ホーム 御住職の法話目次 御住職の法話 (第256号)
   

   【若し法を聞くことあらん者は、一人として成仏せずということ無けん】
 法門聞法の功徳
 
 
「法門聞法の功徳」と題しまして、お話しをさせていただきます。
 この、御報恩御講では、御本仏日蓮大聖人のご命日に当たり、住職と御信徒がともに読経・唱題して、仏・法・僧の三宝に報恩感謝申しあげます。
この三宝について大聖人は、
「末代の凡夫、三宝の恩を蒙(こうむ)りて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん」(四恩抄・御書268頁)
と仰せられ、三宝への報恩なくして、真の幸せである成仏はかなわないと教えられています。
 この三宝への御報恩のため、本宗信徒は御講に参詣して真心からの財物をお供え(財供養)し、読経唱題(法供養)することによって、大きな功徳善根を積むことができるのです。
 仏に命を奉るとは、現代で言えば、自分の人生における限られた時間と、自分の命をつなぐ大切な浄財を御本尊様へ供養する事です。
 大聖人様は、
「焼米(やきごめ)二俵給畢(たびおわん)ぬ、米は少(すこし)と思食(おぼしめ)し候へども人の寿命を継ぐ者にて候、命をば三千大千世界にても買はぬ物にて候と仏は説かせ給へり、米は命を継ぐ物なり譬えば米は油の如く命は燈(ともしび)の如し、法華経は燈の如く行者は油の如し檀那は油の如く行者は燈の如し」(曾谷殿御返事・御書1380頁)
と仰せです。
 米は命を支えるものであり、その米を供養して法華経の行者たる日蓮大聖 人を支える檀那の尊さを示されています。
この御文における燈と油のたとえは、命と米、法華経と行者、行者と檀那の関係と三重になっており、油が無くなれば燈は消えるように、法華経の行者である日蓮大聖人が末法に御出現になって弘通されなければ法華経(御本尊)が流布することはなく、その大聖人を外護し供養する檀那がいなければ大聖人も弘教することはできないのであり、したがって御供養した米は大聖人の命を養う功徳があるだけではなく、正法の流布を助ける大功徳があるのであると仰せなのです。
 皆さんの菩提寺である慈本寺も同様であり、皆さんの浄財によって広宣流布の出城である寺院は成り立っております。
 皆さんが汗水垂らして得た、生活の糧となる浄財を、たゆまず真心から御供養申しあげるからこそ、御本尊様より甚深なる功徳を頂けるのです。
 このように、常日頃の三宝への御報恩を報ずる意味で、とても重要な法要がこの御報恩御講ですので、毎月第二日曜日の御講は、全てに最優先して参詣するように心がけて下さい。
 また、同信の人たちにも声をかけ、また、家族そろって御講に参詣することにより、異体同心や法統相続・一家和楽の信心を築くことができるのです。
 
 御講ではまた、献膳・読経・唱題のあと、住職による法話が行われます。
大聖人は、
「法華経を説かん僧を供養して、後に須臾(しゅゆ)の間も此の経の法門を聴聞する事あらば、我(われ)大なる利益功徳を得べしと悦ぶべしと見えたり」(松野殿御返事・御書1047頁)
「何としても此の経の心をしれる僧に近づき、弥法の道理を聴聞して信心の歩みを運ぶべし」(新池御書・御書1457頁)
と仰せになり、法話を聴聞する功徳が絶大であることを示されています。

 皆さんが御講で住職の法話を聴聞することによって、聞法の功徳が積まれると共に悪縁に惑わされない堅固な信心を確立することができるのです。
 自らの信心を奮い立たせ、発心できる絶好の機会とも言えます。

 日寛上人は、法華聞法の功徳として、「キリギリスの聞法」という逸話(いつわ)を説かれています。
『むかし、中国越中に海蓮と名乗る僧がいました。彼は法華経を信仰していて、法華経を序品第一から第二十五の普門品までは唱えることが出来るし、内容も理解していましたが、どうしても残りの三品は唱えることができませんでした。
 一生懸命に努力をしてみるのですが、なぜか出来ないのです。そこで多くの霊地に足を運んで難行苦行に打ち込み、暗記して唱えられるように祈り続けました。
 そんなある日、夢に出てきた一人の菩薩が海蓮に語りました。
「おまえの前世は蟋蜶(しっそつ)(キリギリス)で、たまたま寺の壁にとまっていた。その時、寺の比丘が法華経を読誦する声をキリギリスとして聴いていた。
 けれども、比丘が普門品まで読誦すると疲れてきたので、体を休めるために壁に寄りかかった。そのため、キリギリスだったおまえは押されて死んでしまった。
 しかし、聞法の功徳力によってキリギリスは人間として今生に生まれ、法華経を読誦しているのである。だが、おまえはキリギリスの時に三品を聴いていないので読誦することができないのだ。」
 海蓮は夢から覚さめ、読誦できない理由を覚(さと)って一心に精進を重ね、ようやく三品に通じることができたのである。』(大日蓮昭和64年1月89頁 一部改)
 本堂にいた虫でさえ、法華聞法の功徳によって人間として生まれ変わることが出来る功徳を頂けるほど、功徳の大なる事を説かれています。

 皆さんへお話ししている際、一生懸命メモを取る方、身を乗り出して目をキラキラさせながら聞いている方もいれば、寝ている方、実につまらなそうに聞いている方など様々です。

 表情や態度には、その方の考え方、命の状態が顕れますし、なにより皆様の正面に御安置の御本尊様はすべて御照覧になっておいでです。
「まだ聞かぬ 人のためには ほととぎす いくたび聞くも 初音なりけり」
 御開山日興上人は、御説法や御講義をなされるにあたっての心構えを、この歌を引かれて示されたと伝えられています。
 総本山石之坊の境内に説法石がありますが、大石寺開創の当初、お弟子を従えつつ、日興上人はこの説法石のところで、集まった近隣の人々たちを前に、法を説かれたと伝えられています。
 日興上人は労をいとわず、何度でも同じ甚深の御法門を説かれたのです。それが先の御歌となって残されたものと拝されます。

 法華経『方便品』に、
「若(も )し法を聞くことあらん者は、一人として成仏せずということ無けん」(開結183)と、聞法こそが成仏のための要件であると説かれたお経文があります。
 法を聞いても、そのまま信ずる順縁(じゅんえん)の人と、反
対に謗(ぼう)ずる逆縁(ぎゃくえん)の人とがありますが、いずれであっても、ともに救われるというのが、「無一不成仏」の意味であり、法華経が諸経に勝れる大きな特徴です。


 皆さんは幸いにも、法門の話を聞いて、信じることができたからこそ信仰を続けておられる訳ですが、例え何度も聞いて耳にたこが出来ているような話であっても、初めて聞くような新鮮な気持ち、初心に還って聞くことが大事です。

 かつて池田大作は、平成二年十一月十六日、東京戸田記念講堂で行われた第三十五回本部幹部会の席上、
「全然、またあの難しい教義を聞いたって解んないもの。誰も解んねぇ。ドイツ語聞いているみたいでね。それで『俺偉いんだ。お前ども、信徒ども、信者、信者』そんなのありませんよ。この時代に、ね。時代とともに歩まなきゃいけませんよ」
と述べ、その模様は、全国各地の学会の会館に衛星中継され、数十万人の信徒が同時放送で見聞していたのです。
 池田の発言の矛先は、総本山の二大法要等において甚深の御説法をされる御法主上人に充てられたものであることは明らかでした。
 この二大法要における御法主上人の御説法は、本宗の甚深の法義を説かれるのでありますから、難解であることは当然でありますが、その時々の法門における筋道の深い意義が示されているのです。
 日蓮正宗の僧俗は、この御説法を信心をもって拝聴し、つとめて学んでいくよう心掛けることが肝要であるにもかかわらず、このように批判するのは、池田自身や学会首脳に、基本的な日蓮正宗の信仰心が欠けているためであり、大きな慢心があった証拠でした。

 御法主上人の御説法が難しくて理解できない事に怨執し、「猊下は、教学が我々より出来る事を自慢して、わざと難しい説法をして自分達を見下している。」と考えたのです。
 残念ながら、彼は自らの信心の狂い、慢心によって破門となり、多くの学会員を道連れにしました。
 彼は今では、一般会員の前に姿を現すことも、声を発することも出来なくなりました。
 たまに生気を失ったうつろな目をした写真が聖教新聞に掲載されているようですが、痛々しい限りであり、ハッキリと罰の現証が出ています。
 このスピーチを聞いて、おかしいと思い脱会された方が慈本寺法華講の礎となりました。
 創価学会員の数からすると微々たる数かも知れませんが、大聖人御在世当時も、大聖人が佐渡流罪になった折、残った信徒は千人中一人か二人だったことを考えますと、割合としては同じであり、それだけ一生涯正しい信心を貫いていくことは難事であることが分かります。

 一生涯、曲がらずに信心を続けていくには、我見を捨てて素直に御法主上人をはじめ住職の話を聞き続けていくしかないのです。
 もしも、御法主上人の御指南が命に入っていかない、住職の話が苦痛になってきたと感じ始めたならば、それは黄色信号が点滅している危険な状態だと言えます。
 自分で法門を理解したと悟ったように思っている方や、私はこう思うと考える人は、他人の話が聞けなくなります。
 そして聞けないばかりか、批判の目を住職や講中に向けるようになってしまいます。
 異流儀を唱え出す人、退転してしまう人はこのパターンに陥ってしまいます。

 総本山第五十九世日亨上人は、「謗法」について次のとおり御指南くださっています。
「宗門で謗法と云ふのは、折角(せっかく)御大法に入りても又は信心の家に生れても又は僧侶と成っても、兎角(とかく)信念が弱い処から遂に信仰の決定も出来ず、知らず知らず非宗教に成ったり非仏教に成ったり、他宗門に信を寄せようと思ふたり寄せたり、後には其為に明に反対の態度を取りて宗門の人法を批難攻撃する
 事になる、此を度々訓誡せられても、頑(がん)として改心せぬのが、即ち大謗法である、此様な人は残念ながら宗門から離れて貰(もら)はにゃ成らぬ。其は宗門では学問と修行との上位に、信心が置かれてあるから、信仰が無くなったり反対であったりする者は、小乗
 戒の婬盗殺妄(いんとうせつもう)の四重罪と等しく、世法の頸(くび)を斬る罪に当る、生存の価値が無い計りでない、生存して居れば他の多くの人を損ふ恐れが有るからである、其で無信反信の謗法者は厳重の誡として宗門から放逐せにゃならぬ」(日蓮正宗綱要 167頁)
 真摯に聴聞出来ない人は、【無心・反心の存在価値の無い人間】になってしまう可能性がありますから、気をつけるべきです。

 我々の信心・生きる目的は広宣流布であり、具体的には一人が一人の折伏です。常に折伏を願い、幸せに導いてあげたい人のことを願えることほどありがたく、充実した人生はありません。
 そうなれば、寺院参詣も自然に楽しくなり、相手にこう話してあげようと常に考えて、貪欲に何でも吸収しようという姿勢になりますから、住職の法話も苦痛ではなくなる事でしょう。

 勇気と時間と労力を割いて折伏した相手が、耳を塞いでこちらの話しを聞こうとしない場合も多々あるでしょう。しかし、信心の話をすることによって、相手の心田に妙法が植えつけられるのです。
 相手が嫌々聞いたとしても、いずれ種となり実となって成仏をしていくのです。
 ですから「あの人には、いくら言っても無駄」と、勝手に自分で折伏を退いてしまってはいけません。
 これは、講中に関しても同じで、育成も大事な修行であり、信心が弱っている方、悩みを抱えている方への激励も決して諦めてはなりません。

 最後に、総本山三十一世日因上人が金沢法難の渦中にある信徒に与えたお手紙を御紹介いたします。

「一結講中異体同心未来までも相離れ申すまじく候。中に於て一人地獄へ落入り候はば、講中寄合て救ひとるべし。一人成仏せば、講中を手引きして霊山へ引導すべし。」(妙喜寺蔵)

 金沢の法華講衆の固い絆に習って、我々も団結して進んで参りましょう。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 

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