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   【信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり
 無疑曰信(むぎわっしん)とは

 
     
   皆さんも何度か耳にされたことがあるかと思いますが、無疑曰信(むぎわっしん)という言葉があります。これは、天台大師の『天台文句』に説かれた言葉です。「疑い無きを信と曰(い)う」と読みます。
 大聖人様は、『御義口伝』と『御講聞書』で使われています。
 創価学会では池田大作の言葉として事ある毎に「創価学会につききっていく。これを無疑曰信といい、これが信心の極理である。」と紹介し、「池田大作をはじめとする幹部や組織に疑いを持ってはならない」というような意味で使われています。
 これは一種の洗脳であり、「疑わずを信と曰う」と違う意味になっています。
 「疑わない」ことと「疑いようがない」ことは違います。
 無疑曰信とは、疑いつくしてこそ成り立つものです。
 その証拠に、大聖人の御書には「疑って云く」「問うて云く」が頻繁に出てきます。
 勿論、大聖人様の深い御法門・御悟りを分かり易く説かれんがために、問答形式にされたのでしょうが、大聖人の「真実」への迫り方が拝されます。
 疑いの無ない「無疑」の状態に至るまでは、様々な疑問を経て、疑問を乗り越え解明する経緯・体験が当然あります。そういう経緯を経て到達した境智を「無疑」といいます。その無疑の状態が「信」といい、これが信仰の境地といえます。
 ですから、日蓮正宗ではカルト教団のように、「週刊誌やテレビ、インターネットを見てはいけない。我が教団を悪く言う連中はすべて悪魔が言わせているのである。」などとは言いません。
 正しい信仰は「不疑曰信(ふぎわっしん)」ではなく、疑問を直視して真実を求めぬき「無疑曰信」の境地に至ってこそ、はじめて正信と呼べるのです。
 大いに世間の事、御法門のことを勉強し、信心の資糧にすべきなのです。
 ただし、一度信じたならば、どこまでも信じ切ることが大切です。いつまでも「疑う」という行為は、人間の理性、感情両面にわたって、正道に趣(おもむ)くことを妨げ、悪業を駆使し、限りなく人間性を汚しつつ三界の苦悩に流転せしめる恐ろしい行為であるといえます。
 世間においても、周囲の人間を誰も信じられなくなり、自らの疑いの念によって身を滅ぼしてしまった例などいくらでもあります。

 日蓮正宗の御法門は究極の御法門であります。すべては文底下種の法体たる戒壇の大御本尊より発し、大御本尊様に帰結することを忘れてはなりません。当宗の御法門を疑うことは、とりもなおさず御本仏大聖人を疑い、血脈相承を疑い、大御本尊を疑うことに外ならないのです。

 大聖人様が、
 「法華経の剣は信心のけなげ(健気)なる人こそ用ふる事」(御書685)
と仰せられるように、祈りを成就するためには、ただひたすら御本尊様や御法門に対し、疑いの無い、純真な信行が大切です。
 それ以外のものを絶対視するから曲がってしまうのです。
 信心の基本である勤行・唱題を真剣に唱えれば、必ず功徳が顕れ諸天善神に守られます。
 御本尊様の功徳について総本山代二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』に、
 「此の御本尊の功徳無量無辺にして広大深遠の妙用(みょうゆう)有り、故に暫(しばら)くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱ふれば、祈りとして叶わざるはなく罪として滅せざるはなく福として来たらざるはなく理として顕れざるはなきなり」(文段一八九)
と明快に御指南されています。

 【盤石なる信心を体得するには】
 強盛な信心と折伏精神というものをどこから学ぶかといえば、それは、御書や御法主上人猊下の御指南・僧侶から学ぶしかありません。
 その上で、法華講員としての実践の中で体得するしかないのです。
 我が講中の中に、もしかしたら「信心とは何か」という基本がおろそかになっている人がいるのではないかと危惧いたします。
 信心が形だけのものとなり、正月や御盆・お彼岸にお参りすればそれでいい。月に一回御講にいっているんだから、充分だという方もいらっしゃるかも知れません。
 よって、今日は「何の為に信仰するのか?」「信心とはなんなのか?」という、一番基本の部分を再度、確認しあいたいと思います。

 【信心を強くするには】
 信心を強くするにはどうしたらいいのか?
 それには、信心を実践し、結果を出すことです。それしかないと思います。
 その「信心の実践」とは何かというと、結局それは「御本尊様」へ向かうこと、自分の「一念」を「御本尊様」へ向けること、簡単に言えば「発心」と「決意」することです。
 「頭で理解した」ということと「実行する」ということは別問題です。「実行する」ということと「結果が出る」ということは別問題なのです。
 ありがたいことに、現在、志を持って、唱題行に馳せ参じて下さっている方もおります。しかし、支部として「結果が出ない」ということは、そこには必ず原因があるのです。
 では、どうすれば「結果」が出るのかと言えば端的に言うと「信心」しかありません。
 昔から「信心は分かったと思ったら増上慢」とか「御書が分かったといったら増上慢、分からないと言ったら謗法だ」といわれてきました。
 どっちでも駄目なのです。大聖人様の広大無辺なる御法門を少しでも分かろうとする中に信心があるのです。
 本日御参詣の皆さんが、どういう風に今日の話を感じて家に帰るかが一番大事なのです。分かったかどうかではないのです。どう感じて帰るか、「今日の話は分かった。」だけで終わっては意味がありません。「話はよく分からない部分もあったけれど、とにかく信心しなければ駄目だ、お題目をあげなければ駄目だ、折伏しなければ駄目だ。今からやりぬいて行こう。」と「決意」して帰ることが大事なのです。

 そういう面では、「寺院参詣」はどこまでも「発心」の場でなくてはならないのです。その事が「法話」を聴聞して、自分の信心を見つめて「これじゃいけない」と「発心・奮起」していかなかったら、勿体ないことだと思います。

 【この信心をしていても、種々の問題が起こってくるのはなぜなのか】
 私たちは、ともすると、目先のことですぐに疑ったり、批判したり、心が動揺したりしてしまいますが、それは信仰者として失格です。
 信心しているのになぜこういう事が起きるんだろうと、迷ってしまうのです。
 しかし、何にも悩みがない時はそう簡単に信心できません。むしろ、問題にぶつかった時こそ、信心を磨くことが出来る転機とすればいいのです。
 信心をしていても、色々な問題が出てきます。その理由の一つは、その人の持っている宿業が出てくるからです。もう一つは、「信心がいい加減な為に行き詰まる。」ということが挙げられます。
 本質的には、全部自分の中に持っている罪障や宿業が出てくるのです。「行き詰まっている人」と言うのは、悩みがあるから行き詰まっているのではないのです。「信心」が行き詰まっているから、人生に行き詰まっていると考えるのが、正しいのです。 悩みがあろうと問題があろうと「信心」に行き詰まりはありません。
 「信心」が行き詰まっているから、問題が出てきて行き詰まるのです。ですから、しっかりと発心して御本尊様を拝めば宿命転換出来て必ず解決していけるのです。
 「現世安穏」といっても「悩み」が一切無くなることではありません。どんな「悩み」や「困難」にも負けないで、それを乗り越えていけるということが「現世安穏」なのです。
 日蓮大聖人様は佐渡に流罪されて、いつ飢え死にするか、凍死するか暗殺されるか分からない状況でありました。
 そうゆう過酷な状況の中で大聖人は、
 「日蓮は流人なれど喜悦(きえつ)はかりなし、日本一の富めるものなり」(御書667頁)と仰せなのです。
 そうして『開目抄』とか『観心本尊抄』などの重要な御書を次々と御執筆されるのです。
 常人であれば耐えられない状況の中で、自由自在の御境涯であるからこそなし得られたと言えます。
 同じように、信心をするということも、一切の悩みがなくなるという訳ではありません。どんな悩みが起きても根本は大安心感を持って生きていける、ということだと思います。
 病気や問題が起きても、「御本尊を拝めば大丈夫だ」「信心で解決しよう」となれば、根本は安心しきっていけるのです。
 問題に直面したときに、それをどう乗り越えていくかということが問題なのです。
 悩みがあることは恥ではありません。信心している者として、いつも、同じ事でグジグジ悩んでいるのは恥なのです。それは、その宿命に振り回されているということであり、結局それは、命が弱いからなのです。
 疑うというのは、生命の根本的な迷いであり、元本(がんぽん)の無明(むみょう)一番の迷いは、自身に仏性があること、またまた成仏できることを疑うことです。それは不安を呼び、絶望へと自身を追い込んでいきます。その自分心との戦いが信心です。
その迷いの心に打ち勝つ力が唱題なのです。ゆえに、唱題根本の人こそが、真の法華経の行者なのです。
 大聖人様は、
 『この信の字元品(がんぽん)の無明を切る利剣(りけん)なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破(だんぱ)する利剣なり』(御書1737頁)
と仰せです。
 故にいくら理で悟ったとしても「信」をもった気迫あふれる祈りでなければ迷いから解放されません。
 『土篭(つちろう)御書』には、
 「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(御書483頁)
と、身口意の三業相応して法華経を読み、色心共に大難に遭って、それを乗り越えたときにこそ真の即身成仏があることを御教示されています。

 【問題が起きたときがチャンス】
 人の生命は宿命の固まりと言えます。そして、出てくる問題というのは、氷山の一角に過ぎません。
 ですから、見えない、まだ出てこない部分の方が大きいのです。よって、元を断たなければ問題は次々と出てきてしまいます。
 生命そのものを変えなければ、悩みの形が変わるだけで、悩むことに変わりはありません。その弱い醜い命を、どう綺麗に磨いていくかということが信心なのです。
 だから、悩みが起きた時こそがチャンスなのです。信心して出てきた場合には、本人の宿命を解決する為に出てきたと言えます。信心をしている場合には「転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)」(重きを転じて軽く受く)と説かれるように、罪障消滅できる絶好のチャンスだと信じて実践すれば、軽く受けて、後に福運が残るのです。
 しかし、「命」が弱い人は環境に負けて悩みだらけになってしまいます。「命」が強くなれば環境に負けないで、むしろ環境を変えていけるのです。
 結局、全部「命」の問題です。「命」の問題は「信心」の問題、「信心」の問題は「決意」の問題なのです。
 
 【惰性と不信に功徳無し】
 日頃から、大聖人様の御書や、日如上人の御指南を拝していても、現実に自分に問題が起きたときは疑ってしまう人がいます。そういう人は「境涯」が開けません。
 例えば、
 「南無妙法蓮華経は獅子吼の如し、如何なる病障りをなすべきや」(御書685頁)という有名な御書があります。
 他の病気の人にはこの御文を引いて激励しても、自分の身になると惰性になってしまう人がいます。
 どこかに「これだけ信心してきたのになぜ」という命があるのです。
 この御書の通りにならないということは、「獅子吼」の唱題になっていないという事なのです。
 結局、惰性であり不信になってしまっていると言えます。過去にどんなに頑張ったとしても、それは過去の功績であり、今の信心ではありません。今の信心が退転して不信だったらば、結局、成仏はできないのです。
 だから、「今まで頑張ったのだから、今ここでもう一回宿命転換していくんだ。」と、決意することが大事なのです。
 決意することは簡単ですが、決意を持続することは難しいのです。長続きしないから、結局、結果が出ないのです。
 大聖人様も、
 「受くるはやすく、持つはかたし、さる間成仏は持つにあり」(御書775頁)
と仰せです。
 功徳の実証・成仏というのは決意の持続にあるのです。決意したことをやり通せば結果は必ず出るのです。実証がでない、結果が出ないということは、決意があいまいか、持続しなかったかのどちらかなのです。

 【決めて・祈って・動けば必ず結果が出る】
 何事にも通じますが、決意と目標があいまいで実践があいまいでは、結果は出ません。
 決めて・祈って。動けば必ず結果は出ます。結果として表れないということは、どこかが曖昧なのです。決意が曖昧か、祈りが曖昧か、実践が曖昧なのです。だから結果が出ないのです。これは絶対に間違いありません。
 私たちは、これをもう一度点検しなければいけません。決意と目標が明確で、真剣に祈って動いて結果が出ないわけは絶対にありません。
 だから、決意と目標を明確にして頑張っている人、決めて、祈って・動いている人を前向きの信心といいます。
 行き詰まっている人は必ず惰性か不信なのです。信心が行き詰まっているから、仕事や生活や対人関係も行き詰まってきます。それを、「決めて」「祈って」「動く」前向きの信心に変えれば必ず変わってきます。
 
 広布推進会や指導会等でどんなに素晴らしい御指導を受けても、自らの本物の「決意」で無く、「言われた決意」というのは長続きしません。
 形から入ったら「惰性」になってしまいます。「決意」から入ったら「信心」になるのです。自ら発心し「決意」する事が「信心」と言えます。
 心が動けば体はついて来ます。体だけ動かしても心がついてこなければ空回りの信心になります。惰性だと必ず信心が重荷になってしまいます。そうすると、信心活動が苦しくなってしまうのです。
 したがって「結果」が出ません。そして、「愚痴」と「文句」が出るのです。結果、しらけてしまいます。
 本人は「信心」をしているつもりでも、自分の決意でなく、言われた決意だから信心が信心が空回りになってしまうのです。
 信心を何年やろうと、惰性の信心では、何もならないのです。本当に決意して自分に挑戦した場合には、苦労はあるかもしれませんが必ず結果は出ます。それが信心なんです。そういう信心をしなければ、せっかく値いがたき仏法に巡り会っているのに勿体ない限りです。

 御法主日如上人猊下は、
 「大御本尊様への絶対的確信、無疑曰信の信心、すなわち『この大御本尊様以外に絶対に幸せになれる道はない』との確信に満ちた我々の言動が相手の心に響き伝わり、折伏成就に必ず結びついていくのであります。
 次に大事なのは、飽くなき行動であります。
 この不軽菩薩の飽くなき実践は、滅後末法の我々の折伏実践の方途を示唆れているものと思います。すなわち、すべての人に仏性ありとして、いかなる人にでもこの『二十四字の法華経』を説き、但行礼拝(たんぎょうらいはい)をしたこと、さらに信念を貫くことによって受けるいかなる困難・迫害にも耐えぬき、飽くなく法華経を説き続けたことは、今日の我々の折伏実践の上からもまことに大事なことであります。」(平成二十二年七月 広布唱題会の砌)
と御指南下さっています。
 
 折伏の実践とは、一人一人の幸せのために祈り行動することであり、同時にそれがみんなのためになり広宣流布のためになっていくのだとそう信じ、心から本当にそう実感して下さい。
 その慈悲の行動が、結局は自分自身の幸せにつながり、一生成仏の直道となるのです。
 ですから、なぜ折伏をしなければならないのか?と言えば「それが自分自身が罪障消滅できてしあわせになれる方法だから」と言えます。
 自分で決意して、実践し実感したものを訴えると相手の命に入ります。自分が実感しないものを、いくら他の人のいい話を聞いて話してもだめなのです。相手の命に入るのは、こちらの一念、実感が相手に通じるのであって、ことばや理屈が通じるのではないのです。
 結局私たちが、相手のために祈った一念が命の説得になるのです。折伏にしても、育成にしても同じです。
 とにかく、本日お集まりの皆さん一人一人が決意され、信力・行力を奮い起こされ、折伏の実践に立たれますようお祈り申し上げます。


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