ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話(第237号)
 
   
   我が頭(こうべ)は父母の頭(こうべ)、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり
 先祖供養の意義について

 
     
   年忌(ねんき)について
 年忌(ねんき)表をお寺のロビーに貼ってありますが、一周忌のあと翌年がなぜ三回忌になるのか等聞かれる事があります。
 一度、お盆の前ですし、ちゃんとお話ししておく必要があると思い、年忌(ねんき)法要の成り立ちと目的について最初にお話しいたします。

 仏教では、人間が生まれ変わるという「輪廻転生(りんねてんしょう)」が説かれ、古代インドではそう信じられてきました。
 人の死後、次の生をうけるまで四十九日間あるとされ、この間を「中陰(ちゅういん)」あるいは「中有(ちゅうう)」といいます。その間、遺族は7日ごとに供養をして、死者が少しでも良いところに生まれ変われるように願うのです。
釈尊は、菩提樹の下で悟られた後、7日ごとに場所を変えて瞑想をされ、49日の間、悟りの境地を味わい、その内容を明確に把握されました。
 つまり、釈尊は49日かかって新しく生まれ変わったとも言えます。忌日法要はこをもとにしていると考えられます。
 このことから、日本では、初七日より七七日(四十九日・満中陰(まんちゅういん) )までがつとめられるようになったと考えられます。
 中国では、儒教(じゅきょう)の『礼記(らいき)』に「卒哭忌(そつこくき)」という行事があります。
 これはその字が示すとおり、哭(な )いて過ごした日々を卒(お )える日であります。

 仏教ではこれをとりいれ、百という満数にして百ケ日の法要を行うようになったと考えられます。さらに『礼記』に 「小祥忌(しょうじょうき)」「大祥忌(だいじょうき)」(親亡くして十三ケ月、二十五ケ月の祀(まつ)り)があります。これらが仏教の一周忌、三回忌となったと考えられます。
 なお、一周忌は人が亡くなって丸1年をまわった日をいい(一回忌とはいいません)、丸2年をまわった日を三回忌といいます。これは、亡くなった日が1回目の忌日、丸1年目が2回目の忌日、丸2年目が3回目の忌日であることによります。
 三回忌までの法要はインドや中国の習慣を取り入れたもので、それ以降の年忌(ねんき)法要は日本で生まれたものです。

 年忌(ねんき)の根拠は仏教、儒教、それにわが国の習俗(しゅうぞく)も加わって歴史的に成立したもので、鎌倉、室町時代には今のような年忌(ねんき)法要が営まれていました。
 年忌(ねんき)にかぎらず常日頃より心からお題目をとなえ、報恩感謝の心を御本尊様とご先祖に手向(たむ)けることが最も尊く、そして大切なことなのです。
 また、大聖人様や御歴代上人などの五十回忌ののち、50年ごとに御遺徳を追慕して報恩感謝申しあげる法要を遠忌(おんき)といいます。


 【法要の意義】
 仏教の大きな特色の一つが、先祖供養です。そこで今の自分自身の生命について考えて見てください。
 仏教の教えでは、私たちの生命(いのち)は神が創造したものでも、偶然に生まれてきたものでもありません。
 生命(いのち)こそ私たちにとって、かけがえのない宝物であります。日ごろの生活のなかで、「生きていてよかった」という、生きることの喜びを感じたことが何度となくあったことでしょう。
 この生命(いのち)は、親からいただいた生命(いのち)なのです。親はまたその親からと、さかのぼった数多くの親の生命(いのち)を、今、自分の生命(いのち)としていることを忘れてはいけません。私たちは生命(いのち)に感謝しなければなりません。

 「我が頭(こうべ)は父母の頭(こうべ)、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。譬えば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影の如し。」(忘持経事 御書958頁)
 と日蓮大聖人が示されていますように、私たちの精神と肉体は、すべてご先祖から受け継いだものであります。
 私たちには二人の親がありますが、親の縁によって自分があることを忘れてはいけません。今の生命(いのち)があることはご先祖の「おかげ」であることを実感し、感謝の心を捧げる、これが先祖供養です。

 また、日頃から「死は一定なり」と自分に言い聞かせ、頭では理解ができても、いざその現実に直面した時、「別れ」の苦しみを乗り越えることは大変難しいことです。この「死」を受け入れ、乗り越える為に大聖人様の教えがあります。
 日蓮大聖人は若くして子供を失い悲しみに暮れる母親に対し、「妙法蓮華経の世界で亡き子供と再会するよう」教示しています。
 「死」の悲しみ・苦しさを乗り越える手段は何といっても寺院や僧侶による追善供養です。悲しみ・苦しみの癒えない方は、僧侶による追善供養を通して亡くなった方への想いを伝えてください。

 日蓮正宗における各法要は、宗祖大聖人より伝わる化儀・儀式であります。
 日蓮正宗の化儀即化法に基づく総本山の儀式法要は、全て宗開両祖の振る舞いを基としており、嫡々付法の御歴代上人がその根本化儀を伝承されているのです。
 そして宗内の僧俗は、それら総本山の化儀を中心として修行し、成仏の境界を開いてきました。
 たとえば大聖人様は、富木常忍に与えられた『始聞仏乗義』に、
 「青鳬(せいふ)七結(ゆ )ひ下州(したず)より甲州に送らる。其の御志悲母(ひも)
の第三年に相(あい)当たる御孝養なり」(御書1207頁)
と仰せになられ、このことから、富木氏が、大聖人のもとへ御供養を奉り、母の3回忌の追善を願い出られたことがわかります。

 ほかにも、『曽谷殿御返事』『忘持経事』『千日尼御返事』『四条金吾殿御返事』『中興入道消息』などを拝せば、弟子檀那達が年忌(ねんき)・盆・彼岸の折に、宗祖大聖人へ故人の追善回向を願い出ていることがわかります。
 また、日興上人の書状を拝しても、「御霊供料」「盆料」「彼岸御仏料」等の表現が見られ、日興上人やその弟子達が、故人の追善供養のために、御本尊の前で、盂蘭盆や彼岸の読経を行なうことを述べられています。
 よって、宗開両祖の時代においても、僧侶による読経回向と、檀那の供養を伴う追善仏事がなされたのです。

 つまり、今の創価学会が『葬儀法要等の仏事は自分達で行えばいい』とし『お盆やお彼岸に僧侶による読経は必要ない』とか、『お盆・お彼岸が大聖人の仏法とは関係ない』などと言うことは、宗開両祖の化儀を冒涜(ぼうとく)するものでしかありません。
 また、回向については、御本尊を根本とする四力成就(信力・行力により仏力・法力が顕現する)の追善回向の本義に対し、学会は衆生の修行のみを取り上げ、それを追善供養の根本であるとしています。
 すなわち、御本尊よりも、むしろ衆生が中心となった功徳論に堕しているのであり、ここに、学会の誤りがあるのです。
 そもそも、衆生が御本尊を受持信行し、その功徳が他に回向されることはあっても、衆生の力のみでは当然功徳は生じません。
 学会員は、『自分達も僧侶と同じように読経出来る、どこに差があるのだ。』という途方も無い慢心があります。
 仏法の追善回向は、あくまでも御本尊に具わる法仏の力用が根本であり、衆生の側には、この御本尊を根本とする信力・行力が必要です。そこに、四力が成就され、はじめて真実の追善の功徳が顕われるのです。
 しかも、衆生の信心を受け止め、正しくその功徳を顕わすことのできるのは、血脈相伝に基づく日蓮正宗の御本尊以外にないのです。
 仏法の追善供養の本義は、御本尊を根本として衆生の成仏を願うものであることを、けっしてなおざりにしてはなりません。

 それ故に、26世日寛上人は、
 『凡(およ)そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方(まさ)に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず』(御書文段223頁)
 『若し仏力、法力に依らずんば何ぞ能(よ )く我等が観心を成ぜんや』(御書文段228頁)
と仰せなのです。
 それらの衆生の功徳善根の源は、御本尊即三宝尊の徳用にあるのだという、第一義の信仰が創価学会にはわからないのです。
 日蓮正宗の化儀は、全て御本尊への信心を根本とした、衆生成仏のためのものです。父母先祖の供養をしたい、という衆生の願いは、御本尊を根本とした葬儀・法事・盆・彼岸などの儀式において、四力成就の功徳のもとに追善回向されるのです。それは、また亡者のみならず、自身の善根を積むことにもなります。
 また、本宗の葬儀・法事・盆・彼岸の儀式のときに、僧侶が白袈裟と薄墨の衣を纏(まと)い、御法主上人の名代として導師を務めるのは、下種三宝の御本尊の功力を根本にした、真実の追善回向を行なうためなのです。
 それはまた、同時に『当家三衣抄』に示されているように、他宗謗法の黒紫金襴(こくしきんらん)の法衣を簡異し、本宗の薄墨の名字本因下種(みょうじほんにんげしゅ)の仏法を表明し、参列の衆生をして順逆二縁を結ばせる、折伏行でもあります。

 日蓮正宗の化儀は、宗開両祖の化儀・化法をもととするのであり、この御本尊を根本として、衆生を成仏へ導く本宗の化儀を通して、僧俗ともに正しい信心の筋目と功徳を自然に身に具えていくことができるのです。
 御金言に 「よき師と・よき檀那と・よき法と、この三つ寄り合ひて祈りを成就し」(御書1314頁) と仰せのとおり、御本尊(よき法)と、御本尊への信心(よき檀那)、そして僧侶の導師(よき師)、このすべてが揃って、初めて成仏を叶えていただくことができるのです。
 
 しかるに、創価学会は本宗の相伝によらず、正しき化儀を否定し、ニセ本尊などを拝するかぎり、回向したくとも、回向すべき功徳がないどころか、罪障を積み、さらには先祖をも苦しめることになります。
 大聖人以来の本宗伝統の化儀を誹謗(ひぼう)し、中傷し、正しい先祖供養ができない創価学会員の先祖の苦しみは、察するに余りあります。
 慈本寺支部の皆様には、一刻も早く縁ある学会員を折伏され、救っていっていただきたいと思います。


 【毎月一日の御経日の意義】
 亡くなられた御先祖には毎月命日が訪れます。決して忘れてはならない大切な日です。毎月一日に行われるのは、皆様が仕事等で命日に寺院へ来て供養が出来ない場合がありますから毎月一日に行います。
 また講中の皆さんと一緒に御本尊様に読経唱題申し上げて追善供養することで、更に成仏につながる縁を御先祖は深めることが出来ます。毎月命日が訪れるため、先祖供養といわれる御経日が一日に寺院ではあるのです。
 また、この日には永代供養を申し込まれた諸精霊の追善回向も併せておこなわれるのです。永代といわれる通り、寺院が存続する限り永劫にわたって住職が毎月回向していくのです。
 御塔婆は法事や御盆、春と秋の御彼岸だけでなく、毎月訪れる命日の意味を持つ一日にも立てることが大事です。
 これらが毎月御経日を寺院で奉修する意義であります。


 【塔婆供養の功徳について】
 日蓮正宗では、信徒の願いに応じて、先祖・水子の精霊の追善供養を行なう際に、塔婆供養を行ないます。

 
日蓮大聖人は、『中興入道御返事』に、
 「先に亡くなったお嬢さんの十三回忌にあたり、面に題目が顕わされた塔婆を建立すれば、たまたま北風がその塔婆に触れ、その風が南海まで流れつき、その海に住む魚がその風に触れると、その魚は思いの外に成仏できるのです。また東から吹いてくる風が塔婆に触れて、西の山まで到達すると、その山に住む動物たちは皆、塔婆の功徳によって畜生道の苦しみから逃れ、天上世界に生まれ変わることができるのです。…南無妙法蓮華経の御本尊の元に建てる塔婆の利益はそれほど優れているのですから、まして、その塔婆を建立してもらった亡きお嬢さんは成仏の大功徳に包まれていることでしょう」(御書1434頁意訳)
と仰せです。
 大聖人は、塔婆に認(したた)められた「妙法蓮華経」の題目の功徳により、
 「南無妙法蓮華経と書いた塔婆の文字に風が触れると、南無妙法蓮華経の文字は風に乗り、海や山へ種がまかれる様に縁を付けるでしょう。
 そのご縁で自然の中の動物や植物さえも救われるのですから、その塔婆を起てて供養しようと志された人は、塔婆に手を触れ、目に見ることで必ず成仏できます。
さらに、その塔婆供養の功徳により、霊山浄土という仏さまの世界におられるご先祖さまも喜ばれ、供養を志された人は寿命が延びるでしょう」
と教えてくださっています。
 これは、九界即仏界、仏界即九界の当位即妙(とういそくみょう)の成仏が叶う塔婆供養の大事な意義を教えられているのです。

 また大聖人が、弟子・最蓮房に与えられたお手紙にも、
 「我等衆生、死する時塔婆を立て、開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり」(御書522頁)
と書かれています。
 生きている時の成仏が、私たち自身の勤行・唱題・折伏による功徳を基本とする一方、死後の即身成仏は御遺族が塔婆を建立し、その塔婆を開眼供養する事(御本尊の元に塔婆を建て、住職が回向する)に頼ると仰せです。
 私たち日蓮正宗の僧俗は、朝夕の勤行の際、先祖の追善回向をしています。これを食事に譬えれば、毎日の勤行時の回向は、亡くなった方へ日々の食事を供えるようなものです。

 これに対して、祥月命日や月命日、春秋の彼岸・お盆・正月、毎月一日のお経日に先祖の方々の塔婆を寺院に願い出るのは、真心からの「ご馳走」を恩ある両親等の霊前にを供えることになるのです。

 こうしたことから考えれば、「長男が供養しているから、次男であるうちは塔婆は建てない」とか「私
は嫁(とつ)いだ身だから、実家の両親の供養はしない」、あるいは「実家の信仰は違うから、妙法で供養はしない」などと安易に決めつけてしまうのは、まるで「長男ではないから」「嫁いだ身だから」、「親孝行する必要はない」と言っているのと同じです。
 「塔婆供養をしなければ、絶対に成仏できない」という訳ではありません。
 しかし、日蓮大聖人が「利益が絶大である」と賞賛し、勧められる塔婆供養を、折々に触れて行なっていくことは、とても大事なことなのです。


 【真心からの供養を】
 最近では、法事を軽視する傾向がみられます。御供養はいくらすればいいのか、親戚はどこまで声をかけるのか、食事はどうするのか、出席者への御礼はどうするのか等、色々と煩雑な問題も出てくるのでしょうが、今まで述べてきましたように大事な意義を含んでおりますので、しっかりと営むべきだと思います。
 諸般の事情で法事を営む事は無理であっても、年忌(ねんき)にはせめて塔婆を建てるべきだと思います。
 その為にもまず、過去帳を作って下さい。過去帳が無ければ先祖の命日も分かりませんから回向も忘れがちになって当然です。
 過去帳には御歴代上人や大聖人様の法難・御両親まで記載されておりとても重要な意味があります。

 また、折伏・法統相続の為にも、寺院の御本尊様に縁をさせるということは大事です。子供は見て、体感して覚えるモノですから、先祖供養はどうやるのか、お墓参りはどうするのかというのは、親が実際にやって見せておかなければ、自分が亡くなった時にしてくれるかどうか分かりません。

 これはある先輩に教えて頂いた話ですが、都内の江戸時代からある寺院には古くからの檀家さんがおりますが、その中には五〇回忌の法要を営まれる方もいらっしゃるようです。
 生前の故人を知っている親族が殆どいない中、その先祖の為に孫やひ孫まで大勢集まり、法要を営むような家柄は、皆一様に親族が結束し社会的にも成功しているというものでした。
 親や先祖への報恩や供養は、大聖人様の仏法を信心修行する者の基本であり、過去の先祖と自分を救う絶大なる功徳がそこに存するのです。
 皆様の日頃の信心修行が全て、亡き親族への善根となる事を忘れずに、猛暑の中ではございますが、前を向いて進んで参りましょう。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  
 

 
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