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   噫(ああ)過ぎにし方(かた)の程なきを以(もっ)て知んぬ、我等が命今(いま)幾程もなき事を
 
壮年よ大志を抱け

 
     
   “Boys be ambitious ! ”は、明治時代に札幌農学校(現北海道大学)の初代教頭だったクラーク博士が残した有名な言葉です。
 実は、この後に続く言葉があります。最近では中学や高校の英語の教科書に載っているようです。

 『少年よ、大志を抱け。
 しかし、金を求める大志であってはならない。
 利己心を求める大志であってはならない。
 名声という、つかの間のものを求める大志であっ てはならない。
 人間としてあるべき すべてのものを 求める大 志を抱きたまえ。』

 かつて少年だった我々壮年は、今どうでしょうか?純粋な大志を抱いているでしょうか?それともクラーク博士が危惧していた大人になってしまったのでしょうか?

 今日は、疲れ気味の壮年・婦人にスポットを当てながら、残り少なくなってきつつある人生をいかに生きるかを考えてみたいと思います。

 うちの教区内は立派な御住職ばかりで、私も教区では「若手」と呼ばれていますので、自分でもオジサンという自覚があまりないのですが、四十七歳の今、着実に老化現象は始まっております。
 中年以降の人生は、加齢との戦いとも言えます。体力は衰え、白髪交じりに見た目も衰え、老眼がはじまり、歯や骨は弱くなり、生活習慣病の可能性が出てきます。
 最近では私の同期生で集まっても、自然と血糖値や尿酸値や血圧の話になってしまいます。いつの間にか禁煙する人が増え、しぶとく喫煙しているのは、ほんの数人にまで減りました。
 これには大いに刺激を受け、何度か禁煙に挑戦するも挫折していた私も、ようやく病院で処方してもらった「チャンピクス」というタバコが嫌いになる薬のおかげで禁煙できました。
 禁煙するまでは、タバコに火を付けた瞬間に、「臭い臭い」と家族に攻められ、「大げさに騒いで」と正直、嫌がらせにしか思っていませんでしたが、自分の喫煙欲を掻き立てる芳香ですらあったタバコの臭いが、タバコをやめてみるといかに臭いかがよくわかりました。
 お医者さんから「タバコをやめると体調がよくなって食べ過ぎるから気をつけたほうがいいよ。」とのアドバイスもあり、今度は、食事と運動にも気を配っていきたいと思います。

 さて、身体的な老化はある程度しょうがないとして、問題は内面です。
 電車などで、「ふざけんな」とか「チクショウ」と一人でしゃべっている人を見かけたことはありませんか?歳を重ねると自分が中心になりすぎて周囲の状況が見えていないからだそうです。駅のホームで、傘を振ってゴルフの素振りをする人も同じです。公の場で、鼻歌が出るようになったら相当危ないようです。

 綾小路きみまろさんの有名な台詞に「プロポーズあの日にかえって断りたい」とか「会社より女房に出したい退職届」というものがあります。
 なぜ笑ってしまうのかといえば、みんな多かれ少なかれ、心当たりがあるからです。
 歳を重ねるにつれ後悔は深くなります。「あのとき、ああ言うべきだった」「もし、ああしていれば私の人生は変わった」。と、男女ともに思うこともあります。
 変えられない過去を振り返っては後悔します。後悔には嫌な思い出が付きもですから、思い出した瞬間、頭を抱えたり、顔をゆがめたり唸ったりという身体反応が起きます。自分の布団にもぐって「馬鹿野郎」などとやっている分には許されても、人前で突然こうなってはただの危ない人になってしまいます。
 この、後悔のよくないところは、同じ思考が堂々巡りとなり、全く何の役にも立たないと言うことです。反省と違い、主に他人をうらやみ自分を卑下しますので、ただの時間の浪費です。
 また、くよくよ後悔すると自分自身の精神に何度もダメージを与えますので精神的疲労も重なります。

 日蓮大聖人は、
 「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(開目抄・御書571頁)
とのお経文を引かれて、現在の結果は過去の行いによるものであり、未来の結果は現在の行いによるものであることを教えられています。
 過去の出来事を、すでに起こったこととは違うこととして考え直すことに意味はありません。
 したがって、これからの人生を幸福なものに変えたいならば、今現在の行いを正しいものに変えていくことが大事となります。未来は、いかようにも変えていけるのです。

 性格とは別に、歳をとると人付き合いも億劫になり、大事なことでも何でも後回しにする傾向にあるそうです。「あとにするか」「気分が出たらやるか」などとやっているウチに、恐ろしい早さで時間は過ぎていきます。
 何を隠そう、今、私が皆さんにお話ししている原稿も、ずっと次回は何についてお話ししようかと常に考えてはいますので、何となく頭に浮かんではいるものの、実際に書き出すのは『妙彩』の原稿締め切り間際という事の方が多いのです。
 人生に先延ばしはありませんから、私も有意義に毎日を過ごしていきたいと思います。

 さて、もうだいぶ前になりますが、ある御信徒さん達から「住職さんはまだ若いから私みたいな年寄りの気持ちはわからない」とか「道徳的な話しが多い」と指摘されました。
 確かに私自身も八十歳になってみなければ、体感できないことも多くあろうかと思います。それでは何でも経験しなければ皆さんにお話しできないかといえばそうでは無いと思います。
 世の中には、老若男女様々な方がおられます。体に障害のある方、伴侶を亡くされた方、仕事に行き詰まっている方など千差万別です。全ての人々の悲しみや苦しみを経験する事など出来るはずもありません。
 我々僧侶は、仏である大聖人様や猊下様の御指南をお伝えし、共に祈って修行していくことが役目ですから、全ての苦しみを経験する必要は無いと思います。

 また、道徳的な話という点について言えば、その方からすると、『もっともな話を聞くより、もっと御法門などの深い話を聞きたい』といったところなのでしょうが、大石寺六十五世日淳上人が『宗教と道徳』というタイトルで、
 「真の道徳は真の宗教の上に成立しなくてはならぬ、そうでなければ宗教は社会の実生活の上には第二義的なものとなり終るからである。」(日淳上人全集 685頁)
と御指南されています。

 仏教では、五逆罪といって、
①殺母
②殺父
③殺阿羅漢(さつあらかん)・・聖者を殺す
④出仏身血(すいぶつしんけつ)・・仏身を傷つけ出血させる。
⑤破和合僧(はわごうそう)・・教団を破壊する。
が説かれます。
 また、五戒といって、
①殺すな
②盗むな
③淫(みだ)らな行為をするな
④嘘を言うな
⑤酒を飲むな
というのがあります。
 特に、はじめの4つを「殺盗淫妄(せつとういんもう)」と言って重く見ます。
酒も、飲み過ぎを注意されるだけであり、家庭を持つことをみだらな行為とは言いません。要するに、当たり前の事を説いているのですが、いかに守れない人間が多いことか。連日、凶悪な事件が後を絶ちません。

 この原因の一つに、家庭でも学校でも、善悪を教える心の教育が行われていないことにも問題があると思います。
 政治も経済も不安定な日本ですが、少子化もあって、子供にお金をかける親がたくさんいます。一概に悪いとは言いませんが、いい大学を出ていい会社に勤めれば人生の成功者になれると、未だに、子供の頃から受験勉強ばかりさせています。
子供は塾へ通い、机に向かっていればそれで安心という安直な親が多く、健全な社会人となるためにいかに育てるかというより、親の都合に合わせて子供を育てようとするので、子供はそれを見抜いてしまいます。
 核家族化が進んで「そんな事をしたら罰が当たるよ」とか「仏様のお陰だ」という年寄りも滅多にいません。また、邪魔になるのか本人が嫌がるのか分かりませんが、葬儀や墓参や法事などの席に子供を連れてこない家もあります。そういった知識や知恵に触れる機会が失われているということは大問題なのです。
 心の教育や宗教に触れたことの無い人が溢れてきたが為に、凶悪な犯罪や、カルト教団に救いを求める人たちが後を絶たないのです。
 人々が道徳を守れば、国際紛争も、凶悪な事件も、環境破壊も起きない社会になるでしょうが、それが出来ないのが末法に生まれ合わせた我々煩悩充満の凡夫であり、そのために、日蓮大聖人様が御出現なされたのです。
 邪宗邪義によって世界中が混乱していることを我々は大聖人様の教えを通して知っています。

 一般人の感覚で、お寺は死んだ人の為にお参りに行くところで、生きているうちは、あまり深くは関わりたくないという思いがあります。
 ですから、お寺巡りが好きな方で、そこの仏像や美術品には興味があっても、そのお寺がどういう本尊をまつり、どういう教義でどんな修行をしているのかと言うことには無頓着です。

 しかし、正宗の寺院は本物の生きた宗教ですから、人々にいかに生きていくかを説き、苦しみの原因を説き、その解決方法を教え、共に祈って行くのです。そしてその祈りにどこもでもお応えくださる、本物の力を持った御本尊様がいらっしゃるのです。
 これほど有り難く、安心感の中で生きていけることは、他にはありません。
私は、日蓮正宗の寺院を預かる住職として、皆さんに、こんな時代だからこそ耳にたこが出来るほど、いかにして生きていくのかという『道徳的』な部分もお話ししていく必要を感じています。

 大聖人様は、我々に円満に生きていける方法を教えてくださっています。
『親によき物を与へんと思ひて、せめてすることなくば、一日に二、三度笑みて向かへと也』(上野殿御消息 921頁)
親に何か良い物をあげようとして、何もあげるものはなくても、一日に二、三回微笑みかけてあげなさい。それだけで、親を思うあなたの気持ちは充分に伝わるのです。

 親に常に報恩感謝の念を持っておられた大聖人のお心が伝わってくるお言葉です。
 「親」の部分に「家族」や「友人」など大切な人を入れたら、誰に対しても通ずるお言葉になります。
 大切なのは微笑みかけてあげる心や気持ちなのです。
 それに、たとえ悩み事や難事があったとしても、大抵のことは笑うことで解決できるものです。
 しかめ面をしていても良いことは何ひとつありません。そんな風に解釈して日々の心がけにしてもよいと思います。

 さらに大聖人様は、
 『蔵の財(たから)よりも身の財(たから)すぐれたり。身の財(たから)よりも心の財(たから)第一なり』(崇峻天皇御書1173頁)
と仰せです。
 
 毎年のように、虎の子の退職金などを騙され巻き上げられる方が後を絶ちませんが、騙す方は騙される方の焦りや不安を巧みに突いているのです。冷静ではありませんから、無謀な株や為替に手を出したり、非現実的な投資話やもうけ話に飛びついてしまうのです。
        
 いくら財産があっても健康でなければ意味がない
ように、健全な肉体を持っていても心が貧しく汚れていては、人生は意味のないものになってしまいます。
 いつかは消えてなくなる人身のはかなさを悟れば、物質的な豊かさだけを追い求めて生きることのむなしさがわかります。
しかし、慈悲と感謝の気持ちで魂を磨き続けるならば、決してなくなることのない財(たから)が心には積み上げられていきます。

 「名聞名利(みようもんみようり)は今生のかざり、我慢偏執(がまんへんしゆう)は後生のほだしなり。嗚呼、恥ずべし恥ずべし、恐るべし恐るべし」(『持妙法華問答抄』二九六頁)
とありますように、大聖人のこのお言葉は、私たちが人として歩むべき道を示されています。
 この大聖人様が嘆かれる人物こそが、まさに勲章や名誉称号に執着する池大作であり、それに頼らざるを得ない創価学会員なのです。

 人間の一生には限りがあります。日蓮大聖人は、人生の無常(むじよう)について、
 「我々の命がはかないものであることは、すでに過ぎ去った日々が、あっという間であったことからかもうかがい知れる。春に一緒に花を眺(なが)めた人は、花が散るのと同じように死んでしまい、名前ばかり残って、その人はいない。
 花は散っても、また春がくれば咲くが、亡くなった人は、今度いつの世に生まれてくるであろうか。また、秋の名月を一緒に眺めた人も、月が雲に隠れるように、亡くなってしまった。その人がそばに来て何かを言う、ということは二度とない。
 名月は西山に沈んでも、また次の秋になれば同じ月を見ることができる。しかし亡くなった人は、今どこにいるのか、はっきりわからない。(実際にいる虎には、誰しもが驚くが)すでに死んでしまった虎の鳴き声を、あたかも今、耳もとで聞いているかのように思い出してみたところで、誰もそれに驚くことはない。屠殺場(とさつじよう)に連れられていった羊は、あと何日、限られた命を生きていくのであろうか。」(新池御書1457頁 趣意)
と仰せられています。
 大聖人は、こうした事柄を挙げられて、
 『全ての物事が無常である。永遠に存在するものなど、何一つなく、生まれてきたものは、必ず死ななければならない。この無常の定めから誰も逃れることはできない』
という厳しい現実を述べられ、そして、限りある短い一生だからこそ、仏道修行に励んで功徳を積み、成仏していくことが大事だと教えられているのです。

 我々は、加齢による体力の低下や自分中心になりがちな考えを払拭して、どこまでも大志を抱いていかなければなりません。
 クラーク博士が言う、「人間としてあるべき すべてのものを 求める大志」とはまさに折伏にあるのです。お題目を唱えていけば、ありがたいことに、我々は少しでもこの御本尊様の功徳・偉大さを多くの人に伝えて救っていきたいとの慈悲心の心を、死ぬまで保つことが出来るのです。
 
 また、三宝をはじめあらゆるものに感謝できる、清らかな自分になれるのです。
国を憂い、人のために折伏をしても、結局は我が身に成仏の功徳を受けるのが折伏であり、我が身を飾る七宝なのです。

 そのためには「自己の中にある蔵の財(たから)、身の財(たから)への執着を捨てて、御本尊様と共に生きること」を大聖人様は教えて下さっています。

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