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 人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は但(ただ)一睡(いっすい)の夢ぞかし

 
 
 今生人界の思い出
 
   私も、40歳も半ばとなり、既に自分の人生も半分以上が過ぎてしまったと、この頃強く感じるようになりました。
 諸先輩からすれば、まだハナ垂れ小僧の域ですが、白髪も増え、視力も衰えるなど、身体のあちこちから老化現象は確実に始まっています。
 それと同事に、自分の縁する大切な人達が年々衰えてく姿に、何とも言えない寂しさを感じてしまいます。
 私も大聖人様の仏法を修行する身として、臨終正念を肝に銘じ、いつ死んでも悔いの残らないように日々を送る事が肝要であるということは、頭では理解出来ていましても、そこまでの境地に至っていないのが現状です。
 多くの人がなぜそうなるかと言えば、私達は凡夫ですから、不慮の事故・災難・病気など思いもよりませんし、栄誉・栄華は求めなくとも、何となくでも生活が出来ていれば満足してしまい、それがずっと続くように錯覚しています。
 そのために、ついつい、やらなければならない事を先延ばしにし、目先の欲や娯楽に飛びついてしまいます。
 それらはすべて、現在の生活が、ずっと同じように繰り返していくと考えているからにほかなりません。
 日蓮大聖人は『松野殿御返事』に、
 「人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は但(ただ)一睡(いっすい)の夢ぞかし」 (御書1051頁)
と仰せです。
 つまり人間は、いくら長生きしても、百年を過ぎることはなく、その間のことは、ただ一睡の夢のようなものである、と仰せなのです。
 人間としてたとえ百歳まで生きたとしても、大きな時間の流れから見れば、その百年は、一眠りするぐらいの、わずかなものだと示されるのです。
 我々に残された時間は、まだまだたくさん有るように思っても、それほど多くはないのです。
 
 本日は皆様と共に、大聖人様が『持妙法華問答抄』に、
 『須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。』 (御書300頁)
と仰せの、有名な御文について学んで参りたいと思います。


 【人身を受けるありがたさ】
 まず、大聖人様の仏法を学ぶ者の初歩として、人としてこの世に生まれてくることができた事に感謝しなければなりません。
 大聖人様は、
 『人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。』 (崇峻天皇御書 1173頁)
と仰せです。
 人間に生まれてくるのは難しい。爪の上の土のように希である。また、人間に生まれてきても、その身を持つことは難しく、草の上の露のようにはかないのです。
それぞれが、人として生まれてきた事を、当然のように思ってはいけないのです。
 人として生を受けるには過去世の行いが関係し、人に生まれるだけの良い原因を自らが積んだ結果、人として生を受けることができるのです。
 しかし、その受け難き人身を持つ事も難しいと仰せです。
なぜならば、大聖人様は『太田左衛門尉御返事』に、
『本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して五体に苦労あるべし』 (御書1221頁)
と仰せです。
 人として生を受ければ、必ず病気にもなり苦労はあると大聖人様は仰せです。信心すれば病気にもならず苦労もしないという事は有り得ません。
 それは、誰しも持って生まれた宿業や罪障があるからです。
 しかし、信心をすることで日蓮大聖人様が、
 『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ』 (四条金吾殿御返事 991頁)
仰せのように、私達に病気を克服する力や人生苦を乗り越える力を御本尊様に御題目を唱えることで頂くことができるのです。
 

 【巡り会い難き仏法に巡り会える有り難さ】
 また、大聖人様は、
 『夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひがたきは仏法・是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり。まことにまことに過去十万億の諸仏供養の者なり。』 (寂日房御書 1393頁)
と仰せです。
 この世に人間として生まれること、人間として尊い生き方をすること、そして妙法を正しく持つことがいかに有り難く、かつ困難であるかを大聖人様は仰せです。
 また、妙法を受持する私たちは、一人ももれなく、その人でなければ成し得ない「使命」があるのです。
 他人と自分とを比較する必要は全くありません。
 大聖人様は、
 「桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李と、おのおのの特質を改めることなく、そのままの姿で無作三身の仏であると開き見ていくのである」 (『御義口伝』1797頁 通解)
と仰せなのです。
 草木にもそれぞれの特性があるように、どんな人にも、その人にしか果たせない使命・御奉公の形が必ずあるのです。
 御法主日如上人猊下は、この我々の使命に関し、以下のように御指南下さっております。
 『我々は人間に生まれてきて、そして何をすべきなのか。これには、いろいろな考え方があるけれども、やはり世のため人のために尽くしていくということが大切なのであり、自分のためだけに生きていくというのは、これは小乗の考え方なのです。小乗にこだわった人々は、仏様から「二乗根性」といって嫌われるのです。
 二乗の人たちは、仏道修行において自分のためには一生懸命に血の滲(にじ)むような努力をするけれども、他の人のためには何も行わないのです。したがって、仏様から「お前たちは絶対に成仏をしないぞ」と言われるわけです。
 我々が折伏をするのは、やはり一切衆生救済という慈悲行に徹(てっ)するからであり、世のため、人のためなのです。そこに尽くしていくところにまた、己(おのれ)に尽くす因が篭(こ )められてくるのです。自分のことばかりを考えて行動していると「お前は、それでは永遠に成仏しないぞ」と、お叱りを受けることになってしまうわけです。
 今、世間がこんなに殺伐(さつばつ)としているのは、皆が自分のことしか考えないからです。自分の欲望のためだったら他人をも殺してしまうような、そんな慈悲の心のかけらもなくなってしまった人が大勢いるわけです。これは、みんな貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち )の三毒のなせる業(わざ)です。
 この貪・瞋・癡の三毒の煩悩を菩提に換えていくのが妙法なのです。
 まさに「現世安穏後生善処」の妙法です。この妙法を自らが率先垂範(そっせんすいはん)して多くの人たちに下種結縁し、自分が折伏した人には、また折伏することを教えて次の人に展転していくということが大切なのです。それをやらなければ、我々自身の成仏もおぼつかないのです。自分自身のためだけに、いくら題目を唱えてもだめなのです。やはり私たちは、世のため、人のために尽くしていくことが大事なんですね。
 世の中には、極悪非道な人ばかりでなく、本当に立派な人たちもいます。時々テレビなんかを見ると、子供たちに対して「大きくなったら何になりたいですか」と質問をしたりしていますね。すると、立派なことを言っている子供たちがたくさんいますね。 そういう子供たちが、いつの間にか世の中に狂わされて、おかしくなってしまうのです。これは教育の欠如と言えば、そうかも知れませんが、根本的には、この妙法信受の功徳、妙法蓮華経の尊さを教えていくということを我々が怠(おこた)っていると、そういうことになってしまうのです。我々にはまた、そういう大事な役目があるということを、ひとつよく知っていただきたいと思います。』 (平成18年度 第4回法華講夏期講習会の砌)
と御指南下さっております。


 【大聖人様が説かれる「今生人界の思い出」とは】
 人生には家族との思い出、青春時代の思い出、恋愛をした思い出、旅行へ行った思い出など、様々な思い出があります。
この思い出にも、思い出したくもない、嫌な辛い思い出も誰にでもあります。しかし、過去を消したり変える事は出来ません。
しかし、未来はいかようにも変えて行けるのです。ともかく全魂を傾けて、南無妙法蓮華経と自身も唱え、他の人にも勧めることこそが、人間として生まれてきたこの一生の思い出となるのです。
 日蓮大聖人は信心していく中での思い出について『持妙法華問答抄』に、
 「願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引(ろういん)なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」 (御書300頁)
と仰せであります。
 「我も唱へ」とは自ら御本尊に御題目を唱え、「他をも勧めん」とは信心していない人にも御題目を唱えるように勧め教えることが、今世の人間界での最高の思い出であると御教示です。
 要は、真心からの折伏ということですが、その行動の一切の源が清浄なる信心をもって、南無妙法蓮華経のお題目を唱えることから始めるのです。
 自行化他の実践も唱題行が根本です。信心の分かれ目は「信じて唱える」という他人にはうかがい知る事の出来ない部分からの出発にかかっています。
 そしてこの「信じて題目を唱える」という実践こそが唯一の「今生の名聞」「後世の弄引(成仏に至る事)」なのです。
 勤行・唱題は信心の基本と良く言われますが、勤行・唱題によって自身を磨くという行がなければ、日蓮大聖人の仏法の実践とはなり得ません。
 御本尊様から離れては、真の幸せも楽しみも築くことはできません。
 世間でも、成功者と言われる方は多数いるかも知れませんが、所詮、妙法を離れた名聞や名利は、わずか一時の栄華であり、三世にわたる真の幸せとはほど遠い幻想に過ぎないのです。
 大聖人様がここで仰せの『思い出』とは、単なる思い出ではなく、『自分が死んだ後、来世へ持って行けるもの』と置き換えた方が分かりやすいかも知れません。
 『法華初心成仏抄』では、
 「現世安穏後生善処なるべき此の大白法を信じて国土に弘め給はゞ、万国に其の身を仰がれ、後代に賢人の名を留め給ふべし」 (御書1313頁 )
と示されます。
 その意味は、妙法蓮華経の大白法を信じて折伏を行ずるならば、世界中で尊敬されるような境界になり、さらに後の世には賢人の名を留めるであろう、と言うことです。
 つまり、現世安穏とは、お金持ちになるとか社会的地位を獲得する、などの物理的なものからもう一段高い境界に進み、世の人々から尊敬をされる人格を得ることを意味します。後生善処とは、亡くなった後まで名を残し人々から讃えられる現世的な意味と、来世においては折伏の功徳により、私たちの生命が永遠に輝き、その人の住処が善処である、との両面から示して下さるのです。
 私たちは、日蓮大聖人様のお遣いとして、周囲の人たちにもお題目を唱えるように勧めなければなりません。自行だけの信心では成仏の功徳はありません。
 折伏の話になると腰が引けて、「歳だから」とか「時間がない」とか、中には「自分だけで十分」、「自分には無理」というような声を聞くことがあります。
 しかし、大聖人様は「成仏するには化他行がなければなりませんよ」と仰せであり、日如上人は常々「自分が幸せになりたかったら、人の幸せの為に祈り行動しなさい」と仰せです。
 日蓮正宗の信心の根幹は慈悲の折伏です。他の日蓮宗では折伏をしません。
それどころか、折伏を否定する輩もおります。
 『折伏とは、「受難を怖れぬ常不軽菩薩の礼拝行」のごときものではなく、悪口雑言の類であり、物理的な暴力も辞さない強引な布教方法である。』
とし、
 『摂受の日蓮宗は大教団、折伏の他門流は小教団。』 (今成元昭氏の所説)
と説く人までいます。
 謗法まみれで、布教の意志がなく、波風立てずに現状を護っていきたいという気持ちの表れです。
 しかし、日蓮大聖人の教えは、『立正安国論』に示されるが如く、どこまでも折伏正意なのです。
 我々は諸難にもめげず、相手の幸せを心から願い「折伏」を実践するならば、大きな功徳に浴する境界を築くことができるのです。


【今こそ折伏に立ち上がろう】
 釈尊は現代を予言して、末法は五濁(ごじょく)の時代であ
ると喝破(かっぱ)されています。五濁とは時代が濁(にご)り、社会が乱(みだ)れ、人間の生命も思想も狂うことを指しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
 今、我が国では生活保護の不正受給が大きな問題となっています。国民の最低限の生活は憲法でも保証されており、生活保護自体を否定するつもりは毛頭ありません。
 しかし、もらえるモノは誤魔化してでもらった方が得だとばかりに、預貯金があっても隠していたり、普通に家族で暮らしていても母子家庭を偽装したりと、モラルが崩壊しています。国家予算のかなりの部分が、不正受給によって圧迫されています。
 ここまで人身が荒廃してきますと、上辺の道徳や、法律や監視を厳しくしたところで追いつきません。
 健全な人生観や社会思想は、一人ひとりが正しい宗教に帰依(きえ)し、しかも正法が社会に広く深く定着(ていちゃく)したときに醸成(じょうせい)されるのであり、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。
 どんなに法が正しくとも、法は人によってはじめて広まっていくのです。
私達の現当二世にわたっての幸せな境涯ということも、この人生における最大の歓びも、そして国家の安寧も、折伏によってもたらされるのです。
 折伏によって、はじめて本当の意味のある人生の思い出が、又その尊い功徳がそこに備わってくるのだということを大聖人様は再三にわたって教えておられるのです。
 私達は、大聖人様の弟子というならば、だれに言われることなく、自分の志で折伏の一念に立って、自分に縁のある人々に勇気を持って下種をし、そしてこの正法のもとに導いてあげるという、実践の日をより多く持って頂きたいと願うものであります。
 お互いに、あっという間の短い人生です。せっかく人として生まれ、遇(あ )いがたき正法に巡り会えたわけですから、意味のある、有意義な人生にしようではありませんか。
人は、自する」という原点にあるということを確認しあいたいと思います。
 本日はご苦労様でした。

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