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   【娑婆世界に出でさせ給わざれば師匠にあらず
 日蓮正宗の正しさ その1

 
     
   【全日本仏教会について】
 全日本仏教会という公益財団がありまして、設立は古く、明治三十三年だそうです。日本の仏教諸宗派(2012年現在104宗派・団体)によって合同で設立されています。
 会長職は各派の管長が二年交代で務めるそうで、現在の会長は天台座主の半田孝淳氏が就任しています。

 

 日蓮正宗は教義上加盟していませんが、身延日蓮宗、禅宗、浄土宗、浄土真宗、天台宗など色々な宗旨が連合体を作っています。
 年に一回、あるいは二回、全日本仏教会の会合を開いて、各宗派の管長乃至総長が集まりまして懇親会を開いたり、税金対策等の会合を開いたりしています。
 仏教以外の神道やキリスト教や新興宗教とも連携し、主に世界平和を訴え、最近は原発にも反対の姿勢を示していますが、ハッキリ言えば自分達の利害のために集まっていると言えます。

 古い話ですが、昭和五十七年頃、税務当局が宗教法人に入った際、「日蓮宗」が積極的に協力すると、全日本仏教会から「日蓮宗だけで勝手にやってもらっては困る」と横やりが入ったことがありました。ジャーナリストの段勲氏『新興宗教のウラがわかる本』(政界往来社・223頁)によりますと
 「内心、自分だけいい子になって、と思ったことと、税務署には出来るだけ抵抗して税金はなるべく納めたくないという含みからである。」と分析しています。
 また、二年ほど前、少し話題になりましたが、イオンが自ら手がける葬儀紹介サービスにて「布施の価格目安」を打ち出したところ、「布施に定価はない。企業による宗教行為への介入だ。」と反発したのも全日本仏教会などでした。
 この主張を通すなら、金額によって戒名が変わるのもおかしな話しですし、戒名や葬儀の布施の金額をハッキリ提示する寺院も多いと聞きます。
 もともと日本の仏教会では、葬儀について営利企業に依存している側面があります。全日本仏教会内で批判が出ているイオンの寺院紹介サービスでさえ、イオン側は「8宗派、全国約600の寺院の協力も得られることになっている」としています。
 言ってみれば、寺院が葬儀の「顧客獲得」のために営利企業(葬儀社等)と持ちつ持たれつしておきながら、全日本仏教会内で「イオンに金の話しはさせるな」という議論が起こっているという構図です。
 一般人に仏教寺院が葬式仏法と揶揄(やゆ)される原因がここにもあるのです。

 

 【日蓮正宗の葬儀との明確な差】
 本来、寺院とは衆生教化という使命がありますが、よにはびこる爾前権教(にぜんごんきょう)の諸宗は、真に人々を救うことが出来ない偏頗(へんぱ)な教えですから、観光寺院は拝観料・他の仏教寺院は、葬儀法事等の儀式でその命脈を保っているに過ぎません。

 日蓮正宗の葬儀は世間の葬儀とどこが違うかといえば、日頃の信仰生活の一部として、亡くなれば当然葬儀も同じ信心をもって執り行われるということです。
 死に赴(おもむ)く人も、自分のこれまでの信心の到達点として、正宗の葬儀が遺族の手で営まれることを望でしょうし、遺族の人々も、肉親が亡くなった今こそ、日頃の信心の成果を、肉親の成仏を願う上に生かしたいと考えるのです。
 また、戒名ひとつとっても、日蓮正宗では三大秘法の仏法に帰依して、大聖人様の弟子となったという意味で授(さず)けられます。
 ですから、他宗では供養の多寡(たか)によって戒名の種類が決められるようですが、当宗ではあくまでも当人の生前の信心を尊んで授けられるのです。
 我々日蓮正宗の僧俗は、御本尊様の広大無辺なる仏力法力を信じ、また実感しています。現証として数々の体験を積んでいます。
 
 そもそも、日蓮大聖人が諸宗の教えに疑いをもたれたのは、安房の念仏を唱える行者の臨終が、あまりにも悪相を現ずるという疑問でありました。
 『妙法比丘尼御返事』に、
 「此の度いかにもして仏種をもうへ、生死を離るゝ身とならんと思いて候ひし程に、皆人の願はせ給ふ事なれば、阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱へ候ひし程に、いさゝかの事ありて此の事を疑ひし故に一つの願をおこす」(御書1258頁)
と述べられています。
 文中「いささかの事ありて、此の事を疑ひし」とは、念仏を唱える人々が臨終に苦しむ現実をまのあたりにされたこと、そしてその事によって念仏に対する深い疑問を抱かれ、一切の経教の肝要、諸宗の子細を究めんと誓願されたことを意味しています。
 法華経方便品第二には、諸法実相を説いた十如是(じゅうにょぜ)の文がありますが、「如是相(にょぜそう)」を本とし、「如是果(にょぜか)、如是報(にょぜほう)」末として、この本末が究竟(くきょう)して等しい、すなわち相と果報(かほう)とが即応していると解釈します。よって臨終の相に来世の果報が示されていると信じ、臨終の相にこだわるのです。

 生々しい話しですが、医学的には、人は亡くなれば、死後硬直が始まるし、腐敗が始まります。しかし、医学の常識を越えた事は何度も私自身、目の当たりにしています。
 死後、内出血や黄疸(おうだん)が出ていた相が、枕経・通夜・葬儀と経るにつれ消えていくこともありましたし、いつまでも体が柔らかいままの方もおりました。
 昔、長野のある寺院の御住職に伺った話ですが、昭和40年の初めまでは、長野の山間部では、樽(たる)型の棺桶(かんおけ)に座らせて納棺し、土葬にしていたそうです。
 納棺の際、硬直してしまった御遺体を一般的には骨をボキボキ折って納棺していたそうですが、その御住職が言うには、「硬直してしまった御遺体でも、お題目を唱えながら、ゆっくり、ゆっくりと曲がるように念じながら関節を曲げると、力を入れなくてもちゃんと関節が曲がるから、骨を無理に折る必要など無かったんだよ。それを見ていた人がみんな驚いて、ずいぶん入信したもんだよ。」とおっしゃっていました。
 他宗の僧侶で、絶対的な確信の元、仏力や法力を命や肌で感じながら葬儀を執行されている方がいるのでしょうか?是非とも聞いてみたいものです。

  【法衣に関して】
 全日本仏教会のホームページでは役員の写真が掲載されていますが、色とりどりの法衣が目につきます。こんなことは、些細(ささい)なことであると一般の方は思うかもしれませんが、実は重大な事なのです。
 衣というものは、その宗派の、人の心を現すものなのです。赤や紫や金糸の法衣などは,自分を偉く見せたい、高貴に見せたいとする心が現れているのです。

 大聖人様は『立正安国論』において、
 「大集経に云はく 仏法実に隠没せば鬚髪爪(しゅほっそう)皆長く、諸法も亦亡失せん」(御書235頁)
と仰せです。
 鬚髪爪とは、鬚は「ひげ」、髪は「かみ」、爪は「つめ」で、仏教出家者は、外教や在家者との違いをあらわすためや、また自己驕慢(きょうまん)心を戒めるために、本来、剃髪し鬚を剃り、爪を短くして、黒、青、泥色などをまぜた濁色(だくしょく)の衣を着るように規定されています。
 「鬚髪爪皆長く」とは、風俗が乱れ、礼儀が廃れることを意味します。ここでは、三毒の増長を意味するのであり、髪は貪り、爪は瞋(いか)り、鬚は、愚痴をあらわします。「皆長く」とは、
この貪・瞋・癡の三毒が強盛になることをいうのです。
 まさしく、色とりどりの法衣や、ヒゲや頭髪を伸ばしている僧侶の存在は、正しい法が忘れ去られている象徴と言えます。中には爪を伸ばしマニキュアをしている尼僧もいるかもしれません。
 
 一方、日蓮正宗の法衣は小僧さんから猊下様に至るまで、大聖人の往時の面影を今に伝え、全階級とも白五条の袈裟に薄墨色の衣(僧階が上がると、綿から絹になったり、模様などの違いはある)ですが、一人例外もなく、袈裟・衣は修行を積んで、猊下の免許がなければ着用することは許されません。衣・袈裟の免許を本山の丑寅勤行の折に拝受すると言うことは、師弟血脈の道筋を顕します。
 薄墨白五条といった法衣は、最下位の姿にして法を示す姿をとり、まさに大聖人の下種仏法を表明するものなのです。
 金襴豪華(きんらんごうか)な法衣を着ている僧侶からすると、逆に理解できないかもしれませんが、我々正宗の僧侶は、大聖人様と同じ法衣を着すことを許されていることに、誇りと自覚を持っているのです。
 小倉百人一首に描かれているような、色とりどりな法衣など、気持ち悪いだけで微塵も着たいとは思いません。

 日寛上人は、薄墨色の法衣を用いる理由として
①末法は本未有善の衆生で、最初下種の時であるから、初めて仏道修行に入った名字即の位をあらわす薄墨を用いる
②外装にとらわれ内徳を修しない他宗の僧を破し、他門流と区別するため
③富士門流の標幟(ひょうし)を示し、この標幟を信ずる者は順縁を結び、謗る者は逆縁を結ぶため
④他宗の僧侶との相違を明瞭に識別するための4点を御指南されています。

 また、白袈裟を着す理由としては、
①理即の位をあらわす
②日蓮大聖人自身が白袈裟を着用された
③百蓮華をあらわす。これに当体蓮華と世法に染まらないという二意を含む
④日本では古来、白色は着ないため俗服と区別ができる
⑤白色は清浄・無染であり、大百法流布の瑞相をあらわす。
という5点を御指南されています。

 【教義の異なる者が利害目的で集うお粗末さ】
 全日本仏教会の会合の時に、彼等が非常に困る問題がありました。自分達が利害の為に集まるのはいいのですが、会合の始めと終わりに何らかの形で仏・法・僧の三宝に対して帰依する言葉を唱えようとする時に、教義の違いがネックになりました。
 真言宗では大日如来を本尊として立てるところもありますし、あるいは空海は今も高野山の奥で行き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼(しょうこ)によって宗祖への崇敬(すうけい)を表す場合もあります。
 浄土宗・浄土真宗は阿弥陀如来を本尊とし、「南無阿弥陀仏」と唱えます。それぞれの宗派がみんな何等かの形で唱える名号を持っていますが、全部違うわけです。
 それぞれの宗派で立てる本尊も違い、念ずるその志も違うわけですから、何を唱えたらいいのか困るわけです。
 結局、当たり障りのないものにしようと話し合い、「三帰依文」と言いまして「自ら仏に帰依すべし、自ら法に帰依すべし、自ら僧に帰依すべし」と唱えているのです。
 しかし、これも考えてみるとおかしな話で、ここだけ見ても、それぞれの宗派の立てる仏が違います。
 法と言っても、それぞれの宗派が立てる本尊が全部違います。僧と言っても、それぞれの宗派を開いた開祖はみんな違うわけです。
 ですからお互いに法に帰依すべしと言っても、どの法なのか実体がないのです。仏に帰依すると言っても、どの仏に帰依するのか、それは全くまちまちであり、又、その実体はどこにもありません。それが大日如来であれ、不動明王であれ、ことごとく、この地上にただの一度も出現したことのない仏の名号を彼らは唱えているわけです。
 仏と唱えれば何かの仏を指すだろう。法と唱えれば何かの法の所に自分の信心の気持ちが通じて、何等かの形の功徳が頂けるのではないか。僧と唱えればどこかの僧侶に通じるのではないか。
 この程度の考え方で仏・法・僧に帰依する「三帰依文」ということを唱えているわけです。ですから彼等の立てる仏・法・僧の三宝には、ただ仏とか法とか僧とか、三宝の名号は使っていますが、しかしその実体はどこにもないのです。

 ひるがえって、日蓮正宗で立てる仏・法・僧の三宝には、しっかりと実体が整っているのです。
 総本山第二十六世日寛上人は、久遠元初の仏宝とは宗祖日蓮大聖人であると、明確に御指南遊ばされております。
 久遠元初の法宝とは独一本門の戒壇の大御本尊であり、きちんと御本仏日蓮大聖人御自身が建立遊ばされております。
 久遠元初僧宝としての相伝は何かというと、日興上人を筆頭とする唯授一人の相伝として、しっかりと僧宝が日如上人まで伝えられています。
 
 この様に日蓮正宗の三宝、一点の曇りもなくその実体が整っているのです。実体が整っていると言うことはどういうことかと申しますと、架空の話しでは無いということです。
 大聖人様御自身が久遠元初の仏として、実際に末法の今日にお出ましになられました。そして、久遠元初の妙法の法体を、大聖人様御自身が御悟り遊ばされて、御本尊様として顕さました。
 大聖人様は、『祈祷抄』に、
 「娑婆世界に出でさせ給はざれば師匠にあらず」(御書628頁)
 ということを御指南遊ばされています。
 そして実際に、その仏と私たちの間に、主師親の三徳の関係がきちんと成り立っているのです。
 つまり、大聖人様と私たちの間には、大聖人様からの相伝に基ずく御本尊を信授することによって、仏とその衆生の関係、師匠と弟子の関係、そして親子の関係が成立するのです。
 そこにこそ、日蓮大聖人様という末法万年を救済する仏様の実体があるのです。
 大聖人様は、実際に御本様を通し、功徳を通し、また、御書の御指南、法門を通して一人一人を具体的に成長させ、導いて下さり、三障四魔をはじめあらゆる苦悩に打ち勝っていく信心の在り方を教導されているのです。
 「日蓮さきがけしたり」と大聖人様はきちんと魁(さきがけ)となって、御身を以て教導されていらっしゃるのです。諸難を乗り越える方法、病を乗り越える方法、人から信頼され慕われる方法、自分の悪い癖を治す方法、家族円満の秘訣など、実に多岐にわたっています。
 そうした具体的な、実際の生活において、生きた主師親の三徳の関係がきちんと成り立っているのです。
 しかも大聖人様の顕された御本尊様には、あらゆる衆生を六根清浄の命へと改革し、即身成仏の境涯へと導く原理である、十界互具・一念三千の法門が欠けることなく整っているのです。
 また、過去・現在・未来にわたって人々を救いきり、ことごとく成仏せしめて、幸せな境涯へと改革していく、ありとあらゆる功徳の源泉としての用(はたらき)が、御本尊様に整っているのです。
 このように日蓮正宗の仏・法・僧の三宝には法体がしっかりと整っています。そしてその三宝に具体的な人々の救済の事実が加わってこそ、初めて、正しい宗教と言えるのです。
 そこに日蓮正宗の誇りがあり、日蓮正宗の命があり、日蓮正宗の唯一の正しさがあるのだということをしっかりと肚に入れて下さい。
 そして、言葉はつたなくても結構です。邪義邪宗によって苦しんでいる方を、一人でも救済せんと立ち上がり、慈悲と歓喜の折伏に励むことこそ、末法の御本仏日蓮大聖人様、日如上人猊下への報恩の道なのです。
 
 とても一回の御講では語り尽くせませんので、次回も『日蓮正宗の正しさ』についてお話しさせていただきます。
 御参詣ご苦労様でした。


 日蓮正宗の正しさ その2 へ続く


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