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   心の師とはなるとも、心を師とせざれ
 獅子身中の虫、自ら師子を食う

 
     
   かつて皇太子様が四十五歳の誕生日を迎えられてのご会見で、アメリカの家庭教育学者でドロシー・ロー・ノルト作の「子ども」という詩を紹介されたことがありました。

『批判ばかりされた子どもは、非難することをおぼえる
殴られて大きくなった子どもは、力にたよることをおぼえる笑いものにされた子どもは、ものを言わずにいることをおぼえる
皮肉にさらされた子どもは、鈍い良心のもちぬしとなる
しかし、
激励をうけた子どもは、自信をおぼえる
寛容にであった子どもは、忍耐をおぼえる
賞賛をうけた子どもは、評価することをおぼえる
フェアプレーを経験した子どもは、公正をおぼえる
友情を知る子どもは、親切をおぼえる
安心を経験した子どもは、信頼をおぼえる
可愛がられ抱きしめられた子どもは、世界中の愛情を感じとることをおぼえる』

 そして、
 「子供を持ってつくづく感じますが、この詩は人と人との結びつきの大切さ、人を愛することの大切さ、人への思いやりなど、今の社会でともすれば忘れられがちな、しかし子供の成長過程で、とても大切な要素を見事に表現していると思います。非常にこの詩には、私は感銘を受けました。」(ご会見での談話)
と仰せになられました。
 しかし、驚いたことに少数意見ではありますが、
 「誉められてばかりで親から批判されず、体罰もされなかった子供が二十歳直前に暴発。日本中で問題を起こしている」
 「愛のある体罰や叱責が子どもの教育には必要」
などと批判の声が上がりました。

 しかし、一体どれだけの子どもが、親の「しつけという名の虐待」によって毎年命を落としているでしょうか。
 暴力を受けて育った子が、自分が親になったら絶対にしないと思っていても、同じようにしてしまう例も多数見受けられます。
 子どもを愛しているのに虐待を止められず悩んでいる親は、相当数いると言われてい
ます。

 なぜこういう現象が起きてしまうかと言えば、人は、心に思った事や今まで親や縁をする人から学んできた事などが行動の規範となるからです。
 それ故に間違った事や嫌なことばかり見たり聞いたり、また教えられてきた人は知らず知らずに同じ事をしてしまいます。それは他の方法を知らないからです。
 もっと言えば、それはもっと根深く、先祖代々続く宿業・悪因縁とも言えます。
 邪義邪宗によってもたらされる、不幸の連鎖というものは、道徳の範疇で人を律するには弱く、命から変革し、清浄にしていかなければ根本的な救いになりません。

 故に、私達には正法に縁をする事とそれを信ずる事、そしてそれを正しく教え導いてくれる師が必要なのです。
 迷いを本とした凡夫の憎しみや嫉みの心では誰一人として幸せになれないし、また人を救う事もできないのです。慈悲の心と正法を求める心こそ大切なのです。

 残念ながら、この不確かな自分の心を中心にこの仏法を推し量るために、「やっぱり先祖代々の宗教やお墓は捨てられない」「もう自分の気持ちが無くなったからお寺に行かない」「講中に嫌な人がいるから他の寺院へ移りたい」と言い出す人がいます。

 しかし、仏法や本尊や教義は、われわれの凡夫の浅はかな知恵で考えてはいけないのです。
 どこまでも仏の教えでありますから、全てはお経文や末法の御本仏日蓮大聖人様の教えの上に説かれています。それらを正しく学び、その上から判断しなければなりません。
 世間の人の思い付きや、親戚の無責任な心ない中傷の言葉に、皆さんは決して紛動されてはいけないと強く申し上げたいと思うのであります。
 『法華経』の「宝塔品」の中に、
 「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我則ち歓喜す、三世の諸仏も亦然なり」 (開結419頁)
という
ことが説かれています。
 この一閻浮提第一の正法を持って、この信心を貫くということは非常に難しい。また、非常に勇気のいることであります。それは皆さんが既に体験されていることと思います。
 邪宗の親戚や兄弟や色々な人達が、日蓮正宗の信心に対して、「親戚でも無いのに信徒まで葬儀に来て、お経を唱えるのは違和感がある」「他宗を邪宗呼ばわりするから嫌いだ」など、とやかくおっしゃる。
だからこの妙法は持ち難く、生涯貫くということは難しいのです。しかし、人に何と言われようとも正法を貫くということが尊く、この信心の大きな功徳の源泉なのです。
 ですからみなさんも、その心ない親族の人々の思いつきの言葉に紛動されるのではなくて、その時こそ大聖人様の教えを示して、破折してあげて頂きたいと思うのであります。

 ともすると世間の人は、信仰とは、憲法二十条に保証されているから、自分の好みで何を信じてもいいと考えております。
 しかし、そうではありません。信仰とは自分の身も心も全てを本尊に捧げ託すものです。一人一人の成仏、不成仏に関わる大事な信心の目的から言うならば、悪を捨てて善を持つ、邪なものを捨てて正法に帰依するということが信心の先ず基本的な在り方です。

 それを世間の人は何ら考えることなく、先祖代々ということをおっしゃるのです。その宗教が何を本尊とし、どんな教義を説き、どんな修行をしたら何をどう得られるかと言うことには全く無頓着であり、考えようともしない、そんなことは面倒でどうでもいいと考えているのです。
 ただ闇雲に先祖代々何百年この宗旨を貫いてきたとのに親や先祖に背いたなどと、皆さんの信心をさせまい、この正法に就かせまいと、色々と吹き込むのです。
 そうした時こそ皆さんはそれが即、魔だと気付き、打ち破って、この信心を全うして頂きたいと思います。
 しかも大聖人様は、『法蓮抄』という御書の中に、この正法を信心修行することは、自分だけのためではなく、過去の父母、先祖代々の人々を救っていくことになり、たとえ一本の塔婆であったとしても、それを供養して、自らが題目を唱えて妙法の功徳を供えてあげるならば、先祖代々の方々は、
 「善知識なりとて娑婆世界に向かっておがませ給うらん」(御書820頁)
と感涙の涙にむせんで感謝するであろうと、大聖人様はおっしゃっているのであります。
 ですから、世間のどんなに力のある人がおっしゃろうとも、そうした個人的な、浅はかな我見に決して紛動されないで、強い信念の持ち主になって頂きたいということをまず申上げたいと思います。

 また、信仰歴の長い方が陥りやすいことに、
 「師子身中の虫、自ら師子を食う」(御書204頁)ということが挙げられます。
 これはどういうことかと申しますと、
 『曽谷入道殿御返事』に、
 「心の師とはなるとも、心を師とせざれ」(御書987頁)
という有名な御文があります。心の師に値する方を皆さんそれぞれにお持ちだと思います。
 それが両親であったり、学校の先生であったり、先輩であったりと様々ですが、「自分の心を師としてはいけない」と、この御書の中に書かれているのです。
 各自、自分の心で思う師匠は色々おりましても、とりわけ最高の師匠、大聖人様の教えに、この法を信ずる者は従わなければいけません。
身勝手な自分の心を師にしてはいけないということが説かれているわけです。 
 ところが中には、「私は正しい御本尊様を拝し、そして大聖人様の遺された御書を読んで信仰しているから間違いはない。」と言って、どんな人の指導も決して聞かないような人もいると思います。

 今日ここに来ておられる方の中にはいないと思いますが、そうやって行きますと、知らず知らずのうちに、自分の我見、狭い智慧を基として、修行していくことになってしまうのです。
 そうして、間違った我見に従って自分自身の振舞いを見つめ直すことも無く、「自分は正しい。間違っていないのだ。」というふうに思い込んでしまうのです。
 そうなると、もはやそれは本当の仏法ではないし、本当の教えを信仰しているとは言えません。このような人は、「浅識・計我」等の十四誹謗を犯すことになります。「浅識」とは浅い考え、浅い知識。「計我」というのは我見で計って正法を曲解するという意味です。
 この十四誹謗という虫が生じて、横道に外れてしまいます。このことをよく気を付けないと、結局、「自分に間違いはない。自分は自分の心に従う。」というような、慢心を起こして、師子身中の虫が、かえって師子の身を食べてしまうようなことになるのです。
 師子身中の虫というのは、天敵がいない百獣の王と言われるライオンでさえ、体の中に住んでいる虫によって、腸が食われ、最期は殺されてしまうという意味なのですけれども、その虫がわいて自分自身を滅してしまう、また自分自身を苦しめてしまうということになってしまうわけです。

 今現在、大聖人様から直接に御指導を受け、御説法を聞くということはできません。
 しかし、我が日蓮正宗においては、大聖人様から七百余年を経た今日まで、少しも途絶えることなく、間違った方向に行くことなく、大聖人様の正法正義がそのままに伝えられています。
 これはひとえに大聖人様以来、日興上人、日目上人、そして六十八世の日如上人猊下に至るまで、法水は連綿として、正しく受け継がれているからです。
 大聖人様に伺えなくても、その正しい法を受け継がれた御法主上人猊下の御指南を受けて、さらに、各お寺の住職が、皆さんに御指南のままに御指導をさせていただいているわけであります。
 ですから末寺の住職を指導教師として仰ぎ、自ら進んで法話を聴聞し、指導に随うということが大切なことになってくるわけです。

 『華果成就御書』の中に、
 「よき弟子をもつときんば師弟仏果にいたり、あしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり。師弟相違せば、なに事も成すべからず」(御書1225頁)
という御書があります。
 このことは師匠と弟子という関係において、弟子が間違った道に行ってしまえば、師匠も弟子も共に地獄に堕ちてしまう。そして師匠と弟子が一体となって正しい方向を目指して頑張って行くならば、必ず仏果を成就するということが言われているわけです。
 師弟が相違すれば、何事も成就しない。どんなに願っても叶うことはない。また、お寺と御信徒の関係において、もし私達僧侶と御信徒の方々が対立してしまったならば、広宣流布という大願は成し遂げられないのであります。

 先日、台湾の御信徒二十四名が、石橋頂道御主管の引率で慈本寺に参詣下さいましたが、台湾を始め遠く離れたインドやアフリカの地でこの正法を信じている方々が、日本以上に毎年増えております。
 大聖人が「一閻浮提広宣流布」との仰せを、御書だけで無く実感できるありがたい時代となりました。
 私達は、この同じ御本尊を拝んで、同じ信仰をしている同志ですから、同じ気持でやっていけないということはありません。
 また、僧侶であろうと檀信徒であろうと、大聖人様の弟子檀那として、等しく御本仏の大慈悲を頂戴し、また、浴している恵みには差別はないわけであります。
 ただし、その功徳を、いかに受けきっていくかという問題が、お互いの信心にかかっているわけであります。
 来年は「折伏貫徹の年」と銘打たれ、講員五〇%増の総仕上げの大事な年を迎え宗門においても大きな節目を迎えます。
 現在の日本や世界の不安定な動きを考え、また、宗門のことを考えますと、今こそ、折伏、広宣流布に向かって大きく前進しなければならないと思うのです。

 私達は日如上人の仰せのままに、この正しい仏法によって、世界中の人びとを本当に幸せにするという使命観に立って、一人でも多くの人達を折伏し、一人でも多くの眠っている人達を起こして、来年に向けて頑張って行かなければならないわけです。
 平成27年の慶事を迎えるに当たっては、色々な三障四魔が紛然と競い起こるでしょう。
 しかし、大聖人様御自身はもとより、心ある弟子や檀信徒が、そういった色々な険難障魔を凌いでこられたわけであります。
そういうことが、この同じ末法という時代に、私達にも必ずあると覚悟しておかねばなりません。
 そういうときにこそ、障魔に打ち勝てる信心を持って頂きたいのであります。いざという時に、三障四魔に負けるような信心では困りますし、また自分の身中の虫に蝕まれ
 るようなことのない信心を持って頂きたいのです。
 残念ながら、大聖人様が佐渡へ流された時には、殆どの弟子檀那は生きて帰ってこられるとは思わず、割合にして千人中残った方は、二、三人という有様でした。それだけ、この正法を生涯純粋に貫くと言うことは難事なのです。

 これからも皆さんは異体同心・寺檀和合という気持を持ち続け、僧俗一致して、お題目を唱え、より一層頑張って参りたいと思います。

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