ホーム 御住職の法話目次   御住職の法話 (第218号)  
 
  父母となり、其の子となるも、必ず宿習なり
 
親子の縁について

 
     
   相変わらず世の中は混沌としており、わずかなお金のために殺人事件が起こり、通り魔事件が横行しております。
 親殺し子殺しといった悲惨な事件も後を絶たず、科学が発達し、地球の裏側にいる人と顔を見ながら手軽に話が出来る時代にあっても、人心の荒廃した末法であることに変わりはありません。
 どんなに世界の平和を訴えようと、その最小単位である家庭が幸せでなければ成り立ちません。本日は、家族の縁について難しい部分もありますが、お話しさせていただきます。

 【三世の生命】
 まず、親子の縁を理解するためには、命は死ねば消えて無くなってしまう、死ねば終わりという一般的な思想から脱却しなければなりません。
 しかし、死後の生命は、霊魂とか幽霊となって消えることがないという考えとは全く異なります。
 最近、キリスト教の方や無神論者の方と話しをする機会がありましたが、「命は永遠に続くと言われても、証拠がない」「死んだら終わりだと思うが、人々が生活する上で悪いことをしないように、罰や功徳・過去世や来世が説かれているに過ぎない」と言います。
 生命の発生や進化の一々について分析や実験を行うのが科学です。クローン技術で羊を作ったり、遺伝子組み換えで野菜を作ろうとも、生命の本質までは科学でも解き明かせません。
 仏教では一切万物の生命は誰が作ったというものでもなく元々存在し、それが縁に触れて発現してくると説きます。この命が生ずる力の根本は何か?エネルギーの実態は何か?これを余すところ無く説かれたのが、法華経であります。
 そして、この法華経の実態・生命の全体究竟相を顕されたのが末法の御本仏、日蓮日蓮大聖人様なのです。

 【なぜ死があるのか】
 生も死も、永遠の生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎません。生命そのものは新たに生ずるものでもなければ消滅するものでもないので
す。これを「本有(ほんぬ)常住」といいます。
 「本有」とは、我らの生命は、神が作ったとか誰が作ったなどというものではなく、大宇宙と共に元から有るということ、また「常住」とは、一瞬の断絶もなく存在し続けているということです。
 この生命の本質について日蓮大聖人様は『総勘文抄』に生と死の二つの現象を、
 『生命そのものの新たな発生とか消滅と思うのは夢の理であり、妄想である。もし本有常住の覚を以て我が生命の本質を見れば、生ずべき始めも無いのであるから死すべき終りもない。まさに生死を離れた無始無終の存在なのである。』(御書1414頁 取意)
と、日蓮大聖人様は、大宇宙と共に常住する我々の生命の不可思議な本質を御指南下さっています。
 では、この本有常住の生命になぜ生死があるのかといえば、生死は生命が常住する上での妙理なのです。
 換言すれば、生命は一瞬たりとも静止しているものではなく、絶えず変化し、生死・生死を繰り返しながら常住しているのです。
 宇宙にある万物はみな因縁によって生じ、因縁によって滅しています。しかし形の上に生滅はあっても、その質量は不変であり、エネルギーは不滅であります。
 さらに大きく見れば、宇宙そのものも成・住・壊・空という生滅のリズムを繰り返しつつ存在しているのです。
『成(じょう)』生まれることに当たります。この世に生を受けることで、成長する過程も含みます。
『住(じゅう)』我々のように活動する状態です。
『壊(え )』死を意味します。死に至る病気の過程なども含まれると思います。
『空(くう)』死から生への間。中有とも言います。宇宙にとけ込んでいる間です。
 この過程を繰り返すものが生命と言われています。宇宙、星なども同様です。(成住壊空は本来、星の営みを説いた教えです)星で説明すると、
『成』宇宙空間にあるガスや塵が集まって塊となりやがて星となって輝き始めます。
『住』太陽となって周りの星や宇宙を照らし生命を育みます。
『壊』次第に寿命が尽き赤色歪星(せきしょくわいせい)等になってゆきついに大爆発して塵やガスになって宇宙に散らばります。
『空』塵やガスの状態でまた徐々に集まり始めて星になるまでの状態。  まさに太陽や地球も生命です。その上にはありとあらゆる生命が育まれるのです。
 人間の生命もまた然り、生死・生死を繰り返しながら、大宇宙と共に常住しているのが実相なのです。
 ゆえに日蓮大聖人様は『色心二法抄』にて、
 『我等がいとひ悲しめる生死は、法身常住の妙理にて有りけるなり。』(御書24頁)
と仰せです。ここにいう「法身」とは生命のことです。
 生死という現象は、生命そのものに具わる不可思議な作用であります。しかし、凡夫が「死は生滅、すべての終り」と思うのは、死によって生命が無相の状態になることを、即「無」と錯覚するところから起きるのです。
 しかし無相とは、姿・形はないがそのものは存在しているという状態です。たとえば空中に存在する紫外線・赤外線・電波などは、肉眼では姿・形をとらえることはできません。しかし、今やその存在を疑う者はいません。無相を「無い」と即断してはいけないのです。
 仏法では死後の生命を「中有」といいます。中有の生命は無相ですから見えません。
 涅槃経には、
 「中有の五陰(生命本源の五要素たる色・受・想・行・識)は肉眼の所見に非ず、天眼の所見なり」
と説いていますから、むしろ見えなくて当たり前なのです。
 この無相の生命が、父母を縁として肉体を形づくり相を現わすのが「生」であり、組織した色法(肉体)を大宇宙に還元して再び無相の心法に帰するのが「死」なのです。
このことを先ほどの『色心二法抄』には、
 『天地冥合して有情・非情の五色とあらはるる処を生と云い、五色の色還って本有無相の理に帰する処を死とは云うなり』(御書23頁)
と説かれています。
  「天地」とはここでは父母の意であります。
 ここまでで、生死という現象が、永遠の生命における有相から無相、無相から有相へという存在形態の変化に過ぎないことがわかると思います。
 それでも信じられない、納得がいかないという方もいるかも知れません。しかし、これが御本仏日蓮大聖人様の究極の教えであり、どんなにこの先、科学技術が発達しようと、所詮我々は凡夫ですから、仏の悟りを科学的に証明など出来ないのです。
 最後は、謙虚に素直に信じることによって、我々は仏力・法力を得られるのです。
 そして大事なことは、我々の生命はこの生死をくり返しながら、過去世・現世・未来世と、三世にわたって連続し、これに伴い幸・不幸の因果も鎖の輪のごとく三世につながっているということなのです。

 【生まれるということ】
 このような中有にある無相の生命が、生前の業力によって、生まれるべき父母を定めて胎内に宿ると、仏法では説きます。
 この母胎に入った極微の生命を「識(しき)」といいます。
 すなわち識とは、父母の精血・赤白の二滯(たい)(受精卵)に宿った心法です。
 『我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血・赤白二滯和合して一身と為る』(『始聞仏乗義』 御書1208頁)
と日蓮大聖人様は仰せです。
 さらに日寛上人は、中有の生命が母胎に宿る過程について『寿量品談義』にて、
「衆生、前生に善悪の業を作り已って死して中有にある時、其の業力に由り、能く生処の父母の交会を見て愛心を起こし胎内にやどる、これを識と云うなり。識と云うはこころ也」(『富士宗学要集』10巻240頁)と仰せであります。
 こう見て来れば、親と子の生命は本来別々のものであることが分かります。親が子を作るのでもなければ、子は親の延長でもないのです。
 それぞれ独自の生命が、宿縁によって親子となるのです。
ゆえに日蓮大聖人様は、
 『父母となり、其の子となるも、必ず宿習なり』(『寂日房御書』御書1393頁)
と仰せられるのです。
 したがって邪見の親を持つのも、あるいは我が子に苦しめられるのも、お互いに親となり子となる宿習によるのです。
 ゆえにもし親が信心して自分の宿習を変えれば子が変化し、また子が信心して境界を変えれば親も変わってくるのです。
 また、遺伝ということを仏法ではどう見るかという問題について、少々申し上げたいと思います。
 親の形質は遺伝子によって親から子、子から孫へと引き継がれます。この限りにおいては子は親の延長のように見えますが、仏法はさらに深く親子の関係を見つめます。
 すなわち遺伝子により、子供が親の形質を受け継ぐことは事実ですが、そのような遺伝子を持つ親のところに生ずるということ自体が、過去世の業力による宿習なのです。
 あくまでも親子の生命は別々であって、親は縁にすぎません。ゆえに同じ親から生れた兄弟でも、性格・果報はそれぞれ異なるのです。
 これは、縁は同一でも、過去世からのそれぞれの生命が異なるからにほかならないのです。
 また、血のつながらない親子というのは、世の中にたくさんおりますが、これもまた、過去世からの宿縁によって家族となるのです。

 【親子の縁】
 法華経『妙荘厳王本事品第二十七』には、浄蔵・浄眼と浄徳夫人の母子の話しが説かれています。
 簡単に説明しますと、太古の昔、4人の修行者がいました。1人は3人が修行に専念できるように托鉢し、食事の世話をしました。3人は無事に悟りを開けたのですが、托鉢した1人は悟りを開く前に亡くなりました。
 しかし、修行者を支えた功徳によって王として生まれ続ける事が出来ました。ところが、自分の過去世については何も知らず功徳を積むこともしなかったので、その寿命をまっとうした後には、悪道が待ち受けていたのです。
 その修行者が最後に国王となって生まれた時の名前が妙荘厳王、お妃の名前が淨徳夫人。また二人の王子に恵まれ、その名を淨蔵・淨眼と言いました。
 バラモンの教えに執着する王を、妃と二人の息子は仏道へ導くことが出来ました。
 実はこの淨徳夫人と二人の王子こそ、妙荘厳王の過去世において共に修行を積み、先に悟りを開くことのできた三人の修行者だった。という話しです。
 このように、仏教の教えに照らしてみるならば、今の自分の生命は、自然に生まれた訳ではなく、また人は何か他の存在によって作られるのでもなく、遠い過去から何度も何度も生まれ変わっては作ってきた因縁によるのです。
 また、それぞれの父と母も両親を持ち、その両親にも両親がいます。これら過去の全ての父母の心や行いが伝えられて、縁となり、業となり、今の自分の中で生きているのです。ここに自分と先祖とのつながりがあります。
 日蓮大聖人様は『忘持経事』に、
 『我が頭は父母の頭 我が足は父母の足 我が十指は父母の十指 我が口は父母の口なり。譬えば種子(たね)と菓子(このみ)と身と影との如し。』(御書958頁)
と仰せられている如くであります。

 【悪因に善縁無し】
 立正安国論 (新編御書二四九頁)の九番目の問答で、日蓮大聖人様は仁王経を引用され、謗法による報いを教えて下さっています。
 『仁王経の嘱累品にはつぎのように説かれています。仏教を破壊した人には親孝行な子どもは生まれない。また、親子、兄弟(姉妹)、夫婦の六種の親族と仲違いし、諸天の助けを受けることも出来ない。常に病魔に襲われ、どこに行っても災害に見舞われる。死んでからは地獄界・餓鬼界・畜生界の三悪道に生まれるであろう。』と仰せです。
 「六親不和」とは、親子の不仲、兄弟(姉妹)の不仲、夫婦の不仲のことです。これも過去世に仏法を破壊した罪であると仰せです。
 大昔から今に至るまで、親子、兄弟、夫婦間の不幸な事件が無くなることはありません。
 ここで示される六親に限らず、人界の衆生の宿命のように思われている不仲の原因は、結局のことろ過去世の謗法罪にある、と仏様は教えて下さっています。
 であるならば、人界に生を受けた私たちは、過去世の謗法による罪障を消滅することにより、平和で安穏な生活を営むことが叶うという、ごく当たり前の事に気付くはずです。
 日蓮大聖人様の弟子檀那ならば、親子や兄弟や夫婦の不仲を、「考え方の違い」とか、「性格の不一致」などといって、諦(あきらめ)てはいけません。それは現実から逃げている事になります。そのような姿勢では過去世の謗法罪障消滅をすることは決して出来ません。
 戦争という国家間の争いも、六親不和という個々の争いも、全ては衆生一人ひとりの過去世の謗法罪に因っているのですから、素直に信心に励むことにより罪障消滅が叶い、争いのない平和な国土にすることが出来るのです。

 【祈りは時空を超える】
 縁と言う働きは、過去から現在の自分へというような、一方的なものではなく、縁によって、私達の今の全ての振舞いが、遠い過去の父や母に影響を及ぼしているのであります。
 日蓮大聖人様は『盂蘭盆御書』に、
 『目蓮尊者が法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ。』 (御書1377頁)
と仰せられ、まず自分自身が御本尊様を受持して、境智冥合して成仏する事が大切で、その功徳は過去七代、未来七代までつながる自分との縁有る人々全てに及ぶと説かれています。
 御法主日如上人猊下は、
 『塔婆供養、すなわち追善供養ということがありますが、これは亡くなった方へ回向(えこう)することであります。今は亡き方々に、次元が異なっていても追善供養はできるのです。ですから、親の思い、親の愛情というものは時空を越えていくのです。時間だけでなく、時空を超えて届くのです。ですから、あなた方がお子の成長をしっかりと願ってまず御自身が成長していただきたい。(中略)我が子を本当に育てていこうと思うならば、自分自身が仏道修行に励む。そして思いを込めて我が子の成長を祈っていくということが大事ではないかと思います。』
(大日蓮 平成20年5月号 59頁)と御指南下さっています。
 仏法僧の三宝に対する信仰心や父母の恩を失わない子どもならば、深い因縁に結ばれた親子、家族の間柄を忘れて、簡単に親や年寄りを見捨てる事など起こり得ません。
 親子の深いつながりの上において親が子に信心を伝え、法統相続をきちんとしていく事がひいては親自身を守る事でもあり、更に広宣流布への大切な役目を果たしていく事にもなるのです。
 故に法統相続をきちんとしていく事は、過去の先祖はもとより、自分をふくめて家族みんなの将来の幸せの為なのだという事を肝に銘じて取り組んでいきましょう。     
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