ホーム御住職の法話目次  御住職の法話(第246号)

   夫(そ )れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず白亀(はっき)は毛宝(もうほう)が恩をほうず畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや
 
畜生道に堕すことなかれ

 
     
   先日、何気なく夜の唱題会後テレビを見ておりましたら、詐欺師を懲らしめるという番組が放送されておりました。御覧になった方もいらっしゃるかと思います。
 詐欺の手口も様々でしたが、そこには、人の信頼や愛情をもてあそび、平然と裏切り、自分の利益にしている人間達が登場しました。
 詐欺は犯罪行為ですが、警察に突き出すと、だまし取られたお金が回収できないということで、弁護士に調査や交渉に当たってもらっていました。
 詐欺師に共通することは、最初は信頼や愛情を得るために、裏の顔を見せずに近寄ります。
 ですから、詐欺の被害に遭った人は、「あの人がそんな人とは思えなかった」とか「全部が嘘だったとは信じられないし信じたくない」と言います。
 そして、詐欺師はこの信頼や愛情をお金に換える術を熟知しています。よくも、次から次にこれ程、嘘がよどみなく出てくるものだとあきれ果ててしまいました。
 自分の嘘がばれても平然とし、「警察」の二文字が被害者から出ると態度を急変させる姿が哀れでした。
 時代劇によくあった「桜吹雪」や「印籠」を見せられた悪人が平伏した後、開き直って暴れ出したが最後は取り押さえられ、一件落着といったゴールデンパターンの時代劇の爽快感は微塵もなく、物語でないリアルな人間の闇の部分を見ました。

 みなさんは、今までに、人には十界の命があるということをお聞きになっていらっしゃると思います。人は地獄界から仏界に至るまで、命の状態を瞬時に変化させながら生きています。

 世間では、例えば畜生という言葉は一般に鳥や獣のような動物というものを指します。しかしよく考えますと、やはり私達の命の中にも畜生道、あるいは畜生の境界というものはあります。また、人をののしったり、ねたんだり、自分の失敗をくやんだりする時などにも「チクショウ」と言いますが、悪い意味でしか使いません。

 動物達でさえ、種類によって例外もありますが、基本的には雄と雌が番(つがい)になって巣を作り、営々として子孫の繁栄のために努力をしています。
 昨今の育児放棄や虐待などの世相を見るに付け、この動物以下の人間も存在します。また、先ほどの詐欺師をはじめ窃盗や恐喝や浮気も同様に畜生かそれ以下です。
 畜生界の人間というのは、人を食い物にして平気なのです。お腹を空かせたライオンが獲物を躊躇(ちゅうちょ)無く襲うように、他人の痛みとか悲しみなど一切考えません。自分の欲や煩悩に忠実なのです。
 仏はこういう人間は、来世は畜生道に堕ちると説きます。人として生まれ変わっても、恩とか感謝の無い世界に生まれますので、非常に殺伐としており、荒(すさ)んだ世界や家庭に生まれるということです。

 それでは一体、「人間としての本質はどこにあるか」ということを、大聖人様の教えを信じている我々は、お互いによく考えてみる必要があると思います。

 どんなに姿形が立派でも、地位がある人でも、その本性が、何等、犬畜生と変わらないという姿が往々(おうおう)にしてあります。
 教育界、政界、経済界に生きる人でも、本質が犬畜生と変わらないというような人が多いように見受けられます。
 その畜生道とか畜生界というものを、大聖人様は、どのように御書の中に説き明かしておられるかということを、少々申し上げたいと思います。

 一般に畜生と言いますのは字の上で書きますと、畜養と言いまして、自分自身の力では生きられない、誰かに飼育されて、畜養されるという意味で、その畜生の畜という字が出来上がっているわけであります。生というのは一切衆生の命ということであります。自分自身でちゃんと生きていくことが出来ない、人から飼い慣らされて飼い養われる、また、人間に使われる、自分の好きなように生きられないような生き方が、畜生の生き方の一番の本質としてあります。

 しかし人間界の中にも、目先のことにとらわれて根本を忘れてしまう愚かな生き方をする人を、
 「癡(おろ)かは畜生」(御書647頁)
 と、大聖人様は『観心本尊抄』にお説きになっていらっしゃいます。人間らしいことが出来ない、人間の本質として一番大事な、自分を創る、自分を育てる、向上していこうという精進心、一念心、発心のない人達です。
 こういう生き方をする人を癡(おろか)といいます。これも畜生界に生きる人間の一つの姿です。もう一つの側面は強い者を恐れて弱者をあなどる人びとです。これも畜生界の命の現れと言わなければなりません。
 大聖人様は、
 「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる」(御書579頁)
ということを『佐渡御書』にお教えになっていらっしゃいます。

 政治の世界にも、又いろんな皆様方の仕事の世界でも、弱い人には強がりを言い、そして本当に大事な時に大事なことが言えないというような人もいらっしゃるわけであります。こういう生き方をする人は、やはり畜生界の現れと言わなければなりません。
 それから又、畜生の本質的な姿において、先ほども言いましたように、欲望に振り回される。犬や猫は母親ぐらいはわかりますが、誰が父親であるかということがわからない。小さい子供の時にお乳をお母さんから貰っている間は、誰が母親であるということは、わかるかも知れません。
 親子の関係はその時点では現れているかもわかりませんが、成長し巣立ってしまうと、どこに親がいて、誰がどの子供で、どういう風に血筋がつながっているかということが畜生の世界では、全くわかりません。
 当然、血統証が付いていても分かるのは人間だけで、犬や猫などが自分の父親が誰であり、母親が誰であり、自分の子供が今どうしているかということはわかりません。

 人間でも、残念ながら、そういう人がいます。本来、人間社会の、人の人たる所以は、親子関係、兄弟関係がちゃんとわかっていることにあります。自分自身でも自覚をし、親子や親戚の関係が明らかで、つながっているというところに、人間社会の所以があるのです。
 しかし、畜生の社会ではそれがわかりません。

 仏法の教えの上においても、本当の仏や師匠が分からない人がいます。本当に自分達を教導し、救って下さる真実の仏が分からないことほど、恥ずかし
いことはありません。
 大聖人様は『開目抄』という御書の中に、
 「畜に同じ不知恩の者」(御書554頁)
あるいは又、『報恩抄』の冒頭にも、
 「夫(そ )れ老狐(ろうこ)は塚をあとにせず白亀(はっき)は毛宝(もうほう)が恩をほうず畜生すらかくのごとし」(御書999頁)
 ということを申されまして、「老いた狐は、自分が生まれた古塚を忘れず、必ず後ろを向けずに死んでいく。また、中国の武将・毛宝に助けられた白い亀は、後に毛宝が戦いに敗れると、彼を背に乗せて、河を渡って助け、その恩に報いた。」のであるからこの仏法で説かれる大事なものへの報恩の志がない人、不信心の人をもって、これを畜生と言うのだということを大聖人様は説かれています。
 理性を失い、倫理・道徳を弁えず、ただ本能的な欲望のままに行動していく人が畜生なら、法の上において真実の師、真の主師親の三徳を知らない、真の正しい師匠、正しい仏、そして又、真実の仏法僧の三宝を知らない人をも、畜生と名付けなければなりません。

 従って、大聖人様は同じ『開目抄』に、
 「三皇已前に父をしらず人皆禽獸(きんじゅう)に同ぜしが如し。寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ不知恩の者なり」(御書938頁)
ということを言われておりますし、
 『日女御前御返事』という御書の中にも、
 「設ひ父母、子をうみて眼耳有りとも物を教ゆる師なくば畜生の眼耳にてしこそあらましか」(御書1233頁)
ということを言われております。

 みなさんは、全世界のあらゆる人々をことごとく救済して下さる、大聖人様を真の仏様として拝し、大聖人様からの正しい相伝に基づくこの御本尊を信じて修行しています。
 よって、大聖人様の教導のもとに、一人一人が真実の功徳を得ていけるのです。
その真の仏を知り、根本の師匠を知り、そして真実のこの妙法の功徳に浴して、一人一人が自分の信心の実践を通して、自分の人間としての改革を果たし、社会の改革を果たし、広宣流布を成し遂げていくのです。
 この真実の報恩を貫く人こそが、人は同じ動物であっても他の生き物とは違う、真の人間、最勝の人と言うことが出来るのです。
 人にも当然、欲や煩悩があり、貪瞋癡といった三毒があります。これを断ち切ろうとして断ち切れるものでなく、また、大聖人様の教えでは断ち切る必要もありません。
この欲を、人の役に立ちたい、人を救いたい、共に幸せになっていきたいという欲、すなわち菩提心(ぼだいしん)へと変えていくのです。
 毎日の勤行・唱題が実践出来れば、必ず変わっていけます。これが六根清浄といって本当のありがたい功徳なのです。
 具体的にその内容を申しあげれば四つあります。
 ①言ってはいけないことを言わなくなる
 ②言わなければならないことを言う
 ③やってはいけないことをしなくなる
 ④やらなければならないことが出来るようになる

 簡単なようで実に難しいことです。この判断と実践を自己流で解釈し誤るが故に、家庭や職場や世間で、大きく言えば世界が混乱し、常に争いが絶えないのです。
 また、我々が特に注意しなければならないこととして、最高の法を持っていること、イコール自分が直ちに完成された勝れた人間であると、錯覚してはいけないということです。
 この慢心によって、自分自身に対する評価を誤らせ、更なる向上を目指す努力を鈍らせるばかりでなく、人間関係において、種々の不信感やトラブルを生んでいくもととなってしまいます。
 錯覚から生じた慢の心は、他の人の言葉に耳を貸さない、配慮に欠ける、思いやりや優しさが足りない、同じ目線に立って物事が考えられない、などの振る舞いとなって現れてしまいます。
世間の人は、大聖人様の教義よりも、それを実践しているみなさんの振る舞いによって教えの正邪を判断されるのです。
 大聖人様の意にかなった行動が出来るようになるには、御本尊を信じ、ひたすら実践をして命を磨いていくしか方法はありません。
 そして、世の中の、真実の主師親の三徳を知らず、信じ実践することが出来ず、ただ畜生のように本能のままに生きている人々の姿を変えて行くには、まず自分が変わっていくしかないのです。
 日蓮大聖人は、四条金吾殿に対して、
 「中務(なかつかさ)三郎左衛門尉は主の御ためにも、仏法の御ためにも、世間の心ねもよかりけりよかりけりと、鎌倉中の人びとの口にうたはれ給へ」(御書1173頁)
と仰せられましたが、世間の人びとに、世法においても仏法においても、正法を受持し行じている者の実証を示して、正法への信頼を集めていきなさいと御指南されています。

 正法を持ちながら三毒の生命をそのままにするのではなく、また正法を持っていることのみの自己満足にとどまることなく、私たちは更に一歩も二歩も進んで正法を受持し行ずることへの責任を果たす信行を実践していくべきであります。

 どうかみなさんは、その事をしっかりと心に置いて下さい。そして、我こそ真実の人として尊い生き方を貫いており、決して犬畜生ではないのだということを深く心に確信して、この信心を異体同心の元、全うして頂きたいと思います。


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