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   仏は六道の中には人天、人天の中には人に出でさせ給ふ
 日蓮正宗の正しさ その2

 
     
   先月は、他宗他門でも、仏・法・僧の三宝の名号を使っていますが、しかしその実体は架空の話しであってどこにもないということ。
 ひるがえって、日蓮正宗で立てる仏・法・僧の三宝には、一点の曇りもなく、しっかりと実体が整っているということをお話し申し上げました。

 【日蓮正宗の御本尊様は功徳聚(くどくじゅ)である】
 少しおさらいしてみますと、大聖人様の顕された御本尊様は、どんな衆生であっても、素直に信じることが出来れば、ことごとく即身成仏の境涯へと導くことができます。
 なぜなら、迷いの凡夫の命が六根清浄(ろっこんしょうじょう)の命へと改革できるという原理、すなわち十界互具、一念三千の法門が、きちんと大聖人様の御本尊様には整っているからです。
 その功徳は、現世の功徳、過去世の罪障を消滅する功徳、未来永劫に亘って人々をことごとく成仏せしめて、幸せの境涯へと改革していくという、三世にわたる功徳があるのです。
 大聖人は『日女御前御返事』に、
 「曼荼羅(まんだら)と云ふは天竺(てんじく)の名なり、此には(中略)功徳聚とも名づくるなり」(御書1388頁)
 と示されております。
 功徳聚とはありとあらゆる功徳の根源としての用(はたらき)を意味し、それが御本尊様に整っているのです。
 そして、この御本尊様まします所が、道場として、戒壇としての徳や用が整っているということが大切なのです。
 ですから、この日蓮正宗における大聖人様御建立の本門の本尊には、欠けるところのない、輪円具足(りんえんぐそく)の徳と功徳聚の徳と、そして、そこに義と事の戒壇の法門がしっかりと具わっているのです。
 従って本来、戒壇というのは、ただ受戒を受ける場所が戒壇という意味ではないのです。真実の戒壇というのは御本尊の所住の所、御本尊を御安置申し上げて修行するその道場を戒壇と言うのです。
 本門戒壇の大御本尊様には仏法僧の三つの徳が兼備しているところに、本尊の実体、法の宝としての実体があるのです。
 
 【末法の御本仏日蓮大聖人様】
 日蓮正宗におきましては、宗祖大聖人様こそ末法の御本仏と拝し、そしてまた、大聖人様の御境界、また御建立あそばされた本門戒壇の大聖人様の当体は、大聖人様が久遠元初(くおんがんじょ)の仏様として、お悟りあそばされた久遠の本因妙(ほんにんみょう)の法体を、末法万年の衆生のために御建立下さったことを拝し奉って、末法の御本仏として信仰申し上げるのであります。
 しかしながら、同じ日蓮門下で、大聖人様を宗祖と仰ぐ宗派の人達にとりましても、また世間一般の人達にとっても、大聖人様が仏様の御境界ということが、どうしても信じられない人が多いのです。
 インドに出現されて、五十年間様々な爾前経(にぜんきょう)を説かれ、そして最後に法華経お説きになった釈尊に対しては、一応、仏として尊敬する志はあっとしても、大聖人様は一宗派の開祖であるぐらいの概念しかないというのが、世間一般的な考え方です。
 世間の人達にも、本当に分かっていただかなければならないことは、真実の仏は必ずこの人界において出現あそばされるということであります。
 このことは、仏様の大きな慈悲に基づく御化導の上から、一切衆生を救済するために、必ず人間界にお出ましになるということを忘れてはならないのです。
 逆に、人界にお出ましにならなければ、一切衆生のために法をお説きになり、あるいは御本尊様を御下付下さり、個々の人々を人びと実際に教導され、救って下さるということはあり得ないのです。
 それは大聖人様が『四条金吾殿御返事』の中に、
 「仏は六道の中には人天、人天の中には人に出でさせ給ふ」(御書1041頁)
ということを、はっきりと仰せになっております。
 地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道衆生を救おうと思ったら、やっぱり御本仏が、実際にこの六道の世界にお出ましにならなければ、その縁をもって、一人ひとりを教導することはできないのです。
 また真実の仏様は、この人界にお出ましになって、そしてあらゆる衆生との間に、娑婆世界の教主としてのお立場に立ち、慈悲の上から、父母が我が子をいつくしみ、あわれむように、親の役割を果たす。そういう関係において、実際に主師親三徳兼備の姿をきちっと確立されて、その上において、はじめて、すべてに人々を教導することもできるわけであります。

 大聖人様は、『祈祷抄』という御書の中に、
 「仏は人天の主、一切衆生の父母なり。而も開導の師なり。(中略)娑婆世界に出でさせ給わざれば師匠にあらず」(御書628頁)
と仰せられております。
 また、「今この三界はみは是我が有なり、その中の衆生は悉(ことごと)くこれ吾が子なり、ただ我一人のみよく救護をなす」という法華経の有名なお経文をここに掲げられまして、仏様が実際に娑婆世界にお出ましになって、三界の主としてのお立場、師匠としてのお立場、そして一切衆生は、ことごとく一仏の子供であるという関係を、きちっと成立させなければ、救済あそばすことはできないということをお示しであります。
 この主師親の三徳を兼ね備えなければ、仏様が、あらゆる人びとを実際に救うことはできないということは理の当然であります。

 【主師親の三徳兼備の仏】
 大聖人様は『開目抄』におきまして、その冒頭に一切衆生の信心の面から最も尊敬すべきものとして、主師親の三徳ということを仰せになります。
 そして『開目抄』の結論として、
 「日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり」(御書577頁)
ということを仰せなっていらっしゃるのです。
 大聖人様は御本尊様を顕され、御法門を立てられ、そして一切の法を日興上人へ御相承されました。
 私達は、その大聖人様から日興上人から現日如上人にわたる正しい相伝に基づいて、御本尊様を一人一人がお受けしているのです。
 私達と大聖人様との関係は御本尊様を通して、師匠と弟子との関係がきちんと成り立っているのです。
 また、功徳の上から、功徳を授ける大聖人様と、功徳を頂く私達の間には、その慈悲の上から、親子の関係が成り立っているのです。
 そしてまた、仏として化導される大聖人様と、折伏を受け大聖人様の元へ教え導かれる私達一切衆生との上において、その主徳の関係がある。仏と衆生との関係がしっかりと成立つということが大切なのです。
 大聖人様は、あらゆるところで大聖人様御建立の本門の大御本尊を根本にした救済と意義・功徳をお説きになっていらっしゃいます。
 『御義口伝』に、
 「南無妙法蓮華経と唱へ奉る時は十界同時に成仏するなり」(御書1809頁)
と成仏得道の直道をお示しになっていらっしゃいますし、また南条家に賜った『九郎太郎殿御返事』にも、
 「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(御書1293頁)
というように具体的に、易しくお示しくださっている御文もあります。
 あるいは『観心本尊抄』の一番最後に、
 「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠(たま)を裏(つつ)み、末代幼稚の頸(くび)に懸(か)けさしめたまふ」(御書662頁)
というふうにもお示しになっていらっしゃいます。
 「仏大慈悲を起こし」と、大聖人様は、はっきりと末法の御本仏の証を鮮明にあそばされ、その一念三千の珠をこの妙法五字に包んで、そして本門の法体として、御本尊として、一切衆生の身の上にお授けくださるということを明示あそばされていらっしゃるのです。

 【他宗に主師親の三徳兼備の仏なし】
 世界中には数え切れないほどの色んな宗教が存在します。
 しかし、どんな国の宗教におきましても、必ず信仰の対象としての仏や神、そしてそれらを信ずる人々がいます。
 これらの仏や神を、主師親という一つの尺度を以て考察いたしますと、実際に主師親の三徳の関係の成り立つ宗旨は、この日蓮正宗の大聖人様の教え以外に絶対にありません。
 例えば、どんなに不動明王が本尊で有難いと言っても、この地球上に不動明王が実際に出現して、御本尊を顕して、一人一人の弟子や御信徒を教化・育成して、そして病の時にはこうやって病を乗越え、諸難の時にはこうやって諸難を乗越えるのだと、人々を具体的に導いたという事実は全くありません。
 浄土宗や浄土真宗に於ける阿弥陀如来にしても、真言の立てるところの大日如来にしても同じです。実際にどこかの国に出現して、何等かの御本尊様を顕し、そして具体的に一人一人にその御本尊様を授けて、折伏・教化育成したという事実はどこにもありません。
 全部これは架空の仏でありまして、釈尊が説いたお経の中に登場する仏の名前や菩薩の名前とは、言うなれば小説の登場人物のようなものであり、いくら石や青銅や木で作り、どんなに崇めてみても、功徳となることはないのであります。架空の仏をどんなに拝んでも、決して功徳はもらえるはずもありません。
 釈尊はなぜ、御経の中に沢山の仏菩薩を登場させたかと申しますと、それは仏の持っている命の働きや、一切の十界の衆生が持っている生命の働きというものを象徴するものとして、多くの仏や菩薩を教典の中に登場させたのです。
 仏の持っている、慈悲の働きというものを、弥勒菩薩なら弥勒菩薩という名前を通して、表現していくわけです。
 あるいは普賢・文殊という方を登場させて、人間のもっている知恵の働きというものを表現したのです。
 ですからそれは、あくまでも釈尊が人々に法門を教えていく一つの化導の手段として、そういう仏の名前や、あるいは沢山の菩薩達を登場させているのです。
 従って、そんな仏や菩薩が実際に、この娑婆世界にお出ましになって、たった一人の人でも教導したという事実は全くないのです。
 そういう仏、菩薩をどんなに本尊と頼み、本仏と仰いでも、それは実際の救済の手だてがそこに成立しない以上、実際の功徳も、救済の事実も絶対にないのです。
 そこで大聖人様は、主師親の三徳の関係というものが、いかに大切であるかということを、命がけで『開目抄』にお示しになられたのです。皆様方はこれらの事を心に置いて、これから実際に折伏される時に、諸宗の人がいかにいい加減なものを本尊とし、いかにいい加減な宗教を信じているかということを、こうした具体的な物差しを通して、よく教えてあげて頂きたいと思います。
 これは、仏教以外で説く、神についても同様です。宗教の正邪というものを、そうした尺度をもって理解しなければいけないということを、皆様一人一人が、しっかりと心に止めて、間違った宗教に迷う大勢の人々を折伏していって頂きたいと思います。
 御法主日如上人猊下は、8月の広布唱題会で以下のように仰せです。
 『この御本尊様以外には絶対に幸せになれる道はないと固く確信し、一人でも多くの人を救っていきたいという、そういう大きな慈悲の心があれば、たとえ入信間もない方でも折伏はできることを実証しているのであります。
 つまり折伏は、本気になってやろうと思えば、だれでもできるということであります。難しいことを言う必要はありません。「この御本尊様以外には、幸せになれない」と確信し、その確信を真心込めて相手に伝えていくことが、最も肝要なんであります。
したがって、折伏が進んでいる支部に共通して言えることは、こうした御本尊様に対する絶対的な確信を持っていること、そして時を惜しまず行動する、そのパワーであります。
 私は、その元となっているのは何かといえば、まさしく唱題だと思います。』
と御指南下さっています。
 現在、寺院では朝晩の勤行の時、十時、十九時より唱題会を行っています。
 一人でも多くの方が志を持って参詣され、異体同心の唱題と折伏実践に励まれることを切に望むものであります。
 
 最後になりましたが、更寿会の方々が一日でも永く健やかにお過ごしになられますようお祈り申し上げますとともに、長年の信心修行で培われたお力を慈本寺と講中の発展のために発揮して下さいますようお祈り申し上げる次第です。
 御参詣、誠に御苦労様でした。

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