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   女子は門をひらく、男子は家をつぐ】
 真の孝養と法統相続
 
     
   本日は真の孝養(こうよう)による法統相続(ほっとうそうぞく)について、少々お話をさせていただきたいと思います。
 連日のように、親の子供への虐待や置き去りなどがニュースで流れる日々ですが、しかし殆どの親は子供を手塩にかけて育て
ていると思います。
 大聖人様の御書中、特に親の孝養(こうよう)についての大切さが『刑部左衛門尉女房御返事(ぎょうぶさえもんのじょうにょうぼうごへんじ)』に、御盆の謂れを通して詳しく述べられております。
 この御書は尾張の信者である刑部左衛門尉の女房に宛てられたお手紙です。この方が母の十三回忌に当たり、大聖人様に御供養をされたことに対して賜った御書であります。
 父母の恩の中でも母の恩が特に重いことを明かされ、内外のお経には沢山の報恩の道が説かれているが、真実の報恩は法華経以外にはないのであり、大聖人の弟子として母の追善のため真心の御供養をされた夫人の孝養(こうよう)に感激され、与えられたお手紙であります。

 このお手紙の中で、大聖人様はどの教えでも孝行(こうこう)ということが一番大切であるということを仰せになっておられます。ですから、どんなに立派で地位や名誉がある人でも、どんなに物を知っていても、親孝行(こうこう)ができない人は、これはもうあらゆる教えから外れた人であります。

 古代中国の儒教倫理の根本は『五常』といって仁・義・礼・智・信が挙げられますが、特にその中でも『仁』が中心に置かれています。
 『仁』とは、人を思いやること。孔子は、仁をもって最高の道徳であるとしました。「思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうことである」と説きました。
 そして、自己の生命を生み育ててくれた父母に対しては、尊敬して孝行(こうこう)を尽くしていくことが、最高道徳として位置づけられています。

 これに対し日蓮大聖人の孝養(こうよう)に対する考え方は、『法蓮抄(ほうれんしょう)』に、
 「六道四生の衆生に男女あり此の男女は皆我等が先生(せんしょう)の父母なり、一人ももれば仏になるべからず故に二乗をば不知恩の者と定めて永不成仏(ようふじょうぶつ)と説かせ給う孝養(こうよう)の心あまねからざる故なり、仏は法華経をさとらせ給いて六道・四生の父母・孝養(こうよう)の功徳を身に備へ給へり」(御書815頁)とあります。
 六道四生、すなわち、この世の中の一切の衆生は皆、われわれの過去の父母であるといわれているのです。我々を生み出し、我々を育てたものは、実に一切の生あるものであるという御指南です。
 現在の肉身の父母のみを父母とする外典の考えを全く超越した父母観と言えます。これは法華経に説かれる三世の生命観、及び自己の環境の一体を説く依正不二(えしょうふに)の法理が理解できなければ信じられないでしょうが、それは単なる社会倫理の問題ではなく生命の根源的なあり方の問題とも言えます。
 とするなら、真の孝養(こうよう)とは、それら一切の衆生を成仏させることがでなければなりません。ここに十界互具(じゅっかいごぐ)・一念三千を説く法華経でなければ真の孝養(こうよう)はできないということが明らかになるのです。

 現代社会において親孝行(こうこう)ということはあまり言われなくなっているように思います。しかし仏法からみるならば孝養(こうよう)の思想は単なる親孝行(こうこう)に止まらず、一切の衆生を成道せしめる事とされています。
 一閻浮提(いちえんぶだい)第一の御本尊様を持って、初めて孝子(こうし)ということになるのですから、この信心を持たぬ人が圧倒的に多い現代は、不孝者があまりにも多いということになります。

 『法門申さるべき様の事』にも、このことを、
 「されば四十余年の経経をすてて法華経に入らざらん人人は世間の孝不孝はしらず仏法の中には第一の不孝の者なるべし」(御書428頁)と述べられています。
 故に大聖人様の教えからいうならば、現代人の殆どは不孝の者ということになり、その住所(じゅうしょ)は無間地獄にあると言えます。地球上にこれだけ多くの不孝者が住むのであるから、親子で殺し合う世相というのも必然なのです。

 大聖人様は『刑部左衛門尉女房御返事』に不孝の者についてこう述べられています。
 『ある経に六道の一切衆生が仏の前に集まった時に、仏は彼らの身の上のことを各々に質問をし、その中に、仏は地神に対して「大地より重い物がこの世あるか」と問われたところ、地神は謹んで、「大地より重い物があります」と答えたのであります。
 そして仏はまた「大地という物は、どんな物でものせることができる。須弥山から大河・大海・一切の草木、一切の衆生も、この大地に存在しているが、その大地より重い物があるのか」と重ねて問われたところ、地神が答えて言うには「仏は全て御存知でありながら、人々にそのことを知らせようとして問われているのでしょう。私が地神となって、すでに二十九劫という長い時を経ており、その間ずっと大地を支えてきたが、頚(くび)も腰も痛んだことはありません。また、大地を支えたまま、虚空(こくう)を東西南北に駆け回っても重いことはない。ただ、不孝の者が住んでいる所は支えきれないほど重いのであります。 あまりの重さに頚は痛く、腰も折れそうで、膝も力が抜け、足も引くことができず、眼もくらみ、魂も抜けてしまいそうであります。ああ、こんな不孝者の住む大地を投げ捨ててしまおうと思ったことが度々あるので、これら不孝者の住む所は大地が揺れてしまうのであります。
 それゆえ仏の従弟である提婆達多(だいばだった)という人は、貴族・王族の生まれではあるが、しかしながら不孝の者であったので、私達は提婆達多の下にある大地を支えきれず、ついに大地が破れて無間地獄に堕ちてしまいました。これは余りにも不孝の罪が重くて私達の力が及ばなかったためであります」と、地神は答えたのであります。』

 すなわち、大地というのは、どのようなモノでもその上に載せて支えるけれども、たった一つだけ載せられないものがある。それは何かといえば、親不幸の者であると、親不孝の者は地面が載せきれないで、その下に穴があいてしまい、地面の底へ落っこちてしまうというお話であります。

 続いて、『涅槃経』に「末代悪世に不孝の者は大地微塵(だいちみじん)よりも多く、孝養(こうよう)の者は爪上(そうじょう)の土よりも少ない」つまり、今末法という時代には、親不孝の者が大地微塵よりも多いと説かれています。
 よって、先ほどから申しあげているように、悲しむべき不幸な事件が次々に起こっているのです。これらは全て正法に背き、狂った教えによるものであり、また、親を親と思わず、子を子と思わず、貪瞋癡の三毒をコントロールすることができずに、このような悲惨な結末を迎えてしまうのであります。

 皆さんも、『刑部左衛門尉女房御返事』を拝読されるとよく分かると思いますが、親の恩が事細かに述べられております。
 特に母親の徳でありますが、母親が我が子を胎内に宿した時からいろんな苦痛に耐え、また、お産の際の非常な苦しみを忍んで、生まれ出れば直ぐに抱きかかえ、三カ年の間、愛情を込めて乳を飲ませて育てるのであります。大聖人様は、その母親が赤子に飲ませる乳の量までも詳しく示されて、その乳の値が一合でさえ三千大世界に値するほど貴重なものであると説かれております。

 親がどんなに苦労をして子供を生み育てているのかということが、この御書を通して胸に迫りくる感激でお書きになられております。
 ところが、子供の方は母親の苦労に対して、それほど親を思っていません。そればかりか、つい最近も、18歳の男子高校生が生活態度を巡って母親と口論となり、母親の顔を殴るなどしてそのまま出かけ、夕方帰宅した時には亡くなっていたという陰惨な事件がありました。

 また父母の死を供養する者も、年が経つにつれて少なくなってくるのが世間の常であります。
 親の心、子知らずとか、親が子を思うほど子は親のことを思ってはいないと言われますが、大聖人様は、この刑部左衛門尉の女房は母親の十三回忌に、
こうして懇(ねんごろ)に追善供養するということは、本当に親孝行(こうこう)の模範であるとおっしゃって、お褒(ほ )めになっておられます。 
そうして更に一歩進みまして、三種の孝養(こうよう)というのがあります。
 その一つは、例えば物質的な孝養(こうよう)として親を喜ばそうとして、親に対して、衣食住の施しをすることであります。これは仏教で説く最も低い下品(げぼん)の
孝養(こうよう)であります。
 また二つ目といたしましては、精神的な孝養(こうよう)として親の意に背かず、親に従っていくことが、仏教で説く中品の孝養(こうよう)に当たります。
 確かに、物質的にも精神的にも親に対して孝をつくすことは大事なことであり、子として当然のことかも知れませんが、しかし、どんなに親に物を施しても、また意に逆らわずに尽くしても、それは今世限りのことであります。三世にわたる孝養(こうよう)でなければならないのであります。下品、中品は現在は養うことができ得たとしても、後生、来世まで救うことはできないのであります。
 『開目抄』に、
 「儒家の孝養(こうよう)は今生(こんじょう)にかぎる。未来の父母を扶(たす)
けざれば外家の聖賢は有名無実(ゆうめいむじつ)なり」(御書563頁)
 また、
 「これらの賢聖の人々は聖人なりといえども過去をしらざること凡夫の背を見ず、未来をかゞみざること盲人の前をみざるがごとし」(御書524頁)
と説かれております。
 来世まで救いきることのできる孝養(こうよう)こそ真の孝養(こうよう)であり、それは、外道によっては望むことのできないものであります。仏教で説く最も尊い第三
番目の上品の孝養(こうよう)とは、この功徳を親に回向することで、親を正法に帰依させることであり、この題目によって親を供養することであります。

 この『刑部左衛門尉女房御返事』の最後に、
 「父母に孝養(こうよう)しようとする意志のある人々は父母に法華経を贈るべきである。教主釈尊も、父母の孝養(こうよう)のために法華経を贈られている。日蓮は母が生存していたおりは、母の言われたことにあまりに背いてきたので、今母に先立たれてしまったが、大変に残念で思われてならない。
 そこで一代聖教をかんがえて、母への孝養(こうよう)をしようと思っている。そんな折であるから、母を弔おうとされる人々をみると、自分のことのように思われる。したがってあなたが母の供養を願われたことが、あまりにうれしく思われるので、父母孝養(こうよう)の法門をざっと記したのである。必ずや、亡くなられたあなたの母親の霊も、たちまちに六道の苦しみと穢(けが)れを離れて霊山浄土(りょうぜんじょうど)へ参られるであろう。
 この法華経の法門を善知識にあって度々聞かれるべきである。日本国に知る人の実に少ない法門なのである。詳しくは、またおりをみて申しあげよう。」(趣意)
 皆さんは、このように上品の孝養(こうよう)によって、また日蓮正宗の化儀に則り、御先祖を本門のお題目によって毎日の勤行で回向されているわけであります。
今現在の家庭の発展、幸せの基は、過去の先祖の方々が懸命に子供を育ててきたことにあり、決して親の恩を忘れてはならないと思います。
 また自分達の子孫の繁栄は、純粋な信心の法統相続がなければならないことを肝に銘じて下さい。その純粋で清らかな信心を伝えず、もし子供に対し、登山ならびに寺院への参詣の意義を教えることを怠ったならば、いつしか我見が入り、清流から離れ、濁流となってしまうことを考えなければならないと思います。 
 せっかく入信以来積んできた功徳も、法統相続がされずにいったならば、かえって 上品の孝養(こうよう)も灰と帰してしまうこともあるのです。
仏法僧の三宝に対する信仰心を失わない子どもならば、深い因縁に結ばれた親子、家族の間柄を忘れて簡単に親や年寄りを見捨てる事など起こり得ません。
 「父母となり其の子となるも必ず宿習なり」(寂日房御書 1393頁)との因縁により、他人にはない深いつながりがあることを、認識して初めて家族の助け合う心が生まれるのです。
 故に法統相続をきちんとしていく事は、自分をふくめて家族みんなの将来の幸せの為、成仏の為なのだという事を肝に銘じて取り組んでいきましょう。
本日は大変、御苦労様でございました。

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