ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第288号)  
   
 
   いにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり  
   命を仏にまいらせる信心
 
 


 【志を持って、命を仏に捧げる】

 本日は皆さんと共に、どの様な信心をして行けば、御本尊様から功徳をいただけるのかということを、考えてみたいと思います。
 宗祖日蓮大聖人は『白米一俵御書』のなかで、「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。」 (御書1544)
と仰せです。
 そしてさらに、
「財(たから)あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず。さればいにしへの聖人賢人と申すは、命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。」(御書1544)
とお示しになっています。
 私たちの人生の中で、この貴重な時間をいかに信心修行に充(あ )てていけるか。それも、いかなる誓願に基づいて信心修行に励んでいけるかが、最も重視されるところです。
 大聖人様は「種種御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ)」に、
「各々日蓮の弟子と名乗る人々は一人も臆する心を起こしてはならない。大難のときには親のことを心配したり妻子のことを心配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のため、また所領のために命を捨てた事は大地の土の数ほど多い。だが法華経のためのゆえにはいまだ一度も命をすてたことはない。過去世にずいぶん法華経を修行したけれども、このような大難が出てきた場合には退転してしまった。それはたとえばせっかく湯を沸かしておきながら水にいれてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか、今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりなおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を金と取替え、糞を米と交換するようなものである。」 (御書1056頁・趣意)
と仰せになられ、どのような災難が競い起ころうとも、命がけで信心を貫き、決して退転してはならないと仰せなのです。


 【一番の財産は命である

 大聖人は、
 「いのちと申す物は一切の財(たから)の中に第一の財なり。遍満三千界(へんまんさんぜんかい)無有直身命(むうじきしんみょう)ととかれて、三千大千世界にみてゝ候財もいのちにはかへぬ事に候なり。」(『白米一俵御書』 1544頁)
と仰せです。
 遍満三千界無有直身命は「三千界に遍満(へんまん)するも、身命に直(あた)いするもの有ること無し」と読みます。
これを大聖人様は、
 「三千大千世界という全宇宙に遍満している財物を集めても、一人の命の値に勝ることはない」
と解釈されております。
 つまり、どんな金銀財宝とも比較できない絶対的な財が「命」なのです。
我々も頭では命の大切さは分かっています。しかし、病気やケガで命に及ぶような場面に遭遇すると、時に慌てふためき、時に自暴自棄になり、残念ながら不信から御本尊様から遠ざかってしまう人もいます。

 大聖人は、
 「人身は受けがたし、爪(つめ)の上の土。人身は持(たも)ちがたし、草の上の露(つゆ)。百二十まで持ちて名をくた(腐)して死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。(中略)蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給ふべし」(崇峻天皇御書・1173頁)
と仰せですが、心の財を積むには、日々の修行が大切です。


 【折伏の大事】

 では、その日々の修行では何が大事なのか?
大聖人様は『御講聞書(おんこうききがき)』にて、明快にお示し下さっています。
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事(ひがごと)なるべし、此の妙法の大曼陀羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(御書1818頁)
 私達一人ひとりが妙法を信じ、本門の題目を唱えて、自らの修行を貫くと同時に、また人々を救っていく化他の実践を貫くとき、おのずから自分自身の命が磨かれ、それが功徳となって顕われるのです。
 その功徳によって、同志の方々や、社会の人達、何よりも御本仏大聖人様からの信頼と、大きな御慈悲をいただく道につながっているのです。

 【御供養の大事】

 大聖人は『白米一俵御書』に、
「ただ一つきて候(そうろう)衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ(皮)をはぐにて候ぞ。う(飢)へたるよ(世)に、これはな(離)しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、ただひとつ候ご(御)れう(料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ」(御書 1544頁)
と仰せられ、真心を込めた財物の御供養は、命を仏に捧(ささ)げるほどの尊い行為であると教示されています。
 伊豆や佐渡配流のおりには、船守弥三郎や阿仏房たちが身の危険を顧みず食物などを大聖人に奉り、献身的に給仕に励まれました。
 また、南条時光は幕府の弾圧によって経済的に逼迫(ひっぱく)したなかにありながらも、身延におられる大聖人に対し種々の御供養を尽くされました。
 このほかにも四条金吾をはじめ多くの信徒たちが、末法の御本仏大聖人に対し真心の御供養を申し上げ、外護の任をまっとうしてきたのです。
 大聖人は、
「度々(たびたび)の御供養は、法華経並びに釈迦尊の御恩を報じ給ふに成るべく候。弥(いよいよ)はげませ給ふべし、懈(おこた)ることなかれ」(『新池御書』 御書1457頁)
と仰せられ、仏の広大な恩に報いていくためにも御供養に励むべきことを教えられています。
 たとえ貧しい生活であったとしても、その境涯に応じた精一杯の御供養をさせていただく。
 また、わずかであっても汗水流して働いたお金を、額の多い少ないではなく、真心からの御供養をさせていただく。
 自分の生命をつなぐような大切なお金を仏法のために御供養申し上げていく。
その純真な信心の志によって、実際に命を捧げたことに匹敵する大功徳が生ずるのです。

 【四種の祈りと功徳】

 私達が修行するにあたり、祈りと功徳の現れには四種類あることを、知っておくことは非常に重要です。
 大聖人様の『道妙禅門御書』という御書の中に、
「祈祷に於(おい)ては顕祈顕応(けんきけんのう)・顕祈冥応(けんきみょうおう)・冥祈冥応(みょうきみょうおう)・冥祈顕応(みょうきけんのう)の祈祷有りと雖も、只肝要は、此の経の信心を致し給ひ候はゞ、現当の所願満足有るべく候。
 法華第三に云はく『魔及び魔民有りと雖(いえど)も皆仏法を護る』と」(御書1041頁)
と仰せです。
 これはどういうことかと申しますと、私達が御本尊様の前で日々、勤行・唱題をする際、御本尊様に様々な御祈念をしているとおもいます。
 そうした衆生の願いや祈りが、功徳となって顕れてくるのに、四つの姿がある、ということをお示しくださっているのです。
 これは、世間の道理でも同じですが、物事には、その時が来るか来ないか、その機が熟するか熟していないかが大切になってきます。
 また、衆生の立場にも上根・中根・下根と、人によって機根に様々な差別があります。物事には、そうした時の熟・不熟や機根の差別から、功徳の顕われ方にも、近い遠いということがあります。
 しかし、「正法の行者の御本尊様への祈りは、必ず叶うということを確信しなさい」という御指南なのです。

①冥祈冥応(みょうきみょうおう)
 まず、「冥祈」というのは、自分がこれまで正しい仏法を修行してきた中で、知らず識らずのうちに願ってきた祈りを指します。
 これまで積んできた過去の善根というふうに考えていただいて結構です。過去の自分の善根が、まだその機は熟せず、大地の下で根を張っている状態です。そういう時期においては、過去の祈りは、まだ表に顕われてきません。根を張って地中で熟成されている段階を「冥益」というのです。
 したがって、過去の祈りが、自分の周辺で目には見えないけれども、少しずつ少しずつ、成就の機が熟してきている段階、これを「冥祈冥応」というわけです。

②冥祈顕応(みょうきけんのう)
 それがもう少し現実に、自分の周辺において、目に見え、自分でも実感できる状態。その祈りが現実の形になって顕われることを「顕応」と言うわけで
あります。   

③顕祈冥応(けんきみょうおう)
 また、一念発起して折伏や唱題に励むなど行動を起こしたときに、まだ功徳としては顕れていないけれども「冥益」が実っている状態。

④顕祈顕応(けんきけんのう)
 そして、御本尊様への祈りや修行の功徳が、今度は「顕応」として、はっきり目に見える形で顕われてくる状態。

 したがって、功徳の現れ方には「冥益」、「顕益」の違いがあっても、過去の祈りも、現在の祈りも、共に冥・顕の二益として、必ず顕われてくるのです。
 私達の祈りや功徳は、過去、現在、未来にわたって、しっかりとつながっていくのです。功徳の顕われ方に遠い近い・遅い速いという違いはあっても、この妙法の祈りは、必ず成就する、ということを確信して下さい。
 


 【常楽我浄の命】

 私が出家させて頂いて、もう38年になります。十八才の時から様々な場所で葬儀の導師を勤めさせて頂いております。慈本寺の住職として、皆さんの肉親や同志の葬儀を勤めさせて頂いて来た中で、日々感じていることを、少々お話し致します。
 御本尊様の功徳は絶大だと申しましても、私達は不老不死にはなれません。全ての生き物には、寿命があります。
 自分や家族が病に冒された時、懸命に御祈念し、看病し、あらゆる医療を尽くしても、最終的に死を迎えるという場合も当然あります。
 誰にでも今世の寿命があります。しかし、その生老病死の苦しみさえも、妙法のもとに命を全うした人は、「常楽我浄」という妙法の功徳として、その命に顕現していくのです。
 ですから、真の法華経の行者の死は、虚しく悲しいだけの死ではないのです。その生老病死を必ず三世常住の命へと転換できるのです。言うならば、新しい命への旅立ちです。
 そこには清らかで円満な浄行菩薩としての徳分を具え、妙法の功徳によって即身成仏の境界を顕わしていくことができるのです。
 また、無常を乗り越えて、常住の仏の命の一分を、自分の命の上に顕現していくことができるのです。また「自受用身」といって仏様のような自由自在の境界に立つことができるのです。
 したがって、日蓮正宗の御本尊様に導かれる死とは、「四菩薩の徳に満ちた尊い臨終の姿である」ということを知って欲しいのです。
 妙法のもとにおいては、過去の祈りも現世の修行も、そして、たとえそれがどんな形で顕われて、最後に死を迎えようとも、必ず妙法の功徳は厳としてそこにあるのです。

 【乗り越えられない試練はない

 また、この修行の中に顕われてくる様々な試練や苦難には全部意味があります。決して無意味な苦難や無意味の試練は、この妙法のもとには無いのです。 それらは全部「転重軽受」等の、意味があるということを知って欲しいのです。。
 それは、仏様が、私達の信心の分際を試みる尊い働きとして、ある時は私達の本当の信心を確立されるために、その試練が顕われてくるのです。
 法華経の巻第三『授記品第六』のお経文に、
「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」(妙法蓮華経並開結295頁)
と説かれておりすが、たとえ、魔・魔民といえども、最終的には仏法を護るのだと仰せです。
 たとえ悪魔や魔の働きをする人も、後には善人に変わって、今度は我々の正法広布と、私達の信心を護る立場に変わるのです。
 「あんな頑迷な人間が変わるわけがない」と思う事は、御本尊不信につながる謗法行為ですから、慎んでください。
 この妙法の功徳はどんな形であれ、常に私達の信心修行の上に注がれているのです。


 【命を全うする

 いつも申しておりますように、大聖人の教えは、自分ばかりでなく、他人をも救って共に幸せになりなさいという教えです。
 そうであれば、亡くなった縁者に功徳を回向し、現在の縁者にも、この仏法を伝えることができる、本当の慈悲を持った信仰者でありたいものです。
 これこそが、大聖人様が教える「菩薩行」の一歩なのです。
 誰にでも「死」は必ずやってきます。動ける時に、精一杯、猊下様の御指南に添って行くことが大切です。
 自分の中で、「信仰とは、この程度やっておけば充分だろう。」「宗門や慈本寺の行事といっても、これとこれは自分には関係ない。」とルールを決めてしまっている人が多いように思います。
 御指南を軽く考えて、自己流の信心では、必ず最期臨終の時に後悔します。
目先のことにとらわれず、御本尊様を信じ切って、充実した毎日を楽しく過ごしていきましょう。

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