ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第294号)  
   
 
   定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す  
   全ては己の宿業なり
 
 
【信心にさほど興味が無い】
 ある時、『女性の本音川柳』というブログをながめていると、
「忙しいのではなく、時間を作るほど興味が無いだけ」という歌が載っていました。
 この歌を前にし、しばし「そうか。そう言う事なんだ。」と感心してしまいました。
 みなさんを、登山、御講、寺院行事へ誘うと、欠席する方は異口同音に「その日は仕事が」「あいにくその日は予定が」と言います。
 こちらもそれ以上詮索も出来ず、「じゃあ、次回はお願いしますね。」と返して終わっていました。
 しかし、これでよかったのかいつも悩みます。
 住職としては、御信徒の成仏、幸せを第一に考えなくてはなりません。御信徒が住職と波風を立てない為に「すみません。あいにくその日は…」という当たり障りのない返事を、住職が鵜呑みにしているだけでは駄目だと気付きました。
 何かと理由を付けて休む人は、信仰心はあっても、どこか醒(さ )めていたり、「仏法即世法」という教えが全く信解(しんげ)出来ていなかったりする人なのです。
 どこまでも自分が中心ですから、自分のしたい時に、したい様に信心して、それで充分だと勘違いしているのです。
 我々は、何度も何度も生まれ変わって、今の自分があります。その間の、善悪の結果が今の自分なのです。
 大切なことは、過去の宿世(しゅくせ)から積んできた悪業の果報を、どのように消滅して、迷いに沈んでいる現在の私たちが真実に救われるかなのです。

【宿業の打開】
 一般的な考え方では、日常生活の中での苦しみや楽しみを、「幸運・不運」で片付けようとします。
 運命を、私たち人間の意思とはかけ離れた、超自然的な力が支配していると考えた時、人は絶対的な神を考えるようになりました。
 結局、自分たちの力ではどうにもならないと考えた結果が、運命による支配を造っているのです。
「運を天に任せる」ことは、自分の人生を前向きに向かうことから目を背けることに他なりません。
 このような考えでは、ものごとに感謝をして自分の人生を前向きに捉えていくことが難しくなり、絶望的な人生観を持つようになるのです。運命を信じることは、運命に翻弄されることになるのです。
 一部の仏教では、「業(カルマ)」は、解決できない過去からの悪因と教えていますが、本来「業」とは私たちの善悪の行為であり、けっして悪い意味だけではありません。
 しかし、こう誤解されるのは、私たちの生活を考えれば、幸せを感じるよりも不幸であると感じるほうがはるかに多いのが現実だからです。
 日蓮正宗の教えからみると、それは仏の真実の教えではなく、方便の教えであり、大切なことは、過去の宿世から積んできた悪業の果報を、どのように消滅して、迷いに沈んでいる現在の私たちが、真実に救われるかなのです。
 こうしてみると、過去の自分を変えることはできませんが、現在を変えることで将来を良くしていけるのです。
 しかし現実の全てのものは、想像を絶する永い過去の時間を経て決定されてきたものであって、現在の自分の考え、生活などを変えることは、並大抵のことではできません。
 その為に、我々には正しい仏様の元での修行が必要なのです。
 大聖人様の教えは、こうした私たちを正しい信心に導いて、過去からの強烈な生命の呪縛から解き放っていただけるのです。
 御本尊様は「現当二世」のご本尊であり、私たちの現在と未来の成仏を成就するための御本尊様です。永い過去から決定されてきた謗法深重の悪業を打開し、未来に善業を決定(けつじょう)していけるのです。
 大聖人様は「只肝要は、此の経の信心を致し給ひ候はゞ、現当の所願満足有るべく候」(御書1041頁)
と仰せられています。
 さらに大聖人様は、「定業(じょうごう)すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す」(御書七六〇)と仰せです。宿業を打開するには、より積極的な姿勢で、真剣に自分の過去の悪業の原因を反省懺悔することしかありません。
 懺悔の語は、もともと仏教において、自分の行為悪業を反省し悔い改め、現在の行為を正していくことです。宿業を懺悔して消滅せしめる修行とは、ご本尊様に強く(能く能く)信心帰依をして、真剣に唱題をして、折伏へつなげていく慈悲の善行なのです。

【全部が自分のしわざ】
 総本山57世日正上人は、かつて
「何事も己がしわざの報いぞと思う心が仏なりけり」
と歌を詠まれました。
「しわざを知る」とは、善因善果・悪因悪果と知ることです。
 私たちは人生の中で、絶望するような罪障にぶつかって、「どこまで自分は罪障が深いんだ」
「自分は過去世に一体どんな罪障を積んできたのだ」と打ちひしがれる事もあるでしょう。
 しかし、「自分の宿業に悩んでお題目を唱えるその心、姿が、そのまま仏なのです。」と日正上人は教えて下さっているのです。
 何かのせい、誰かのせいにしているうちは、悪い方向にしか物事は進みません。対人関係も「己がしわざ」なので、特に家族・親族や職場や近隣など縁の濃い人とは、小手先のテクニックで相手を動かそうとするよりも、お題目を根本として関係を築くしかありません。
 過去と他人は変えられないが、御本尊様の元、未来と自分は変えられます。自分が変われば周りも人も変わるのです。
 大聖人様は
「命と申す財にすぎて候財は候はず、されば、いにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候(中略)凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ、うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ」(御書1544頁)と仰せです。
 すなわち、この宇宙のなかで最も大切な宝は命であり、その最高の命を仏法のために御供養申し上げるならば、どのような不幸と思われる宿業があったとしても、これを乗り越え、即身成仏ができるという最大の功徳が生ずるのです。
「無益(むやく)の事には財宝をつくすにおしからず。仏法僧にすこしの供養をなすには是をものうく思ふ事、これただごとにあらず、地獄の使ひのきをふものなり。寸善尺魔と申すは是なり」(御書1457頁)
と仰せです。
 命を捧げるとは、「自分の時間を仏様のために使う」という事です。
 日頃から、勤行唱題を怠らず、登山や寺院参詣に励むならば、仏様から戴いた寿命の尊さに目覚めることができます。
 御金言に「命と申す物は一身第一の珍宝なり」 (御書761頁)とあるように、私たちの生命は、仏と同じく過去、現在、未来にわたって永遠に存続するものであり、過去からの生死の輪廻のなかで変転をしてきた、善悪の業の現れです。
大聖人様は、「定業の者は薬変じて毒となる。法華経は毒変じて薬となると見えて候。日蓮不肖の身に法華経を弘めん」(御書1291頁)と、過去遠々劫からの謗法深重の定業である悪業を打開するには、法華経の弘通しかないと仰せです。
 自分の罪障消滅と一生成仏を成し遂げ、縁のある人たちにも同じく折伏をしていくことが、仏様から尊い命を与えられた、私たちの使命です。
 折伏は、宿業を一気に打開できる利剣です。御本尊様への信力を奮い立たせ、勇気をもって折伏に踏み出しましょう。
 その為には、まず「御本尊様を信じているつもり」「信心しているつもり」という自らの、甘えた命を折伏しなければなりません。
 講中、異体同心の団結をして、私たちの過去遠々劫の宿業打開の成就と、信心の歓びに満ちあふれた生活を目指していきましょう。

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