ホーム御住職の法話目次  御住職の法話(第243号)

   【かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり】
 
折伏貫徹に向けて
 
     
   本年は、明年三月八日の日興上人御生誕七七〇年の大佳節に向けて御法主上人より賜った、「平成二十一年より法華講員五〇%増」の御命題への御奉公の仕上げの年に当たり、「折伏貫徹の年」と銘打たれ、信行の前進を開始しました。

 御法主日如上人猊下は、「新年の辞」で『日興上人の御生誕七百七十年を愈々(いよいよ)明年に迎える本年、私共は御報恩のため、前途に如何なる障害や困難が惹起(じゃっき)しようが、法華講員五十パーセント増の誓願は、講中の総力を結集して、なんとしてでも達成しなければなりません。』(大白法 平成26年1月1日 第876号)
と御指南されています。
 我が支部は、平成二十一年以降に亡くなった方、退転した方も含めると、今年は相当な数の方を折伏しなければ御命題達成には至りません。
 ですから、今年は今まで以上に唱題を根本に、異体同心して進んでいかなければならない、厳しい状況であります。講中の皆さんそれぞれが、今一度、自分自身の信心の開拓をしなければならない時が今来ているのではないでしょうか。

 今日の御講は、決起大会の意味もあり、「折伏貫徹に向けて」と題して、皆さんにお話しして参りたいと思います。

 世間でも、「親を大切にしよう」「人の物を盗むな」「嘘をついてはいけない」「和の心を持ちなさい」などと道徳的訓話はよくされます。
 殆どの邪宗であってもこういう話はされるでしょう。また、誰しもが世界平和や人類の幸福は願っています。
 しかし、なぜ実現できないのか?毎日、悲惨な出来事が後を絶たないのはなぜでしょうか?

 これらは、邪宗の害毒・罪障によるのもだからです。邪義邪宗によって人々は、貪瞋癡の三毒に知らず知らずに冒されているのです。
「自分は生まれてこの方、真面目に誠実に生きてきた。」という方も世間には多くいらっしゃるでしょう。しかし、自分や先祖が、過去世において何を信仰し、どういう生き方をしてきたかは凡夫には分かりません。

 真面目に生きてきたのに、事件や事故や災害に見舞われるというのも、過去の罪障であって、仏法では偶然は認めず、総ては因果であると説きます。
 その人の考え方、癖までも、総ては過去世の罪障であり宗教の邪義に由来すると説かれます。
 例えば、念仏ですと、架空の仏である阿弥陀を信じ、ありもしない西方極楽浄土へ往くことを願わせます。
 すると、現実逃避・あきらめの強い退廃的で優柔不断な性格となります。そこから、「どうなってもいい」という破壊的な発想や行動を起こしやすく、性格は攻撃的でひねくれ、他人の粗を探しては批判するようになります。

 禅宗では、迷いと苦しみの中にある自分がそのまま仏であると教えるので、思い込みが強く、他を見下し、自分は全部分かっているような分を弁えない人間になります。
 他人とも相容れず孤独になっていきます。

 真言宗は、大日経は大日如来が説いた。大日如来に比べれば釈尊は草履取りであると卑下する教えです。
 このため、信じている人は嘘や誇張が多くなりますし、仏である釈尊をないがしろにしますので、家の大黒柱が立たないと言われます。

 また、「南無妙法蓮華経」と唱える邪宗。日蓮宗・創価学会・立正佼成会など多数存在しますが、正法に近い分、さらに罪も重くなります。
考えていることと言うことが一致しない。頑迷で歪んだ性格。業病や一家離散等、悲惨な現象が現れます。

 皆さんも、一度、自分の先祖は元々何宗だったのか調べてみるといいかもしれません。
 これら人間の濁った命を奥底から浄化していける力のある宗教が、唯一、日蓮正宗の教えであります。
 邪宗の人々が聞けば、怒り狂う話でしょうが、仏法の正義に照らして見た場合、これが事実であり現実なのです。

 また、この日蓮正宗の信心をいくら始めたといっても、誰しもが罪障を持って生まれてきます。
 ですので、一生涯純粋に信仰を貫いていくことは非常に難しい事であります。ともすると、我見(がけん)が出てきてしまいますが、これもその家系やその人の宿業だと言えます。
 また、仏の悟りをそのまま説いた最高真実の教えであるが故に、あまりに深く、理解することも難しい、すなわち「難信難解(なんしんなんげ)」とも言われます。ですから、せっかく信心できても、自分の浅知恵によって曲がってしまうのです。

 このように、貪瞋癡の三毒に知らず知らずに冒されている我々の命を清浄にできうるのは、やはり自行の唱題行、化他行の折伏に尽きるのであります。

 信心の目的は一生成仏と広宣流布に尽きます。この広宣流布は仏の願いであり、達成するには折伏しかないのです。
 宿縁深厚にして人身を受け、会い難き大聖人様の仏法に巡り会えた我々が、大聖人様の弟子檀那として果たすべき使命は何かと申しますと、
 『寂日房御書』に、
 「かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」(御書1394頁)
と説かれますように、大聖人様と同じように法華経(御本尊様)を弘めること、折伏を行じることであります。
 我々は、自分だけがこの大聖人様の仏法に巡り会えたことを有り難がって、その功徳をまるで独り占めするような信心で、友人や知人等には、誰にも話をしないというようではならないと思います。

 大聖人様の弟子檀那として大聖人様から認めていただけるよう、我々は少しでも多くの方々を苦しみの境界から救いだし、そしてやがては広宣流布という、万民が一同に御題目を唱えられる世の中にすべく、精進して行かなければならないと思います。

 しかし、簡単には折伏はできません。その為に唱題をし、同士と共に行動するのです。一人で折伏をやろうと思わないで下さい。寺院にお連れする事だって立派な折伏です。
 また、この信心は、空いた時間にやるものではありません。時間は自ら作って唱題や折伏に充てるのです。

 仏の教えの根本は、「悪いことを止めて良いことをしなさい。」ということです。そんなことは、言われなくても幼稚園児でも知っていますが、いざ実行するとなるとこれが難しいのです。
 しかも、ここで言われる悪いこととは警察のお世話になる事だけではありません。心に恨み辛みを持つこと、嘘や二枚舌、それに伴う行動など総てが悪です。我々には、身口意の三業にわたって仏の願い通り正しく行動することが求められます。

 良いことの基本は、勤行唱題であり、御講などの寺院参詣です。なぜならこの時間は参詣する往復の時間も含めて、仏への感謝の時間だからです。

 よって、唱題や折伏に対して、愚痴や不満が出ると言うことは、感謝の念・信仰の歓びが無いという表れであり、今まで積んできた功徳が消えてしまいますから、我々は厳に慎まなくてはなりません。

 この信心は、あくまでも、自分を中心にするのではなく、仏に自分を合わせるのです。具体的に何をどうやるのかを、その時々で猊下様が御指南下さっているのですから、そこに自分の人生を合わせて行くのです。
この折伏という仏のお使いを、義務感でやるのかそれとも喜んでやるのかで、我々の人生は大きく変わっていきます。楽しく嬉しく修行出来ると言うことも功徳と言えます。

 毎日寺院において唱題会が行われておりますが、住職や同士と共に唱題をして広宣流布を願っていくところに、一人ひとりが異体同心していかなければならないという使命感がでてくると思います。
 自分だけ信心をしていればよいとか、組織なんか関係ない、登山できればそれでよいという考えそれ自体が、我見にとらわれた信心であって、決して本当の信心ではないのです。

 皆様には、昨年の慈本寺創立三〇周年、来年の日興上人御生誕七七〇年のこの時に、縁を結ぶことができた我が身の福徳を、よくよく考えていただきたいと思います。
 これからこの慈本寺の発展を担っていくのは、なんといっても皆様方一人ひとりの純粋な信心が基でありますし、そして次の世代へ確実に法燈相続をし、更なる発展を遂げていかなければなりません。惰性に流されていては本当の功徳も、この仏法に巡り会えた喜びも感じることはできません。

 大聖人様は『上野殿御返事』に、
 『かつへて食をねがひ、渇(かっ)して水をしたうがごとく、恋ひて人を見たきがごとく、病にくすりをたのむがごとく、みめかたちよき人、べにしろいものをつくるがごとく、法華経には信心をいたさせ給へ。さなくしては後悔あるべし云云』(御書1361頁)
と、南条時光殿の成長を心から願われる大聖人様が、信心の根本的な姿勢について、御教示された追伸があります。
 「飢えた時に食べ物を求め、のどが渇いた時に水を欲しがるように、恋しい人を見たいように、病気になって薬を頼りにするように(意訳)」とは、我々の純粋な信仰心をもって、自ら御本尊様を求めていくことが大切であるとの御指南と拝せられます。
 すなわち、この大聖人への信仰は人から強制されてするのではなく、押さえようとしても押さえきれない信仰の歓びや、求道心によるものでなければならないと思います。
 この御文をもう一つの面から考えてみると、我々は、ある意味では飢えている存在であり、常に渇いて何かを求めている境界であると言えます。
 いつも幸せでいたいという気持ちは誰もが持っています。我々が辛く、苦しい立場に置かれている時こそ、この信心を貪るように求めていきなさいとの御教示と拝されます。

 次の「美しい人が紅や白粉をつけるのと同じように、法華経を信心していけなさい。そうでなければ後悔するであろう。(意訳)」とは、自分自身を向上させようという欲求が、信心の原動力でもあるという意味と拝されます。
 つまり、先に挙げられた例は、悩みからの解放や解決を求める心であったのに対して、これはより良い自己実現、向上を求める人間の姿勢が説かれております。
 「みめ(形容)かたちよきひと」とは、この信心によって幸せな家庭を築き、社会的にも、健康にも恵まれ、何一つ不自由ない生活をしている人であっても、そこに満足することなく、より一層の向上を求めていく姿勢が肝要であるということであります。
 「もう自分は功徳を沢山頂き、人並みに家や財産もあり、家族に囲まれて幸せに暮らしている」と言って、折伏もせず、唱題もせず、法燈相続もせず、寺院参詣もままならない方も見受けられます。

 しかし、「さなくしては後悔あるべし」と仰せのように、私達は今こそ僧俗共に、一人ひとりが折伏への志や、燃え立つ信心を確立しなければなりません。
 そうすれば必ず、講中全体に喜びや福徳が満ち溢れ、個々においても大きく発展していけるのです。

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