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   一とは妙なり心とは法なり、欲とは蓮なり見とは華なり、仏とは経なり
 
一心欲見仏 不自惜身命とは 

 
     
    法華経の『寿量品』の自我偈(じがげ)の中に、「一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)
 不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)」という有名な経文の一句があります。訓読すると「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」と読みます。
皆さんも朝夕の勤行で、毎日この経文を唱えておられますが、非常に大切な深い意味が存在します。
 本当の「一心欲見仏」とは、いったいどういうことなのか?
あるいは「不自惜身命」ということは、何に対して具体的にどのように不自惜身命でなければならないのか?ということになりますと、実に深く難しい御法門と言わなければなりません。

 本日はこの御文についてお話しをさせていただきます。

 【「一心欲見仏」とは何か】
 「一心に仏を見奉る」ということは、例えば、観光で他宗の寺院や、博物館で展示されている、仏像・菩薩像・観音像といった、例えそれらが国宝といわれるものであったとしても、そんな物を見るのが、「一心に仏を見奉らんと欲す」などということではないのです。
 諸宗の人は方便(ほうべん)の教えの中に出てくる諸仏、諸菩薩の姿をただ憧(あこが)れ「こんな姿かな、あんな姿かな」と言って想像して、仏像に刻み、あるいは絵像(えぞう)に描き、また心に念じて、ただ、ひたすら救済を願っているだけに過ぎないのです。
 そんなことをして京都や鎌倉などの他宗の寺院を訪ね歩いてみても、真実・究極の仏様を見奉ることはできないのです。

 先日、東京第二地方部の少年部広布推進会でお話しさせて頂きましたが、「大日如来」と「ユニコーン」が同じであり、「金剛力士」と「ウルトラマン」が同じであると子供に話しをしました。
 子供に信仰の本質や、謗法、仏を教えることは至難です。幼稚園生から中学生までと年齢の幅が広く、普段皆さんにお話しさせて頂く何倍も時間がかかります。
まず、子供には「なんだろう」と興味を引かせなければなりませんし、飽きさせてもいけません。

 皆さんは、いまの私の話した意図が分かりますか?私は少年部員に以下のように説明しました。
 『まず、ユニコーンとは角の生えた馬であり、空想上の生き物です。現実にいそうでいません。大日如来も、お釈迦様が人々を導く方便で、大日経というお経の中で、架空の仏として説いたに過ぎません。

 金剛力士は、邪宗の寺院の入口や門の左右に、恐い顔をして立っています。仁王とも呼ばれます。建物を外敵から護るため入口に安置されています。
 なぜウルトラマンと同じかというと、実際にはいないからです。どんなに強そうに作られていても、悪者を対治することは出来ないのです。

 世の中の宗教は、動物を拝んだり・亡くなった有名人を拝んだり・架空の仏や神を拝んだりするものばかりなのです。
 お仏壇に、ウルトラマンの人形を入れて拝む人はいません。なぜなら、物語として楽しんで映画やテレビを見ている人でも、自分が本当にピンチの時にさっと登場して助けてくれないことを知っているからです。
 しかし、これが大日如来や金剛力士だと、ありがたい、御利益がある、助けてもらえると思って、必死になって手を合わせる人が多いのです。 こういう人達に、架空の仏や神には何の力もない事をおしえてあげましょう。』と説明しました。


 【「一心欲見仏」の真実の仏とは何か】
 日蓮大聖人様は、
 「日蓮末法に出でずは仏は大妄語の人、多宝・十方の諸仏は大虚妄(こもう)の証明なり。仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内に仏の御言(みこと)を助けたる人但日蓮一人なり」(聖人御難事 御書1397頁)
と仰せのように、大聖人様は『法華経』の文々句々を悉(ことごと)く身に当てて読まれ、『法華経』が真実の教法たることをお示しあそばされ、仏の言葉は真実であると証明されました。

 すなわち、文永八年(一二七一)九月十二日の竜の口法難や佐渡配流をはじめとする「大難四箇度、小難数知れず」の御一生は、法華経『勧持品』二十行の偈(げ )に説かれる三類の強敵による「悪口罵詈(あっくめり)」「刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)」「数数擯出(さくさくひんずい)」等の王難(おうなん)を物語り、大聖人様こそが、法華弘通のためには自らの身命を惜しまず身業読誦(しんぎょうどくじゅ)をなされる「法華経の行者」であることを証明されたのです。
 よって大聖人様は、
 「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」 (撰時抄 御書845頁)
と仰せられるのです。

 そして、この『法華経』の説相(せっそう)のままの如説修行は、釈尊が「日月の光明の如し」と予証された上行菩薩の再誕に在すことを証明するものであり、さらに竜の口の頚(くび)の座に至り、久遠元初の御本仏の御本地を開顕あそばされたのです。
 竜の口にて、幕府が国家権力を持って日蓮大聖人様を斬首しようとしても出来ませんでした。
 法華経には正法を持つ者には、必ず諸天の守護が現れてくると説かれています。しかも、仏ですから凡夫が殺す事はできません。
 ですから、その後、大聖人様は佐渡に流されましたが、何の心配も恐れもありませんでした。
 しかし、当時は島流しにあって生きて帰れるなどということは有り得ない事でした。そのため殆どの弟子・檀那がこの時退転してしまいました。
 しかし、大聖人様は佐渡に流されても死なずに鎌倉へ帰って来られました。その後、身延の山に入られて、末法の一切衆生を救う為に、御本仏様の出世の本懐である戒壇の大御本尊様を顕わされました。
 だから今、私たちもありがたいことに信心ができるのです。

 このような、大聖人様の空前絶後、前代未聞の法華色読(しきどく)により、私共は、日蓮大聖人様が文底下種、事の一念三千の大法を弘宣(ぐせん)あそばされる御本仏であられることを領解(りょうげ)することができるのであり、さらには御本仏との機縁を結び成仏の因を得ることができるのです。

 大聖人様は、この「一心欲見仏」という経文を釈され、 「一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり」(御書669頁)
とお説きになっています。
 大聖人様は「一心欲見仏」とは、突き詰めれば妙法蓮華経の五字であると解釈されています。
 これはどういう事かと申しますと、我々が唱え奉る南無妙法蓮華経は、大聖人様が、
 「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ」(御書685ページ)
と仰せあそばされた本門戒壇の大御本尊様、そして、唯授一人の血脈相承を受けて御歴代の猊下様が衆生化導のために御書写申し上げられる御本尊様の御当体、すなわち「南無妙法蓮華経 日蓮」の御当体、御名がそのまま南無妙法蓮華経であります。

 つまり、日蓮大聖人様の下種本仏としてのお悟りの一切が、この題目に篭(こ )められているのであります。
 ですから、我々は御本尊様を拝して初めて南無妙法蓮華経の法体、そして実体が明らかに拝すことができるのです。
 よって、いかなる仏様を見奉らんと一心に欲するかと言えば、まさに、それは久遠の御本仏、大聖人様のお悟りあそばされた久遠元初の自受用報身の根本の仏様を、本当に自分の信心の一念心で求め抜くのです。
 その志こそが、まさに一心に仏を見奉らんと欲することであり、言うならば大聖人様の弟子としての私たち日蓮正宗の僧俗こそが、まさに、「一心欲見仏」一心に仏を見奉っているのです。


 【「不自惜身命」とは何か】
 世間でも、命がけで事を成し遂げようとする方は大勢おられます。皆様も生活していくうえで、家族を支えるという一つの大事な役割があります。
 あるいは、また社会において、それぞれが自分の責任を全うするという一つの使命があります。
 そうした意味で、苦労を重ねながら、社会人としてそれぞれの立場で、各分野で使命を果たすことも、一つの不自惜身命の姿で、尊いと言えます。
 しかし、世間一般の人は、そこまでのことであり、本当に仏道における不自惜身命とは、これは本当に考えてみると、自我偈の文を心肝に染め、大聖人様の法体を知った人間でなければ、できることではないのです。
 世間では、お金のため、地位のため、名誉のため、または愛憎に身を削り、命を掛ける人が余りに多いのです。

 世間の人びとに先駆けて広布のために大聖人様の大法を守り抜き、総本山を守り、日蓮正宗を守るということにおいて、本当に不自惜身命の精神で外護の任に当たっておられるのは、日蓮正宗の法華講の皆様であります。

 大聖人様は『義浄房(ぎじょうぼう)御書』において、
 「寿量品の自我偈に云はく『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。日蓮が己心の仏果を此の文に依って顕はすなり。其の故は寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事此の経文なり、秘すべし秘すべし」(御書669頁)
と御指南あそばされた後、
 「法華経の御為に身をも捨て命をも惜しまざれと強盛に申せしは是なり」(同)
と仰せられて、仏道修行において、仏法のために一途に仏を渇仰(かつごう)し、身命を惜しまず精進することが最高の信心の姿であると御教示されております。
 大聖人様御在世中の有名な御信徒である四条金吾殿は、大聖人様が竜の口に連行されたとき、大聖人様にもしものことがあれば、自らも腹を切ってお供しようとされました。大聖人様は、この大難に際しての不自惜身命の御奉公に対し、金吾殿を法華経の行者と賞嘆(しょうたん)されています。

 現代において、なかなかこういうシチュエーションは有り得ないでしょう。しかし、いざという時に、このような行動が取れるかどうかは日頃の信心によるのです。
 常に我々は、信心を試されているのです。だからこそ、大聖人様の御本尊様を信じて常にお題目を唱えるのです。その時にはじめて、一心欲見仏の境界になるのだということを、皆様方もしっかりと確信していただきたいと思います。

 日寛上人は『依義判文抄』に、
 「一心欲見仏とは即ちこれ信心なり、不自借身命とは即ち唱題修行なり、此れに自行化他有り、倶(とも)に是れ唱題なり」(日蓮正宗聖典876頁)
ということを御指南されています。
 正しい御本尊に向かって唱題をするからこそ、我々は仏様の功徳をそのまま受けることができるのです。


 【この信心修行に諸難は当たり前】
 法華経を弘通する者は、正法の故に必ず大難に値うと釈尊や大聖人様は仰せです。
 我々凡夫にとって難に値うことは辛(つら)いことです。しかし大聖人様は、一切衆生を救済せられんがため、大慈大悲をもって数々の大難を忍ばれ正法を弘通あそばされたのです。
 さらに私たちは過去における罪障が深き故に難に遭うのです。しかし、難に遭うことは成仏するための法華経修行と捉えるべきなのです。
 ですから、難は罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)のためであり、さらに変毒為薬(へんどくいやく)して大功徳となり、成仏の仏果を得ることができるのです。

 大聖人様は、
 「仏になる道は、必ず身命をす(捨)つるほどの事ありてこそ、仏にはな(成)り候らめと、お(推)しはか(量)らる」 (佐渡御勘気抄 御書482頁)
「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(白米一俵御書 御書1544頁)と仰せです。
 信心とは志です。値い難き仏法に巡り合えた喜びを忘れず、その仏と法に、己れの生活の徳をすべて捧げ奉るという信心に立つことが肝要です。
 入信していても勤行・唱題をしない、折伏をしないということでは功徳はありません。それは、功徳の功とは修行であるからです。修行をせずに勝れた果報は得られないのです。反対に、勤行・唱題・折伏の修行によって功を積むならば、結果として必ず勝れた徳を得て幸福になっていけるのです。これが信心の道理なのです。
 私たちは、日々の生活の中で様々な問題に直面し、悩み苦しむことがあります。そのようなときこそ、御本尊様の不可思議な功徳を信じて唱題に唱題を重ねることが大切なのです。なぜならば、その確信ある唱題によってこそ、いかなる問題も乗り越えることができるからです。

 大聖人様は、
 「信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願も成就すべきなり」(御書642頁)
と仰せになっていらっしゃいます。一人ひとりが、それぞれの心田(しんでん)に下種の妙法を植え、信心に退転なく、大聖人様の御指南の通りに修行し、精進していく。
 そのときに、現世安穏・後生善処の果報も得、広宣流布の大願も成就するのです。この純信に精進する姿こそが「一心欲見仏不自惜身命」の姿であります。


 【仏を命に奉る信心】
 御法主日如上人猊下は、
 「一切の煩悩に執(とら)われず、一切の執着に執われず、泰然(たいぜん)として大聖人様の教えを弘通することであり、まさしくそれは不自惜身命の修行そのものであります」 (大白法六八五号)
と仰せられています。
 私たちは煩悩や執着、またはしがらみなどに執われずに、ひたすら大聖人様の教えのままに、自分の人生の貴重な時間を割(さ )いて信心修行することこそが大切なのです。

 私たちはちっぽけな人間です。常に迷いや苦しみの中にいます。それぞれ、境涯の違いもありますが、四条金吾殿のような命懸けの信心を志すことによって、必ず諸天の加護があるのです。
 迷いや苦しみや諸難は、小手先の策やお金、地位の力で防ごうと思っても止められません。
 しかし、信心では止められるのです。御本尊様にはその力があるのです。

 それを、信じ切れるかどうかが大きなカギとなるのです。要するに今まで述べてきた「不自惜身命」の信心ができるかどうかにかかっているのです。
 それを仏様である大聖人様が、自ら護られた姿を私たちに示してくださっているのです。
 今まで、多くの素晴らしい体験談を皆様も耳にされた事があると思います。
病気を乗り越えた話し、生活苦を乗り越えた話し、どうにもならない人間関係が修復出来た話、災害で一命を取り留めた話しなど挙げればきりがありません。
 しかし、何もそれは特別な事では無いのです。

 今年のゴールデンウイークには、バスの事故や山での遭難など悲惨な事故・竜巻や落雷による信じられないような災害が多くありました。
 仏法では、偶然は認めませんので、これらにも原因があるのです。
 誰もが、御本尊様を根本に、本当にしっかりとした「一心欲見仏 不自惜身命」の信心に立ちさえすれば、信力行力によって必ず仏様の仏力法力が現れるのです。

 私達は、日頃から自他の幸せを心から祈り、広宣流布に身を費やす事によってこそ、護られるということを確信し、さらに前進して参りましょう。


        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 


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