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  【少しも謗法不信の失候らはゞ、無間大城疑ひなかるべし
 謗法厳戒
 
   
 
慈本寺にも新来者が増えてきましたが、御本尊様を信じることは教わっていても、正しい仏法を信仰していく上で、してはいけないこと、即ち「謗法(ほうぼう)」については細かく教わっていない方も見受けられますし、信仰歴が長い方でもいつのまにか謗法に染まっている方もいるかも知れませんので、この機会にお話しをさせていただきます。

【謗法とは】
 日蓮大聖人は謗法について『顕謗法抄』に、
「謗法とは法に背そむくという事なり」(御書286頁)
 また『真言見聞』に、
「謗法とは謗仏謗僧なり」(御書608頁)
と示されるように、謗法とは大聖人様の教えに対して悪口を言ったり、逆らって信じなかったりするだけでなく、正しい下種三宝(げしゅさんぽう)(仏法僧)に背く信仰や思想、言動、行動のすべてが謗法になります。

 日興上人は『日興遺誡置文』の第一条に、
「富士の立義聊(いささ)かも先師の御弘通に違せざる事」(御書1884頁)
と、大聖人の仏法に微塵(みじん)も違背してはならないことを、広宣流布への根本精神として門下一同に示されています。

 日興上人は、宗祖日蓮大聖人の御付嘱を受け、身延山久遠寺の院主として、大聖人のあとを継がれました。
 しかし、学頭の日向と地頭の実長(さねなが)の謗法によって、大聖人が九年間お住まいになった身延の地も、ついに謗法の汚泥にまみれてしまいました。
 これを「四箇の謗法」と言って、
① 釈迦如来仏像の造立。
② 箱根・伊豆山の両権現と三島明神への参詣。
③ 南部の郷内の念仏福士の塔の供養。
④ 九品念仏の道場建立。
の四つが『原殿御返事』という日興上人のお手紙に詳しくしたためられています。

 日興上人様は、断腸の思いで謗法の山と化してしまった身延を後に、南条時光の墾請(こんせい)を受け入れて上野郷の南条邸に入られ、後に、時光から大石ヶ原の寄進を受け、末法万年の大法興隆の礎として大石寺を建立されました。

 そして、この御遺誡のままに、大聖人の仏法は血脈付法の御歴代上人によって今日まで厳正に護り伝えられています。
 このように日蓮正宗にとって「謗法厳戒」は宗是として堅く持ち続けられてきた信条なのです。

【謗法の恐ろしさ】
 謗法の罪は非常に重く、法華経『譬喩品』には、
「若し人信ぜずして此この経を毀謗(きぼう)せば(中略)其の人命終して阿鼻獄(あびごく)に入らん」(法華経175頁)
と説かれています。
 「毀謗」とはそしることであり、「阿鼻獄」とは「阿鼻地獄」「無間地獄」のことです。間断なく苦しみもがく状態をいいます。
 大聖人様は『真言見聞』に、
「謗法は無量の五逆に過ぎたり」(御書609頁)
と示されるように、謗法は五逆罪(父を殺す・母を殺す・阿羅漢を殺す・仏の身より血を出いだす・和合僧団を破る)にも勝る重罪であり、衆生の成仏の種子を断ずるだけでなく、地獄の因となるのです。
 また『阿仏房尼御前御返事』には、
「少しも謗法不信の失候らはゞ、無間大城疑ひなかるべし(中略)畷(なわて)堅固なれども、蟻(あり)の穴あれば必ず終に湛(たた)へたる水の溜らざるが如ごとし」(御書906頁)
と御教示されています。

 この御教示は、たとえ正法である大聖人の仏法を信仰していても、同時に謗法を犯していたならば、必ず地獄に堕ちてしまうということです。
 なぜなら、田の畷に蟻が通るぐらいの穴が、たった一つ開いていても、そこから水が流れ出てしまい田に水は溜まりません。
 それと同様に、私たちがいかに正法の信仰をしていても、謗法という穴が開いていれば、せっかく積んだ功徳もすべて流れ出てしまうのですから、謗法は厳に誡めなければならないのです。

 大聖人は、『妙法比丘尼御返事』に、
「謗法という罪は、謗法を犯している本人も家族や周囲の人々も謗法の失を犯しているとも考えずにいる事が恐ろしい。世間の人々は但どんな宗旨でも仏法を習い、修すればそれが貴いものと思いこんでいる故に、教える人も習う人もまた此等の師匠に従う弟子檀那も無間地獄に堕ちる事を認識しなさい。」(1258頁・意訳)
と厳しく仰せ下さっています。
 

【堕獄とは自分から堕ちるもの】
 ここまでの話を聞いて、「自分はとんでもない宗教に入ってしまった。こんなに地獄に堕ちると脅されてはかなわない。こんなことなら入らなければよかった。」と思う方がいるかも知れません。
 皆さんは子供の頃、祖父母や両親から「そんな悪いことしていると罰が当たるよ」「嘘をつくと罰が当たるからね」と言って育てられた経験があろうかと思います。
 よって、一般的な日本人の考えでは、罰は当たるモノ、神仏からのお怒りで罰せられるモノという子供の頃からの刷り込みがあります。

 キリスト教では、神の愛にそむく者を異端と見なして徹底的に攻撃します。神は愛によって迷える人間を許すと同時に裁き手でもあります。人々は生活の上で、人智を越えた理不尽で納得のいかないことが起こるのは、神の愛は絶対者・最高権力者であり、ただひたすらひれ伏さなければ神の愛をうけることはできないと教えています。
 神を信じれば天国に行けるが、信じない者は神の裁きによって地獄に堕とされるとハッキリ説きます。
 しかし、本物の仏の御慈悲は、すべての人を救わんと発願され、背く者までも最終的には逆縁で救ってくださるのです。
 大聖人様の大難を忍ばれての御弘通は、ただ一切衆生を救うという目的以外のなにものでもありませんでした。
 その大慈悲は、御自身を迫害する国主や民衆にも向けられたのです。『報恩抄』に
「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし」(御書1036頁)
『開目抄』に、
「されば日蓮が智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」(御書540頁)
『諫暁八幡抄』に、
「只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(御書1539頁)
「日蓮が云はく、一切衆生の同一の苦は悉く是日蓮一人の苦なり」(御書1541頁)
とあります。
 これらの御金言を拝し、また大聖人様の尊い御生涯に想いを馳せるとき、その大慈大悲に報恩感謝せずにはいられません。
 私たち煩悩充満の末法の大衆は、真理を悟る智恵も無く、難解な法門を理解できなくとも、御本尊の仏力・法力により自ずと生命の極理を信心によって体得し、自然と成仏の幸福境界を得ることができるのです。
 しかし、このありがたい法を信じないということは、せっかくの名医の処方した最高の良薬を、瀕死の状態であるにもかかわらず、どんなに勧めても頑なに飲もうとしないことと同じなのです。
 また、別の方向から喩えるなら、世の中には交通ルールが存在します。
 赤信号なのに平気で横断歩道を常に渡っていれば、一回や二回は無事に渡れたとしてもいつかは命を落とすような重大な事故につながります。
 例え「交通ルールの存在を私は知らなかった」とか「あの立派な人が赤信号で渡っても大丈夫だと教えてくれた」と言ったところで、事故に遭ってからでは遅いのです。

 地獄に堕ちるということも、自分自身がそうなる原因を積んでしまい、その結果堕ちるということであって、仏が堕す訳では無いのです。
 我々は、ここをはき違えないようにしなければなりません。
 

【与同罪を怖れよ】
 大聖人は『新池御書』に、
「いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず。又それにも近づくべからず。与同罪恐るべし恐るべし」(御書 1458頁)
と仰せです。
 仏法では、正法を誹謗する者に供養したり、その非を誡めることを怠たれば、正法誹謗の者と同じ罪、即ち堕地獄の苦を受けることになります。
 したがって、謗法の罪の恐ろしさを肝に銘じ、謗法を厳に慎んで、信心に励むことが大切なのです。

 具体的には、どういうことが謗法になるのか何点か挙げてみたいと思います。
①他の宗教の本尊を祀ったり、お守りや神札を受けたり、あるいは寄付や布施をすること。
②手相や姓名判断などの占いを信じること。
③他宗へ、結婚式・お宮参り・地鎮祭・交通安全・病気平癒の祈願等、冠婚葬祭や諸々の加持祈祷をしてもらうこと。
④他宗主催の祭りに参加すること。当然、神輿を担ぐ事や山車を引く事もいけません。
⑤他宗で祈祷された、印鑑・財布・ブレスレット等を身に付けたり所持すること。
 細かく挙げたらキリがありませんが、「これは謗法に当たるのだろうか?」などと不安に思う持ち物や飾り物、行為などは、住職に問い合わせて指導を受けて下さい。
 また、先祖代々の仏壇や位牌、形見の御守りなど、処分することに抵抗を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、先祖への報恩の為にも、正しい法の下で正しく供養する事こそ最善の道なのです。
 決して、日蓮正宗で先祖をないがしろにしていいなどとは教えていません。


【折伏の大事】
 私たちは、与同罪による堕地獄を恐れて、自ら折伏を実践することが大事です。
『曽谷殿御返事』には、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋たずぬるが如くなるべし」(御書1040頁)
とあります。
 また、日寛上人は、
「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法なるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向わずんば、身が謗法に同ずるなり。」(御書文段608頁)
と、仰せです。

 日蓮正宗の僧俗は、常に勤行唱題を怠ってはなりません。そして、謗法を見過ごして折伏を行じなければその罪は重いという事を肝に銘じて下さい。
 日如上人が「信心とは折伏なり」と仰せになる意味はここにあります。折伏を行じなければ、与同罪を免れることはできません。 
 したがって折伏とは、「した方がいい」というのではなくて、「しなければならない」ものであり、「できる人がすればいい」とか、「できるようになったらする」というようなものでもないのです。 
 折伏が成就しなくても、弛まずし続けることが大事なのです。


【十四誹謗】
 大聖人様は『松野殿御返事』(御書1045頁)において、私たちが信心修行をするに当たって誡めるべき謗法を十四にわたって示されました。これを十四誹謗といいます。
 以前、「妙彩」第209号にて詳しく述べました。妙彩かホームページで再読することをお勧めします。

・驕慢(横柄な態度で正しい仏法を軽くみて莫迦にすること)
・懈怠(信心修行を怠けること)
・計我(自分勝手な考えで正法を推し量り、より深く求めないこと)
・浅識(自分の浅はかな知識や考え、経験をもって正法を安直に判断すること)
・著欲(欲望に執われて正法を求めないこと)
・不解(正法を理解しようとしないこと)
・不信(正法を信じないこと)
・顰蹙(正法に対して顔をしかめ、非難すること)
・疑惑(正法を疑うこと)
・誹謗(正法を謗ること)
・軽善(正法を信仰する人を見下して莫迦にすること)
・憎善(正法を信仰する人を憎むこと)
・嫉善(正法を信仰する人を嫉むこと)
・恨善(正法を信仰する人を恨むこと)

 皆さん、これら十四の謗法を見て、心当たりはありませんか。
これらの謗法を自ら犯してしまう原因は、大聖人様の仏法を心から信じていないことにあります。自分では信じているつもりでも、命に謗法があるため、考えや言葉や行動に顕れてしまうのです。
 謗法の原因は、我見にあります。信仰はどこまでも、日如上人の御指南を根本に、素直で謙虚になる事が大事です。
 皆で異体同心の団結を持って、お互いに謗法を犯さぬように励まし合い、一切衆生救済の道である、折伏に励んで参ろうではありませんか。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 

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