ホーム御住職の法話目次 御住職の法話 第269号) 
     
  人となりて仏教を信ずれば、先づ此の父と母との恩を報ずべし】
 不孝は不幸の始まり
 
     
   【親を尊敬しない子供】
 早いもので、もう九年以上も前の話になりますが、私の長男が中学一年生で得度をして、本山へ上がって初めての面会の時です。得度して2ヶ月は里心がつくので面会は許されません。特に母親は、指折り数えて面会できる日を待っていました。
 二ヶ月後に会った長男は、今までのほほんと過ごしていた小学生時代からは想像もつかないくらい、キビキビと動き、ハキハキと受け答えをするようになっていました。母親からすると、息子が違う人間になったようで、立派になって嬉しいというより、他人行儀に映り、哀しくなったのか「明則さん普通にしゃべって。」と思わず肩を揺すっていました。
 すると、明則は「係の方から、親に敬語も使えないのは人間のクズだと教わりました。」と言うのです。
 私は、わずか二ヶ月で、親ではとても出来ない良い教育を、本山でして下さっているのだとありがたく思いました。また、お寺の子供が出家した場合、父親は「先輩」になり、母親は「奥さん」になるのである意味、当たり前とも言えます。

 一方、近年に行われたOECDや世界諸機関による子供に関する各種調査資料を見ると、「親に対する尊敬度」で、大半の国では80%前後だったのに対して、日本では何と25%という最低レベルの酷い数字でした。
 この数字を見て、「外国人は「本心」を隠して「建前」でしか話さないから、ある意味日本人は正直だし、照れも入っているんじゃない?」と楽観視する人もいるようですが、果たしてそうでしょうか?

 昔からかも知れませんが、親に暴力や乱暴な口をきく子供も少なからずいるようですし、老後の面倒や、亡くなった後の追善供養の問題となってきますと、我関せずで、一切面倒を見ないと公言する子供もいるようです。
親は親で、育児放棄や虐待など、親の務めを果たせない人がいるのが現実です。
 なぜ、このような世の中になってしまっているのでしょうか?
 どうやって解決していけばいいのでしょうか?
 それを、今日はお話ししていきたいと思います。

【思想・道徳の限界】
 世の中の思想、道徳、宗教で、親をないがしろにしていいという教えは一つもありません。
 例えどんなインチキな宗教でも、孝行ということが大切であるとは説きます。ですから、どんなに立派で地位や名誉がある人でも、どんなに物の道理を知っていても、親孝行ができない人は、これはもうあらゆる教えから外れた人と言えます。

 日蓮大聖人は、
「我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。」(御書1551頁)と仰せになり、不孝・不義・不忠・不知恩は、人間にとってあるまじき非行であり、中でも父母を馬鹿にし、父母に背いたりする不孝は堕獄の因ともなることを説かれています。

 儒教では、八種の徳として、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌(てい)の八つを挙げています。40年ほど前、NHKの人形劇で「南総里見八犬伝」を放送しており、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。


 
 
  仁(じん) ・・・ 愛。人を思いやる心。慈しみ。最高の徳
  義(ぎ ) ・・・ 正義を貫く心。善悪、正邪、真偽。人道に従うこと、道理にかなうこと。
  礼(れい) ・・・ 敬意を表す心。社会秩序を保つための生活規範、儀式、礼儀、作法、礼節。
  智(ち ) ・・・ 正しい判断を下せる能力。智慧。
  ・・・ 心の中に偽りがないこと、主君に専心尽くそうとする真心。
  ・・・ 信頼する心。言葉で嘘を言わないこと、疑わないこと。
  ・・・ 親や先祖を大切にする心。親孝行すること。 
  悌(てい) ・・・ 兄弟仲がいいこと。 

 日本に限らず、近隣諸国でも大昔から、人々はこれらを美徳とし、人に教え、実践してきました。しかし、現実はどうでしょうか?著しく人心が荒廃している様が見て取れます。
 人々は金や力にしかひれ伏さず、爆買い、マナー違反がどうこう言う前に、今や、核戦争すら起こりかねない事態になっています。

 日蓮大聖人様は、儒教などで説く忠孝・報恩・礼節などは、人々を仏教の孝養・報恩へと導入せしめる初門であって、真実の孝養・報恩は、仏説の中でも南無妙法蓮華経に限ることを随所に説かれています。
 『開目抄』に、
 「儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり」(御書563頁)
また、
 「これらの賢聖の人々は聖人なりといえども過去をしらざること凡夫の背を見ず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし」(御書524頁)
と説かれております。
 過去・現在・未来の親を救いきることのできる孝養こそ真の孝養であり、それは、儒教や他の宗教では望むことができないのです。なぜなら、親孝行をしなさいと説いても、地獄に堕ちた父母を救う道は説かず、仏教も法華経已前の教えは成仏の文ばかりあって、実際に救える道理も力も無いのです。
 したがって父母はおろか、自身の成仏すら叶わないのです。
 法華経は竜女の成仏、提婆の成仏を説いていますので、悲母、慈父の成仏が保証され父母を扶けることができるのです。ですから、法華経のことを「内典の孝経」と言うのです。
 
【大聖人が説かれる親のありがたさ】
 大聖人様は親のありがたさについて
 「父母の恩を報ぜよとは、父母の赤白二H(せきびゃくにたい)和合して我が身となる。母の胎内に宿る事、二百七十日九月の間、三十七度死ぬるほどの苦みあり。生み落とす時、たへがたしと思ひ念ずる息、頂より出づる煙梵天に至る。さて生み落とされて乳をのむ事一百八十余石。三年が間は父母の膝(ひざ)に遊び、人となりて仏教を信ずれば、先づ此の父と母との恩を報ずべし。父の恩の高き事須弥山も猶(なお)ひきし。母の恩の深き事大海還(かえ)って浅し。相構へて父母の恩を報ずべし。」(御書 922)
と仰せです。
 私たちは牛や馬などと違い、産まれてすぐ歩くどころか立ち上がることさえできません。三年間ぐらいは、父母の膝の上に載せてもらい、遊ばせてもらうことしかできません。親はその後も大変な思いで育ててくれるのであります。
巷(ちまた)で問題になっているように、虐待や育児放棄されていたら、私達は ここで顔を合わせていません。それぞれが大事に育てて頂いた訳です。
 時に、親子で確執があったり、疎遠になったりする場合もあるかもしれませんが、仏道修行者としては、恩を感じ報恩して行かなければなりません。
 大聖人様は、
 「父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり。
 其の中に或は殺盗(さっとう)・悪律儀(あくりちぎ)・謗法の家に生まれぬれば、我と其の科(とが)を犯さゞれども其の業を成就す。然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり。梵天・帝釈・四大天王・転輪聖王の家に生まれて、三界四天をゆづられて人天四衆に恭敬せられんよりも、恩重きは今の某が父母なるか。」(御書264)
と仰せられております。
 我々が、受けがたき人身を受け、会い難き大御本尊様や猊下様に巡り会えたのも、偏に産み育てて下さった親がいるからです。
 こう理解できると、感謝してもし過ぎることはないと言う事が理解できると思います。

【大聖人が説かれる不孝】
 正しい仏法においては、大聖人様(本師)・南無妙法蓮華経(法華経、諸仏の眼目)に違背することが最も重い不孝の失であって、
「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ、十方の仏の身より血を出だす罪にもこへて候ひける」(御書979)
と仰せです。
 よって、大聖人様は謗法が充満する日本国が不孝の国となっていることを憂えられ、
「愚者の眼には仏法が繁盛しているようにみえるが、仏天・智者の御眼には古き正法の寺々が次第に失われているのであるから、一には賢い父母の寺を捨てるがゆえに不孝である。二には謗法である。もしそうであるならば、日本国の今の世は、国全体が不孝と謗法の国である。」(御書429頁 趣意)
と嘆かれています。

 例えば三種の孝養というのがあります。
 その一つは、例えば物質的な孝養として親を喜ばそうとして、親に対して、衣食住の施しをすることであります。これは仏教で説く最も低い下品の孝養です。
 また二つ目といたしましては、精神的な孝養として親の意に背かず、親の言いなりに従っていくことが、仏教で説く中品の孝養に当たるわけであります。
 三つめが、親の生死に拘わらず、ひたすら大御本尊様へ祈ると言う事です。
 この中で、上品のみが真の孝養であって、その他は真の孝養とはなりません。「盂蘭盆御書」にあるように、目連尊者の母が食べるものも飲むものもなく、慳貪の罪によって餓鬼道にさまよっている姿を嘆いて食物を神通力で送った事は下品の孝養です。
 しかし、その送った食物が火となって母の身を焼いて更に苦しめたとある事は、いかに小乗的な悟りや、小乗的な孝の結果が小さな孝でなくして、大いなる不孝であるかを物語っているのです。
 それでは、親のことを祈ってさえいれば、何かを施したり、言う事を聞く必要も無いのかと言えばそうではありません。
 下品中品が出来てこその上品であり、これらが出来ないと言う事は、正しく祈って実践出来ていない証です。
 大聖人様は、
「親によき物を与へんと思ひて、せめてやる事なくば一日に二三度えみて向かへとなり。」(御書 921)
と仰せですから、日常の振る舞いや心遣いこそ大事なのです。

【大聖人が説かれる孝とは】
 ただし例外として、大聖人様は、
「一切の事は父母にそむき、国王にしたがはざれば、不孝の者にして天のせめをかうふる。ただし法華経のかたきになりぬれば、父母国主の事をも用ひざるが孝養ともなり、国の恩を報ずるにて候」(917 頁)
と仰せのように、世俗では父母・主君・師匠などに背くことは不孝・不忠・不義にあたりますが、殊に五逆罪や十悪より悪いとされる法華経違背の失あれば、これを諫めることこそが、真の孝養になると仰せです。
それは、法華経信仰・法華経弘通そのものが世俗的孝養よりも勝れていると大聖人様は説かれたからです。
 また、御信徒が肉親の追善供養のために、御供養を添えて法要を営まれる志に対し、常に賛辞のお言葉を贈られています。
 なぜなら、正しい仏教の教えに照らしてみるならば、今の自分の生命は、自然に生まれた訳ではなく、何か他の存在によって作られるのでもなく、遠い過去から何度も何度も生まれ変わっては作ってきた因縁によるからです。
 また、それぞれの父と母も両親を持ち、その両親にも両親がいます。これら過去の全ての父母の心や行いが伝えられて、縁となり、業となり、今の自分の中で生きているのです。ここに自分と先祖とのつながりがあります。
 日蓮大聖人様はに、
『我が頭は父母の頭 我が足は父母の足 我が十指は父母の十指 我が口は父母の口なり。譬えば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影との如し。』(御書958頁)
と仰せられている如くであります。
 過去の先祖、亡き肉親への追善供養は欠かすことの出来ない大切な修行です。
その供養の心を形に表す最善の方法が、塔婆を建立し、御本尊様へ御供養申しあげる事なのです。
 今月はお彼岸ですが、命日やお彼岸に塔婆供養を申しあげる事は、仏道修行者として当たり前のことであり、この絶大なる功徳によって、過去の先祖を救い、今の自分や家族も功徳に浴することが出来るのです。この御供養を惜しむことは実に勿体ないことであります。
 また、「法蓮抄」を拝しますと、
曽谷教信は孝養に厚く、父が弘長三年(一二六三)亡くなってから十三回忌まで欠かさず自我偈を唱え回向されました。残念ながら大聖人様に帰依出来なかった父に対して一二年間毎朝孝養に努めた教信の亡き父への供養の志を、大聖人は
「其の時過去聖霊は我が子息法蓮は子にはあらず善知識なりとて、娑婆世界に向かっておがませ給ふらん。是こそ実の孝養にては候なれ。」(820頁)
と称賛されています。
 たとえ信仰が異なっても、ひたむきな孝養の情が逆縁の亡父さえも救うことを諭されるのです。

【むすび】
 真の仏法から見るならば孝養の思想は単なる親孝行に止まらず、一切の衆生を成道せしめる事とされています。
 一閻浮提第一の大御本尊様を持って、初めて孝子ということになるのですから、この信心を持たぬ人、反対する人が圧倒的に多い現代は、不孝者があまりにも多いということになります。
 不孝者が充満する世の中は、人心も荒廃し、不幸な世界と言えます。
 大聖人様御在世当時より、親子関係についてしっかりと教化を受けた門弟には、概ね孝子をもつ家庭が多いといえます。また、その孝養の子を讃嘆する御書も多く存在します。
 清らかな国になるためには、皆が正法を実践し、真の孝養を弁えなければなりません。まずは、皆さんがそれを実践し、家族・縁者に正法を伝えること、すなわち大切な人への折伏こそが、最も大切なのです。


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