ホーム御住職の法話目次   御住職の法話 (第240号)
   

   【蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり】
 三世にわたる心の財

 
     
   大聖人様が四条金吾殿にしためられた御書の中に、皆さんもよく御存知の、
 「蔵の財よりも身の財すぐれたり、身の財より心の財第一なり」(御書1173頁)
ということを御指南遊ばされていらっしゃいます。
 「心の財が第一であり、心の財を積むことが成仏の道である」とのお言葉に、大聖人様の信心の確信が込められています。
 「蔵の財」とは、現世において蔵に蓄えることができるものをいいます。大聖人様の御在世で申せば、米やそれに類する穀物などのことでした。現在の感覚ですと、お金、宝石、あるいは株や土地などの財産が「蔵の財」と言えます。
 「身の財」とは、健康や身に備わる才能、社会的地位や名誉。あるいは家族・友達などもここに含まれます。どちらも大事なものです。
 御書をいただいた四条金吾は鎌倉武士でしたから、名誉が重んぜられる社会です。「身の財」である、地位や名誉はあっても困らないように思いますが、御書の中では次のように御指南下さいます。
 『持妙法華問答抄』に、
 「只須(すべから)く汝仏にならんと思はゞ、慢(まん)のはたほこをたをし、忿(いか)りの杖をすてゝ偏(ひとえ)に一乗に帰すべし。
 名聞名利(みょうもんみょうり)は今生のかざり、我慢偏執(がまんへんしゅう)は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし。」(御書296頁)
と仰せです。名聞とは、世間に聞える名誉、世間の評判、ほまれであり、名利とは、名聞と利欲、名誉と利得のことです。
 信心において名聞名利(みょうもんみょうり)は今生の飾りであり、これがあることによって、「我貴し」との思いに執われ、かえって足かせとなり、成仏の功徳を受けられなくなる。
 だから、「名聞名利(みょうもんみょうり)」は恐るべき事なのである、との御指南です。本来、無作である成仏には必要ないことを御教示です。

 私達に日蓮大聖人は名聞名利(みょうもんみょうり)を誡める教訓として『新池御書』に、
 「末代の衆生は法門を少分こゝろえ、僧をあなづり、法をいるがせにして悪道におつべしと説き給へり。法をこゝろえたるしるしには、僧を敬ひ、法をあがめ、仏を供養すべし。(中略)後世を願はん者は名利名聞を捨てゝ、何に賤(いや)しき者なりとも法華経を説かん僧を生身(しょうしん)の如来の如くに敬ふべし。是正しく経文なり。」(御書1461頁)
と仰せです。

 後世の幸せを願う人は名聞名利(みょうもんみょうり)を捨てて、僧宝であられ甚深の御法門をお説き遊ばされる、御歴代の御法主上人猊下を生身の仏様のように尊崇申し上げることが信心において大事です。
 「蔵の財」・「身の財」は外見で見分けることができます。「お金」も「名誉とか地位」も相対的なもので、目で見て判断のできるものですが、「心の財」は外見では判断することのできない「絶対的」なものである、といえます。また、実感として、第一の財である理由、有難さ、尊さを思い知ることは、なかなか難しいのです。

 皆さんもそれぞれ、自分の財・一生の財だと誇れるものをお持ちだと思います。
 一つには、皆さんが今日まで生きて来られた過程の中で、一生懸命勉強し、働いて身につけた技術や知識、才能として誇るべきものがある。そういうことがあることは素晴らしいことだと思います。
 それからまた、人によっては、家族、兄弟、親戚、友人を誇れる人もあると思います。
 さらに、そんなに欲をかくわけではないけれども、自分の土地も家も人並みに財産もある。多少誇らしくもある。そういうふうに、感じている人もいらっしゃると思います。
 全くの余談ですが、サラリーマン川柳で、
 「土地もある 家もあるのに 居場所なし」
と詠んだ作品がありましたが、この方だって、まあまあ自分の事を幸せだと思っているのではないでしょうか。
 ここでよくお考えいただきたいことは、どんなに自分は才能があるとか、地位がある、技術がある、知識がある、最高学府を出たと申しましても、今世限りのことです。
 自分が臨終の時に至れば、自分が習得し身に付けたものであっても、一切そこで消えてしまいます。
 また、家も、土地も、お金も、あるいは貴金属も、洋服も、一切の持物は、その時点において、出棺と同時に、そこに置いて行かなければならないのであります。
 それからまた、家族・親族・友人・知人など自分が一生の間に築きあげて来た人達も一応、お葬式の時は来てくれるでしょう。あるいはまた、火葬場までは送ってくれるかも分りません。
 しかし、どんなに親しい関係の人であったとしても、例え夫婦や親子であったとしても、火葬場のお窯の前でお別れしなければならないのです。それがまた、厳しく悲しい現実です。
 亡くなった後も持って行ける財は、心の財だけなのです。正しく心の財を積むためには、まず正しい仏法に縁をしなければなりません。
 大聖人様は『四条金吾殿御返事』に、
 「受くるはやす易く、持たもつはかた難し。さる間成仏は持つにあり」(御書775頁)
と仰せのように、ただ縁をしただけではなく、それを待ち続けること、毎日毎日しっかりと信心修行に励み心を磨いていくことが大事なのです。
 『聖人御難事』には、
 「月々日々につよ(強)り給へ。すこしもたゆ(弛)む心あらば魔たよりをうべし」(御書1397頁)
と仰せられ、日々怠ることなく、魔が付け入る隙すきを与えないように精進していくべきことをお示しです。
 このようにして、信心の上において、自分の命に刻んできた妙法・心の財というものは、信心のしっかりとした眼を通してしか見ることは出来ませんけれども、これだけは、大聖人様の御指南遊ばされるように、現在から未来に(現当二世)に亙って、福徳、利益、因縁、果報というものは消えることはありません。
 今世において命の底まで刻んだ妙法の功徳、因縁、果報は、絶対に朽ちることがないということを、大聖人様は、教えておられるのです。

 では、「心の財」について大聖人様が具体的に説かれている御書を拝しますと、
 『御義口伝』
 「御義口伝に云はく、七宝(しっぽう)とは聞・信・戒・定・進・捨・慙なり。又云はく、頭上の七穴なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは有七宝(しっぽう)の行者なり云云。」
と仰せです。
 つまり、御本尊様を受持して南無妙法蓮華経と唱える私たちには七宝(しっぽう)と言って七つの宝物によってかざられている、と仰せなのです。
 一般に、七宝(しっぽう)・七つの宝といえば、金・銀・瑠璃(るり)・硨磲(しゃこ)・瑪瑙(めのう)・真珠・玫瑰(まいかい)等の高価な宝石などを言いますが、御本仏日蓮大聖人様は、物質的な宝、ようするに「蔵の財、身の財」ではなく、「聞・信・戒・定・進・捨・慙」の七種、これこそが財であると仰せになるのです。
 これが、永遠に崩れることのない、我が身を飾る「心の財」であるとお示しになるのです。
 では、この七宝(しっぽう)とは如何なるものでしょうか。
①「聞(もん)」とは、聞くことであり、正法を素直に聞くことであります。今末法はすべて聞法下種であり、正法を聞くことが功徳を得る一番の元となります。
 
②「信(しん)」とは信ずること。わだかまりのない澄んだ心をもって信じ切ること。疑い無き信をいいます。  

③「戒(かい)」とはいましめ。悪を捨てて善を勧めること。謗法厳誡を旨とする本門の大戒をいいます。  

④「定(じょう)」とは禅定。心を不動にして定めること。修行によって迷いや苦しみがなくなり、真の心の安定を得ることであります。
 
⑤「進(しん)」とは精進。懈怠の心や退転なく真っ直ぐ道を進むことであり、勇猛精進をいいます。  

⑥「捨(しゃ)」とは、御本尊様に御供養をすることはこの「捨」に当たります。何を捨てるかと言いますと、執着の心を捨てる、と言うことなのです。「蔵の財」「身の財」への執着の心を捨てる修行である「喜捨(きしゃ)」を勧めるのです。
 この喜捨(きしゃ)には、「財施」と「法施」の二種があります。「財施」は文字通りに「蔵の財」を御本尊様に御供養することです。
 問題はもう一つの「法施」と言われるものです。違う言葉で言えば「折伏」です。御本尊様のお話しを周囲の人たちに伝えて行く修行です。
 皆さんの中で「折伏をしよう」と言う気持ちはあっても、いざ折伏になるとなかなか切り出せない人が多くいます。
 その理由として、長年の友達だから、こんなことを言ったら友達としてつきあってもらえなくなる。また恋人に、信心の話なんかしたら嫌われる。あるいは、親には言えない、子供には年取って世話にならなければならないからあまり強く言えないなどが挙げられます。
 「友達・恋人・親・兄弟」を大切にしたいと思う気持ちは大切ですが、大切にするあまり、「執着」の心に支配されていないでしょうか。この執着が身近な大切な人を御本尊様に導くことを妨げているのではないのでしょうか。。
 友人知人に親兄弟は「身の財」です。しかし、そのままであっては「身の財」の域をでません。
 しかし、大聖人様の信心は、そこからさらに一歩進めて、「身の財」を「心の財」に変える方法を教えて下さるのです。
 大聖人様は、
 「仏になるみちは善知識にはすぎず」(御書743頁)
と仰せのように、私たちが成仏の境界を確立することができるのは、「善知識」によるのです。
 「私のためにお題目を唱えてくれる友人や恋人や家族」、それこそが「善知識」です。
 普段どんなに優しい言葉をかけて下さる方でも、いくら頼んでもお題目を唱えてくれない方や、頑なに他宗に固執している方は「悪知識」でしかありません。執着を捨てて勇気を持って、本物の御本尊様に導くことにより、「身の財」を「心の財」に変換して行くことができるのです。

⑦「慙(ざん)」とは、慙愧(ざんき)。聞・信・戒・定・進・捨の修行をしてきたが、「私は御本尊様の信心に恥じることがないだろうか」と自己を省みることです。
 私はこれだけ御供養した、とか、こんなに折伏した、等と慢心を起こしてはいないだろうか。これらの反省をすることが「慙」です。そして、最初の「聞」に立ち返り、精進を重ねることによりさらに深い境地を得ることが出来るようになるのです。

 総本山二十六世・日寛上人が金沢法難の最中に御信徒に与えたお手紙に、
 「かならずかならず身の貧しさをなげくべからず。唯信心のまずしき事をなげくべきにて候」と御指南されています。
 物理的な貧しさは現世だけのものであるから嘆くことではない、未来永遠に所持できる宝物を持つことが大切なのであり、その宝物は御本尊様への信心なのである。その信心(財)がないことを嘆くべきです、とこのように教えて下さるのです。 

 毎年お話ししている『盂蘭盆御書』で大聖人様は、
 「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず、子と孫と末七代までもかゝり候ひけるなり。善の中の大善も又々かくのごとし。目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外(ぞんがい)に仏となり給ふ。乃至代々の子息・夫妻・所従・檀那・無量の衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ」(御書1377)
と仰せです。

 この妙法の功徳は厳然と三世に通達して、自分に縁をする無量の先祖から子孫にまで及ぶということを大聖人様は教えていらっしゃるのです。
 従って、お題目を唱えた功徳、また、慈悲をもって折伏を行じたその人の福徳というものは、たとえ七代生れ替わろうとも、大きな利益・因縁となって、厳然とつながって行くということを、確信していただきたいと思うのであります。
 誰がおっしゃるのでもない、久遠以来の御本仏大聖人様が保証して下さっておられるのです。

 今、我が支部は、日如上人猊下の御指南に何としてもお応えすべく、折伏指導員・新井契道御尊師の指導により、先月の27日より10時間唱題を行っております。
 「人は亡くなって三十五日で生まれ変わる。この支部も10時間唱題をして、三十五日で生まれ変わって下さい。」と御指導下さいました。
 一人が絶えず10時間唱題し続けることは厳しいですが、皆でつないで唱題するなら簡単に出来るのです。
 しかもそれが心の財となっていくのです。
 どうかここにお集まりの皆さん、五分でも十分でも唱題会に参加されて、折伏に励み、自らの殻を打ち破り、共に成仏の大道を歩んで参ろうではありませんか。

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