ホーム 御住職の法話目次   御住職の法話 (第236号)
  
   【忘れても法華経を持つ者をば互いに謗るべからず毀るべからざるか
 
怨憎会苦を乗り越える

 
     
  【怨憎会苦(おんぞうえく)とは】
 釈尊が説いた四苦八苦の一つに「怨憎会苦」があります。「怨(うら)み憎む人に会わなければならない苦しみ」です。
「愛別離苦(あいべつりく)」(愛する人と別れなければならない苦しみ)に比べればたいしたことはないと思うかも知れませんが、この苦しみの渦中(かちゆう)にある人にとっては切実です。
 釈尊が此のテーマを「四苦八苦」の一つに挙げられたことは、釈尊の時代にも大きな苦しみ・悲しみの一つであったからだと思われます。

 世の中は、自分の好きな人ばかりではありません。相性があわない人もいます。嫁と姑の問題は大昔から、この代表であります。
 大聖人様も、「お嫁さんだっていつかは姑さんになるんですよ」「凍えたご主人の足を懐に抱いて温める女房はいても、お義母さんにまでする人はいない」と仰せです。

 今は核家族化が進んで嫁姑が同居する例も少なくなって来ましたが、盆や正月にどちらの実家に帰省するか、どちらの親が遊びに来るかなどでもめるケースも多々あるようです。

 嫁と姑の関係を難しくする原因には、世代の違いから来る価値観のすれ違い、互いが譲り合おうとしない我慢偏執(がまんへんしゆう)のぶつかり合いなどが原因です。
 姑にしてみたら、娘や息子には苦労はさせたくないが、嫁は自分もそうだったように苦労して当たり前と思う。嫁にしてみたら、自分の親の欠点は許せても姑の欠点は許せないものです。

 嫁に苦労はさせたくない、姑の欠点を許してあげる、そうお互いに思いやっていかなければうまくいきません。
 鈴木健二氏の、かつてベストセラーになった本に『気配りのすすめ』という本がありますが、この本で嫁・姑問題の解決策として、お互いによく呼び合う事だと書いています。「お母さん」「○○さん」と一日に何度も意識して名前を呼び合っていると自然に心が通じ合うというのです。
 この問題で悩んでいる方は、まずは名前を呼び合う事から始めて下さい。陰で「クソババア」とか「馬鹿嫁」などと呼んでいると、ポロッと出てしまう事もあるでしょうし伝わりますから金輪際やめるべきです。

もっと深刻なのは、学校でのいじめ・会社でのパワーハラスメント等によって、「怨憎会苦」から逃れるために、毎年自ら命を絶ってしまう方がいるということです。
 また、そこまで至らなくても、精神疾患を発症してしまう場合もありますので、この苦しみを軽く見るわけにはいきません。
 さらに、人でなくても物や出来事など、日々の営みにおいてこの苦に遭遇してしまう事態は多々あります。ここから本能的に逃れたい、避けたい、乗り越えたいと思っても、解決する術を持っていない人が殆どではないでしょうか。

【創価学会の恐るべき指導】
 創価学会が発行している2012年『大白蓮華』12月号に、このような指導が掲載されています。

『信心している人に対して、どうしても好きになれないと思うのは謗法にならないでしょうか?』
 池田会長、
『なりません。嫌いな人は嫌い、合わない人は合わない、それは人間の自然です。組織そのものを誹謗するならともかく、そうでない限り、謗法ではありません。当然の人間性です。
『仏法の世界』は、本当の『人間性の世界』なのです。あなたが人間らしく、さらに人間らしく生き抜いていけばよいのです』

 さらに、
「怒りの炎を燃やして『戦闘』する!『叱咤』する!『攻撃』する!『追撃』する!これこそが仏法であり、正しき人間の道である」(聖教新聞 平成十一年十月十一日付)
とあります。
 皆さんどう思われますか。彼等は仏を信じ、御本尊を信じていると口では言いながら、結局は三毒充満の人間中心の考え方です。
 北朝鮮のように、周囲は敵であり攻撃されていると被害者意識を持たせ、怒りの命で組織の団結を図っているに過ぎません。実に低級な教えです。

 その低級な教えの象徴が、全国青年部幹部会(平成四年十二月十三日)にて発せられた、池田大作による殺人教唆指導です。
 「あのー、まぁ日顕なんか、その(イヤな奴の)代表だっていうんだ。ほんな、針金でゆわえて、あの頭、トンカチでぶっ叩いてね。」という指導を、会場に詰めかけた青年幹部は、大笑いして聞いていました。
 人の頭をトンカチで叩いたらどうなるか、池田や青年幹部が分からないハズがありません。
 
 更に、こういう指導をしていた池田大作自身が三年も公に姿を現せないという現象が、全てを如実に物語っております。異常に勝ち負けにこだわっていた人ですが、自らの怒りの命に彼は負けたのです。

【相手への怨嫉(おんしつ)を乗り越えるには】
 仏法の考え方では、自分の行動を通して受けるさまざまな事柄は、宿業によると説いています。その宿業ということを考えないで、相手を逆に恨(うら)んでしまうということは、仏法に外れた教え、いわゆる外道の考え方です。当然、幸せになる事も、成仏も叶いません。
 しかし、実際に私たちが生活していくなかで気持ちに「怨嫉」が生まれることがあります。特に他人に対して生まれる心の迷い、煩悩です。
「怨嫉」とは、「怨」がうらむこと。「嫉」がねたむこと、やきもちを妬(や )くことです。妬くとは心を乱すという意味です。
「怨嫉」にも種類が沢山あり、最悪な場合、私生活を泥沼化させます。「怨嫉」の正しい扱い方を常日頃から磨き、身に付けていれば問題はありません。日常起こりうる縁に「怨嫉」を生む原因が潜んでいます。

その「怨嫉」を未然に防ぐ方法が御本尊様に御題目を唱える勤行唱題という修行になります。「怨嫉」を正しく扱い冷静な気持ちと落ち着きを取り戻すことが出来ます。勤行唱題をしても「怨嫉」を静められない人は、我慢偏執と慢心が信心に対する素直さより勝っているため、更に「怨嫉」の気持ちを燃え上がらせてしまいます。
「怨嫉」を静めるには、まず心の乱れ動揺を抑えることが大事です。私達の心に生まれる「怨嫉」は、信心をし「四恩」を知り、恩を報じることで平静を保つことが出来ます。
『上野殿御消息』に、
「仏教の四恩とは、一には父母の恩を報ぜよ、二には国主の恩を報ぜよ、三には一切衆生の恩を報ぜよ、四には三宝の恩を報ぜよ」(御書922頁)
と仰せのように「怨嫉」という気持ちを捨て、「四恩」である父母に恩を報じ、国主の恩を報じ、一切衆生に恩を報じ、三宝(仏法僧)に恩を報じることです。
「怨嫉」は貪瞋癡の三毒から生じる心の汚れです。「怨嫉」は気分の良いものではありません。非常に身心を害する毒素を含んでおり、「怨嫉」から病が生まれます。
 「怨嫉」が生まれるのは、「四恩」を忘れ自己中心的になるからです。信心は自己中心的な考えを改心し、「四恩」を理解して自他共に幸せになることです。「怨嫉」は幸せになる生活を破壊するものでしかありません。

 相手の理不尽さ、愚かさ、無知さなど、あらゆるすべてを許して受け止めてあげるべきです。苦しみに悩んでいるより、その苦しみを乗り越えてしまった方が楽です。

 「四恩」を知り御本尊様に御題目を唱えることで「怨嫉」は心から消滅させることが出来ます。「怨嫉」が生まれると相手に原因があると錯覚を起こしますが、自分自身の己心の魔や師子身中の虫が操っていることを覚(さと)ることが大事です。素直な信心をすれば明らかに見えるようになります。

 
 まずは、祈った後の具体的な行動として、皆で挨拶から始めてみましょう。
先ほどの、鈴木健二氏の本の中に
『人間関係というのは長く続いていく事がもっとも大切な事だ。(中略)おはようといったが、相手がおはようを返してくれなかった。だからこの次はやめてしまおうというものではないのである。挨拶はたとえ相手がしてくれなくても、自分だけは続けていくものなのである。そうすれば絶対に相手から中傷されることはないのである。
 「あの人は挨拶もしない人なのだ」
たいていの悪口はここから始まるのである。自分さえしていればけっしてまちがいはない。いつか相手が心を開いてくれるのである。
 朝の挨拶一つで家庭の雰囲気はガラッと変わる。どこかよそよそしかった家庭が、たった一言をきっかけに心を通わせ合う。職場でも同様だ。挨拶人間の心はいつも開かれている。心が開かれていれば相手も心を開いてくれるようになる。』
とありますが、まことにその通りだと思います。

【同志間の反目、諍(いさか)いは功徳を消し罪障を積む】
 大変残念な事でありますが、最近、「あの人に会いたくないから、お寺やお山には行きません」と言って自らの懈怠(けたい)を正当化する人がおります。自分の行動を顧みる事無く、他人のせいにして責任を押しつけているのです。
 この、自分には一切の非が無く、悪いのは全て相手であるとの考えから、怨嫉というものは出てくるのです。そういう全部を他の責任にするという考えは、仏法の考え方ではありません。
 信心の同志に悪口を言ったり、顔をしかめて嫌ったり、憎んだりすることは、その人の中の仏性をも否定することになるから謗法になるのです。これを犯すと折角信心していても一方で罪障を刻むことになります。
 私達日蓮正宗の信仰者は修行の途上にある凡夫同士ですから、みんな欠点もあれば、落ち度もあります。欠点だらけだからこそ、支え合い、補い合って、互いに仏道修行を進めていくことが大切なのです。

 それでは自分が馬鹿にされても目をつぶれということなのかというとその通りであります。
 日蓮大聖人は『四条金吾殿御返事』において
「此の法門の一門いかなる本意なき事ありとも、みず、きかず、いわずしてむつばせ給へ」(御書1362頁)
と仰せられ、つまり同志間では、どんなに不本意な事や不愉快な事があったとしても、それを見ないように、聞かないように、言わないように努め、仲良くして行きなさい。と言われております。

 今は欠点だらけでも御本尊様を信じて仏道修行に励むなら、その生命の奥底に仏界が涌現し、その仏界の働きによって、どんな人も次第に変わっていけます。
仕事のできない人はできるように、常識のない人は常識を弁えた人に、病気の人は健康に、悪人は善人にというように過去の罪障や邪宗の害毒が現れている現在の欠点だらけの姿を見て、目くじらを立ててはいけないということです。
 今はまだ目に見えなくても、仏道修行をしている人は確実に仏界が躍動しはじめてますので、先々立派になっていくことを信じて行かなくてはなりません。
現在の至らない姿を見て不愉快に思い、むやみに批判したりするのは、御本尊様の功徳を信じていないことであり、その人の生命の奥底に躍動し始めた仏界を謗(そし)ることになります。
 従いまして、同志間では見ず、聞かず、言わず、仲良く助け合って仏道修行を進め、功徳を積んでいかなければなりません。

 講中の異体同心の信心、行体を確立していく上で、殊の外重要な誡めが十四誹謗を犯してはならないという日蓮大聖人の御教示です。
 この十四誹謗中、特に第十一の軽善から第十四の恨善までは、正法正義を受持し、信行に励む者に対して、怨嫉や誹謗をしてはいけないと誡めたもので
す。

 第十一「軽善(きようぜん)」。即ち御本尊を受持し、信行に励む人に対して、軽んじ侮ることをいう。

 第十二「憎善(ぞうぜん)」。正法を信受する僧俗を憎むことをいう。

 第十三「嫉善(しつぜん)」。正法を信受する僧俗を嫉(そね)み妬(ねた)むことをいう。嫉むことも妬むことも共に、他の勝れたものに対して羨(うらや)んだり憎んだりするところから起こる感情。

 第十四「恨善(こんぜん)」。正法を信受する僧俗を恨(うら)むこと。字義から言うと「恨」の字は、同じウラミでも心中に根に持つ深いウラミをいう。

 大聖人様は、
「此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし、怖(おそ)るべし怖るべし」(御書1046頁)
と仰せのように、在家の信徒も出家の僧侶も、共に悪果・悪報を招く大きな業因となるので、恐れ慎んで十四誹謗を誡めていくべきことを強く説かれています。

 大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(御書1047頁)
と御指摘になっています。ですから、「あの人は何しても変わらない」と思うこと自体、不信謗法であり一言で言えば「信心が無い」のです。

 大聖人様の、
「忘れても法華経を持つ者をば互に毀(そし)るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」(御書1047頁)
のお言葉は、常に自分に言い聞かせて下さい。

『例え自分が正しくても怨嫉したほうが罰を受ける。』
『相手の成長を祈ってあげること。そうすれば自分も相手も良くなる。』
ということなのです。
 従いまして日蓮正宗の信仰者は、同信の人を生理的に受け付けるとか受け付けないなどということなど考える余地がないということです。
 つまりそのような考えを起こすこと自体が間違いと言えます。

 かつて、御隠尊日顕上人は、法要後の信徒同士の争いを目にされ、以下のように御指南されました。
『本日は当鹿沼の地に頓止山仏城寺を建立致しまして、その入仏落慶法要に参った次第であります。しかるところ、法要が終わった直後に、何を騒いでおるか。私はその信心を疑います。
 皆さんが信心をする目的は、即身成仏にあるわけであります。しかしながら、その即身成仏のもとには、仏様の言い知れない大恩があって、その大恩を我々が拝し奉り、受持し奉ることによってはじめて、我々の成仏がかなうのであるということを、深く肚に入れなければなりません。自分勝手な、なまいきな考えをもってするならば、けっして成仏はできません。仏様の大恩を深く心の底に拝し奉り、自らはまことにいたらない凡夫であるということを深く自覚して題目を唱え奉るところにはじめて、仏様のお題目の功徳が我々の生命の中に顕われてくるのであります。自慢・高慢の心や『自分は偉いが、あいつはどうだ』というような批判の考え方をもってお題目を唱えても、大聖人はけっして成仏をお許しにはならないということを、深く考えなければならないのであります。このことを、まず、申し上げておくものであります。』(大日蓮四一三号 昭和五十五年五月六日鹿沼市仏城寺・入仏落慶法要の砌)

【人から愛される信心修行を】
 大聖人は、正月一日を正法をもって愛でることを悦ばれた『十字(むしもち)御書』(御書1551頁)に、
「とくもまさり人にもあいせられ候なり」
「法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし」
「法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし」
と仰せられ、この信行に励む者は幸を万里の外から集め寄せ、もともと良い香りのする栴檀(せんだん)にさらに芳(かぐわ)しさを添えるように、徳も積まれ、人に愛されるようになると、正法信行の功徳を御教示されています。

 信心の上から、我が生命を過去世にまで遡(さかのぼ)って浄化しつつ磨いていくと共に、さらに世法の上からも人の生き方をよく学び、修練を重ねて己を磨いていけば、必ずやこのような人になれるのです。

 今は、日如上人の仰せのまま、講中全員が『団結前進』して折伏に邁進すべき時なのです。我々が【今生人界の思い出】と出来るのは、どれだけ人の為に祈り、修行をして徳を積んだかという部分だけなのです。
 皆さんには、悔いの無い、御本尊様の功徳に満ちた清々(すがすが)しい人生を送って頂きたいと、切に願うものであります。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  

    
 
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