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   【今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり】
 
宿業の転換

 
     
   日蓮正宗の信心とは、現実の自分の一日一日と向き合いながら、過去世・現在世・未来世と三世にわたっての、我が身・我が命の改革を果たしていくというところに尽きると思います。
 どんな人も、何度も何度も生死を繰り返して、現在の自分というものがあります。
そして、自分や家族にも未来というものがあります。その過去、現在、未来という三世の中でいつが一番大切かということを考えてみますと、やはり今という時が人間にとって一番大切なのです。
 昨日までの自分というものは、もはやどうすることも出来ません。取返しがつきません。
 しかしながら、今日から明日に向かっての未来は、自分の一念でいかようにも変えていけます。

 皆様方も、せっかくこの信心をなさったわけですから、御本尊様を根本にして一日一日を大事に生きていく、そうした考え方や習慣を自分の生活の中に植え付けていただきたいと思います。

 皆さんの中には信心の年数はたつけれども、なかなか自分として功徳が実感できない。信心の歓びや歓喜が湧いてこないと嘆いている人がいるかも知れません。
 しかし、大聖人様の仏法の功徳と仏の慈悲は、総ての人に平等に注がれているのです。
 功徳の違いは何かと言えば、それは自分の持って生れた境涯の違いや宿業の違いや、信心の実践の違いによって生じるのです。
 原因は、全て自分の側にあるのだということをよく考えて頂きたいと思うのです。

 大聖人様は『開目抄』という御書の中に、
 「銅鏡は色形を顕(あら)わす、秦王験偽(しんのうけんぎ)の鏡は現在の罪を顕わす、仏法の鏡は過去の業因を現ず」(御書572頁)
ということを教えておられます。
 古代の人びとが使った銅の鏡は人の顔や、あるいはまた外界の色や形を写し出すことができる。
 また秦の始皇帝が用いた験偽の鏡は、中国の伝説にある鏡で、心の中を明かすので照心鏡(しょうしんきょう)とも呼ばれ、真偽を試すのに使われ、謀叛(むほん)の心をいだくものは逆さまに映る鏡だったと言われております。
 私達も自分自身の過去世の罪障とか、過去の宿業とか言われても、なかなかどういうものであったかは分かりません。

 世の中には、占いとか霊媒(れいばい)とか怪しい人達がたくさんいます。自分に特殊な能力があるように見せかけ、「あなたの過去世はナポレオンです」などと臆面も無く平気で言い切ります。
 また、「死んだおじいちゃんの霊があなたに憑(つ )いている」などと脅す場合もあります。
 パソコンで占いと検索しただけで
 『あなたの未来がグラフで分かる』
 『20万人が感動の涙を流した驚愕の鑑定内容』
 『今付き合っている彼氏との未来は?』
という文言が飛び込んできます。
 いい加減すぎて笑うしかありません。

 しかし人の過去世というものは、ただ凡眼・凡智をもって知ることはできません。また未来のことも、我々凡夫は深くまた広く予証をするなどということも、過去・現在・未来を通達された仏様以外には不可能です。

 しかしながら、この仏法の鏡、大聖人様の教えを通して、我々の過去や未来を判ずるならば、自ずと現在の境涯を照らして、ある程度の過去の業因が写し出されて分かるのだと、大聖人様は、そのように説かれているのです。

 仏法の鏡は過去の業因を現世の我が身に写し出しているのです。過去の原因が今日の結果となり、今日の自分の振る舞いが原因となり、未来の結果を招くのです。過去・現在・未来は厳然としてつながっているのです。

 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(御書571頁)
という、大聖人様が『開目抄』に引かれる有名な経文の一節があります。

 そこで大聖人様は、更に『般泥垣経(はつないおんきょう)』というお経文を引かれまして、例えば今世において自分が受ける八つの姿、苦しみは、それはまさに親が悪い、社会が悪い、だれが悪いということではなくて、自分の宿業なのだということを、よくよく我が身に照らして考えなさいということを説かれているのであります。
 その八つの姿というのは何かと申しますと、

①「軽易(きょうい)」
 周囲の人から軽蔑される、馬鹿にされる、嘲(あざけ)られる事を指します。
自分自身は一生懸命やっているのに、人の信用を得ることができない。普通に振る舞っているつもりなのに、人から顰蹙(ひんしゅく)を買う。
 もし、そういう立場に自分が置かれているとするならば、それは、だれが悪いのでもない。自分の宿業だということをよく知らなければいけません。

②「形状醜陋(ぎょうじょうしゅうる)」
 自分の生まれつきの姿形が、人よりも劣っている。あるいは欠陥の多い人間として生まれてくる。
 たまに、「自分は、この世に生まれてくることを望んだわけではないのに、こんな変な格好に生んだ」と言って、親に突っかかる子供があります。
 そういうことも結局、それは親が悪いのではなくて、やはりその子の持っている過去の宿業というものが今世に出てきているのです。
 決してその親を恨んではいけない。恨むなら自分の過去世の謗法ということに気付かなければならないということを、この『般泥垣経』に説かれているのであります。
 但し、親の立場から見れば、そういう子供を持って苦労する因縁、宿業がありますから、例えどんな子供であっても子供を一方的に責めたり卑下することも間違いなのです。

③「衣服(えふく)足らず」
 着る物に不自由をする。あるいはまた恵まれない姿です。
 また、逆に病的なほど靴やバックを買い漁りそれでも満足できない人もここに含まれます。

④「飲食麁疎(おんじきそそ)」
 食べ物に不自由する。恵まれない。あるいは一生懸命食べても身に付かない。またむしろ食べることによって更に病気を増してしまうというような姿です。

⑤「財を求めるに利あらず」
 働いても働いても食べ物に困る。損ばかりしている。ちょっと事業に手を出すとすぐ失敗する。常にそうしたことで家族に苦労をかけているというようなことも、やっぱり福徳がないからです。
 福徳がない人は、一生懸命やるのだけれども、常に壁にぶつかって、どうしようもない。そういうことも過去の業因によるということであります。

⑥「貧賎(ひんせん)の家・邪見(じゃけん)の家に生まれる」
 貧しい、虐(しいた)げられた家に生まれる。あるいはまた邪(よこしま)な争いの絶えない、そういう不幸な修羅(しゅら)のような家庭に生まれるということも、これはまた過去の業因によるとされます。

⑦「王難に遭(あ )う」
 国家権力によって迫害を受けること。
 今の日本では殆どありませんが、無実の罪で捕まったり、癩病などの特殊な病気で隔離され差別された事もそうです。

⑧「余の人間の苦報あらん」
 そのほかの不慮(ふりょ)の災いにしばしば遭う。
 また、一生を通じて人間の苦しみとか悩みが、常に我が身や、家族に付きまとって離れることがない状態。心安らかに生きられない一生を送る。このような人もまた、社会が悪いのではない。だれが悪いのでもない。だれを恨むこともできないのです。
 結局、その人の過去世の長い間の宿業が積み重なって、そういう境涯に生まれる自分なのだということを深く心に置かなければなりません。

 これら八つは「生まれてくる前から決まっている運命だから」と諦(あきら)める必要は全くありません。
 こうした自分の過去世の一切の罪障を、今世において、何をもってそれを脱却するかというと、結局それは正法正師の正義以外にはないのです。

 何もしなければ、「六道輪廻(ろくどうりんね)」と言って迷いの衆生は、自身の過去世の様々な悪業により、欲望に支配された苦しみの六道の世界を、生死を繰り返しながらを限りなく流転しなければならないのです。

大聖人様は『観心本尊抄』に、
 「瞋(いか)るは地獄、貪(むさぼ)るは餓鬼、癡(おろ)かは畜生、諂曲(てんごく)(諂(へつら)い曲がった心のこと)なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり」(御書647頁)
と、六道は自己の命に具わる迷いと苦しみの境界であることを教えて下さっています。

 世界の国々が常にどこかでいがみ合い、内戦が勃発し、国内や家庭内でさえ争いや凶悪な事件が絶えない原因がここにあるのです。

 これらは、邪宗の僧侶に拝んでもらったり、祈祷をしてもらったり、あるいは何かお札を張り付けたりしたことによって、解決するのではありません。
 かえって悪因を積んでしまうためにマイナスでしかありません。

 一閻浮提(いちえんぶだい)第一の正法を持って、命の底から題目を唱えて日々の信心修行を通し、自分自身の命を改革する以外に、国や家庭や個人の宿業、これら全てを打ち払う術はないのであります。
 これは、世界中の思想家や哲学者や宗教家を尋ね歩いても解決できません。
 まずは自らが発心し、過去・現在・未来の三世を通して一切の人びとを救済する力と功徳と働きと真理が備わった、大聖人様の御本尊をしっかりと持って下さい。
 そして題目を唱えきって、大聖人様と境智冥合(きょうちみょうごう)して我が身を救うという以外にはないのです。

 因果の道理では、過去の悪因を消さない限り悪い結果しか生まれません。本物の仏様には、過去の罪障も悪い原因もありません。よって仏様と境智冥合することによってのみ、過去世から現在に至る悪因が消滅でき、善因を積むことが出来るのです。

 そうした信心の上に、先ほど申しあげました八難が全部変じて自分の護法の力となり、功徳となり福徳に変わっていける。
 変毒為薬が必ずできるということを、大聖人様が、この『佐渡御書』や『開目抄』に引用されて教えておられるのです。

 大聖人様は『御義口伝』に、
 「謗法の者は色心(しきしん)(身も心も)二法共に不浄なり。(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり」(御書1778頁)
と仰せられております。
 たとえ皆さんがどういう姿形のもとに生まれた命であったとしても、六根清浄なる命へと改革することができるのです。

 しかも、その功徳たるや、何代も先の父母であろうと、現実に自分が知っている両親であろうと、一切の父母達を今日の自分の信心によって救い切っていける、未来の子孫の繁栄にもつながるということを、深く確信していただきたいと思います。


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