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 仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し
 
   三世の生命観と寒苦鳥  
   
【一眼の亀の喩えが教える会い難き正法】 
 日蓮正宗の信仰する上で大事な、三世にわたる生命観ということについて、少々お話を申し上げたいと思います。 
 日蓮大聖人の御書には、私たちがこの世の中に人間として生まれたことは非常に稀であり、その上あらゆる教法の根源を説かれた南妙法蓮華経の三大秘法の仏法にめぐり値えるということは、さらに稀であると説かれています。
「人身は得難く、天上の糸筋の海底の針に貫けるよりも希に、仏法は聞き難くして、一眼の亀の浮木に遇ふよりも難し。今既に得難き人界に生をうけ、値ひ難き仏教を見聞しつ、今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき。」 (聖愚問答抄 御書402頁)
 ここにある一眼の亀について、大聖人様は 『松野殿後家尼御返事』にて、更に詳しく説かれています。
「釈尊は、衆生が法華経に値い難いことを、一眼の亀が赤栴檀の浮木の穴に値うことがむずかしいことに譬えられている。
 大海の八万由旬という底に、亀という大魚がいた。その亀は手足もなく、ヒレもなく、腹の熱いことは鉄を焼いたようで、背中の甲羅の寒いことは雪山にも似ている。この亀が昼夜朝暮願い、時々刻々口ぐせのように言っていることは、この熱い腹を冷やし、寒い甲羅を暖めたいということであった。
 赤栴檀という木は聖木と名づける。人間の中の聖人のようなものである。これに対して他の一切の木を凡木といい、愚人のようなものである。この赤栴檀の木は、この亀の腹を冷やす木であり、亀はなんとかしてこの赤栴檀の木にのぼって腹をその穴に入れて冷やし、甲羅を天の日にあてて暖めたいと願っていた。
 しかし、自然の法理として、千年に一度、八万由旬の海底から出る亀なのである。例え海底から現われたとしても、この木に値うことはむずかしい。大海は果てしなく広く、亀は小さい。しかも浮木は稀である。たとえ他の浮木に値うことはあっても、栴檀の浮木には値わない。値ったとしても、亀の腹の大きさに合わせて彫ったような適当な大きさの穴がある浮木に値うことは困難である。 
 たとえ不思議にも、栴檀の浮木の穴にたまたま巡り値ったとしても、亀は一眼のひが目であるために、浮木が西に流れるのを東と見誤り、急いで乗ろうと思って泳げば、ますます遠ざかってしまう。 
このように無量無辺劫の長い間かかっても、一眼の亀が栴檀の浮木に値いがたいことを釈尊は説かれている。
 釈尊はこの喩えをもって、衆生が法華経に値いがたいことに譬えている。たとえ法華経に値っても、唱えることのむずかしい題目の妙法の穴に値いがたいことを心得なければならない。ここでは大海を生死の苦しみの大海に譬え、亀を我等衆生に譬えたのである。
亀の手足が無いのは、善根が我らの身に備わっていないことに譬え、腹が熱いのは我らの怒りの八熱地獄に譬え、背中の甲羅が寒いのは、我らの貧欲の八寒地獄に譬えたのである。亀が千年の間大海の底にいるとは、我らが三悪道に堕ちて長く浮かび上がることができない姿に譬え、千年に一度浮かぶとは、三悪道から無量劫に一度人間に生まれても、仏の出世に値いがたいことに譬えている。
 栴檀以外の松や檜の浮木には値いやすいが、栴檀の浮木には値いがたいとは、法華経以外の一切経には値いやすく、法華経には値いがたいことに譬えたのである。たとえ栴檀には値っても、適当な大きさの穴に値いがたいことは、たとえ法華経には値っても、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の五字を唱えることのむずかしいことに譬えたのである。
 一眼の亀が東を西と見・北を南と見るということは、我ら衆生が賢明そうな顔をし、智慧ある者のように振舞っても、勝を劣と思い、劣を勝と思うようなものである。
 成仏の利益のない法を利益ある法と見て、衆生の機根に適していない法を適している法であるという。真言は勝れ、法華経は劣るといい、真言は衆生の機根に適し、法華経は機根に適していないと見るのはこれである。」(御書1354頁・趣意)
 我々がせっかく人間として生まれてきても、正法に値って、仏道修行が出来るということは非常に難しく稀であるという譬えなのです。

【三世の生命観】 
 このように、仏法の生命観では、我々衆生が久遠の昔から生死を止めどもなく繰り返しているということを前提に、教えが説かれています。これを三世にわたる生命観と申します。 
 『撰時抄』には、「三世を知るを聖人という」とありますが、三世とは過去・現在・未来のことで、これを達観された方が聖人すなわち仏様なのです。そして法華経こそは、三世にわたる常住の生命を、仏様の命に則して正しく説き示された経典です。
『太田左衛門尉御返事』には、 
「寿量品と申すは(中略)三世の諸仏の説法の儀式の大要なり」(御書1223頁)
と仰せられています。「三世の諸仏の説法の儀式」とは、三世に出現するすべての仏様が、爾前経を説いた後に出世の本懐として法華経を説かれたということで、すなわち法華経の肝要である寿量品が、三世にわたる仏様の本懐、教えの大要であることを意味しています。 このように三世にわたる生命観と申しましても、科学的にものごとを考えることに慣れてしまった現代人には、なかなか理解しにくいかもしれません。中には「そういうことをどうやって証明するんだ」という方があるかもしれませんが、しかし、私たちが世の中で学んだり、体験してきた事というのはごく限られた範囲の、僅かなことでしかないということです。 
 現代は科学の非常に進んだ世の中ですが、細胞や原子というミクロの世界でもまだまだわかっていないことはたくさんあり、マクロの世界である宇宙の本当の姿もすべて解明されているわけでもありません。自分たちの経験や認識についても、まだ知らないことに関しては、謙虚に受け止めていくことが大切ではないでしょうか。 
 ある小学生の話ですが、先生が「雪が溶けたら何になるか」という問題を児童に出したそうです。子どもたちの中からは、何と「春になる」という答えが出たというのですから、面白いではありませんか。大人であれば、おそらく「水になる」と答えたでしょう。二つの答えのうち、どちらが正しいというわけではなく、どちらでも正解には違いないのですが、しかし子どもの考えた「春になる」という答えの方が、情緒的で素晴らしいと思います。   
 しかし、この問いに対する答えは他にも考えられます。「雪が溶けると何になるか」「それは雪である」という答えもあります。「雪が溶けても雪である」というのは一体どういう事か?
 これは至って仏教的な答えなのです。なぜかと言えば、仏教では空仮中の三諦からものごとを捉えます。そういう見方からしますと、雪と言って指していた物質は、本質としては溶けようが溶けまいが少しも変わっていません。大気中の水分が凍って空から降ってくる物質を雪と言いますが、溶けて水になろうが、暖められて水蒸気になろうが、それらは因縁によって仮に姿を現しているにすぎません。このように仮の姿をそのまま眺める立場を仮諦と言います。 
 水が冷やされたり、暖められたりと様々な姿に変化はしても、その本質は何れ消えて無くなってしまうものであるという、その性質を捉えた場合には、空諦と言います。どんな物質でも本来空であって変わりは無いということです。しかし空と言っても、実際雪が溶けて水に変わったりする姿が見られるし、まったく空と言うわけでもない。すると仮諦でも無く空諦でもないところで、中諦(中道)という見方があるではないか。このようにものごとを見るにも三通りの見方があると説くのが空仮中の三諦です。そこから「雪が溶けても雪である」という答えも出てくるのです。
 仏教では因果の理法が基本になってものごとを捉えています。善因善果、悪因悪果という法則があることは多くの方が納得できるでしょう。
 これを三世にわたる生命観に当てはめれば、過去世の業因によって今世にその吉凶・禍福等の様々な果報を受けます。また現世の行ないが業因となって、未来世において受ける果報も決まります。ただ因果の間に縁が作用することによって、果報は必ずしも定まったものでないことも確かです。宿業論から言うと、人は生まれながらにして大きな荷物を背負っています。
 例えば世界中の赤ちゃんを見てもその境遇は様々で、戦争のただ中に生まれる人、飢餓の世の中に栄養失調で生まれる人、富豪の家に不自由なく生まれる人、また生来不遇な体で生まれてこなくてはならない人もいます。人生の出発点からして平等ではありません。こういう違いはどのように説明すれば良いのでしょうか?
 偶然だとか神の意志だとか考える人がいるかもしれませんが、やはり仏法の因果の理法をもとにした宿業論によって考えていかなくてはなりません。過去世における行い(行業)に違いがあるからこそ、現世に生を受けた時からそれぞれが不平等であり、違いがあるということなのです。過去と現在がそうした関係でつながっていれば、それはそのまま現在と未来もつながっていると考えることができます。すなわち三世を貫く生命の実相が理解できると思います。 
 このように説く宿業論も、他の教えでは説かれないことですが、大聖人の仏法を信行し、御書を拝読していけば、知らず知らずのうちに実感として体得できます。 

【真の有意義な人生とは】
 そこで大切なことは、私たちは今、現在をどのように生きれば、未来世へ向けての良き財産を築くことが出来るかということです。良き財産と言ってもこれは富や権力などの、現世にだけ通用するものではありません。またそうしたものを得る為には、人間の尽きることのない欲が必ず関わってきます。欲の赴くまま富や権力を得ることは仏法では厳しく誡められています。 
 では良き財産とは一体何なのか?
 それはそれぞれ今生に与えられた命を、値い難き正しい仏法の教えにのっとって振る舞い、功徳善根を積む行業のことで、そうしてこそ真の有意義な人生も築くことができるのです。 
 日蓮大聖人は雪山の寒苦鳥の話を『新池御書』に次のように仰せられています。 
「雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて、夜明けなば栖つくらんと鳴くといへども、日出でぬれば朝日のあたゝかなるに眠り忘れて、又栖をつくらずして一生虚しく鳴くことをう。一切生も亦復是くの如し」(御書1457頁)
 雪山とはヒマラヤのことです。昔、インドの雪深いヒマラヤに鳥の夫婦が住んでいました。昼は太陽の光が当たるので雪山でも暖かくなり、鳥たちは陽気に浮かれて、のんきに歌を歌って遊んでいます。しかし夜になると雪山は厳しい寒さになり、鳥たちは、昼間、遊びほうけたことをとても後悔します。
 雌は「寒くて死んでしまう」と泣き叫びます。雄は「夜が明けたら、巣を作ろう」と固く決心し、雌をなだめます。しかし、夜が明けて暖かくなると、その苦しさをすっかり忘れて、昼間一日、夫婦でいつもと同じように浮かれて遊びまわり、また夜になると、「明日は巣を作ろう」と決心します。
 寒苦鳥は、夜は寒さに苦しみ、昼は遊びほうけることを繰り返し、「明日は巣を作ろう」と鳴きながら、最後まで巣を作ることなく一生を終えるのです。この鳥たちは、雪山に住み、寒さに苦しむということで「雪山の寒苦鳥」と呼ばれています。
 この話にある寒苦鳥とは、実は「一切衆生の姿である」と大聖人様は『新池御書』に示され、以下のように続けられます。 
「地獄に堕ちて熱い炎に苦しめられた時には、今度生まれた時には何を閣いても、三宝を供養して善根を積むことに心懸け、地獄などに堕ちいらぬよう身を慎もうと思うのである。しかしたまたま人間に生を受けた時には、名聞名利の心を盛んにして、仏道修行に励もうとしない。また無益なことには惜しまず財宝を尽くしても、仏法僧の三宝に御供養を申し上げようという気持ちをなかなか起こそうとしないのである」(趣意)と、誡められています。
 さらに『種々御振舞御書』を拝すれば、
「無量劫よりこのかた、をやこのため、所領のために、命をすてたる事は大地微塵よりもをほし。法華経のゆへにはいまだ一度もすてず」
(御書1056頁)
と、さらに厳しい御教示をされています。 
 三世にわたる生命観を知ったならば、今生に私たちが生きていく上で何を最も大切とすべきなのでしょうか?
 それは、法華経のために我が身を尽くすことであり、すなわち三大秘法へ帰依する気持ちを、行動の上に表すことであります。端的に言えば、御本尊に向かって自行である勤行・唱題に励み、化他の折伏に一層邁進することです。そしてその行体をもとにすれば、いかなる人であろうと必ず有意義な人生を築いていくことができるのです。私たちは御本仏日蓮大聖人との宿縁を深く感じ、一眼の亀が栴檀の浮木にも値えた想いで仏道精進し、何にも勝る絶対の幸せを享受したいものです。
 
     
 


平成三十年十二月度 御報恩御講拝読御書

 法華初心成仏抄 

 当世の人何となくとも法華経に背く失に依り、地獄に堕ちん事疑いなき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり。

        
(御書一三一六㌻四行目~七行目)

 
 
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