ホーム御住職の法話目次  御住職の法話(第249号)

   法華経の剣は信心のけなげ(健気)なる人こそ用ふる事
 祈りのかなはぬ事はあるべからず

 
     
   私は慈本寺に赴任するにあたり、早々にやりたいと思っていた事の一つとして、ホームページの立ち上げがありました。
 今の社会で、殆どの事はインターネットで調べることが出来ます。また、スマートフォンの普及によって、より手軽になりました。
 始めた理由は、ホームページで大聖人様の正義を訴え続ける事は、今の時代、とても布教には有効であると考えていたからでした。
 幸いにも、うちの講にはM・Fさんがパソコンに詳しく、私は原稿を渡しているだけで、写真やデザインなどはお任せしていますが、素晴らしいホームページになっていると思います。
 手前味噌ですが、宗内の御僧侶や御信徒も閲覧くださっているようで、御僧侶から本山などでお声をかけて戴いたり、メールアドレスを載せている関係で、御信徒から激励やお礼、また質問などを受けることもあります。

 先日、去年の四月の法話「体験に勝る確信なし」(妙彩 第234号掲載)の内容について、匿名の方よりメールにて質問を頂きました。
 今日はこの内容についてお話ししていきたいと思います。
 まず、いきなりだと分かりにくいと思いますので、その法話の該当箇所を読み上げます。

 【体験に勝る確信なし】
 大聖人様は、
 「定業すら能く能く懺悔すれば必ず消滅す」(御書七六〇頁)
と仰せです。宿業を打開するには、より積極的な姿勢で、真剣に自分の過去の宿業と向き合わなければなりません。
 この信心を深める原動力になるのが体験です。信仰の世界ですから、いくら御法門の本ばかり読んでいても、信じて実践しなければ、何年経っても成仏の境界は得られません。
 ですから、毎月開催される広布推進会の体験発表に触れる事はとても大切な修行です。そこには苦難を乗り越えた真実の言葉があります。また、難しい教学は分からないまでも、体験して命に刻まれた深い悟りがあります。

 先日、大日蓮出版より、【法華講員体験シリーズ⑪ 病によりて道心はおこり候】という体験談集が発刊されました。
 かいつまんでご紹介したいと思います。

 秋田県・本要寺信徒の吉田徳市さん(『病によりて道心はおこり候』7頁~)は、平成二十一年に奥さんに折伏されて入信されました。
 しかし、奥さんの信心活動を見ても「洗脳されているのでは」としか思わず、奥さんのご機嫌取りでお寺に行く程度の信心でした。
 一年半後の平成二十三年一月、風邪をこじらせて肺炎を起こし、心肺停止状態で病院に運ばれました。意識が薄れる中で御題目を唱え、電気ショックで蘇生するという体験をされ、吉田さんは功徳とは何かを身を持って知ることが出来たのです。
 そして「私が体験した事が功徳であるならば、南無妙法蓮華経がいかに強力なエネルギーと法則であるかを痛感させられた。」と言うのです。
 奥さんが「信心は理屈じゃない。やらなきゃ判らない」と言っていた意味が、ようやく理解できたのです。
 なぜ、自分が御本尊様に生かされたかを考えて至った結論が「一心欲見仏 不自惜身命」の深い境地の信心だったと言います。
 しかし、その後に生まれた子供がダウン症で、しかも心臓の真ん中の壁に穴が二つ空いていました。信心を頑張ってきたのになぜという思いと絶望で、無理心中すら考えました。
 しかし、子供の笑顔を見て思い直し「この子は私たちに何かを教えるために、我が家に生まれてきたのだ」と感じるのです。
 仏様は「過去世の悪因によって今が不幸でも、今世で善因を積めば必ず幸福になり、今世の罪障を消すことになり、来世も当然幸福になる」と仰せで、自分だけが幸せになるのではなく、折伏しなければいけないという事を住職さんから聞いて、「この子の命を罪障で失わせないで下さい。折伏故の法難なら私の命を捧げますから、どうかこの子の命を長がらせ給え」と泣きながら唱題・折伏に邁進し、一年半の間に十六人もの方を入信させました。
 「折伏を意識するようになると、今までの己の動きはすべて折伏のためにあったかのように思えてきました。」と、人生の目的は広宣流布だと決めた時に、こういうことが見えてきたということです。
 その後、子供さんの手術は成功し、無事退院されて、一家そろって支部総登山会に参詣されました。
 仕事の方も順調で、家庭内も安穏になったそうです。
 吉田さんは「私は、一定の法則に従って幸福にも不幸にもなるということを知り、正しく罪障消滅する生活をすれば、例外なく幸福になっていくことを、身をもって体験しました。これこそ真の仏法であると確信しています。真の仏法は、いずれ世界の『常識』となることは間違いありません。」
と言っておられます。
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 この体験談に対して匿名のメールを送られてきた方の疑問や意見はおよそ以下の四つでした。
①吉田さんは幸せに暮らしたと書いてありますが、夫婦とも信心して、深い境地の信心だったのに、どうしてダウン症の子供が生まれたのでしょうか?
②子供が生まれる前、吉田さんご夫婦は、健康な子が生まれるようにご祈念されたと思います。
ダウン症がいけないというのではありませんが、世間一般では、それは幸せではないと思います。
③こういうのを読むと、やはりご本尊様のお力には限りがあると思います。
④日寛上人のお言葉に「祈りとして叶わざるはなく…」というのがあったと思いますが、「健常児が生まれますように」とどんなにご祈念しても、罪障や因縁があれば、そちらの方が勝る、ということでしょうか?
と言う内容でした。
 
 前置きが長くなりましたが、もしかしたら、皆さんの中で、同じような疑問を抱いた経験がある方もいるのではないかと思い、『祈りのかなはぬ事はあるべからず』と題して、お話しさせていただく次第です。
 信仰は、手品や奇跡ではありません。仏法は道理ですから、善因を積まなければ善果は得られません。
 また、誰にでも罪障はあります。この罪障を消し去ることは並大抵の信心では叶いません。
 親子・兄弟・夫婦となるのは過去世からの因縁であって、偶然では無いのです。
ダウン症の子供を授かるというのも、この御夫婦の因縁であり、生まれてくる子の宿業でもあります。
 健常児であっても、犯罪を犯したり、親を粗末にしたり、引きこもりになったりする子供もいます。
 要は、【五体満足であることが、立派な子供の条件になり得ない】と言うことです。
信心根本に、広宣流布の為に生きると決意したならば、ダウン症の子供が善知識となるのです。
 確かに吉田さんも、最初は、御本尊を疑い、子供の将来を悲観し、無理心中すら考えました。
 しかし、子供の笑顔を見て思い直し「この子は私たちに何かを教えるために、我が家に生まれてきたのだ」と感じるのです。
 そして、「この子の命を罪障で失わせないで下さい。折伏故の法難なら私の命を捧げますから、どうかこの子の命を長がらせ給え」と泣きながら唱題・折伏に邁進し、一年半の間に十六人もの方を入信させました。
 その後、子供さんの手術は成功し、仕事の方も順調で、家庭内も安穏になったのです。 
 すなわち、「ダウン症の今にも消えそうな小さな命が、家族の信心を奮い立たせ、引っ張っていく、仏様のお使いを立派にした」のです。
 この信心をしっかりやっていけば、どんな人でも、未来はいかようにも開いて行けます。
 徳がついて、人から信頼され愛されるようになれるのです。
世の中にはダウン症で生まれてきても、立派に社会に出て貢献しておられる方も大勢いらっしゃいます。
 幸せで無いというのは、偏見でしかありません。
体験発表された吉田さんの思いが、皆さんに正しく届いて欲しいと願います。

 大聖人様は、『祈祷抄』にて、
 『大地はさゝばはづるゝとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず』(630頁)
と法華経の行者の祈りは絶対に叶わないことが無いと断言されています。
 同じように、有名な御文で、先の匿名の方からの指摘もありました、日寛上人の御指南に、祈りが絶対に叶うという御文があります。
 『この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠(こうだいじんのん)の妙用あり。故に暫(しばら)くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり』。(観心本尊抄文段上 「日寛上人文段集」443頁)
と仰せです。
 しかし、凡夫の性というか多くの方が勘違いしやすいのですが、大聖人様は、
 「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。」(1520頁)とも御指南されています。
 これらの御文を文字の上だけで判断すると、「大聖人様の功徳には、限界や矛盾がある」とか「功徳と言っても観念的であり実相には至らない」などの、歪曲(わいきょく)した解釈をする人が出てくるのです。
 この矛盾とも思える二つの御金言の本質は「自力本願」である、ということです。
 祈りとは「こうなったらいいな」とか「こうしてくれないかな」といった、淡い夢や、漠然たる願望ではありません。
 また御本尊様や何かの作用によって、何とかしてくれるというような、他力本願の都合のいい夢物語でもありません。
 自ら願い、行動し、切り開くところに、祈りの本質があり、叶う道筋が顕れてくるのです。
 要するに、他力本願思想の「困ったときの神(仏)頼み」ではいけない、という前提があるわけです。
 アラジンの魔法のランプのように「どんな願いでも必ず叶う宗教」が、もし本当に在るのであれば、誰も苦労しません。
 また、その「願い」の本質も一般世間の認識と大聖人様の教えではまったく異なります。
 仏様は人々の思い通りの欲望をそのまま現実のものとして、与えてくれるわけでは決してありません。それでは人々が努力せず怠け者になってしまいます。
 むしろ、自身が望む結果とは真逆の結果が生じる事もあります。しかし、それを我々日蓮正宗の僧俗は、「御本仏日蓮大聖人様の御仏智」として捉えることが肝要なのです。
 その時は、凡夫の情として「残念」とか「どうして」などと思ってしまいます。
 しかし時が経つと、不思議に「あの時の結果は、あれで良かったのだ」と、心底痛感させられることが多々あります。
 要は、我々凡夫が望む欲と、仏様の御仏智とは全く別であり、目先の欲望や願望に振り回されている命を、暗黙の内に戒めておられるのです。
 宗門の根本教義は、絶対的な自立です。つまり、どこまでも乗り越えて行くことを教えられるのがこの信心です。

 例えば、南条時光殿は、七才で父を失い、兄や弟を亡くし、熱原法難で同士をかくまった事で幕府からは弾圧を加えられました。
 そんな中にあっても疑うことなく、正月を三日後に控えて幼子に晴着の一枚も買えぬ程困窮した生活の中にあっても、身延の奥深き雪の中で、寒苦を忍ぶ大聖人に思いをはせ、御供養の品々を絶やすことがありませんでした。
 弘安四年九月、二十三才の南条時光殿が病の身でありながら、身延の山中で、不自由な生活をなさっている大聖人を偲(しの)び奉り、御供養の品々を使いを以てお届けしました。使いの者より、時光殿の病を知って心を痛められた大聖人が、激烈なる闘病平癒の御祈念をされるとともに、筆を取られ、
 「参詣遥(はる)かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨(らいりん)を企(くわだ)つべし。是にて待ち入って候べし」(南条殿御返事 御書一五六九㌻)
と仰せになられるのです。
 普通の人なら、大聖人の御慈悲のお言葉と拝せず、
 「病を患(わずら)いながらも、極貧の中で御供養申し上げているのに、急いで登山せよとおっしゃるとは…」とへそを曲げてしまうでしょう。
 その信心は、大聖人滅後もそのまま日興上人に捧げられるのです。
身延離山の折は一家をあげて日興上人を自邸に懇請(こんせい)し、自領を供養し、一門を督励(とくれい)し、大石寺を建立されるのです。
 生老病死は万人が避けて通れない道です。人生のそれぞれの場面において、正しい信心をどこまでも、ひるむことなく、堂々と、また強盛に貫くならば、南条時光殿の生涯のように寿命を五十年も延ばしていただき、尊い生涯を全うできるのです。
 人は、どうしても今の欲を追求したがります。しかし一旦その欲が満たされても、その次には更なる欲や望みが付いて周り、止まる事がありません。「三毒」の中の貪(むさぼ)りの命です。
 苦楽を共にあい合わせて、自身の命(人生)として捉えることが何より肝心です。楽だけの人生は絶対にあり得ません。苦を知ることが、即ち楽を知ることになるのです。全ては、表裏一体であり、どちらか片方だけはこの世に存在しえません。

 冒頭より、ダウン症云々の話が出ましたが、子供の業病には、親がわが身を捨てた信心に立って、親と子の罪障を滅していかなければなりません。そこで、信力・行力が、仏力・法力に変わるのです。
 自身にそういう罪障があるのに、最初からゼロにはなりません。子供がダウン症というだけで御本尊様を疑うと言う事は、不信謗法でしかありません。
 また、第三者がそれを見て、云々することではありませんし、御家族にとっては失礼極まりないことなのです。
 それなりの信心ではそれなりの功徳しか出ません。すなわち、そういう子供を抱えた自身を呪い、子供を疎(うと)ましがり、悲嘆(ひたん)に暮れた毎日を空しく過ごすことになります。
 功徳の大きさは信心の厚薄によります。あくまで本人の信心次第なのです。
 また、時の御法主上人の御心に添った信心が最も大切です。
 「だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし」(「四条金吾殿御返事(八風抄)」1118頁)
 檀那(弟子)と師匠(御法主上人猊下)とが心を同じくしない祈りは、水の上で火を焚くようなもので、叶うわけがありません。
 要するに、大事なのは、時の猊下に心を合わせた広宣流布のための祈りなのです。
 そして、その祈りを実現させる根本は題目です。
 大聖人様は、
 「一度妙法蓮華経と唱ふれば、一切の仏・一切の法・一切の菩薩(ぼさつ)・一切の声聞(しょうもん)・一切の梵王(ぼんのう)・帝釈(たいしゃく)・闇魔法王(えんまほうおう)・日月・衆星(しゅうせい)・天神・地神・乃至地獄・餓鬼・畜生・修羅・人天・一切衆生の心中の仏性を唯一音(ただいちおん)に喚(よ )び顕はし奉る功徳無量無辺なり。我が己心(こしん)の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経とよびよばれて顕はれ給ふ処を仏とは云ふなり。」(「法華初心成仏抄」1320頁)
 と仰せであり、ひとたび「大御本尊様」と「猊下様」を根本として南無妙法蓮華経と唱えれば「一念三千」の法理にのっとって、あらゆる人々の生命に仏性を呼び覚ますのです。その結果、願いは叶うのです。
  大聖人様の仏法は一人一人の過去世の一切の罪障を消滅し、現在の自分を打開し、そして未来にわたっての一族の幸せと、世界の広宣流布を実現するというところにあるのです。
目先の小さな功徳に固執する、物乞いの信心ではいけません。人生・生活・仕事等がすべて開かれていく、大きな広がりと深い意味をもった信心なのです。
 まずは、確信と勇気と慈悲を持って、折伏に取り組んで参ろうではありませんか。


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