ホーム 御住職の法話目次  御住職の法話(第221号)
 
  【慧(え)又堪(た)へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮(せん)と為(な)す】
 日蓮正宗の修行とは

 

 
   【修行の大事】
 仏法にしても世間法においても、最も勝れた教えを持つことは大切なことであります。
 特に仏法においては、その教えがいかに勝れていたとしても、そこに「修行」が伴わなければ、私達の過去世からの罪障を消滅し、成仏という最高の功徳を得ることも出来ないのであります。

 他宗の多くは、中身のない冠婚葬祭の儀式に終始し、信徒が日々朝夕の勤行を行い、日常生活に活かしていくというようなことは、ほとんどないというのが現実です。

 ところが日蓮正宗の修行というものは、必ず御本尊様に向かってお題目をあげていかなければなりません。題目をあげることによって本当の喜び、歓喜を得る。これを不退に貫くことによって、私達の生命力も強くなってくるわけで、そのことが非常に大切であります。

 他宗では、そのことが欠けていますから、寺や教会へ行きましても、何か陰気臭い、薄暗いというような雰囲気がただよっているわけです。
ところが日蓮正宗は違います。みんな一緒にお題目を唱え、そして一心に広宣流布や、いろいろな願いをもって頑張っていくわけです。そういうところに違いがあります。

 また、慈本寺もお寺ですからいろんな方がみえますが、日蓮正宗の御信徒とそうでない方は、明らかに相が違います。命の状態が相に顕われるのです。特に創価学会員は顔色が悪く目がつり上がっていますので、すぐにわかります。

 御院尊日顕上人猊下は、
 「宗教という意味においては、必ず修行ということがなければならないのであります。つまり他人の持つ財宝を数えたところでなんの意味もなさず、その宝を自分の物にして初めて、その宝が活用できるということと同じように、いくら仏の教えが尊くとも自分の命の上にはっきり値打ちが顕れて初めて、その功徳が得られるという意味があるのです。したがって修行ということが大事なのです。」(大日蓮697号)
と仰せられ、
 御法主日如上人猊下は、
 「幸せになるためには、そのための努力をしなければならない。惰性に流され、何もしなくて幸せになったためしはない。そこに、我々の仏道修行がある。
 大御本尊への絶対の確信を持って、無二に信じ奉り、仏様の教えと戒めを忠実に守り、日ごろの修行を怠りなく励んでいくところに、必ず自らの人格の完成と広宣流布への使命を自覚し、誰からも信頼される立派な僧侶(人)になっていくのである。」(大日蓮21年9月号)
と仰せです。
 我々は、日々の「修行」の大切さを今一度、肝に銘じなければなりません。 


 【四信五品(ししんごほん)の大事】
 日蓮大聖人は、「分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世滅後の亀鏡(ききょう)なり」(御書1111頁)
と、その四信五品が信心修行の大要と仰せになっています。
 先ず四信とは、「現在の四信」といわれ、釈尊在世の衆生が、法華経を持って信心する四つの段階であります。簡単に説明しますと、
・一念信解(いちねんしんげ)とは、法華経を聞いて信じ、信心の心を起こすことです。
・略解言趣(りゃくげごんしゅ)とは、法華経を持って、説かれている 内容をほぼ理解し、それを信解していくことです。
・広為他説(こういたせつ)とは、理解した法門を自らが信受すると共に、それを他の人々に説くことです。
・深信観成(じんしんかんじょう)とは、法門を深く信じて信心修行を 実践し功徳を得ることです。
 釈尊は在世の衆生の修行というものを、この様に四つに分けて説いているのであります。

 次に五品とは、「滅後の五品」といわれ、釈尊滅後の衆生が法華経を実践する内容によって分けられた五つの位のことです。
・初隨喜品(しょずいきほん)は、初めて法華経を聞いて歓喜の心を起こすことです。
・読誦品(どくじゅほん)は、法華経を読誦することです。
・説法品(せっぽうほん)は、自ら法華経を信受すると共に、他人の為にその法を説くことです。
・兼行六度品(けんぎょうろくどほん)は、法華経を持ち、兼ねて布施(ふせ)持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六度を修行する位です。
・正行六度品(しょうぎょうろくどほん)は、法華経を根本に、上記の六度の修行を正しく行ずる位です。
 これらの修行が釈尊の滅後の修行の肝要だと説かれるのであります。
 しかし、日蓮大聖人は御書に、
 「現在の四信の初めの一念信解と滅後の五品の第 一の初隨喜と、此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋(ほうきょう)、十方三世の諸仏の出門なり。」(御書1111頁)
と、この四信五品の中でも、現在の四信の「一念信解」、滅後の五品の「初隨喜品」が最重要であると仰せです。


 【一念信解・初隨喜が修行の根本】
 そこで、まず一念信解、つづいて初隨喜品について、もう少し詳しく話しをいたします。仏教を修行するには、三つの大切なことがあります。それは、「戒(かい)・定(じょう)・慧(え )」です。 
 「戒」とは、不殺生戒・不偸盗戒(ふちゅうとうかい)などの非を防ぎ、悪を止めることです。
 「定」とは、心を安定させることです。
 「慧」とは、智慧のことです。
この三つは、全て大切ですが、末法の衆生に、この三つの全てを求めることは難しいことです。それは、末法の衆生が、釈尊在世・正法・像法時代の人に比べて機根が劣るからです。

 なぜ機根が劣るかというと、「本未有善(ほんみうぜん)の衆生」だからです。「本未有善の衆生」というのは、本未だ善有らずの衆生ということで、生まれながらにして、本から善なるものを持っていないのです。
 久遠以来、仏滅後の正法・像法の時代までの衆生は、皆、釈尊と縁を持っていましたが、末法の衆生は、未だかつて釈尊と縁を結び、その化導を受けた経験が全くない。私たち末法の衆生はそういう人びとなのです。

 そして、非常に業が深く、計り知れないほどの宿業を一人ひとりが持っています。したがって、その衆生を教化する仏様も、同じような業を持った一人の衆生としての姿をもって出現され、そのうえで法を説くということでなければ、一切衆生は付いてこないし、救われないのです。

 『闘諍言訟(とうじょうごんしょう)・白法隠没(びゃくほうおんもつ)』と釈尊が予証した通り、釈迦仏法は救済の力を失い、世相は乱れ、まさに悪世末法の相をあらわし始めました。
 「闘諍言訟(とうじょうごんしょう)」というのは、人びとが互いに言い争って全然譲らず訴訟まで起こす、そういったような世の中です。そうしてまた「白法」というのは、正しい清浄な教え、つまり釈尊の教えです。その釈尊んの教えが「隠没」してしまう、隠れてなくなってしまう、消えてしまうという時代ということです。

 そうすると、人びとの拠り所とする釈尊の教えには教化の力が全く無くなってしまいますから、当然のことながら、人びとの心が不安定になって、闘諍言訟に及ぶ。互いに言い争って、自分自身が悪かったなどという考えは、寸分たりとも持ち合わせない。そういう衆生がたくさん出現してしまうのが、この末法なのです。
 日蓮大聖人は、末法の衆生にとって、戒定慧のうち「慧」が最も大切なことを述べられています。
 「末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や」(御書1112頁)
と、末法の修行者が戒定慧の三学を全て行じなければならないかと問いを構えられて、それに対して、
 「戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る」(御書1112頁)
と、戒定を止めて慧を専らにすべきことを諭されています。
 しかしながら、その智慧も末法の衆生は充分に得ることができません。そのために、
 「慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。」(御書1112頁)
と、結局、日蓮大聖人は、「以信代慧(いしんだいえ)」といって信が大切なことを述べられています。
 これは、四信のうち一念信解に当たります。即ち私達は、御本尊を信じることによって戒定慧の一切の功徳を具えることができるということです。
 何とありがたいことではありませんか。 

 次に「滅後の五品」の初隨喜品は、法華経の『隨喜功徳品第十八』に説かれており、「五十展転隨喜の功徳」といって、法華経を聞いて隨喜する功徳の大きいことを示されています。
 例えば五十人がいたとして、最初に法華経を聞いて隨喜した人が、次の人に法華経を伝えます。このように次々と、最後の五十人まで伝えられたとします。四十九人までは、自分が隨喜すると同時に、次の人に伝えるという化他の功徳が具わります。しかし、最後の五十番目の人には化他の功徳はありません。
 また、「五十人是皆展転劣なり」(御書1112頁)と、二人目・三人目となるにしたがい隨喜の功徳は劣るにも関わらず、
 「八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし」(御書1115頁)
と、五十番目の人が法華経を聞いて隨喜する功徳は、衆生に金・銀などの多くの財物を八十年もの長きにわたり布施するよりも勝れていると説かれています。
 したがって、私達が、法華経を聞いて喜んで信受し、仏道修行を実践する功徳は非常に大きいのです。ましてや、その喜びを人々に伝えていく功徳が大きいのは言うまでもありません。
 故に、私達は「折伏」ということを瞬時も忘れてはならないのであります。


 【唱題が末法の正行】
 その私達の具体的な信心修行の根本は、勤行・唱題であります。日蓮大聖人は御書に、
 「檀戒(だんかい)等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分と為すなり。是則ち此の経の本意なり」 (御書1113頁)
と仰せであり、また、
 「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、その義に非ず、唯一部の意ならくのみ」(御書1114頁)
と、説かれています。
 妙法蓮華経が法華経の意であり、この妙法蓮華経に、法華経の一切の功徳が具わっているのでありますから、私達はこの唱題の甚大な功徳を知るべきであります。
 私達は、宿縁深厚にして本門三大秘法の正法に巡りあうことができました。しかしそこに「修行」というものが伴って、初めて大きな功徳を得ることができるのであります。その修行とは、より具体的に言えば、私達は、総本山大石寺の奉安堂に安置し奉る本門戒壇の大御本尊に絶対の信をなし、信心を始めた純粋な初心を忘れることなく、常に南無妙法蓮華経と声を惜しまず唱え、随喜して折伏に励むことであります。また、日常にあっては朝夕の勤行の実践と、常に唱題を根本として、自らが大いに功徳を積むと同時に、その功徳を多くの人々に語っていく「折伏の実践」が大切であります。 


 【正しい信心の修行とは】
 今、世間では宗教というものにとても敏感で、洗脳される・財産を取られる・人格が破壊されると忌み嫌う傾向にあります。
 しかし、正しい信心というのは、何か特別の修行をしなければいけないとか、あるいは何か特別な生活を強いられるとか、あるいは偏頗(へんぱ)な一つの教えに毒されてしまって、社会一般の人間生活を否定したり、何か別世界のものを憧れてみたり、オウム真理教が空中に浮けると宣伝したような、特別な何かをするというようなことでは決してありません。
本当の正しい信心というものは、一人一人の生活に密接したものです。幸せな境涯を得るために、この信心修行があるということなのです。

 よく「私は忙しくて信心をする暇がない」ということを言う方がいます。しかし、忙しいからこそ計画性を持って、迅速に処理していくことが必要なのです。忙しい大事な体、大事な命であるからこそ、心の健康、身体の健康というものが必要なのです。忙しい人ほど重要な地位に立っています。そういう人ほど、生活・信心・健康と、総てが大事なのです。そういう人が、やはり仕事にかまけて信心が出来ないというのはおかしいのです。
 むしろ信心を通して家庭を円満にし、仕事に打ち勝つ。信心を通して人の信頼を得られる自分になっていく。信心を通して福徳を身につけて、初めて総てに打ち勝つことができるのです。

 【最高の仏道修行こそ折伏・育成である】
 ここで皆さんの肚にしっかり入れていただきたい事があります。
 御法主上人猊下の「血脈相承」とは日蓮大聖人の色心常住(大聖人の御心と御当体が永遠に常住され、未来永劫にわたって一切衆生を利益していく)の「秘術」であって、それは取りも直さず、日蓮大聖人の仏法の全部を意味します。

 これを学会員に言うと、この「秘術」を魔法とかオカルトと馬鹿にするのですが、今現在でも、もれなく創価学会員は大石寺の御法主上人がしたためられた御本尊様を拝んでいます。なぜ拝むかというと、その御本尊様が【日蓮が魂】であると信じているからです。
 御本尊は信じても、血脈相承は信じないという姿は、既に破綻しています。
 日蓮正宗の信仰をする者は、血脈相承された、時の猊下の御指南のままに信行に励むことが、御本仏大聖人様の御心に適う信心ということです。
 御指南を拝しても、自分中心に考えるために命に入っていかない、私には関係無い、私には無理という心根では、仏様の御心に沿った信心とは言えず、功徳もいただけないことは当然であります。
 『如説修行抄』には、
 「権実雑乱の時、法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ籠りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もっけ)にあらずや」(673頁)
とあります。
 御法主日如上人猊下は、この御文について、
 「これは厳しい御指南ですね。末法の折伏の時に、折伏を忘れて何か取り澄ましたような信心をしている者は、それは化け物であるとおっしゃっているのです。皆さん方も化け物などと言われないような信心をしなければだめですね。(中略)末法の時は折伏をしなければ功徳がないわけです。折伏をしなければ、 自らの過去遠々劫以来の罪障を消滅していけないのです。
 折伏をしなければ、他の人を教うこともできず、慈悲行、報恩行を果たすことができないのです。本当の仏道修行をすることができなくなってしまうということてあります。」(平成18年度 第4回法華講夏期講習会の砌)
と御指南されています。

 日如上人が常々仰せのように、自分だけのための信心修行でなく、世のため人の為に祈り、行動を起こすこと。具体的には他への折伏と講員への育成が大事な修行であると思います。
 また、根本的には自分の持っている貴重な時間を割いて仏道修行していくことこそ、命を仏に奉ることになると仰せです。
 
 自分の命を仏様に奉る修行こそ、三世常住の命として自分の命が活かされる、唯一にして最高の道であることを知っていただきたいと思います。

 皆さんもそれぞれ悩みや問題を抱えておられると思いますが、唱題を根本に、世のため人に為に祈り行動することこそ、全てを開き成就していく直道であります。
 まずは、講中一丸となって、本年の折伏誓願達成に向けて、心を一つに頑張って参りましょう。

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