ホーム御住職の法話目次  御住職の法話(第247号)

   【信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし】
 己が智慧にて仏にならず

 
     
   【組織は何のためにあるのか?
 日蓮正宗の信仰をする場合、必ず寺院に所属して菩提寺の檀家になると共に、法華講員となることになっています。
 みなさんの中で、もし、組織に抵抗を感ずるならば、その考えを改めなければなりません。

 日蓮大聖人は『富木(とき)殿御書』に、
 「志(こころざし)有らん諸人は一処(いっしょ)に聚集(じゅじゅう)して御聴聞有るべきか」(御書1169頁)
と仰せられ、信心する者は互いに集まって、僧侶の説法を聞くように諭されています。
 また『法華行者値難事(ほっけぎょうじゃちなんじ)』には、
 「各々(おのおの)互ひに読み聞けまいらせさせ給へ。(中略)互ひにつねにいゐあわせて、ひまもなく後世ねがわせ給ひ候へ」(御書721頁)
と示され、弟子檀那は信心のあり方などを、互いに話し合い、励まし合って精進するよう教えられています。
 さらに大聖人は、『生死一大事血脈抄(しょうじいちだいじけちみゃくしょう)』に、
 「日蓮が弟子檀那等自他彼此(じたひし)の心なく、水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(御書514頁)
と、日蓮大聖人の仏法を信仰するうえにおいて、同志間の異体同心の団結がもっとも大切であることを御教示されています。

 【異体同心の大事】
 これらの御教示は、みなさんが個々に信仰をするのではなく、指導教師のもとに、他の講員さんと心を合わせ、励まし合って信心することが大事であるということです。
組織から離れて、自分の思いのままに信心をすることは、必ず我見(がけん)や増上慢(ぞうじょうまん)に陥(おちい)り、仏法の真意を会得するどころか、かえって道を誤ることになるのです。

 【謙虚なる信仰心】
 大聖人様は、『新池御書』にて、
 「有解無信(うげむしん)とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解(うしんむげ)とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし(中略)況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし」 (御書1461頁)
と仰せです。
 『有解無信(うげむしん)』とは仏法を理解できても信仰心がないこと。『有信無解(うしんむげ)』とは仏法の理解は無いが信仰心は有るということを指します。
 信心があれば、老若男女を問わず、仏法に対する深い理解は無くとも成仏出来る。
 それに対して、たとえ何らかの悟りがあり、仏法に対する理解があったとしても、信心がない者は成仏出来ないとはっきり仰せです。
 例え、ようやくお題目が唱えられるような、何も御法門のことが分からない幼児であっても、成仏は叶うのです。
 どこまでも「信」ということが根本となって、初めてこの経の功徳を得ることができますし、また法華経の心はそこに存すると説かれます。

 なぜなら、信仰心の無い人は、大聖人様が、
 「法門しりたりげに候人々はあ(悪)しく候げに候」(御書 1219頁)
と仰せのように、仏法が少しばかり判ると、時に勘違いをしてしまうからです。
 その結果、誰の話も聞けなくなり、仏法のありとあらゆる内容を、結局、否定することになってしまうのです。これは恐ろしいことです。
 それが、遠くは五老僧の流れを汲む日蓮宗の姿で有り、近くでは創価学会や顕正会や正信会なのです。これは本当に気の毒なことなのです。

 ですから、慢心によって、「私は偉い」「私は悟りを得ている」「私に間違いは無い」などと思っていると、そこから狂ってしまうのです。 
 したがって、いくら御法門の勉強をして理解できたとしても、根本に信がなければ、 「成仏することはおぼつかないですよ」と大聖人様がおっしゃっているのです。

 残念ながら御信徒の中にも、「私は正しい御本尊様を拝し、そして大聖人様の遺された御書を読んで信仰しているから間違いはない」と言って、どんな人の話も聞けないような人もいると思います。
 しかし、そういうことでありますと、だんだんと知らず知らずのうちに、自分の我見や、狭い智慧を基として、修行していくことになってしまうのです。
 そうなると、もはやそれは本当の仏法ではないし、本当の教えを信仰しているとは言えません。

 このような人は、「浅識、計我」等の十四誹謗に当たります。「浅識」とは浅い考え、浅い知識。「計我」というのは我見で計って正法を曲解するという意味です。十四誹謗という虫が生じて、かえって横道に、さ迷ってしまうのです。
 『曽谷入道殿御返事』に、
 「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(御書669頁)
という有名な御書があります。どこまでも大聖人様の教えに従わなければいけない。自分勝手な心を師にしてはいけないと説かれているのです。
 自分の気持ちや思いを信仰の中心にしてしまうことは、結局は、自分自身を苦しめてしまうことになってしまいます。
 
 【信仰は実践】
 よく申しあげる事ですが、信仰は、奇跡でも手品でもありません。実践が最も大切なのです。我々の信心も大聖人様の御本尊様を持ったからといって、もう何事もない、全く無風状態になるかと言うと、そんなことの上で信心を貫いても何の意味もないのです。やはりそこに苦悩がある。辛いこともある。
 それを凌(しの)いでいくところに、妙法を貫く者の値打ちがあるのです。
 そこを良く考えて、どんなことがあっても紛動されない強い一念心を持って、気概を持って乗り越えるのです。そこに必ず諸天善神の大きな守護と、大御本尊様の御加護が絶対にあると確信して下さい。

 大聖人様は『報恩抄』に、
 「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらわず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(御書1036頁)
ということをおっしゃっておられます。こうした大聖人様の御指南をその通りに受けついで、大聖人様の弟子として私達は、苦しいときも嬉しいときもお題目を唱えるのです。
 私達の信心は、我見によって、自分流に判断して、気が向いたことだけをするという信心ではいけません。
どこまでも自分の我見を捨てて、大聖人様の御指南を信じ、大聖人様の弟子として、大聖人様の御金言の通りに行じていく。そこに私達の弟子の道があるのです。
 
 我々の修行の根本は、どこにあるかと申しますと、
 それは大聖人様は『御講聞書(おんこうききがき)』という御書の中で、
 「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて
利生得益(りしょうとくやく)あるべき時なり、されば此の題目には余事を交えば僻事(ひがごと)なるべし」(御書1818頁)
と、今はどこまでも大聖人様の建立あそばされた本門の大曼荼羅本尊を受持して、心に信心の大きな志を立てて、折伏を行じていくところに、真実の修行があると仰せです。

 ですから、この大聖人様の御指南に背いて、自分勝手に信心をするということは全くの邪道であり、真実の末法の修行とは言えません。
 大聖人様によって確立された広宣流布への方途と、私達の日々の修行というものが、どれ程尊い意味をもっているのかということを、しっかりと心に銘記されまして、この信心をどこまでも全うしていただきたいと思います。

 【志はいとも簡単にゼロになる】
 人の決意というものは、毎日磨いていかなければ、いとも簡単にゼロになってしまいます。
 よって大聖人様は、
 「深く信心を発こして日夜朝暮に又懈(おこた)らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云ふなり」(一生成仏抄 御書46頁)
と仰せです。
 心構えというのは、どんなに磨いても、いとも簡単にゼロになってしまいます。よって、毎日歯を磨くように、心構えも毎日磨きなおさなければならないのです。

 『法華経』の「譬喩品(ひゆほん)」に、
 「身、常に臭きに処して、垢穢(くえ)不浄に、深く 我見に著して、瞋恚(しんに)を憎益(ぞうやく)す」(開結二四五)
と釈尊は説いています。
 自分流の信仰をしている人は、怒りなどで汚れている命の不浄が永遠に消えることはないと経文に説かれています。

 修行に「ここまでで充分」ということはありません。しかし、みなさんの中で、自分はここまででいい、ここまでしか出来ないと、信心のスタイルを決めてしまっている方が多いように感じます。
 お盆やお彼岸の御案内を出しても見て見ぬふりをする、唱題会や折伏など自分とは関係ないと思っている方がおります。
 せっかく受けがたき人身を受け、会い難き大聖人様の正法に巡り会いながら誠に勿体ない限りです。

 私はみなさんに、なにも全ての行事に参加され、毎日の唱題会に必ず参加するように申しあげているわけではありません。
 今までの信仰のスタイルを、少しづつでも変えていくように心がけて下さいと申しあげているのです。

 みなさんの目の前に御安置の御本尊様は、他宗他門のような、小乗教・大乗教・法華経文上の、人々を救済する力の無い三宝ではなく、法華経文底の三宝、すなわち最高真実たる本門戒壇の大御本尊のお写しである常住御本尊様なのです。
 そして、この本堂は、根本道場たる総本山の出城として授戒を行う場であると共に、儀式行事を通して、みなさんが信心を錬磨する帰命(きみょう)(自らの命を
仏に奉り帰依すること)依止(えし)(徳ある所に止住し離れないこと)の道場であうということを忘れてはなりません。

 日寛上人が『寿量品談義』に、
 「一足一足を積んで千里を行くが如く、日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足一足の裏に寂光の都は近づくなり。一辺一辺に大山大海の如くなる仏身を、我が己心にこしらえ立つる程に随分参詣唱題肝要なり」(歴代法主全書 第四巻 242頁)
と仰せられるように、常日頃から寺院に参詣し、住職の法話を聴聞することは、その教えを生活の中に実践し、罪障消滅・即身成仏の功徳を積む大切な修行なのです。

 せっかく大聖人様の御本尊様を頂いて、自分の生命にこの妙法の下種の種を蒔いても、その尊い信心の芽を発芽させることもなく、育てることもなく、ただ功徳だけが欲しいという人がおります。

 しかし、そのような信心では願いは叶いませんから不平不満となり、不信が積もって退転をし、堕ちていくのです。私達は、そういう人間になってはいけません。

 【折伏貫徹の年とは、一人ひとりが変革する年】
 日如上人が常に仰せのように、大聖人様の広宣流布の本誓願に基づいて、私達一人ひとりが、この妙法の進展のために、世界の人々のために、又、我家一族一門の人達の幸せのために、あるいは友人知人のために、一歩でも二歩でも、広宣流布の前進のために精進していくことが大事なのです。

 この折伏誓願達成に向けて、大事な総仕上げである本年は、みなさん一人ひとりが、今までの信心生活を見つめ直し、改革していくべき年なのです。

 こうして私の話を聞いても、誠に残念ながら、反発心が起きてしまう方がいるかも知れません。それは一言で言えば「信心が足りない」のです。

 大聖人様は『御義口伝』に、
 「謗法の者は色心(しきしん)(身も心も)二法共に不浄なり。(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり」 (御書1778頁)
と仰せられております。

 皆さんが、それぞれどういう因縁のもとに生まれた命であったとしても、南無妙法蓮華経の最大の良薬、最高の力をそなえたこの御本尊様をしっかりと持ってこそ、はじめて、自分の宿業からの脱却ができるということを知って頂きたいと思います。

 どうか一人一人が自分の心の弱さ、あるいは命の汚れ、そういうものに気が付いたならば、また妙法に立ち返って、御本尊様のもとに、しっかりと題目を唱えて、清らかな命へと改革していって下さい。
 人は、発心し、実践さえすればいつからでも変われますし、未来を大きく開いていくことが出来るのです。

 皆さんには御本尊様の功徳を受けきっていける信仰者になって欲しい。どんな困難も乗り越えられる信心をして頂きたいとの思いから、厳しいことを申しあげましたが、私の意を汲んで頂ければ幸いです。

 ご静聴、誠にありがとうございました。

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