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  【法華講を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり】
 散骨についての私見
 
 
【終活について】
 最近は、『終活』についてテレビなどでさかんに言われるようになりました。ご存知の方も多いと思いますが、終活とは「人生の終わりをより良いものとするため、事前に準備を行うこと」です。
具体的な活動内容としては、
①エンディングノートをまとめる
②お葬式を決めておく
③お墓を探しておく
④財産や相続をまとめておく
⑤自分の荷物整理をしておく
などが挙げられます。
 エンディングノートには、終末期の医療をどうしたいのか、家族への感謝、どのような葬儀や埋葬をして欲しいかなどを元気なウチに書いておくようです。
「死んだときのことを考えるなど縁起でも無い」と忌み嫌う方もいらっしゃるでしょうが、大聖人様も、
『人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも若きも、定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし』(妙法尼御前御返事1482)
と、仰せられています。
 人の命は無常です。そして、草の葉についた小さな露は風が吹けば落ちてしまうように、はかないものです。賢人も愚人も、そして老若男女を問わず、死は必ず訪れてくるのです。故に、臨終のことを真剣に考えて、それから生きることを考えなさいと、説かれるのです。
 不慮の事故や、急に余命宣告される場合もあるでしょうし、認知症になる可能性もあります。
 何も準備していなければ、困るのは自分であり、また家族なのです。

 特に、一人暮らしをされている方や、家族で自分だけが信心をしている場合は周到な準備が必要です。日蓮正宗の信徒であれば、当然、菩提寺の御本尊様の元で葬儀を行い、臨終には日蓮大聖人様にお迎えに来ていただきたいと願うはずです。
 それを叶えるためには、やはり日頃から準備しておくことは大切です。具体的には、例え未入信家族であっても、もしもの時には菩提寺で葬儀を執行してもらいたいと伝えておく。身寄りの無い人の場合、行政や近隣の方などに、菩提寺へ連絡してもらうように頼んでおくことなども大事です。
 いくら日頃から信心修行に励んでいても、こちらに依頼や連絡が無ければ日蓮正宗で葬儀を執行することは出来ません。
 菩提寺の住職だからと言っても、依頼が無ければ、訃報を聞いても葬儀を営むことはできないのです。
 特に、家族や身内で信心に反対する人がいる場合、「公証役場」で遺言書を作製しておけば安心です。

【散骨について】
 ここからが本題ですが、先日の座談会で「今度の御講で何か聞きたいことはありますか?」と質問すると「身内(創価学会員)で私が死んだらお墓に入りたくない。散骨して欲しいと言われたのですがどうなのでしょうか?」と質問がありましたので、あくまでも私見ですが、お話ししていきたいと思います。

《散骨とは》
 火葬されたあとのお骨を、パウダー状になるまで砕き、「陸地」か「海」に撒きます。
 最近では何でも商売で、風船やロケットで宇宙空間へ散骨するサービスもあるようですが、乗り物を利用する一般的な散骨は、
・船で海に散骨
・航空機で海又は山へ散骨
という方法があるようです。
 さらに、手元供養と称して、遺骨を加工した人造ダイヤモンドやセラミックプレートを製作する業者まであります。

《法律的にはグレーゾーン》
 日本において、墓地埋葬に関する法律は「墓地埋葬法」と「刑法190条」遺骨遺棄罪の2つがあり、そのどちらにも「散骨」の定義はなく、法務省の見解は『節度をもって行えば違法ではない(あるいは問題ない)とする』となっています。
「墓地埋葬法」が制定された昭和23年当時に規定されているのは一次葬として「埋葬(土葬)」「火葬」、二次葬として「埋蔵(埋骨)」「収蔵(納骨)」のみです。
 理由は、この法律が作られた昭和23年当時、散骨という葬法は想定外の事だったのです。
 ですから昨今の散骨の可否に関しては当局(法務省・厚生省(当時))は種々考慮されて法律に無い以上、「節度を持って執行・・」云々との解釈をせざるを得なかったようです
 そのため、散骨業者はあたかも合法のように宣伝していますが、「散骨は合法でも違法でもなく、ルールとして確立していない」が、現時点における正しい認識と言えます。

《一般的な国民感情》
 土地に散布を行う散骨は各地でトラブルが起こっています。法律では一応「問題ない」とされていても、地域によっては禁止条例があるところもあります。
 例えば北海道夕張郡長沼町において発生したトラブルもその一つです。
 平成16年3月、NPO法人により樹木葬森林公園の施設設置の届け出が行われましたが、 地元では大騒ぎとなり平成17年5月に日本で初めての散骨を規制した条例が制定されました。
 墓地造成と同じく、陸地での散骨場は設置を予定する場所の近隣住民が、貯水場に近い、農作物に対する風評被害や地価の下落を懸念しトラブルになりやすいようです。

《散骨を行う人の実情》
・金銭的理由で散骨を検討する
・お墓への価値観を見出せない
・故人が生前に言い残した
・故人は旅行が好きだった
・子供達に墓守の負担をかけたくない
・子供がいないのでお墓を作っても墓守できない

 最近では、嘆かわしいことに子供が高齢の親に「墓参などしたくないので墓を処分して欲しい」と『墓じまい』させる例があるようです。
 墓地は持っているだけで管理費がかかるので、先祖や親の遺骨は散骨してしまおうという考え方です。
 先祖を敬うことや感謝する気持ち、供養の気持ちは無く、無宗教という以前に人間性が問われる事だと思います。

【なぜこういう風潮になったのか?】
 一つには、寺院や業者が葬式や埋葬に関し、あくどく儲けるという風評が広がっています。
 さらに、散骨に賛成・推進する諸勢力(思想団体や、散骨を売り物にしている企業など)の存在があります。
 また、創価学会の友人葬儀も多分に影響していると思います。平成3年から、「学会をいじめる坊主を葬儀に呼びたくない」という流れから、「塔婆や戒名は坊主の金儲けの手段」「大聖人の教えには無かった」などと教義や歴史をねじ曲げ25年にわたり執行してきました。
 日本人の5パーセントが学会員としても、全国の葬儀の20件に1件は友人葬儀です。また、学会員は地方新聞などへ宗旨こそ出しませんが、真心で友人を送った葬儀がいかに素晴らしく感動的であったかなどを地道に投書しています。
 また、最近のある学会員は、同士にこう言っています。
「葬儀など化義です。葬儀で成仏など断じて決まるわけがないではないか。
 友人葬で上げようと、日蓮正宗で上げようと、邪宗で上げようと、念仏で上げようと、神道で上げようと、キリスト教で上げようと、残った親族の好きにすればいいのです。
 成仏とは、人の生き方です。日蓮大聖人のように生きて、日蓮大聖人のように死のうではないか。その覚悟はないのですか。
 そのような信心だから、戸田家が宗門で葬儀を上げる事に狼狽し拘るのです。葬儀屋が儲かるだけではないか。
 人間は生きたようにしか死ねないのです。生も歓喜、死も歓喜と大聖人の説いたように生き、死ねばいいのだ。葬儀など化義に過ぎない。散骨だろうと、家族葬だろうと何でもいいのです。
 天に恥じぬように生きようではないか。みなさん。」(某掲示板より)
 結果、知らず知らずのうちに、国民が当たり前に行なってきた菩提寺での葬儀を、不幸に乗じて僧侶から法外な戒名料や布施を請求されると考えるようになり、直送と言って葬儀を行わず荼毘に付して、散骨するケースも増えてきました。
 学会員が友人葬儀で成仏の確信を得られないから、どうやって葬っても関係ないと言い出すのです。
 これは世間でも同じで、他宗では僧俗共に、『成仏出来る』『成仏した』という確信も実感も無いから、お金をむしり取られたという感覚になり、布施をすること自体が損をしたという感覚になり、無宗教の方向で葬儀をしたいと考える人が増えたのだと思います。

【大聖人の化儀】
 葬儀は、もともと臨終における厳粛な即身成仏の儀式であり、 法事とともに、故人に対する追善成仏にその基本があります。
 臨終の正念を遂げるためには、我々は日頃から、正しい三宝への信仰を正しく拝し、正しく行じていくことが大切です。この臨終の正念の有無は、個々それぞれの信心の厚薄によります。
 それに対して、葬儀や埋葬とは、故人の信心の厚薄にかかわらず、遺族縁者の信仰心や報恩の意志によって、追善成仏のために執行するのです。
 我々凡夫には、故人の生涯にわたる信心の厚薄など、 到底、判断することはできません。したがって、故人の信心の厚薄にかかわらず、追福作善をもって臨終の一念を助けて成仏得道せしめ、真の霊山浄土へと導くことが大切なのです。
 それが葬儀のもつ厳粛な意義です。したがって、この葬儀を何宗でもいいと軽んじたり、省いたり、その化儀を改変したりすることは、三世を説く仏教を信仰する者としての資格が全くないと言えます。

●富木常忍氏は、母の没後、 間もなくその遺骨を抱いて、下総の地よりはるばる身延へと参詣し、大聖人にその追善を願い出ています。
●南条兵衛七郎氏の死去の報を聞かれた大聖人は、わざわざ上野の地へと赴いて墓参をされ、後年には代参として、日興上人を上野に遣わされました。さらに、六郎入道の死去の折には、大進阿闍梨を代参として遣わされています。
●日蓮大聖人は弘安5年10月13日、 武州池上の宗仲の館で、不滅の滅の妙相をお示しになられま
した。
 翌14日、本弟子6人が中心となって、戌(いぬ)の刻に入棺され、子(ね )の刻に葬送・火葬申し上げました。『宗祖御遷化記録』
●日興上人は弘安六年一月、身延での大聖人様の百箇日忌法要の折り、六老僧は「墓所輪番制」を定めましたが、日興上人以外の五老僧はこれを遵守せず、宗祖の一周忌、三回忌にも登山しませんでした。
 日興上人は五老僧の不知恩を嘆かれ、
『身延の沢の御墓の荒れはて候いて、鹿かせきの蹄(ひづめ)に親(まのあた)り懸らせ給い候事目も当てられぬ事に候』(『美作(みまさか)房御返事』聖典555頁)
と仰せです。
 実際に日興上人が、老僧等の番衆が登山してこないのが悪いとばかりに、自分達も先師の御墓を放置して、目も当てられぬほど荒廃(こうはい)させることなどあり得ませんが、強く報恩の念を喚起(かんき)し、登山参詣を促されたものと拝されます。

《お骨に関して大聖人の教え》
 近年、「千の風になって」がヒットしましたが『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私は居ません。眠ってなんかいません。』 の歌詞に多くの人が共感しました。
 しかし、大聖人様は、
「法華を悟れる智者、死骨を供養せば生身即法身なり。是を即身といふ。さりぬる魂を取り返して死骨に入れて、彼の魂を変じて仏意と成す。成仏是なり。即身の二字は色法、成仏の二字は心法、死人の色心を変じて無始の妙境妙智と成す。是則ち即身成仏なり。」   (木絵二像開眼之事 御書六三八頁)
と仰せです。
 意味は「法華経を悟った智者が死後の骨を供養したならば生身即法身となります。これを即身といいます。亡くなった時に去って行った魂を取り戻して死骨の中に入れ、かの魂を変えて仏意となすことができます。これを成仏というのです。即身の二字は色法(身)です。成仏の二字は心法(心)です。死者の身と心が変わって始まりなき永遠の過去より終わりなき永遠の未来まで存在する悟りの境智とすることができます。これが即身成仏です。」
 私が自分の事を、「法華経を悟った智者」と言う気は毛頭ありませんが、御本尊様は「法華経を悟った智者」たる大聖人様の魂魄であり、お題目は「法華経を悟った智者」たる御本仏大聖人様が所持される法です。
 ですから、一度御遺骨を御宝前に御安置して読経唱題すれば、即身成仏出来るのです。
 こうして見てきますと、散骨は大聖人様の教えからしてそぐわないと言えます。

【現実的な問題と対応】
 金銭的な理由や後継者の問題から、墓地を持てない方もいらっしゃいます。
 当慈本寺には、墓地は無く、一時預かり用の納骨室しかありません。
 しかし、総本山では大納骨堂があり、永代納骨等もありますので、先行きが不安な方は、生前中から依頼しておいて下されば住職が責任を持って対応させていただきます。
 世間一般の永代納骨や、散骨にかかる費用より格安でもあります。毎年、猊下様が本山の僧侶方を従えて墓参して下さいますので、こんなに有り難いことはありません。
 また、家族はいるけれども、散骨にしたいと考えている方は、残された遺族の事も考えて頂きたいと思います。
 墓参り等を通じて、先祖への報恩、御本尊様へ祈ることを教えることも大事なみなさんの役目です。
 葬送儀礼の後、墓に故人を納める事により、遺族は家族の死を最終的に受け入れることが出来るのです。
 生きているうちから自分の埋葬場所を定めておけば、後生に憂いを残さなくて済みます。また残された遺族も故人を偲び成仏を願う場所を得ます。
 お墓参りは、遺族の心のよりどころとなると同時に親戚との絆を深める役割も果たしています。
 原始人でさえ、ちゃんと花をたむけて葬っているのです。
 安易な理由での散骨は、先祖や父母がどんな想いで墓を建て、そこへ入ったかなどを全く無視したものであり、子や孫といった次世代から『供養する場所や機会、供養する心』を摘み取る行為になってしまいます。
 自分の親や先祖の供養に金銭的負担を負うことは当然のことであり、それを人の道として教えていくことに遠慮は全く必要ありません。

 今回、国内で「散骨」される方が増えていることは知っていましたが、私自身、今までどなたかに相談されたことも、詳しく調べたことも無く、「日蓮大聖人様の教えに照らしてどうなのか?」などと考えたことがありませんでしたので、良い機会となりました。
 質問をして下さった方へ感謝しています。
 みなさんも、今回を機に、自分はどうやって最後を迎え、送って欲しいのかということを家族や親族と真剣に話して頂ければと思います。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 

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