ホーム御住職の法話目次  御住職の法話 第248号)

   叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとが(咎)にあらず
 顕益と冥益について

 
     
   人は勝手なもので、世の中に、そんな旨い話は無いと知っている筈なのに、願いは叶えたいけれども修行はしたくないとか、すぐに願いが叶えられる簡単で特別な方法はないかと、自分に都合の良いものばかりを探し求めています。
 昨今のパワースポットブームや、恋愛成就の神様、受験の神様、商売繁盛の神様などのうたい文句に多くの人が集うのも、一時的な心の慰めや、目の前の利益のみを求める者にとっては、都合の良い、手軽な宗教と思えるのかもしれません。
 
 一方、大聖人様は、『御義口伝』に、
 「今日蓮が唱ふる処の南無妙法蓮華経は末法一万年の衆生まで成仏せしむるなり。(中略)妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑ひ無きなり。」(御書1732)
と御教示されております。
 末法の私達一切衆生は、信仰の根本たる、総本山大石寺に御安置の、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の御法魂である、本門戒壇の大御本尊様を正しく信受し、大聖人様が唱えあそばされた本門の題目を、御法主上人猊下御指南のもと、大聖人の弟子信徒として唱えていくことによって、広大な利益を受けることができます。

 『妙密上人御消息』には、 
 「国中の諸人、一人二人乃至千万億の人、題目を唱ふるならば存外に功徳身にあつまらせ給ふべし。其の功徳は大海の露をあつめ須弥山(しゅみせん)の微塵(みじん)をつ(積)むが如し。(中略)法華経の功徳はほむれば弥(いよいよ)功徳まさる。」(御書969) 
 と、私達が信心堅固に御本尊を持ち、広宣流布のお役にたたせて頂きたいとの熱誠をもって題目を唱えていくならば、その人には思いがけない、凡眼凡智をもっては計り知れない程の大きな功徳が具わるとお説きになられております。
 多くの人々は、悩みや苦しみを克服し、幸福になりたいとの願いをもって入信するものです。それぞれ様々な動機で入信されると思いますが、妙楽大師は、「仮使(たとえ)発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶(なお)多し」と説かれており、信心を始める動機はどうであれ、正しい本尊に縁をして、その教えを正しく信仰すれば、大きな功徳があることを示されております。

 よく折伏するときに、どうしても私達は、功徳ばかりを全面に出して言いがちです。「病気が治りますよ。功徳がありますよ。そのうちに生活が変わりますよ。家庭も円満になりますよ」と言って、折伏をする。それは先の御書からしても当然のことです。
 しかし、正しい因果の理法を無視して、ただ功徳だけを請い願うという人が中にはいます。大昔からの日本人の悪い癖とも言えます。
 勤行もしない。唱題もしない。ただ御本尊様さえ持っていれば、あるいは、たまに気が向いたときだけ信心すれば、もう溢れんばかりの、自分の望みが総て叶うぐらいに錯覚をし、そうして「功徳がない。何だこんな信心は」と、御本尊様に当り、大聖人様に当り、また、折伏して下さった方に突っ掛かってくるという場合もあります。
 大聖人様は、
 「叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとが(咎)にあらず。」(御書1519)
と厳しく仰せであります。
 御本尊への祈りが叶うか叶わないかは自らの信心による信力と行力の度合いで果報に違いがあります。もし、祈りが叶わない場合、他に原因があると思わずに、自分自身の信心に対する姿勢を見つめ直すことが大切です。
 
 確かに、信心修行に励むことによって利益を得ることが出来るのですが、この利益にも「顕益」と「冥益」があります。 
 「顕益」とは、現世の祈りの結果が直ちに利益として現れることで、「冥益」とは目の前にはすぐにはっきりと現れないけれども、5年・10年・20年と信心を持続していくうちに、信心修行の福徳を積み、あらゆる苦しみ悩みに打ち勝って、御本尊に守られた人生であることを感ずる大利益であり、知らず知らずのうちに受ける利益のことをいいます。 利益とは、お金が儲かったり、病気が治ったり、事故をまぬがれたりと、日々の生活に密着した問題の解決や災難を回避した目先の現象を言うようですが、大聖人は『教行証御書』に、
 「正像に益(やく)を得し人々は顕益(けんやく)なるべし、在世結縁(けちえん)の熟せる故に。今末法には初めて下種す、冥益(みょうやく)なるべし。」(御書1104)
 と仰せです。
 釈尊滅後の一千年間を正法時代、次の一千年間を像法時代と言います。この正法・像法の二千年間の衆生を本已有善(ほんいうぜん)の衆生といって、過去において下種をうけ、釈尊の仏法を修行し、善根を積んできた衆生なので、受ける功徳も直ちに現れる「顕益」が主だったのです。
 それに対し、末法に生まれた衆生は本未有善(ほんみうぜん)の衆生といって、過去に下種結縁をうけていない衆生であるため、過去世の功徳・善根もなく、逆に無量の宿業を積んでおり、日蓮大聖人の仏法によって初めて仏になる種を下種されるのです。
 故に、受ける利益は「桃栗三年柿八年」ということわざがありますが、大地に蒔いた種が発芽して成長し、実をつけるようになるまでに長い年月を要するように、末法は「冥益」の時なのです。

 私たちは、ともすると、妙法の功徳について、花が奇麗に咲いた時だけが功徳だと思ってしまいます。あるいは、実がなる時だけが功徳だと思っています。
 しかし、そうではなく、我々からは見えなくても地中では根が水を吸収しているのです。大地からの栄養を吸収すれば、その吸収した栄養が、また尊い冥益なのです。
 その冥益があってこそ、花が咲き、葉が茂るわけです。また、それが幹を育て、実となるのであります。ですから、この四季折々の変化が、すべて冥益であり、また顕益ともなるのであります。
 そのように、妙法の功徳にも、目に見える功徳と、目に見えないけれども、厳然として具わっている功徳があるのであります。
 花を咲かせると申しましても、冬には葉を落とし、根を張る期間も必要なのです。
 また、みなさんの機根、信心の状態に応じて、成長の具合も、遠い近い、早い遅いという差はあります。
 しかし、どんなに遠い近い、早い遅いということがあったとしても、妙法の功徳は、誰に対しても平等に厳としてあるのだということを、しっかりと確信していただきたいと思います。
 一本の木が成長する時のように、信心修行していく中には、私達の目に見える場合と、目に見えないけれども、必ず成長している、功徳を積んでいるという時期があるのです。
 
 それでは末法には「顕益」は無いのかといえばそうではありません。信心を始めて間もない人に御本尊様の仏力・法力を示してくださる初信の功徳があります。そして更に、病気が治るとか、どうしてもこの悩みを解決しなければならないと云った時に享受する明らかな利益がありますが、この利益を頂くためには、広宣流布のためにご奉公させていただきたい、御本尊様のため・広宣流布のためにお役にたちたいから、どうかこの悩みを解決させてください、という強い決意をもった祈りでなければなりません。

 しかし、このような利益は信心の大目的である一生成仏たる幸福な境界を築く「冥益」から考えるならばまだまだ小さな利益であります。
 これを病気に譬えますと、正法・像法時代の二千年間の衆生は、長い間薬を服し続けているため病状も軽く、薬の効能が直ちに現れる「顕益」なのです。 しかし、末法の衆生は宿業が深く重病のため、普通の薬(法華経以外のお経)では治りません。この重病は妙薬(妙法蓮華経)でなければ治らないのです。
 この妙薬は、効果が目に見えなくとも、心身のすべての病原を根治し、知らず知らずのうちに「冥益」を受けるのです。 
 仏様は、全ての生命は今世だけのものではなく、過去・現在・未来の三世にわたって不滅なので、過去世の罪障を消滅し、今世のみならず未来永劫にわたって幸福な境涯を確立することが真実の利益であると教えられております。
 つまり、病気の治療方法でいえば、病気のひとつひとつの症状を緩和するための対症療法(顕益)よりも病巣から退治する根本治療(冥益)が大事なのです。
 次に、この真実の利益を得るためには、その願いを叶えて頂くための祈りがなければなりません。何事にも原因と結果があります。原因のない結果などありません。同様に、利益という結果を得るためには、先ず祈りという原因がなければなりません。  大事なことは、何れも妙法蓮華経の信心に精進することによって、広布のために精進いたしますという決意と実践があって叶えさせていただけるということです。 
 法華経信解品には、「無上宝聚不求自得」と説かれ、この経文について、大聖人は『御義口伝』に、「求めざるにほしいままに得たり」(御書1800)と読まれております。
 つまり冥益に約して毎日毎日必死になって祈らなくとも、願いは自然に叶えられるとお示しであります。しかし、そうだからといって何もしないで願いが叶うはずがありません。
 たとえば、どんなに素晴らしい薬であっても、実際に服用してこそ、効能が分かるのです。信仰も同様に、どんなに有り難い教えであっても、真剣に信心しなければ本当の利益を得ることはできないのです。仏法の良薬を知るには、信心に励む以外にありません。
 私達はみんな功徳というと、この「顕益」の部分だけが功徳だと思って、それ以外は見えませんから、みんな「信心しているのに、功徳がない。」と凡人は嘆くのです。

 次にその信心の指針として、大聖人は、
 「陰徳あれば陽報あり」(新編1362)
 「かくれての信あれば、あらはれての徳あるなり」(御書921)
と説かれております。たとえ人の目につかなくとも、こつこつと勤行・唱題・折伏と精進するならば、必ず利益として現れてくるとお示しです。人が見ているところでは信心をしているふりをしても、それは本当の信心ではなく、功徳もありません。
 仏力・法力の具わった本門の御本尊に対して、私達は信力・行力をより強く磨き無量の功徳を積ませて頂くところに、真実の利益が生ずるのであります。 その功徳について、大聖人は『御義口伝』に、 
 「功(く )も幸(さいわい)と云ふ事なり。又は悪を滅するを功と云ひ、善を生ずるを徳と云ふなり。功徳(おおきなるさいわい)とは即身成仏なり」(新編1775)
と仰せられ、功徳を積むことが幸福を招き即身成仏なのだと示されております。
 さらに、総本山第26世日寛上人は、『観心本尊抄文段』に、           
 「この本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」とご教示されております。
 私達は、とかく目先の利益にとらわれがちですが、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える人は、煩悩(苦悩)を菩提(幸福)に転じ、信心の大功徳たる「冥益」を自然に享受することが出来るのです。またその功徳はその人だけにとどまるのではなく、国土世間にも及び、国土の災難や飢餓等を解決し、法華経寿量品の「我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり」との経文に示されるように、平和で安穏な社会を築くことにもなるのです。
 どんな人でも生老病死の四つを逃れることはできません。しかし、妙法のもとに命を全うした人は、常楽我浄の妙法の四徳を、その命に顕現していくことができているのであります。ただ単なる空く悲しいだけの死では終わらないのであります。
 長い信心生活の間には、妙法の功徳は本当にあるのだろうかと確信が持てない時もありましょうが、そうした時こそ、どうか御本尊様の功徳、妙法の功徳は冥益として大きく育っているということを確信され、もしそういう方がおられましたら、是非励ましていただきたいということをお願い致しまして、本日の法話とさせていただきます。


        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  

 

 Copyright (c) 2010-2011 NichirenShoshu Hokkeko Jihonji All Rights Reserved