ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第289号)  
   
 
   【小乗教・大乗教並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。】  
   本物の良医
 
 


 【架空の仏】
 仏教で説く仏とは、教典の中には阿弥陀仏とか、大日如来とか、或は薬師如来とか数多くの仏の名が説かれています。
これは、その教義の内容や程度によって、その時その時に付けられた、方便上の架空の仏名でしかありません。
 煎じ詰めると、
1真理の主体としての仏(法身如来(ほっしんにょらい))
2真智の霊体としての仏(報身如来(ほうしんにょらい))
3この真理と真智とを活用して衆生を現実に救済す
る仏(応身如来(おうじんにょらい))
の三方面からみて、この三身を一身に具えているのが本物の仏です。
 仏教を説いた釈尊自身は、出生も、出現した国も、また教化の姿も明白です。これを身近な例に例えると、仮に医学を「法身(ほっしん)」としたならば、それを体得した医師は「報身(ほうしん)」であって、病気を治療する医術は「応身(おうじん)」に当ります。
 このように仏には三身がありますが、これが各々別個に存在していたならば仏としてのはたらきはありません。
 「医学」と「医者」と「治療」とが各々別々のものであったら、何の役にも立たないのと同じです。
 同様に仏も私共を直接教化指導して下さるところに、仏としての真の価値があるのですから、仏は架空の偶像ではなく、実際にこの世の中にお生れになって事実上衆生を教化していなければならないのです。そして一身に法身と、報身と、応身との三身を兼ね備えられた仏が、真正の仏なのです。
 仏法の教えを歪曲した法然や親鸞の説いた浄土教の教えは、人間は所詮、煩悩をすべて取り除くことも、意のままに招福を実現することも出来ないという認識から始まり、煩悩を捨てきれない罪深さを阿弥陀仏の前に認めて、その赦(ゆる)しによって浄土へ往生する他力的信仰です。
 この浄土教の説く「西方極楽浄土」の教えは、法華経の教えから見れば、虚構(きょこう)の世界でしかありません。この教えは、キリスト教とよく似ています。
 キリスト教をはじめ、ほぼ、すべての宗教は、特別な存在である神様が、全部世界も作ったし人間も作った。幸せは神様からもらうものだし、悪いことをすれば、有無を言わさず地獄につき落とす。だから神の教えに逆らったり、悪いことはしてはならないと教えるのが、世界宗教の共通の認識です。

【本物の仏】
 ただ本物の仏教だけが、今のあなたの悩みや苦しみは、全部、自分の振る舞いなのだと説きます。幸せは、他人から、仏様や神様からもらうものではなく、自分で切り開いていくものだと教えます。どんな人も本物の仏を信じ修行するなら、平等に、仏のような智慧を持ち、かならず生きがいと喜びをもって生きていくことができるのです。
 それが説かれるのは、一念三千という教えが説かれている「法華経」以外にはないのです。さらに言えば、末法という時代に生きる我々が、成仏していくのは、その「法華経の命である南無妙法蓮華経」以外にはありえないのです。
 そして、日蓮大聖人様こそ、その御身に三身を備えられた御本仏であらせられるのです。
 先ほど、仏を医師に譬えましたが、具体的に言えば本物の仏は、絶対的な「衆生を救う方法」と「衆生を救う効能」と「衆生を的確に診察する力量」を備えておられるのです。
 日蓮大聖人様は
「高い山に登った者は、必ず下山せねばならないように、たとえば他人を軽蔑すれば、今度は自分が他人から軽んじられ果報を受けるのです。容姿の端正(たんせい)な人を誹(そし)れば、その報いとして自分が醜い姿に生まれ変わっていきます。他人の衣服や食べ物を奪えば、必ず餓鬼になって、自分が将来、衣服や食べ物で大変な苦労をすることになるのです。仏法の戒律を一生懸命に持つ尊貴(そんき)な人を嘲笑(ちょうしょう)すれば、せせら笑った本人が今度は貧賤(ひんせん)の家に生まれ変わります。正法の家を誹れば邪見の家に生まれ変わります。
 十善戒(じゅうぜんかい)を持つ人をバカにすれば、国土の民となって王難に値うことになるのです。これらは常の因果の定まれる法であり、誰人もその法理から逃れることはできません。」(御書582ページ 趣意)
と、因果応報の道理を分かりやすく説かれています。
 私達の、考え行動し話すという一人ひとりの生命活動(身口意の三業)それ自体が自身の環境・境遇を決め、生存の仕方の方向を自分自身が決めているとするのが仏教の捉え方なのです。
 ただ仏教の思想はもう一歩、現在という枠を打ち破って過去世の自身の振る舞いにまで、さかのぼってみていくのです。そして同時に、未来に向かっては、現在から来世にまたがる原因・結果を見ていきます。
 心地観経には「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と説かれています。
 現在の結果(個々の差別)は、過去世の原因(身口意の三業にわたる行為)によってもたらされたものであり、現在の身口意の三業にわたる行為の集積が、未来の結果をもたらすということです。この原因結果を説いているのが正しい仏教の立場なのであります。
 従って私達の生命とは、神という絶対的な存在によって意図的に造られたものではなく、他の「なにか」によって造られるものでもなく、偶然の波間に漂っているのでもなく、自己自身の原因結果によって、そこに存在すると説くのが本物の仏法の考え方なのです。
 日蓮大聖人様は、困難を、現在から未来へかけての人生を、逞(たくま)しく積極的に生きていくよう説かれています。
 人は生まれながらに不平等ですが、その責任を神仏や、親や、社会に転嫁(てんか)している間は全く解決しません。南無妙法蓮華経と唱えながら、この結果をもたらした原因を、過去世の自分の生命が犯した罪業に見いだす、つまり、自己の生命の問題として捉えきれたとき、はじめて解決への方途が開かれてくるのです。
 例えいかに悲惨な現状であったとしても、御本尊への真剣な唱題は、過去世の宿業(原因)を見つめ得る力強い生命力や智慧となって、その人を根底から支えるのです。これこそが唱題による仏界の涌現であり、仏法の功徳なのであります。

【末法の衆生は重病を抱えている】
 日蓮大聖人は『高橋入道殿御返事』に
「小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重く薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。」(御書887頁)
とご教示であります。
 これは、貪・瞋・癡の三毒強盛な末法の衆生を救済するためには、爾前権教ではなく、また、文上の法華経でもなく、良薬中の大良薬である南無妙法蓮華経でなくてはならない、との御意であります。  我々末法の凡夫は、貪欲・瞋恚・愚癡という煩悩によって、内面の部分つまり精神を侵される重病に罹(かか)っています。仏法では色心不二を説き、心身は一体と捉えますから、精神的部分が侵されれば、当然、肉体的外面にも多くの影響を及ぼします。
 この重病の根本原因である煩悩を菩提へと転換する力が、南無妙法蓮華経なのです。
 その国の、衆生の心身や言動が劣悪なものになれば、社会にも影響してやがては国家が荒廃していくのですから、一人ひとりが南無妙法蓮華経によって救われなければ真の平和はおとずれません。

【是好良薬について】
「是好良薬」とは 皆さんが毎日勤行の時に唱える寿量品の長行の終わりの方にある経文です。
是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。
(このよりよき良薬を、今此処においておきます。自分で取って飲みなさい。利かないのではないかと、憂(うれ)えてはいけません。)
 簡単に内容を説明しますと
「昔ある所に、あらゆる病気を治すことができる良医が居り、その良医には十・二十乃至百人もの多くの子供がいた。ある時父の良医が長期の旅に出掛けていた時、家にいた子供達は誤って毒薬を飲んでしまったのである。旅先から戻ってみると、子供達は息も絶え絶えに悶え苦しんでいた。その姿を見た父の良医は、早速、色も香りも味も悉く具わった薬を調合して子供達に投与した。子供達の中で毒に侵されながらも本心を失っていない子は、直ぐにこの良薬を服用して回復するが、全身に毒が回って完全に本心を失った子は、いくら良薬だといっても疑っ
てその薬を飲もうとしない。毒気のために心が顛倒(てんとう)していることを知って、方便を設けて薬を飲ませようと考えた父の良医は、一計を案じた。その一計とは、自ら他国に行ってその処から使いを遣わし、子供達に「父は旅先で亡くなってしまった」と伝えさせるというものである。父の死を聞いた子供達は大いに嘆き悲しみ、遂に心が覚めて父が調合した良薬を飲むことができ、病を治すことができた。」(趣意・法華経435~438頁)
 この「是好良薬」の経文を日蓮大聖人の仏法よりこれを拝すれば、良医とは末法御本仏日蓮大聖人です。良薬とは南無妙法蓮華経の大法であり、大聖人様の御本尊です。子供達とは末法の一切衆生です。毒とは一切の謗法の教えです。即ち、謗法の毒に苦しむ、末法の衆生は本仏たる日蓮大聖人の御本尊を信仰することにより、救済され成仏出来るのです。
 子供達も、素直に薬を飲む子と飲まずにいつまでも苦しみ続ける子供が説かれています。
苦しむ子供とは、今の衆生に置き換えれば
・「面倒くさい」といって修行を怠った人
・素直に仏や、他の人の言葉を聞くことができなくなり、仏の心から離れてしまった人
・妙法を信ずる一方で、謗法に与同してしまい歪んだ題目となってしまった人。
と言えると思います。
しかし、発心、反省懺悔に遅すぎることはありません。「今」が大事なのです。「是好良薬」たる御本尊に南無妙法蓮華経と唱え修行することによってどんな病も平癒させていただけるのです。
身体の病は無論のこと、心の病気や、家庭の平和も、貧乏も、自分の過去からの宿業、罪障さえも、そして又、亡くなった自分の大切な人の追善供養も、全てこの良薬たる御本尊様に唱題することによって叶えていただけるのです。
また、その教えを未来に正しく伝えていくため、医師が、子供たちを救うために遣いを遣わした如く、日蓮大聖人は代理としての日興上人以下、御歴代上人をお遣わしになり、総本山の御法主上人猊下が、
「遣使還告(けんしげんごう)」のお立場として、妙法の正しい教えを説法されているのです。
 ですから私たちは、日蓮大聖人に生まれ合わせなくとも、常に大御本尊のもとに信心し、大聖人のお遣いとしての御歴代上人猊下の御指南を拝することが、すなわち大聖人より直接、化導を受けるという意義を備えるのです。

【折伏に一生成仏の功徳あり】
 日蓮大聖人は1260年に『立正安国論』をご著述になり、一切の邪宗邪義を破折されるとともに、世の混乱・人心の荒廃の原因を指し示されました。
『立正安国論』の、「世皆正背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。」(御書234頁)
との御文は、今の国内外の止むことの無い悲惨な情勢を見るに付け、正に的を射た御教示である事が分かります。
 そして、今私達が何をすべきかとの具体的実践として
「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ。」(御書250頁)
と御指南遊ばされました。
 御法主日如上人は、
「お題目を唱えて折伏をする。これが私達の信心の原点であります。それが世の中のためでもありますが、同時に、自分自身の一生成仏のためでもあるわけです。」(本年 夏期講習会二期での御講義)
と、大聖人様の甚深なる教えを、我々に分かりやすく御指南くださっています。
人の幸せを祈り、行動できてこそ、日蓮正宗の信心をしていると言えるのです。折伏は特別なことではなく、自然なこと、当たり前の事なのです。
 自分の事しか考えられない、祈れない人は、迷いの中にいると言えます。これは、実に不幸なことなのです。
 自分の成長と他人の幸せを願う自行化他の信行に徹することこそ、国家社会の平和の基礎なのです。
 どうか、今一度、私達は何の為に御本尊様を信じているのか思い返し、折伏完遂に向けて邁進して行こうではありませんか。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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