のいいように盗み取っているに過ぎない。

□「法門をもって邪義を正すべし」
(唱法華題目抄 新編233頁 全集16頁)
※文証を無視し、現証のみにはしるのは天魔外道である

■仏の遺言の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。
(通解:仏の遺言のように権教(仮の教え)を弘めて、真実の教えを最後まで弘めない者は、権教に深く縁を持ち魔に魅入られ通力を使うようになる。但し、仏法は法門によって正邪を決するべきである。利根や通力によってはいけない)
※『文証を無視し、現証のみにはしるのは天魔外道である』これは当たり前の事である。
 また、彼等がここで引く正邪とは、法華経とそれ以外の権教の事である。 あえて、正宗を攻める御文として持ち出すと言うことは、彼等の言いたい法門とは、大聖人の御書らしい。いったい、彼等の言いたい正邪とは何を基準にどのように誰が判断して決めるというのか?
 正宗の教義に利根や通力は無いが、唯授一人の血脈相承を指してそう言いたいのであろうか?
 かつて池田大作が、
「法水写瓶(しゃびょう)の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つも無益であり、功徳はないのである」(広布と人生を語る 八-二二八頁)
と発言していたのは邪義なのだろうか?
 それとも、破門前は正しく、破門後は邪義となってしまったのだろうか?学会諸氏にじっくり聞いてみたいモノだ。

 創価学会のくどくどとして、ただ文証さえ引けばよいというような主張は、要するに、権実相対(法華経とそれ以外のお経を比べ法華経が勝れていることを顕す)の範疇の道理、文証をもって、大聖人の甚深の血脈口伝を同一に論じ、法義の所対(何について法を説かれているのか)を混乱する暴論・邪論であります。
 創価学会の引くこれらの大聖人のお言葉は、すべて権実相対に限っています。故に「経文根本という原則」が大聖人の御法門の如く言うけれども、大聖人の正意の御法門では、経文根本という執着を、かえって否定されていることを知らないのでしょうか。

●「一念三千の法門は、但、法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」
(『開目抄』新編526頁・全集189頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 いわゆる文底の御指南であります。すなわち、一代経の文に執(とら)われず、法華経を基準とせよ(「一念三千の法門は但法華経」権実相対)。迹門の文に執われず、本門を基準とせよ(「但本門寿量品」本迹相対)。本門の文に執われず、文底の意を拝せよ(「但文の底にしづめたり」種脱相対)と、明らかに仰せです。これでもなお「経文だ、経文だ」と言う者こそ、大聖人の御正意の法門に暗い謗法者であります。

●追て申す、竜樹・天親は共に千部の論師なり、但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまわず〔此に口伝有り〕
(『法華行者値難事』新編720頁・全集965頁)

●問うて曰く要法の経文如何、答えて曰く口伝を以て之を伝えん      (『曽谷入道殿許御書』新編785頁・全集1033頁)
―――――――――――――――――――――――――――――――――

 大聖人御自身、時に随い、機に応じて、本迹、種脱等の内容にかかる御指南を、口伝をもってなされていることも事実であります。したがって、御自身の文底の義をこれらの文(学会が引用してきた御文)によって否定されたなどの莫迦げたことは、全く存在しません。
 そして、この文底の意より、大聖人の口伝、すなわち『御義口伝』等が述べられているではありませんか。かえって、大聖人が御自身の法門の口伝をもって正義を顕されていることが明らかです。この口伝法門のさらに精髄・肝要が、日興上人、日目上人、日道上人と続く、歴代上人への相伝であるのです。故に『御義口伝』に、明瞭にその趣意が記されているではないですか。
●秘す可し秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず。
(『御義口伝』新編1796頁・全集783頁)
文上に対する文底、すなわち、下種仏法の肝要の口伝法門は、まさに『開目抄』という御文に依るのであり、御書に基づくものであります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』36頁~)


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 《日顕宗を斬る!!を斬る》


《学会のマニュアル》


・法主の言葉は人師・論師の釈である。御書でセットで示させるべし

・口伝はいけない(御義口伝は僧宝日興上人であるためよしとする)

《破 折》
 御法主上人を人師・論師とかたづける事自体、不遜である。
 当然、末法の御本仏は大聖人様お一人である。しかし、御歴代上人は、大聖人より御内証を受け継がれた尊極の存在なのである。
 日蓮大聖人を御本仏と仰ぎ奉る以上、結局は学会も日蓮正宗の教義に従い、御法主上人猊下に教えを乞わなければ成り立たないのだ。
 よって、現在ですら、教義面では日蓮正宗の御歴代上人様の御指南を引用し、さらには総本山第二十六世日寛上人様の御本尊を変造してニセ本尊を製造・販売したり、教義と本尊を盗まなければ信仰が成り立たない有り様である。
 口伝はいけないと言いうが、彼等は仏法の基本すら分かっていない。
 そもそも、仏典自体が、文字のない時代の口伝を基に作成された。このような歴史的経過から考えても、仏教が口伝を否定するはずがない。
 また、学会は付嘱を受けた正統な弟子による口伝と、付嘱のない者の口伝を同列に扱い、非難してくるが見苦しい限りである。
 また、大聖人様は、
 此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥(たし)かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、今日蓮が所行は霊鷲山の禀承(ぼんじょう =受け継ぐ)に芥爾(けに)計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。
(『三大秘法禀承事』新編1595・全集1023頁)

と仰せである。
 即ち、上行菩薩(大聖人様)への結要付属自体が口伝だったのである。その口決相承に基づいて説かれたのが御書である。
 御義口伝は認めると言うが、本因妙抄、百六箇抄等はどうなのか?
 その取捨選択は、学会幹部が会議室ででも話し合って決めているようだが、何様のつもりなのだろう?


《過去の牧口常三郎・戸田城聖・池田大作の指導》

■初代会長の信心
 釈尊出世の本懐としての法華経を、今日において我々が理解するには、その予証どおりに出現して、これを実生活に証明された日蓮大聖人を信じ奉り、説のごとく実践躬行(きゅうこう)して価値を体験し、証得する以外に途(みち)はない。それをするためには、唯一の正統たる日興上人門流として、61世を重ねつゝある日蓮正宗の総本山大石寺の教義に従って、忠実純真に、三大秘法、すなわち法華本門の本尊に、法華本門の戒壇において、法華本門の題目を唱え奉る外には絶対にない。(略) 正法は正師につくにあらざれば、証得し能(あた)わぬとはこの意味である
(『牧口常三郎全集』第8巻69頁)

※この中の「正師」とは、すなわち第二祖日興上人と歴代の御法主上人である。学会ではこの「正師」とは日興上人のみである、と反論するのだろうが、牧口会長は「日興上人門流」と述べたのち「61世を重ねつゝ」と言っており、これが日興上人以来の歴代を指すことは明らかである。しかも、歴代上人によって伝えられる大石寺の教えに従って三大秘法を持つ以外に、法華経を理解する方法は絶対にない、と述べているのである。 この牧口会長の指導からすれば、今の創価学会は、絶対に法華経および大聖人の御意を知ることはできないことになる。

■御登山について
「なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉御供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。」
(『戸田城聖全集』第3巻490頁)

■猊座の御事
「先代牧口先生当時から、学会は猊座(げいざ)のことには一切関知せぬ大精神でとおしてきたし、今後も、この精神で一貫する。これを破るものは、たとえ大幹部といえども、即座に除名する。信者の精神はそうでなければならない」
(『戸田城聖全集』第3巻235頁)

■信徒の姿勢
「私のいうことを忘れずにいてほしいのは、信心を基調にして、折伏することと、お寺を大事にすることと、御本山へ尽くすことは当たり前のことなんだからね。それが自慢のようになっては、もう、信者としては資格がない」(『戸田城聖全集』第4巻237頁)

■法水写瓶 
「法水写瓶(ほっすいしゃびょう)というのは、ここに二つの茶碗が、どんな形に変わっても、このなかの水をうつせば中の水は変わらないのであります。ですから、代々の御法主上人は、お人によって、いろいろとお姿は違うのでありますが、日蓮大聖人の法水が、そのまま変わりなく移されているのであります」
(『戸田城聖全集』第5巻439頁)

■政治・文化活動
「文化活動というものは、広宣流布の大構想からみれば、それは子供のオモチャのようなものである。(中略)それが広宣流布のための本格的な闘争であると思ったら大まちがいです。そう思われたら困る。(中略)政治のための政治ではない。だから自由党で立ちたかったら自由党、社会党ならば社会党、共産党で立ちたかったら共産党で立てばいい。その人の主義、政党には、私は干渉しない。胸の奥底に広宣流布をしまっておけば、何党でもさしつかえない」
(『戸田城聖全集』第4巻275頁)

■唯授一人の血脈相承は命脈中の命脈
「宗祖日蓮大聖人の御内証(ごないしょう)を二祖日興上人を経て、代々の御法主上人猊下(ごほっすしょうにんげいか)に法水瀉瓶(ほっすいしゃびょう)して末法万年の未来へ誤りなく伝承する金口嫡々(こんくちゃくちゃく)・唯授一人(ゆいじゅいちにん)の血脈相承(けちみゃくそうじょう)。これこそ、戒壇(かいだん)の大御本尊とともに、日蓮正宗の教義、信仰の根本中の根本であり、命脈中の命脈である。このことは、日蓮正宗の信徒であるならば、だれでも知っていることである」
(池田大作『創価新報』昭和58年4月20日付)

■御法主上人に随順
「血脈相承の御法主上人に随順(ずいじゅん)しゆくことこそ、僧俗の正しいあり方である。この一点を誤れば、すべてが狂ってくる。」
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻32頁)

■血脈否定は狂気の沙汰
「日顕上人は、54年7月22日の日達上人の御遷化(ごせんげ)にともない、第六十七世法主・管長に就任。以来一年半にわたって、彼ら(正信会)も日顕上人を法主と仰いでいたのである。また、彼ら自身、かっては法主の地位や血脈相承についてうんぬんすることは甚(はなは)だしい謗法である、と明言していた。 こうした経過からも明らかなように、彼らの訴えは要するに、自分達の思い通りにならない日顕上人を法主(ほっす)の座から追い落とそうとした、タメにするものに他ならない。いかにタメにするものとはいえ、御法主上人の血脈を否定し、あまつさえ裁判に訴えるなど、日蓮正宗の仏飯をはんだ者には、およそ考えられない所業であり、狂気の沙汰としか言いようがない」
(池田大作『創価新報』昭和60年12月4日付)

■仏法の正しき流れ
「ご存知のとおり、私どもは日蓮大聖人の仏法を奉ずる信徒である。その大聖人の仏法は、第二祖日興上人、第三祖日目上人、第四祖日道上人、および御歴代上人、そして現在は第六十七世御法主であられる日顕上人猊下まで、法灯連綿と血脈相承されている。ゆえに日顕上人猊下の御指南を仰ぐべきなのである。この一貫した仏法の正しき流れを、いささかなりともたがえてはならない」
(池田大作『広布と人生を語る』第3巻249頁)

■法水写瓶の血脈相承にのっとった信心
「日蓮宗身延派にあっても、南無妙法蓮華経の題目を唱えている。御書もある。経文も、法華経の方便品、寿量品等を読経している。また、もと正宗の僧侶であった『正信会』も、御法主上人の認(したた)められた御本尊を拝しているし、読む経文も唱える題目も、われわれと同じである。外見から見ればわれわれと同じように見えるが、それらには唯授一人(ゆいじゅいちにん)・法水写瓶(ほっすいしゃびょう)の血脈(けちみゃく)がない。法水写瓶の血脈相承にのっとった信心でなければ、いかなる御本尊を持つとも無益(むやく)であり、功徳はないのである。」
(池田大作『広布と人生を語る』第8巻228頁)

■御法主上人猊下様は遣使還告
「御法主上人猊下様は遣使還告(けんしげんごう)で、日蓮大聖人様と拝し奉るのです。このことは信心のうえからはっきりしたものです」
(池田大作『巻頭言・講義集』第3巻184頁)


【昔の学会教学】
◆その血脈は、唯授一人血脈付法の代々の御法主上人が伝持されるところである。『一代聖教大意』に「此の経は相伝に有らざれば知り難し」と仰せられ、日寛上人が『観心本尊抄文段』で「故に当抄に於て重々の相伝あり(中略)甚深奥旨(おうし)、宗門の淵底(えんでい)は唯(ただ)我が家の相伝にして諸門流の知らざる所なり」と記されているように、大聖人の御正意を拝するためには、御相伝による深義によらなければならないのである(御書講義録『生死一大事血脈抄』)

◆[経巻相承]=経典に依拠するのは仏教の基本であり、経巻を読んで仏の教えを学ぶことはだれでも同じで、特に相承を受けたなどと主張する必要はない。経巻から思い思いに学んでいくうちにいろいろの解釈や主張の乱れを生ずるので、単なる経巻相承では新たな分立諍論の基となる。そこで仏の真意をそのまま伝承する血脈相承、師資相承が必要なのである。仏教においては究極の法体はすべて血脈相承、師資相承される。
(『新版仏教哲学大辞典』初版313頁)

◆[相伝]=(「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(全集398頁)について)日蓮大聖人の法門は、不相伝の徒輩には知ることができないのである。
(『新版仏教哲学大辞典』初版1149頁)

□は学会 ■は日顕上人御指南

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仏教には、経論にはなれたるをば外道という。
(『蓮盛抄』全集152頁)

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したがって、経文に明確に書かれていることに対して、歴代法主も含めて後世のどんなに立派そうな人がそれと異なることを言っても絶対に信じてはなりません。

■教外別伝の禅宗破折の文であります。臆面もなく、こういう所対の異なる文をもって歪曲の解釈を構え、宗祖以来の血脈に基づく歴代法主の御指南を否定する池田らの輩こそ、まさしく『聖愚問答抄』の、「正理を以て前とすべし」との大聖人の教えに背く仏敵であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

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仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ
(『開目抄』御書558、全集219頁
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この文は伝教大師の『法華秀句』下の、無問自説果分勝三の結語中の文で、釈尊滅後、有見・空見に執着する者に対し、その歴劫修行等に関する人師の口伝を法華の大直道で打ち破ったあと、天台の釈する法華経の正義の大切なことを述べた文であります。要するに権実相対の文なのです。

 大聖人もまた、華厳、法相、三論、真言の法華に背く例証として伝教のこの文を挙げられたのであり、意は全く権実相対にあります。それを、大聖人の文底法門の奥旨における口伝法門と同一にすべき構格ではありません。こういうのを「乱引」と言い、全く見当違いの文証なのであります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』114頁


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仏法は強ちに人の貴賎にはよるべからず只経文を先とすべし身の賎しきをもつて其の法を軽んずる事なかれ。
(『聖愚問答抄』全集481頁

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したがって、法華講員の方々は歴代法主の言葉を引用する場合は、併せて「経文(御書)にもこう書いてある」と示さなければならないのです。


■仏法の正義を示す論証の方法は、経文、御書と歴代法主の言を一々に並べて引くという形式に囚われることが正しいのではなく、その文理が正しく、論旨の浅深・勝劣の趣意が明確であることが大切であります。権実相対に示された文をもって全く場違いの証明に当てることは、法理から言うも、許すべからざることであります。

(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

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設い慈覚・伝教大師に値い奉りて習い伝えたりとも智証・義真和尚に口決せりといふとも伝教・義真の正文に相違せばあに不審を加えざらん。
(『報恩抄』全集307頁)

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これは、口伝と文献の優劣を判じたものではない。伝教・義真の正しい法門と、慈覚・智証の邪義を対比されたものであり、既に伝教・義真の正しい指南が正文として残っているのであるから、それに従え、ということ。当然、権実相対の文。

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師の口より伝うる人必ずあやまりなく後にたづね・あきらめたる人をろそかならば経文をすてて四依の菩薩につくべきか、父母の譲り状をすてて口伝を用ゆべきか、伝教大師の御釈無用なり慈覚大師の口伝真実なるべきか。
(『妙一女御返事』全集1258頁)

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慈覚と伝教大師の、真言と法華の関係の正義を論じ給う権実の上の文であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す
』)

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かくの如きの上人を豈に邪見の人と云うべきや、答えて云く此の事本より私の語を以て是を難ずべからず経文を先として是をただすべきなり。
(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)

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これほど繰り返して大聖人が御指南されていることを守らない者は、まさに天魔であると断言しても良いでしょう。

■「上人」とは、弘法大師、善導和尚、法然上人を前文に挙げられ、それぞれ金剛薩?(こんごうさった)、阿弥陀如来、大勢至菩薩の化身と崇められている人が邪見なるや、との問いに対し、「経文を先として是をただすべきなり」との指南であり、この「経文」とは何の経文か知っているのでしょうか。これは、すべて権実相対の重であり、(※爾前権経に依るのではなく)法華経の経文を先として糾(ただ)すべしという趣意なのです。また、御書中にその例が多いのは、当時の権実雑乱が数多い状況より当然であります。「これほど繰り返して大聖人が御指南・・・」などの浮言は、その本来の法門の所対を忘れた低見に過ぎません。この文の「上人」とは、まさしく真言、念仏等の祖師であり、日蓮正宗の歴代法主とは全然、異なっているにもかかわらず、この語をもって「上人」とは正宗の法主のごとく重ね合わせ、なんら具体的事実を挙げず、無智の者をだまそうとする奸計は、許しがたい卑劣者であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

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◆若し証拠なくんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構へ申す間・邪教とは申すなり
(『祈祷抄』全集1355頁)

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真言宗を破折した権実相対の文。下種仏法の血脈相伝を否定する文証とならないことは当然。

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仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり
(『行敏訴状御会通』全集181頁

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この文を引用すると「それは禅宗を破折しているだけだ」と、思いつきの愚かな言い逃れをする者がいますが、それでは大聖人が「禅宗の教外別伝はダメだが、我が正法では教外別伝は許されるのだ」とでも言われているというのでしょうか?

これは、まさに、禅宗の教外別伝を破する文であります。それも涅槃経の取意の文です。「思いつき」でも「愚か」でもなく、まさしく禅宗破折の文そのもので、それ以外ではありません。すなわち、法門で言いえば権実相対であり、この経の文をもって下種仏法に当てはめるなら、その明確な証拠を出しなさい。(中略)そもそも、この文を下種仏法に短絡すること自体、法門の段階・筋道も弁えぬ愚かな者どもではありませんか。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す
』)

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依法不依人と説かせ給いて候へば、経の如くに説かざるを何にいみじき人なりともご信用あるべからず候か。
(『唱法華題目抄』全集9頁)

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この「法」とは、外道に対すれば内道たる一代仏教であります。また、爾前権経に対すれば法華経であり、迹門に対すれば本門であり、文上に対すれば文底深秘の妙法蓮華経であります。さらに、宗教に対すれば宗旨の三大秘法であり、これは相伝によって万代に伝承される歴代上人伝承の法体であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す
』)

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所詮・仏法を修行せんには人の言を用う可らず只仰いで仏の金言をまほるべきなり。
(『如説修行抄』全集502頁)

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この御文の前後始終は、すべて権実相対の趣旨で、この、「人の言を用う可らず」とは、権経をもって実経に背く謗法の人師の言を破されているのであります(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)。

 つまり、「人の言」とは権実相対を弁えない人のことである。もしこれを、文底下種仏法の立場より解釈するならば、「人」とは、種脱相対、下種仏法の真義を知らない不相伝の者となる。

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経に云く「法に依つて人に依らざれ義に依つて語に依らざれ知に依つて識に依らざれ了義経に依つて不了義経に依らざれ」文、此の文の心は菩薩・人師の言には依るべからず。(『法華初心成仏抄』544頁)

※「依法不依人」とは、仏の説いた法そのものをよりどころとして、人によってはならないということです。仏法の勝劣浅深(せんじん)の判定は、釈尊が説いた経文を根本とすべきであり、他の人師・論師の所説を用(もち)いてはなりません。

 末法においては、大聖人が説かれた御書を根本とすることが大切です。しかし、『日興(にっこう)遺誡置文(ゆいかいおきもん)』に、

「当(とう)門流に於(おい)ては御抄(ごしょう)を心肝(しんかん)に染(そ)め極理(ごくり)を師伝(しでん)して」(御書 一八八四頁)

とあるように、下種の妙法の極理は、御書を心肝に染め、血脈(けちみゃく)相伝(そうでん)の指南を拝することによって正しく信解(しんげ)することができるのです。したがって、血脈への信順こそ「依法(えほう)」の姿と言えましょう。

「依義不依語」とは、仏説の実義・真義をよりどころとして、経文の表面上の語句(ごく)にとらわれてはならないということです。

 大聖人の仏法にあっては、御書の語句の表面的意味にとらわれるのではなく、血脈相伝の深義・意義をよりどころとして御書を拝すべきです。

「依智不依識」とは、仏の真の智慧をよりどころとして、人の浅い知識によってはならないということです。

 大聖人の御仏意(ごぶっち)を信じ、血脈付法(ふほう)の御法主上人の御指南に信伏(しんぷく)随従(ずいじゅう)していくことが大切であり、己(おのれ)の我見や浅識(せんしき)によって仏の教えを推(お)し量(はか)ってはなりません。

「依了義経不依不了義経」とは、仏の真実の経をよりどころとして、方便の諸経をよりどころとしてはならないということです。

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■涅槃経の法の四依を説き給うなかの一文で、これも文の前後は全く権実相対の趣旨であります。その義からは、宗門の血脈とは全く次元の異なる筋違いの盲引です。

もし、この文を依義判文すれば、大聖人の御書の正義は、古来の宗門の伝承法義に厳然たるものであり、創価宗も、かつてはそれを受けてきたのです。しかるに今、本仏日蓮大聖人のお定めに背き、他宗他門に擦り寄り、正系の血脈を否定するにいたっています。つまり、この文の破折に当たるのは、まさに創価学会なのであります。

(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

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仏法の邪正をただす事・皆経文を先とせり、今当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず心を師として経によらず。
(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)

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■「当世の道俗・貴賎皆人をあがめて法を用いず」とは、まさに創価学会員が池田を崇めて、本門戒壇の大御本尊に参詣しないことを指摘されている文ではありませんか。また、「心を師として経によらず」の文も、自らの立場のみを正しいと執着する我見・偏見の心により、宗門700年の道理、文証、現証に背いて、クルクル猫の目のように変わる池田らの言に明らかな、創価学会の非を示される文であります。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

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問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり。
(『撰時抄』全集259頁)

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法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され、経文という、文字によって誰にでも確認できる教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だと御指南されているのです。

■経文と天台等の釈との重要性を比較せられ、経が釈より重いことを言われたものであります。しかし、これは大聖人が「釈を捨てよ」と仰せられた文ではありません。そう取るのは、まさしく切り文であります。質問者が釈の所在を尋ねたのに対し、釈より経が元であり、大切であると注意された所であります。故に、経が根本であることを寸示されたあと、天台、妙楽、伝教の釈を引かれて、重ねて経の趣意を述べられているではありませんか。従って、大聖人は正しい釈を少しも否定されてはいないのであります。

 ところが、この文をそっくりそのまま悪用して「法主とか特別の人間に対する口伝さえも大聖人は明らかに否定され・・・」などと言っているのは、まさに趣意のスリ替えであり、捏造の代物であります。

 日蓮正宗においては、法華経と宗祖大聖人、日興上人の教えを素直に拝して、その相伝に基づいて、歴代上人がそれぞれの時に応じて教えを垂れておられるのです。本宗における血脈相伝の大事は、天台、妙楽、伝教等の釈などとは、全く異なったものなのです。

 また、仏法は難信難解であります。大智・舍利弗すら、なお信をもって入るといいます。しかるの彼等の「経文という、文字によって誰にでも確認できる教えのみを認めるのが正しい仏法の大原則だ」などの主張は、まさに仏法の深意を蔑(ないがし)ろにする摧尊入卑の偏見です。
(第67世日顕上人『創価学会の仏法破壊の邪難を粉砕す』)

 学会は権実相対以下の文証をもって口伝・人師の解釈などを否定しているが、真実の相伝(結要付属)を知らない者にとっては、御書もまた、経文に対する"人師の解釈"に過ぎない。邪師の邪義(誤った相伝・口伝・解釈)に基づいて、権実相対にさえ迷っている者に対しては、まず「経文を先として」(『星名五郎太郎殿御返事』全集1207頁)正しい経文解釈を示し、権実相対→本迹相対と導くほかないのである(依法不依人)。しかして、釈尊の正統仏法が結要付属によって上行菩薩(大聖人)に付嘱されていることを知ってはじめて、末法適時の正師たる大聖人の御書(塔中相承に基づく)を根本として経文を拝するのである(依義判文)

 しかしながら、大聖人の御書といえども、宗旨建立乃至宗門草創期であるため、ほとんどは、権実相対、本迹相対の経文解釈が中心である。そのために日興上人への付嘱を知ってしかもこれを軽視した者は、日興上人の御指南を通して大聖人の御書を拝することができず、それがために御書を拝しながら、大聖人の真意に到達できず、真実の種脱相対に迷ったのである。

 日興上人への付嘱・血脈を重視する者は、日興上人の御指南(相伝・口伝に基づく)を通して御書を拝するが故に、正しく大聖人の法門を知ることができるのである。

 日興上人の御指南もまた、その時代にしか適用されない化儀・法門もある。だから、日興上人滅後においては、正しい付嘱を受けられた日目上人の御指南を通して御書や日興上人の御指南を正しく拝することができる。以下同様である。
 大聖人が仰せの「依法不依人」について、

「依法不依人」とは、邪宗の人師の思想に執着し、経文(とくに法華経)を無視する人に正依を示すことだといえよう。もし「依法不依人」を文底下種仏法の立場から用いるならば、正しい相伝の内容も「法」に含まれる、と考えるべきでしょう。

正依といっても化導の時期、対告衆の機根、周囲の状況などによって様々な指南があり、矛盾もある。「依法不依人」といっても、経文や御書の文言だけみて、それがそのまま仏の真意を示すものとは限らない。それらを矛盾なく、総合的に正しく把握することは相伝による。

此の経は相伝に有らざれば知り難し。
(『一代聖教大意』全集398頁)

さらに、経文にも誤訳あり、釈にも誤伝あり。天台大師の伝と雖も、誤伝なきにしもあらず。しかし、天台大師は薬王菩薩の再誕であり、総付嘱を受けた方であるから、天台大師が生きておられたなら、無条件にその言葉を信じるべきである。大聖人の御書や宗門歴代上人の御指南もしかり。

書は言を尽さず言は心を尽さず事事見参の時を期せん
(『太田入道殿御返事』全集1012頁)

天台大師が一切経を正しく体系化できたのは、釈尊からの総付嘱による。大聖人が下種仏法の立場から経文を解釈し、御書を表されたのは結要付属によるのである。「依法不依人」とは、血脈相承を知らない者に正しい血脈相承の所在を教え、正法正師に帰依させるための法門である。付嘱の当所が定まったならば、付嘱を受けられた方の指南を中心にして文証を解釈すべきなのである。

大聖人の法門は御書がすべてではない。その振る舞い(化儀)や、相伝も合わせて大聖人の法門なのである。それを正しく伝えられているのが、血脈付法の方なのである。

『義理は化法なり、大道理なり・化儀は設けられたる信条なり、諸法度なり御開山の廿六箇条又は当化儀条目の如し又は其時々々に師より弟子檀那に訓諭せし不文の信条もあるべし』
(第59世日亨上人『有師化儀抄註解』/『富士宗学要集』第1巻151頁)

経典や御書は歴史的に減ることはあっても増えることはない。さらに文字は固定化したものであり、仮にそれによって原理原則が正しく理解されたとしても、我々の直面する現実世界は無限に展開される。

無限に展開される個々の具体的状況に即した原理原則の具体的適用(四悉檀、随方毘尼、化儀や法門解釈その他の具体的対応)は、大聖人と一体の智慧・境界においてはじめてなされることである。

そこに、相伝付嘱が直授相承の口伝によって代々の正師に内証相伝される必然性がある。だから、経文や御書だけでなく、歴代先師の文証も、時の正師(御法主上人)の直接の御指南を通して、その時代に適合した正しい解釈ができるのである。

そもそも、釈尊自身、直接経文を書かれた訳ではない。弟子から弟子への口伝を後世の者が、文字に表したのである。そして、法華経をはじめとする大乗経典は、現実離れした譬喩が多用されているが、その中でも虚空会の儀式などは、釈尊自身と弟子までもが、"現実離れした譬喩"の中に登場する。 このことから考えても、釈尊の説法を言葉通りに反訳したものではないことは明らかである。
 つまり、正しい付嘱を受けた弟子が、釈尊の説いた大乗の法門を"意訳"して、大乗経典として書き表したのである。このような、仏典自体の成立の歴史から考えても、仏教として口伝を否定することはあり得ない。むしろ、付法の弟子の相伝・口伝によって成立したのが仏典なのである。
 このことは、末法の正依たる御書が、塔中における相伝・口伝に基づいて書き表されたことと規を一にする。

学会の御指南であそばされるか?
 学会員には堂々と答えて戴きたいものです。


   
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