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  【法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし】
 諸難を乗り越える尊さ
 
 
  
 日蓮正宗の信心を全うする上で、当然ながら毎日が功徳ばかりではありません。大聖人様が、四ヵ度の大難をしのがれて、
「其の外の大難、風の前の塵(ちり)なるべし。」(御書571頁)
と仰せられているように、大難をしのぎつつ、この信心を全うすることが大切です。
 しかし、私達凡夫は諸難よりも、毎日を功徳に溢(あふ)れて過ごしたいと願うのです。そして、功徳が実感できないと不審がり、何かよくない事が起きるとすぐに疑ってしまいがちです。
 たしかに病魔や、様々な悩みや苦しみも、あるよりはない方が良いに決まっています。

 しかし、信心によって簡単に功徳に満ち溢れた生活を毎日送れるかというと、そんなことはあり得ません。
 なぜなら、どんな人でも生老病死をはじめ、欲しいモノが手に入らない、愛する人と別れる、嫌な人と会う、煩悩に振り回されるという四苦八苦からは逃れられないからです。
 また、過去世から積んでしまった罪障もあります。
 私たちが信心をする上で、功徳は大切です。我々は功徳を願い、功徳が欲しいから信心をするのです。
 しかし、信心を鍛え、人として成長して行くには、諸難も必要なのです。従って、仏様の慈悲の上から、私達はそうした試練の時には、それを受けて立つ強さと気概が必要なのです。

 竜樹(りゅうじゅ)が書いた『大智度論(だいちどろん)』に「肥えて脂の無い羊。無常、苦、空の狼を見て、諸の結使(けっし)の脂を消し、諸の功徳の肉を肥えさせる。」(巻第十五、大正蔵二十五・一六九・B)
という話が載っています。
 ある国に王様がいました。あるとき、大臣にこう言いました。
「肥えた羊で、しかも、 滋養にあふれた脂肪の少ないものをもってまいれ。もし、もってこなければ、おまえに罰を与える。」
 この無理難題に、大臣は考えます。そして、まずは大きな羊を一頭、毎日草や穀物を与えてよくよく肥え太らせるのです。
 でも、それだけですと、ただの肥えた高脂肪の羊になってしまいます。
そこで、大臣はもう一工夫するのです。
 何をしたかというと、一日に三度、オオカミを連れてきて羊を脅かしたのです。
 羊にしたらいい迷惑ですが、その甲斐あって羊は善く肥えていたけれども、脂肪の少ない羊に育ったのです。
 そして、大臣は王様の望む通りの羊を献上出来たという話です。

『大智度論』にある【結使】とは、人の心身をしぼりつけて自由を奪う意味で、【煩悩】の別名です。 これは、煩悩が人間の生活において、あらゆる面で自由を奪い、成仏の道を歩むものにとって、実に厄介なものであることを示しています。
 私たちは功徳のみに囚われず、無常・苦・空のオオカミを観て、羊のようにおびえて諸々の煩悩の脂を消し、諸々の功徳の肉を肥えさせよという教えです。
 私達の、本化の菩薩の信心・修行とは、脂ぎった羊のように、何でもいいから太っていればいい、功徳さえあればいいということではありません。
 たまに雑誌の広告で、幸運のブレスレットを買ったら、宝くじや競馬で大当たりをして人生が逆転したといううたい文句で、札束の風呂に女性と入ったり、スポーツカーに乗っている写真が掲載されています。
 女性向けには、指輪やネックレスをつけると痩せるとか、若々しくなる、恋人が出来るなどと掲載されているようです。
 人の欲に直結したストレートな広告ですが、本物の金持ちは札束の風呂に入ったり、お金を積み上げて写真など撮りません。
 殆どの人はあり得ないと思っても、藁にもすがる思いで買う人がいるから、広告を出し続けるのでしょう。

 日蓮正宗の信心をしている人で、そう言うモノを信じて買う人はいないハズです。
 私たちは、そうした信心の上における煩悩・怠惰・慢心・油断という脂をそぎ落とすのです。そうして六根清浄なる謙虚な心、精進をする心、更には総ての諸難に負けない自分というものを鍛えていくことが必要なのです。
 そうした諸難がないとするならば、私達の信心は、ともするといい加減になります。
 困った時だけ信心すればいいと考えてしまいますから、毎日の勤行や唱題、折伏をはじめとした信心修行がおろそかになってしまいます。そうすると結局、自分の信心が駄目になってしまうのです。
 ですから諸難も、無い方がいいのは当たり前ですが、またそれも、大切なことなのだということを良くお考えいただききたいと思います。
 この信心をどんなことがあっても貫き通していくならば、「現世安穏 後生善処」という円満で安穏なる境涯を、自分の心身や家庭の上に築いていけるのです。

 乗り越える信心を貫いていけば、生苦の先に、生命の誕生と成長の喜びがあるのです。
 老いの境涯の中に一生を通して生き抜いた者の幸せがあるのです。
 病を克服し、蘇生の功徳を得るためには、病に立ち向かわねばなりません。
 死はまた新しい命への旅立ちであり、日蓮大聖人の信仰を通して迎える生老病死の四苦は、決して辛い苦しみと悲しみの中での四苦ではなく、赤子から幼年、少年、青年、壮年、老年へと成長し、自己の一生の尊い課程を示すものなのです。
 大聖人は『新池御書』で、「雪山の寒苦鳥」のお話しをされています。
昔、インドの雪深い山に、鳥のつがいが住んでいました。昼は太陽の光が当たるので、山でも暖かくなります。鳥たちは陽気に浮かれて、のんきに遊んでしまいます。
 ところが、夜になると昼とは打って変わって、厳しい寒さが鳥たちを襲います。昼間、楽しく遊びほうけてしまったことを激しく悔います。メスは「寒くて死んでしまうわ」と一晩中、泣き叫びます。オスは「夜が明けたら、巣を作ろう」と固く決意し、妻を懸命になだめるのでした。
 そのような苦しい思いをしながらも、夜が明けて暖かくなると、一晩中泣いていたことなどすっかり忘れてしまい、また昼間一日、遊びほうけてしまうのです。
 鳥たちは、夜は寒さに苦しみ、昼は遊びほうけるとことを繰り返していきました。そして、ついに、巣を作ることなく、むなしく一生を終えました。

 日蓮大聖人は、人間もまたこの寒苦鳥と変わらないと述べられています。すなわち、死んで地獄に堕ち、火に焼かれて苦しむ時は、今度、人間に生れたら、仏道修行に励んで成仏しようと決意するけれども、たまたま人間に生まれた時には名聞名利を追い求めて、無意味なことに命をかけて、仏道修行を忘れてしまうのだと仰せです。

 人は、逆境にいると能力を発揮し、安穏なときは怠慢な生活を送る傾向があります。
 しかし、本心を失った多くの人は、雪山の寒苦鳥のように逆境を体験しても、その体験を全く活かしません。末法の衆生をそのまま映し出したのが、雪山の寒苦鳥なのです。 

 信心も雪山の寒苦鳥にならないよう、勤行唱題で自己を見つめることが大事です。しかし、自分の生活が安定し恵まれているときは、なかなか難しいことです。
 そのために必要なことが、広宣流布への熱き思いと使命感なのです。毎日流される、悲惨な事件や事故、宗教がらみのテロ事件を見る際、皆さんは何を思いどう感じていらっしゃるでしょうか?
 事件や事故の被害者が「この信心をしていれば助かったかも知れない」とか、「世界広布が進んでいけばこのようなテロ行為も無くなるのに」と思う事はありませんか?
 しかし、現実問題として、いくら広宣流布のためとはいえ、イスラム国の武装勢力の集団へ乗り込んで行って折伏をしても、さらし者にされて殺され、国や宗門に迷惑をかけるだけであり、今は時で無いと言えます。

 それではなにをすべきか?
 自分に縁のある人々への弛まぬ地道な折伏こそが大事であり、
『諸法実相抄』の、
「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。」(御書六六六頁)
との御金言を信じていくのです。
 そうした使命感に燃えている時には、多少辛いことがあっても、また苦しいことがあってもなにがあっても、それを乗り越えることができるのです。

 今、宗門は三月には、日興上人御生誕770年の大事な法要を迎え、宗門は平成33年、宗祖日蓮大聖人御誕生 800年・法華講80万人の体制へ向かって新たに出発をいたしました。
 折伏をして色んな家庭と接すると、自分が今まで経験したことのない生活を垣間見ることが出来ます。
 ある意味、第三者の目で冷静にその家庭の問題や様子を、御本尊様を通して拝見できるので、自分自身の成仏の智慧を得ることが出来ます。
 相手の幸せを祈り、折伏をすることで、雪山の寒苦鳥にならないように、御本尊様から気付かせて頂けるのです。
 この気持ちで、日如上人の仰せのままに、折伏を地道に行うことで自他共に成仏していくのです。

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