ホーム御住職の法話目次  御住職の法話(第244号

   一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ
 充実した人生をすごすために

 
     
   御法主日如上人猊下は、元旦勤行の砌
 日興上人は『日興遺戒置文』に、
 「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」(御書一八八四)
と仰せであります。
 私どもは、この日興上人の御遺戒を一人ひとりが心肝に染め、文字通り「随力弘通」していかなければなりません。
 「随力弘通」とは、消極的に考えて力も出し切らずに、ほどほどにやればよいというのではありません。持てる力をすべて出し切って、事に当たることであります。』(大日蓮 平成二六年二月号)
と御指南下さいました。
 この御指南を受け、今、世界中の日蓮正宗僧俗は、御法主日如上人猊下の御命題を必ず達成すべく、日々努力精進しています。

 なぜ「法華講員五〇%増」の御命題を出されたのか?といえば、現状維持のままですと、必ず後退していくからです。

 二十数年前に創価学会との問題が起き、本門戒壇の大御本尊様を信仰の根本とし、日蓮正宗の御本尊を拝む信徒団体であった殆どの学会員が、池田教徒と化していく中、正法正義の正師を求め、志ある方が脱会され、今の慈本寺法華講の礎を築かれました。
 当時は、狂信的な男子部が連日寺院に押しかけ恫喝(どうかつ)してくる中、いち早く脱会された方々が泊まり込みで寺院を外護されました。
 個人的にも、車のタイヤに穴を空けられたり、ゴミや猫の死骸を屋敷に投げ込まれたり、家に乗り込んでこられたりという迫害、まさに法難に遭われた方もおります。
 当初は七十世帯あまりの御信徒で慈本寺支部が結成され、スローガンの、
『護法の勇者たれ』
・三宝に信順する信心
・常精進の信心
・歓喜みなぎる信心
を合い言葉に、寺院外護と信心の錬磨に励んで来られました。
 このスローガンには、創価学会の常に競わせる無謀な財務・信心と無関係な選挙活動・新聞啓蒙・池田の礼賛に終始する会合と決別し、厳しい状況の中であっても、純粋に日蓮正宗の信心修行に励むことが出来る歓喜・誇り・使命感があふれています。

 その頃の大功労者も、二十年以上が経過し、高齢になられた方や残念ながら亡くなられた方もおります。
 我々はここで踏ん張って、次の世代へと、間違いなくつないでいかなければならないという使命があります。今ここで手を打っておかなければ、衰退の一途です。

 この、日如上人の御指南を受け、僧侶も変わって来ました。毎日、唱題するのは当たり前で、顔を合わせれば「何時間唱題してる?」「折伏は進んでる?」との言葉が自然に出てきます。
 私などは、御命題や、御指南がなければ、いつまでたってもソコソコにやって満足していたと思います。
 「日々、一日一日、折伏成就のために自分を追いつめてゆく、こういう充実した日を過ごすために御命題がある」のだと、心から日如上人へ御報恩感謝できる自分に成長させて頂くことが出来ました。

 慈本寺支部の皆さんは、成果としては表れていなくても「何とか自分も折伏したい」「家族みんなで信心したい」という尊い気持ちは持っていらっしゃることは、私もよく知っています。
 それだけに、折伏の話になると、苦しくなってどうしてもうつむいてしまうのだと思います。
 しかし、下を向く必要は全くありません。そういう志があることが尊いのですから、その思いは継続させてください。

 ここで「エレファントシンドローム(症候群)」についてお話しします。
最近ではビジネス用語に引用されていますが、インドでは古来から使われていた言葉です。

 インドでは、捕まえた象を調教するために、最初に象を頑丈な竹にくくりつけておくのだそうです。象は、逃げようとさんざん暴れ回って、それでも逃げられないと分かると、やがて逃げようとするのを諦めてしまいます。
 するとその後は、簡単に抜けるような小さな杭に細い紐で象を結んでおくだけで、象は逃げようとしなくなるのだそうです。
 逃げようとすれば逃げられるのだけど、すでに観念してしまっていて逃げようという気にならなくなっている。
 これは象の内面に「どんなことをしても逃げられない」「どうせムリだ」「ダメだ」というマイナス思考の「心の壁」ができるためで、こうした心理を「エレファントシンドローム」と呼ぶのだそうです。

 折伏も同じです。最初は誰でも上手に折伏は出来ません。ましてや、皆さんや先祖のように、折伏されて素直に入信する人の方がまれなのです。
 皆さんは、過去世から善根を積んで、素直で、正邪が判別できる気根があるから信心できていますが、世間の人は一筋縄ではいきません。
 ましてや、今は食べるだけなら人々は殆ど困らなくなり、宗教に関しては「洗脳される」「財産を巻き上げられる」などと、アレルギー反応を起こす人が大勢います。
 十人に下種して、一人折伏出来ればありがたいぐらいに構えていないといけません。一人に声をかけて、拒否反応を起こされたと落ち込んでいる場合ではないのです。

「やっぱりだめだ」「きっと失敗する」「自分にはできない」「この人とは合わない」「このお寺は自分の居場所じゃない」・・・口癖のように後ろ向きな発言を連発する人は、捕らわれた象のように、自ら心の鎖をかけているのです。その結果、行動に移せない場合が非常に多いのではないでしょうか。

 当然、あくまでも勤行唱題が根本ですが、まずは意識的に自ら前向きな言葉を発することです。
 「ありがとう」「うれしい」「たのしい」「がんばろう」「おかげさまで」「きっとできる」「絶対にやる」・・・すると、身(行動)口(話すこと)意(心)はつながっていますから、心も行動も前向きになってきます。
 暗い顔をしていくら「この信心をすれば必ず幸せになります」と言ったところで、相手には何の説得力も持ちません。

 次に申しあげたいことは「報恩感謝は、生きる原動力」ということです。
 大聖人様は『開目抄』の中に、
「仏弟子は必ず四恩(三宝の恩・師匠の恩・父母の恩・一切衆生の恩)をしって知恩報恩をいたすべし」(御書530頁)
と仰せです。
 仏法僧の三宝尊に対して御本尊様に対して、報恩のために二座の勤行があり、また、大聖人・日興上人・日目上人等、御歴代の御正師に対する報恩のために三座の勤行があり、皆さんの御両親、先祖代々の人々の報恩のために五座の勤行があり、折伏を通して一切衆生を救済し、一切衆生に報恩申し上げるという意味において、四座の広宣流布の御祈念があるわけであります。
 人は、一年生きていくためには、約十五万人程の人々のお世話になっているのだということが言われております。
 文明が発達した現代の日本では、自分の得意なこと、出来る事だけをしていれば生活できます。しかし、未開の地では、衣食住は全て自分達でまかなわなければ生きていけません。
 実際、今、皆さんが身に付けている服や、食事、家や車に至るまで、総てが自分で作った物ではありません。
 全部世界中の誰かが、尊い汗を流して作ったり捕獲したものを、流通・販売経路に乗せて、皆さんに届けられています。それらによって、毎日の生活が成り立っているのです。
 ですから、私達は決して一人で、南海の孤島に生きているのではありません。やはり大勢の人々のお世話になって今日の自分の命というものが支えられているわけです。そういう世間の人に対して、どうやって報いていくか。道を歩くごとに、会う人ごとに「有り難うございます。有り難うございます」と言って歩くわけにもいきません。
 逆に、そんなことをしても、一切衆生の恩を報ずる道には、つながりません。本当の意味で一切衆生の恩を報ずる道は何かというと、結局それは、その人を救うということ、世の中の人々を折伏して、一人残らず救っていく、広宣流布を実現する事に尽きるのです。
 折伏の実践こそが、一切衆生に対する真実の報恩なのです。そのことを大聖人様は教えておられるわけです。
大聖人様以来、私達は四座の勤行を通して世界の広布を願い、一切衆生の幸せのために、折伏を行じて一切衆生の恩を報じているわけであります。
 そのように「報恩」とは三宝尊に始まって、父母の恩、師匠の恩、一切衆生の恩と、そうした報恩のために毎日の勤行・生活があるのだということを知って頂きたいと思います。

 ただ金を稼ぎ、食べて老いていく人生には、いかほどの意味があるのでしょうか。当然、その中にも喜怒哀楽があり、幸不幸を感じることもあるのでしょうが、六道輪廻の鎖に縛られたままの状態です。
 大聖人様は、
 『一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ。』(御書1169頁)
と仰せです。

 この信心をする方こそしっかりと四恩を知り、恩を報ずるためにも折伏を行じなければなりません。
 恩を知れば、人は『謙虚』『誠実』『情熱』を持つことが出来ます。このどこかが欠けているということは、信心が足りないと言っても過言ではありません。

 『謙虚』
 謙虚な方というのは、相手、周囲を尊重し、自分よりも上に位置づけています。その姿勢が、「学び」につながります。謙虚な方は、人の言葉が素直に入ってきますので、結果的によく学びます。
 謙虚でなければ、「あいつの言うことなんて!」と素直に聞けませんから、何も入ってきません。
 そしてそれは人相、言動に表れ、周囲に伝わります。

 『誠実』
 裏表のない心は、その表情や言葉に現れます。このような人は、人から信用されます。信用、信頼を集める人が、どの世界であってもうまくいくのは当たり前です。

 『情熱』
 そして、「謙虚」が自分の内面に向かう要素だとすると、外に向かう要素として、「情熱」、「思い」が強く溢れているという要素も、特に信心をしている皆さんには必要です。このような人の周りには、共感者が集います。
 折伏も、最後はその人の慈悲の心であり、何とか幸せになって欲しいとの情熱が相手に伝わるかどうかなのではないでしょうか。

 「報恩の念が薄い」ということは、要するに不遜なのです。ここに、信心していても苦しかったり、功徳が感じられず歓喜が無い「今」の原因の一つが潜んでいます。
 御本尊様をはじめあらゆることに感謝が溢れている人は、よき「今」が築けていると言えます。
 謙虚さや、誠実のない人が、どれだけ折伏しない理由を並べ立てても、それはただの「我」でしかありません。
 そんな人は例外なく「宗門が悪い」「住職が悪い」「講員が悪い」と愚痴をいいます。自分を常に振り返り、唱題をして命を磨いていくしか、人生を開く突破口はないのです。
 歓喜あふれる人生、また、世の中にしていくために、共に折伏弘教に全力で取り組もうではありませんか。

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