ホーム 御住職の法話目次 御住職の法話第259-2号  
     
   第二十五回支部総会(総本山 遠寿坊様に於いて)
 御住職御指導
 
     
   
 本日は、遠路より御登山、まことにご苦労様です。
こうしてみなさんと単独で遠寿坊をお借りして、総会が出来ますことを大変有り難く嬉しく存じます。

 日興上人御生誕770年記念慶祝法要も無事に終了し、いよいよ宗門は平成33年・宗祖日蓮大聖人御聖誕800年の大佳節における「法華講員八十万人体制構築」の御命題に向けて動き出しました。
 末法に生まれた我々衆生の中で、折伏をしなくていいという方は一人もおりません。
 なぜなら、広宣流布こそが御本仏日蓮大聖人が我々へ託された御遺訓であり、折伏無くして広宣流布はあり得ないからです。

 本日は、少しでも参考になればと、我が支部が折伏低迷の折、平成24年・25年と折伏推進委員である、現布教部副部長・新井契道御尊師より個人的に頂いた指導と、その体験を、3月の地方部推進会で話しましたが、リクエストがありまして、この総会でも、再度おはなしさせていただきます。

 折伏指導員の方が来て下さったときには、はじめに住職と面談があり、その時に色々と御指導を受けます。

 ある時に、こういう報告をしました。


「家内の友人が調布市に住んでおり、父親を亡くし葬儀の依頼がありました。いくら友人でも、日蓮正宗の信徒にならないと受けることが出来ない旨を伝え、懸命に折伏をしましたが、入信には至らず時間も無い事もあって、病院で紹介された寺院で葬儀を執行してしまいました。

 その後も家内は折伏をしましたが、頑として受け入れない状況です。」
すると御返事は実に単純明快でした。
「せっかく頼ってきたんだから受ければよかったんだよ。まずはやってあげる事。やりもしないで入れ入れと言っても無理だよ。」
というものでした。

 しかし日蓮正宗の化儀に不受不施ということがあります。

 日蓮正宗では他宗は不幸の根源であり幸せになれないと言い切りますから、賽銭箱など置かず、他宗の人からの供養を受けませんし、未入信者の依頼によって儀式典礼などの施しをしません。
 これは日蓮正宗の誇りであり、大聖人様・日興上人様の時代より、他宗と一線を画してきた歴史があります。

 これに関しては「葬式をした後、どうしても入信しないと言えば供養を受けなければいい。まあ、丁寧にしてあげて入信を拒む人はまずいないでしょう。」とのお話しでした。

 その後、この友人の母親は、葬儀を営なんだ寺に勧められるまま境内の墓地まで買い求めて埋葬をしてしまいました。
 そうなってはいくら折伏してももはや聞いて貰えません。
 その事をお話しすると、「そうでしょう。入信するときに、教義が分かって入ってきたり、宗門のため、広宣流布のためなどと考えて入ってくる人はいないよ。この宗教は自分に何をしてくれるのか?この宗教は自分にとって何のメリットがあるのか?としかはじめは考えていないから。」と言われました。
 この言葉に、私はまさに目から鱗が落ちました。

 法要後も頑として入信をしない場合、供養を受けないとしても、謗施の問題をどう捉えればいいのかという問題がありますが、
 日有上人の化儀抄には、
・自分が修行中に、一字一句でも教えてくれた人が死去した時は、戒名をつけ後々までも塔婆を立て、精霊膳など供え、読経唱題し弔うことは、報恩のため結構なことです。死者が謗法に執着した人であれば、その謗法に与同せず、正法で弔うことは、差し支えありません。
その人が生前中に、現世安穏の祈念を願われたら、謗法を認めず、正法で祈念してあげることは、かまいません。全て、昔の恩に報いるためです。
また、
・他宗の僧俗で、親類縁者もいない独り者が、近所で亡くなった時は、自から行ってねんごろに弔い、回向してあげなさい。

 とありますので、法要後に願主が入信を拒んだ場合でも、住職が個人的に願主となる形で供養するのであれば問題ないと解釈しました。

 

 この指導を受ける以前から、青梅という場所柄、近所に霊園が複数あるのですが、まれに、かつては創価学会もしくは法華講の親族で自分達は未入信だという方から、墓参の依頼がありました。
 しかし、残念ながら日蓮正宗にあなたが入信しないと受けられないというと、じゃあ結構ですと言う方ばかりでした。

 こちらも、張り切り勇んで、この時とばかりに必死で折伏をするのですが、かえって怖くなるのでしょう、なかなか思うように実りませんでした。

 指導を受けた後、自称、以前は学会員で今は隠れ日蓮正宗と言う方から、墓参の依頼の電話がありました。
 とりあえず二つ返事で依頼を受け、寺院へ「申込み書」を書きに来て欲しいと言いました。
 後日、「申込み書」を書きに来たときに、色々と事情を伺いました。一通りお話を伺った後「この際、隠れ日蓮正宗とか言っていないでちゃんと信心しませんか?」と言うと、「私も自分の最後にお世話になるお寺が欲しいと思っていました」と、二つ返事で「やります」と言うので、その場で勧戒となりました。  実にあっけなく、スムーズに勧戒まで勧みました。その後、奥さんと息子さんも入信できました。
 新井御尊師の指導が身にしみた出来事でした。

 また、こういう事もありました。
 あるとき、Fさんから「助けて欲しい」と泣きながら朝の8時に電話がありました。
 何事かと思って聞いてみると、腰痛が酷くて動けない、病院へ連れて行って欲しいというものでした。その時に「主人に御授戒を受けさせますから」と言っていましたが、咄嗟の意味が分からず、とりあえず駆けつけました。
 痛み止めを三回分も飲んでろれつが回らない状態でしたが、痛みが全く収まらず、起き上がることも出来ずに御主人は右往左往している状況でした。
 救急車だと他の病院に搬送されても困るというので、人妻と言う事で一瞬躊躇しましたが、痛みで大騒ぎすることには聞こえないふりをして、抱えて車に乗せ、御主人をともない、かかりつけの病院へ連れていきました。
 普段ですと、私は行列や待たされると言う事が非常に苦手ですので、自分の事で行く病院はストレスがたまる場所なのですが、命に関わることではないという気楽さもあってか、待ち時間は売店で買った好きな作家の本を、電話や来客などの邪魔が入らない環境で、堪能できた至福の時間でした。
 5時間ほどして帰り道、車中で奥さんがそのままお寺へ行って下さいと言うのです。
 痛みが治まったのか、行きとは別人のようにニコニコとよくしゃべります。
 この御主人は、結婚するときに、Fさんの信心を反対はしないが自分はやらないし、勧めないというのを条件に出したほど徹底している人でした。
 Fさんをお寺に送ってきても、御主人は駐車場で新聞などを読んで待っているような方で、どんなに誘っても車から一歩も出ようとしない様な方でした。

 ですから、「おまえさん、こういう信仰は本人の意思を無視しちゃいけないよ~。なんだかな~」と言うものの、私の運転でお寺の車に乗っているので、半ば観念したようでした。

 お寺に着くと、奥さんはスタスタ歩くではありませんか。朝の家や病院での大騒ぎは何だったのかという程で、御主人が「こいつは俺をお寺に連れて来るための演技だったのか?」という目で恨めしそうに見ていましたので、凄い功徳ですよねと話すと、しぶしぶうなずいていました。
 無事に御授戒が終わると、別人のように御主人の相が明るくなりました。命に仏の種が植えられたわけですからそれもそのはずです。

 その後、御主人にとって初登山の時に、あいにくの大雨でしたが、Fさんの車いすをKさん兄弟が交代で、ずぶ濡れになりながら押してくれていた姿にも感銘を受けたようです。
 それ以来、御主人は登山や御講にも参詣するようになりました。何年もお寺の門をくぐろうとしなかった事から考えると夢のようです。

 この病院の一件がなければ、まだ御主人は入信できていなかったかもしれませんが、そりもキッカケのひとつで、何より、Fさんの日頃の信心の姿勢が、ひたむきでありました。
 常に口を開けば「御本尊様のおかげで今がある」とおっしゃり、御主人を何とか入信させたいと常に願っておりました。
 また、商売をしていましたのでいいときも悪いときも御供養に励まれ、金銭的に厳しい折も、御供養できない分は身の供養をさせていただきます、と唱題会の後、一人で黙々と時間をかけて寺院のトイレ掃除をそれこそ舐めるかのごとくされるような姿勢がありました。日頃の御信心があっての一連の流れというものがあります。まさに御仏智だと言えます。

 Kさん兄弟の献身的な振る舞いによってさらに発心したことを見ても、
「教義を理解して入ってくる人はほとんどいない。自分になにをしてくれるかなんだよ。」という指導を実感した日でもありました。

 僧侶にとっての施しは、大聖人様と同じ袈裟衣を付けて読経唱題をして御祈念申しあげることが基本です。
 多くを語らずとも、未入信の方であっても、命で感じていただける部分が大きいのも確かです。

 では、みなさんの場合どうしたらいいのでしょうか?

 大聖人様は、
『上野殿尼御前御返事』
「人にものをせする人は、人のいろをまし、ちからをそえ、いのちをつぐなり。人のためによる火をともせば人のあかるきのみならず、我が身もあかし」(新編御書・七五一頁)
と仰せです。
 世間でも、情けは人の為ならずということわざがあります。

 しかし、周囲に着る物、食べるものを施すにも個人では限界がありますし、ここで仰せの「人」とは再往、御本仏大聖人様の事であり、仏様へ御供養申しあげるからこそ、私たちは我が身に計り知れない福徳が付くのです。

 この衣食を法に置き換えて拝するならば、正法を他人に施す、つまり折伏をすることによって我が身を助けることになる、ということを教えて下さっている、と拝することができます。

 そして折伏の際の、具体的な実践方法としては、「雑宝蔵経」(ぞうほうぞうきょう) の中に『無財の七施』が説かれています。

 ①眼施(げんせ)・優しい眼差。
 ②和顔悦色施(わげんえつじきせ)・笑顔、喜びの顔。
 ③言辞施(ごんじせ)・優しい言葉、思いやりのこもったあたたかい言葉。 ④身施(しんせ)・手を差しのべるなどの身体的な事柄。
 ⑤心施(しんせ)・他の人々を思いやる心。
 ⑥床座施(しょうざせ)・座る場所を譲ること。
 ⑦房舎施(ぼうしゃせ)・家や部屋などを他者の為に用いること。

であります。
 法華経や、大聖人様の御書にも、人の振る舞いや言葉がいかに大切であるか種々説かれています。

 簡単なようで難しいですが、しかしお金がかからないのに、効果があります。

 創価学会向けに、志ある方がビラを配って下さっていますが時々学会員が文句を言いに来ます。

 上から言われて渋々来たり、他の会員の手前虚勢を張っている姿がよくわかります。

 はじめの頃は、ニセ本尊を拝んでも幸せになれませんよとか、池田さんは元気なんですか?現証が出ていますよね?などと言っていましたが、だんだん顔なじみになってきた人には、「そろそろ一緒に信心しませんか?」「昔のように一緒に登山しましょうよ」「○○さんと一緒に勤行唱題が出来るように祈ってるんですよ」と言っています。
 向こうも想定外の言葉らしく、ハッとした顔をして、つり上がった目が戻ります。思わず微笑みかけて、まずいという顔をする人もいます。

 みなさんのように、創価学会のおかしさに気付き、勇気と行動力のある、機根の高い方はとっくに脱会しています。
 しかし、残っていながらも悩み苦しんでいる人も大勢いることも事実です。最近は、ホームページを見たと悩んでいる学会員がメールや電話をしてくるようになりました。
 我々は学会員への折伏も、粘り強く時間の無駄だと諦めずに続けて行こうではありませんか。

 世間でも、だんだんと信濃町の駅周辺は学会の施設が乱立しており不気味であるとの声を上げる人が出てきました。
 選挙で、公明党と創価学会の関係を堂々とテレビで取り上げるようにもなりました。
 平成33年に向けての大きな流れを感じております。

 平成2年以降、決死の覚悟で宗門についた御信徒と僧侶で、大結集の総会、客殿や奉安堂や御影堂など、本山の諸堂宇建立や改修など数々の難事業を成就してきました。
 今の我々が、熱原の法華講衆・金沢の法華講衆を模範とするように、100年後・200年後には平成の法華講衆を見習いなさいと言われるようになることでしょう。

 未来広布は、我が法華講衆にかかっているのです。この時、ここに巡り合わせた我々には、深い因縁と使命があるのです。
 御法主日如上人は、
『「私は一生懸命、信心をしているのだけれども、なかなか功徳がない」と言う人がいますけれども、では、どういう信心をしているのか。それが自分のためだけの信心であるならば、それは二乗根性に等しい信心ですから、そこには本当の功徳はありません。
  広宣流布というのは化他行ですから、広宣流布を忘れた信心であるならば、いくら行っても意味はありません。』
と、ご指南されています

 私たちは使命を自覚し、人々へ『無財の七施』の実践をしながら進んで参ろうではありませんか。

 ご清聴ありがとうございました。            

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