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  【口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染む】
 積功累徳
 
 
 皆さんは、日蓮正宗の信仰者として、それぞれ何かしらの体験や確信があって、信行に励まれていることと思います。
 しかし、時には自分の祈りが思うように叶わない時や、悪いことが起こった時に「どうして?」と思う事もあるかも知れません。
 本日は、「積功累徳(しゃっくるいとく)」と題して、
・御本尊様を拝めばなぜ功徳があるのか?
・そもそも功徳とは何なのか?
ということを、限られた時間の中ではありますが、お話ししたいと思います。

【お題目とは】
 昔から創価学会では、「妙法とは宇宙根源の法」と説明し、「センセーと呼吸を合わせてお題目を唱えなさい」と指導していました。
 これら二つを合わせて聞くと「センセーとは宇宙創造の神なのか?」と思わずにいられませんが、何年も繰り返しこういった指導が行われ、センセーを永遠の指導者とあがめ奉りすぎて、組織全体が狂ってしまった淵源(えんげん)がここにあると思います。
 そして、自分達の拝んでいる御本尊とは、宇宙の根本法則を日蓮大聖人が、一幅の『曼荼羅』と顕されたのであるから、この御本尊を信じれば、大宇宙のリズムと合致し、幸せになると言います。
 これは、根本的に大きな間違いです。
 そもそもお題目とは大聖人様が一身に所持される法です。「大聖人様」と「南無妙法蓮華経」は、一体です。ですから、二座の御観念文で、「人法一箇(にんぽういっか)の大御本尊」と尊称申し上げるのです。
『御義口伝』には、
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御書1773頁)
と仰せられ、この御本尊が大聖人の当体そのものであると教示されています。
 したがって大聖人を離れて南無妙法蓮華経はなく、南無妙法蓮華経を離れて御本仏日蓮大聖人はないのです。


【御本尊様とは生身の大聖人様である】
 我々、日蓮正宗の僧俗は宗祖日蓮大聖人様を「末法の御本仏(ごほんぶつ)」と仰ぎ奉ります。
 御本尊様の御相貌(ごそうみょう)については『本尊七箇之相承』に
「中央の首題、左右の十界、皆悉(ことごと)く日蓮なり」(聖典379頁・趣意)
と仰せの如く、霊山会上の儀式の姿を借りて、日蓮大聖人の一心に具わるところの十界互具・百界千如・事の一念三千の全体を顕すのです。
 すなわち中央の南無妙法蓮華経・左右の十界の聖衆ともに、日蓮大聖人の御生命全体を顕わすのです。故に大聖人は、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(御書685頁)
と仰せられるのです。
 よって、御本尊様は煩悩充満の罪障深い凡夫の胸中にあるのではなく、日蓮大聖人一身の当体なのです。
「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是れなり。」(御書1696頁)
との御本仏様の御言葉を虚心坦懐(きょしんたんかい)、拝信するべきなのです。
 
 よく学会では、
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我れ等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書1388頁)
の御文を引いて、「我々の胸中にも御本尊がある」と言っていますが、それは理論上の話です。
「法華経を持ちて」の法華経とは御本尊のことです。
もちろん、我々衆生の命にも仏性はありますが、正しく御本尊を信じ、境智冥合(きょうちみょうごう)させていただく事によって、はじめて顕れてくるのです。
 この「凡夫の仏性」=「御本仏大聖人様の魂魄(御本尊)」として混同するところが、既に迷いの姿と言えます。


 
日蓮大聖人の正しい信心においては、御本尊様を大聖人様がそこにいらっしゃると拝していくことが肝心です。
 総本山第二十六世・日寛上人は、
「心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染(し )み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙(ほんがみょう)なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや」(法華取要抄文段・文段545頁)
と御指南されているように、御本尊様は「仏界」であり、私たち衆生は迷いの「九界(くかい)」なのです。
 その九界の我々が、仏界の御本尊を「仏様の御当体」と信じて南無妙法蓮華経と唱えるところに、仏界即九界、九界即仏界、十界互具となり、境智冥合となるのです。



【大聖人を御本仏と拝さずに唱える題目に功徳無し】
 南条殿御返事に、
「教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山(りょうじゅせん)にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法論の所、喉は誕生の処、口中は正覚の砌なるべし、かかる不思義なる法華経の行者の住処なれば、いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し、人貴きが故に所尊しと申すは是なり」(御書1569頁)
と生身の仏の境地を明かされています。

 以上を見てきますと、世の中には「南無妙法蓮華経」と唱える教団は数多(あまた)存在しますが、大聖人様を「末法の御本仏」であると信じないで、ただやみくもに釈尊像や好き勝手なモノにお題目を唱えても、御本仏大聖人様と境智冥合は出来ませんから、全く意味が無いことが理解できると思います。



【登山しなければ本物の信心になれない】
 また、いかに大聖人様を御本仏と仰いでいようと、創価学会・顕正会・正信会などの本山を否定する者に功徳は全くありません。
 むしろ、十四誹謗をことごとく犯すことになりますから罪障しか積まないのです。
 こういう方達が、一人でも多く間違いに気付き、共に登山できることを願って止みません。
 また、日蓮正宗の信心をしていても、登山を軽視している人に本物の功徳はありません。
 健康上の理由等がある場合は仕方ありませんが、全く行く気が無い、登山しようという発想すらない方は、ここで大いに反省すべきです。
 なぜなら、寺院の御本尊様も、皆さんの家庭の御本尊様も、功徳はどこから流れてくるのかと言えば、奉安堂に御安置の大御本尊様からだからです。
 よって日寛上人は、
「就中(なかんずく)弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段・文段 197頁)
と仰せになられるのです。
 大聖人出世の本懐たる大御本尊は、ニセ法主の謗法にまみれ、汚されたと退転者集団は言います。しかし、人法一箇の、つまり大聖人の御魂魄が謗法に塗れたのならば、そもそも大聖人の法は嘘と言うことになってしまいます。
 大聖人様は、御在世中と同じように未来永劫に渡って一切の人々を救っていくために、大御本尊様を建立され、一切の法を日興上人様へ付属されました。
 これは、御本仏としての深い御仏智なのです。
 大聖人様は、
「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々(ちゃくちゃく)座主伝法の書、塔中相承の稟承(ぼんじょう)唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし。」(御書1684頁)
と仰せです。


 
私たちは、大聖人様にお目通りする心持ちで登山するのです。
「今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚の砌なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」(御書1502頁)
と、大聖人様は登山の功徳を仰せ下さっています。


【積功累徳】
「信心して年月が経つが、まだ功徳が出ない」ともし思う方がいるならば、それは日蓮正宗の信心の本質がまだ分かっていないと言えます。
 御本尊は日蓮大聖人の御当体であり、尊極の法体であります。我々末法の衆生は、功徳聚にまします御本尊に帰命し、修行することにより、功を積み徳を累ねさせていただくのです。
 功徳は出たとか出すものではなく、積むものなのです。
 よって御本尊様を「打ち出の小槌」や「アラジンの魔法のランプ」のように考えてはなりません。
 ランプの精の魔神は、自分をランプから呼び出し
た人間がどんな者であっても、またどんな邪(よこしま)な願いでも聞き入れますが、当然ながら仏様は衆生のどんな願いでも聞き入れて下さるわけではありません。
 功徳を実感できない方は、心がけと実践の方法が間違っている、もしくは甘いのです。ですから、御本尊様に通じないのです。御本尊様に認めて頂けるような信心をしましょう。

 
 
では、どのように心がけるのか?
「久遠実成の釈尊と、皆成仏道の法華経と、我等衆生との三つ全く差別無しと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を生死一大事の血脈とは云ふなり。此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり。法華経を持つとは是なり。」(御書513頁)
との仰せを「何と畏れ多く有り難いことか」とどこまでも謙虚に信じ切る事です。
 そして、我々の読んでいるお経本に「一心欲見仏、不自惜身命」とあるように、真剣に祈って実践していくことです。ここがいい加減であるならば、当然、御本尊様と自分が同じになれるわけがありません。
愚痴や物乞い信心から脱却して、感謝の信心に転換できれば、自ずと自分が変われます。
 自分が変われば福徳も付き、自分を取り巻く環境も変わります。
 結局、私達は先ず、御本尊に向かった時の姿勢がどうなのか、それが大切なのです。
 入信していれば何とかなるというのは間違いです。祈って正しく行動した分しか結果は出ません。
 往々にして形だけ信心している人ほど、不信の愚痴をこぼしがちです。
 日々の勤行唱題、寺院参詣、登山、御供養、推進会などの会合等、どれも欠かすことの出来ない大切な修行なのです。
 信仰はどこまでも実践なのです。

 信仰によって、自分が一生涯成長していけるように、鍛錬していくための修行をしている訳ですから、受け身でやらされる信心でいるのか、求めて積極的に取り組むのかでも差が出てくるものです。

本物の功徳とは凡夫の欲にまみれた願いというより、「六根清浄」といって、衆生の迷いの生命を浄化し、悪い性を断ち切るという果報なのです。
人には持って生まれた因縁や宿業があります。今月の拝読御書の『佐渡御書』に、
「我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。
形状端厳(ぎょうじょうたんごん)をそしれば醜陋(しゅうる)の報いを得。人の衣服飲食(おんじき)をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑
へば貧賎(ひんせん)の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定まれる法なり。」(御書582)
と説かれるがごとくです。
 これらを根本から打開するには、この御本尊様しかありません。こう考えるべきだ、こう生きるべきだという「自己啓発本」等を読むのも結構ですが、どうしても過去世からの命や因縁の問題も絡んで来ますから、小手先の対応では限界があるのです。

【この信心に誇りを持とう】
 私たちは、大聖人様が、
「一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し」(御書660頁)
と仰せになった一閻浮提第一の信心をしていることに誇りと喜びを感じて、この信心を全うしていただきたいと思います。
 この信心を全うしていけば、老若男女を問わず、だれでもその信心の喜びを感ずることがでます。
 そして、その喜びを人に分けてあげましよう。それが広宣流布につながっていくのです。功徳を実感できなくては人に伝わりません。仏法の教義を語るのではなくて信仰の歓びを語ることが大切です。
 大聖人様は、
「喜び身に余るが故に堪え難くして自讃するなり」(御書734頁)
と仰せです。
 信心をしていて、ありがたくて嬉しくてしようがないから、つい「日蓮正宗の仏法はすごいよ」と言ってしまう。これが本当の折伏です。
 功徳が実感できない方、歓喜が湧かない方は、まず本気で悩んで祈るべきはこの事です。日常の様々な悩みや問題も信心が低迷しているが故に起こるのです。
 日常の願いは、常に人の幸せであり、自分のことを願うとしたら「今日も一日無事に過ごすことが出来ました。ありがとうございました。」という御本尊様への報恩感謝と「どうか本気で信心できる自分にさせて下さい。」「御本尊様の素晴らしさを人に語っていける人間にさせて下さい」という一念が大切です。
 常に誰かのことを祈れる自分になれれば、不思議と自分の願いはいつの間にか叶っていくのです。


 
今月29日は支部登山があります。どうか一人でも多くの方が、大御本尊様の元へ集えますよう、お互いに呼びかけ合って戴きたいと思います

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