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   【娑婆と申すは忍と申す事なり
 
衣座室(えざしつ)の三軌(さんき)について

 
     
   現在、日蓮正宗の僧俗は、日如上人の大号令の元、法華講員50%増を目指して日々折伏弘教に精進しております。

 折伏をしていきましょうと言われ、抵抗を感じる方もおりますが、本宗においては、古来より広宣流布ということを最も大切なこととして説いてきました。

 日蓮正宗においては、本門の本尊を信じて南無妙法蓮華経の題目を唱えることを、一切の修行の根幹としています。この題目の五字七字は、とりもなおさず御本尊様中央の主題であり、
 日蓮大聖人が、
 「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕はれ給ふ」(『法華初心成仏抄』一三二一頁)
と仰せられているように、正境(しょうきょう)たる御本尊に向かい唱題することによって、自身の仏となる種である仏性が開き、成仏することのできる道理を示されています。
 さらに、日蓮大聖人は唱題の功徳について、
 「南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深(じんじん)なり、是を信受すべし」(『聖愚問答抄』四〇六頁)
と説かれ、過去世からのすべての罪障を消滅するとともに、最高の幸福境界を得ることができると教示されています。
 また、「自行化他(じぎょうけた)」といわれるように、修行には自行と化他行がありますが、自行とは自身の成仏のために行ずる勤行唱題などをいいます。さらに化他行とは他の人に法門教義を下種し、教化・化導することをいいます。

 人の不幸は我が不幸、人の幸福は我が幸福と思い、自他共に安楽の世に即身成仏の境涯に生きようというのが、大聖人様の教えであり、歴代上人の御指南なのです。
 世の中の苦悩と混乱の根本原因は、邪義・邪宗による害毒によるものです。我々は、邪義邪宗を恐れるが故に折伏をするのです。
大聖人様は邪宗の害毒を、
 『一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず』(『諫暁八幡抄』一五三一頁)と仰せです。
 邪宗にも場合によっては、「一分のしるし」と仰せのように功徳らしきものが少しはあるのです。しかし、それは魔の通力であり、麻薬と同じです。最後はその人の持っている徳も善根も失ってしまうのです。
 神札や御守りも、例え効き目が無くても害になることなどあり得ないと一般の人は思っていると思います。
 しかし、信心の古い人から聞いた話ですが、折伏をしたときの謗法払いで、その家の御守りや神札を燃やした時に、その家の主人が狐憑(きつねつ)きになったように、火の周りを「やめろ~」と言いながらぴょんぴょん跳ねまわったそうです。
 昔のことですから下駄を履いており、そのまま、あり得ない高さまでジャンプし、火が燃え尽きるまで下駄をカタカタ鳴らしながら走り回る光景は異様だったと話してくれました。
 しかも、そのご主人は何も覚えていないというのです。

 世の中には、邪な祈祷や念の入った財布やブレスレット、印鑑なども販売されていますから気をつけなければなりません。
 これら邪義邪宗は折伏しない限り、蔓延(まんえん)こそすれ無くなりません。邪宗邪義をなくすには折伏しかないのです。
 邪義邪宗が蔓延しているから、人々の貪(むさぼ)り、瞋(いかり)、癡(おろか)、という三毒が充満し、世界中で争いが絶えないのです。世界中で起こる内戦や小競り合いの原因は、必ずこの三毒のどれかに当てはまるのです。
 自らの幸福のみ追い求めて他の不幸の人々を顧みない無慈悲を、日蓮正宗の仏法では説いていません。世界中の人が、日蓮大聖人様が説かれる究極の真理と絶対なる御本尊様を信仰すれば、現在起きている様々な問題などはかんたんに氷解(ひょうかい)」します。
 そこで今日は、経文中に示される「衣座室(えざしつ)の三軌(さんき)」という布教、折伏のあり方を挙げて話を進めていきたいと思います。
 法華経の『法師品』に、
 「若(も)し善男子(ぜんなんし)、善女人有って、如来の滅後に、四衆(ししゅう)の為に是(こ)の法華経を説かんと欲(ほっ)せば、如何(いかん)が応(まさ)に説くべき。是の善男子、善女人は、如来の室に入(い)り、如来の衣を着(き)、如来の座に坐(ざ)して、爾(しか)して乃(いま)し四衆の為に広く斯(こ)の経を説くべし。如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是(こ)れなり、如来の衣とは柔和忍辱(にゅうわにんにく)の心是れなり。如来の座とは一切法空(くう)是れなり」(新開結三二九ページ
とありますが、この中に出てくる「如来の室・如来の衣・如来の座」の三つを合わせて「衣座室の三軌」といいます。
 これは経文中にも出てきますが、今日の末法を含めて、釈迦滅後の正法布教のあり方は、どのようなことに留意して布教すれば良いのか、その方法をお示しになったものです。
 四衆のために法華経を説くとありますが、この四衆というのは「比丘(びく)・比丘尼(びくに)・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい)」のことで、今日で言えば我々僧俗のことにあたります。
 つまり折伏の方法は、既に釈尊の時代に示されているのです。
 
 まず「如来の衣」ということですが、これは「柔和忍辱の心」であると書かれています。
 この柔和については、皆さんが普段唱えられる『方便品』においても、
 「言辞柔軟(ごんじにゅうなん)。悦可衆心(えっかしゅうしん)」(新開結八九ページ)(言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ)とありますように、我々が発する言葉が、非常に柔らかであれば、聞く側も喜んで聞いてくれるのです。
 反対に、乱暴な言葉を使えば、相手の心がどう変化するかは察しがつくでしょう。
 私たちがこの信心の話をして、折伏するのは、本当に相手の幸せを願い救済するために、正しい信仰によらなければ本当の幸せはないという、真実のお話をするのですから、誠実で、穏やかな話し方というものが大事だと思います。
 ですから、大聖人様の教えを伝えるのに、相手を「お前」とか「あんた」などと呼んでみたり、質問されて逆上し、大声で叫んだり、わめいたりすれば、せっかくの縁を失うばかりか、法を下げることにもなりかねません。
 いついかなる場合も、傲慢な心を拝し、心を落ち着かせ、柔らかな心で話をすれば、聞く耳を持たない人も耳を傾けてくれのです。
 強盛なのはこちらの信心と根気だけでいいのです。
 『寿量品』の自我偈(じがげ)にも、
 「質直意柔軟(しちじきいにゅうなん)。一心欲見仏。不自惜身命」(新開結四三九ページ)(質直にして意柔軟(こころじゅうなん)に、一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず)とあります。
 正直であって、心が柔軟でなければ、不自惜身命の信心も生じてこないのです。
 かくいう私も、最近よく来る創価学会員さんとの対応では反省しきりであり、教区の御住職から「修羅界の命の人達と同じように接して、こちらも修羅界になっては意味がないどこまでも慈悲の心が大切だよ。どんなに挑発され罵られようと、可哀想な人達だと思ってあげるべきだし、そう話してあげなさい。」と御指導いただきました。

 さきほど柔和の姿に、忍辱という言葉がでてきましたが、これは文字通り辱(はずかし)めを忍ぶということで、今日流にわかりやすく言えば、忍耐ということになると思います。

 
大聖人様は、
 「この世界を娑婆と名づく、娑婆(しゃば)と申すは忍と申す事なり」(『四恩抄』二六四頁)
と仰せです。
 我々が住むこの世界をシャバといいますが、これは古代インドの言葉で、日本語では人類がお互いに忍びあって生きていく世間であるから「忍土(にんど)」といいます。
 この世の人々が、それこそ忍ぶことをせず、思うまま、欲するままに行動すれば、そこには秩序も、常識も何もない、恐ろしい無法の世界が存在するだけになります。
 中国で、反日デモがエスカレートし、日本企業の工場や店舗が放火され、日本車に乗っているというだけで暴行を受けた中国人が半身不随になった例も報道されていました。
 また、日本に駐留する米軍兵士の不祥事が繰り返されており、ただただ腹立たしく、あきれるばかりです。

 しかし、こんな末世ではありますが、ある程度秩序の保たれているこの日本においては、震災という非常事態での対応に見られるように、国民が大なり小なり忍ぶ心を持っているということになります。
 信心の世界においても、この堪え忍ぶ心が大事だということは、折伏・家庭訪問に回っているみなさんには充分にご理解いただけるものと思います。
 また忍ぶにも様々な形がありまして、よく四苦八苦といいますがその中の「愛別離苦(あいべつりく)」、つまり愛する者と別れる悲しみ、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という、憎い人や嫌な人と一緒に居なければならない、会わなければならない苦しみ等は、必ず身の上に起こることです。それを忍ばなければなりません。
 また信心することにより、宿業を転換する時には、それが転重軽受(てんじゅきょうじゅ)という形であっても、本当にその人にとっての大きな苦しみが現れ、また環境が変化してきたりします。
 それから、私達が唱題や折伏をすればするほど、魔の働きも活発になって、様々な問題が生じたりする場合もあります。この魔の働きにも、自らの信心の心を奮い起こして堪え忍ばねばなりませんし、負けてもいけないのです。

 次に「如来の室」ということについては、「一切衆生の中の大慈悲心これなり」とありますが、折伏は慈悲の心から生じます。
 慈悲というのは抜苦与楽(ばっくよらく)、苦を抜いて、楽を与えるということであります。
 勤行の『御観念文』において、
 「大慈大悲(だいじだいひ)宗祖日蓮大聖人」
等と御観念しますが、大慈も大悲も、これは仏様の御徳、御心を表しています。
 苦を抜いて、楽を与えてくださるのは、大聖人様だけということです。
 この大聖人様の御振る舞いこそが、我等衆生を本当に救済し、成仏へと教導下さる大慈悲心の姿なのであり、私達が折伏を行ずる上にも、この慈悲の心というものが大切なのです。 

 よく折伏をするときに「慈悲喜捨(じひきしゃ)」別名「四無量心(しむりょうしん)」の四つの心を持つことが大事であると言われます。
 この中の「慈心」というのは、自分のことよりも周囲の人々の幸福を願う慈しみ心で、「慈心」は、自分の存在により、周囲の人々の苦を除きたいという心です。
 「喜心」というのは、人の幸福を喜ぶ心で、「捨心」は偏見や差別を捨て、自分のしたことに報いを求めない心のことで、こういう心掛けでなければ折伏は成就しません。
 第三に「如来の室とは一切空これなり」のところですが、『法華文句』には、
 「心を空安んずれば、方に能く他を安んずれば己を安んず、これを名づけて座となす」(文句巻第八上、大正蔵三四-一〇八A)
とあるように、一切の差別を認めて、すべての者のあり方をありのままに認めること、その中に一貫した平等の理をみることを空といいます。
 あの人は頭がいいから折伏は遠慮しよう。あの人は金持ちで幸せそうだからやめよう。あの人は頑固で口うるさいからよそう等という考えでは、折伏は出来ません。
 学者であろうが、医者であろうが、金持ちであろうが、この大聖人様の正法を知らない人は、すべて不幸な人なのだと、一切の人が平等であると考え、折伏していかなければなりません。
 本当に富める者というのは、信心をしている私達だけだという確信があれば、折伏は自然に出来ることです。
 如来の座に安住するということは、己の心の住まいを如来の座とするということなのです。
 ですからどのような人を見ても、一切の差別なく折伏しなければいけません。
 以上『法師品』の中に説かれる「依座室の三軌」を見て参りましたが、この経文に示される通りにやれば、折伏はどんな人でもできるはずです。

 天台大師は『法華文句』において、慈悲は物を覆(おお)い、恵(めぐ)みを与えるので「室」であり、柔和忍肉の心は悪を遮(さえぎ)り、己の醜い煩悩を妨(さまた)ぐので「衣」であり、すべての物は空(くう)であるという境地に「座」するならば、自他ともに安んずることができると説いています。
 この弘教の三軌は、釈尊が滅後の法華経弘通の方軌(ほうき)として示されたものですが、末法に御出現された大聖人は、下種折伏という仏法の根本の御化導から三軌を実践されました。
 日蓮大聖人は『御義口伝』に、
 「今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此の三軌を一念に成就するなり。衣とは柔和の衣、当著忍辱鎧(とうじゃくにんにくがい)是なり。座とは不惜身命の修行なれば空座(くうざ)に居(きょ)するなり。室とは慈悲に住して弘むる故なり。母の子を思うが如くなり。豈(あに)一念に三軌を具足するに非ずや」(平成新編御書一七五〇頁)
と説かれてるように、南無妙法蓮華経と題目を唱えるならば、慈悲の心と柔和忍辱の心、そして不惜身命の心が一念の中に具足して起こってくるのです。

 この大聖人様の教えを持つことで、いただける功徳をもってすれば、必ず折伏は成就するのです。

 
大聖人様は『諸法実相抄』に、
 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし」(平成新編御書六六六頁)
と、このように仰せです。
 ですから、皆さんは、御法主日如上人猊下の御指南のままに、折伏に対して臆病になることなく、一人が一人の折伏を必ずやり遂げるのだという熱意をもって、目の前に迫った支部総登山に向けてあきらめずに折伏していきましょう。

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