ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第217号)  
   
 
    【喜び身に余るが故に()(がた)くして自讃するなり
 
    折伏は悪口にあらず  
 
 皆様は、本当の幸せを得るためには、正しい信心をするということが、何よりも大事であることは充分理解されていると思います。
 けれども、世間一般の人々はとのような宗教を信じていても、それが、数ヶ月前に報道された『不登校の女の子に除霊のためだとイスに縛り付け、水をかけて窒息死させた』ような、よほど特異な宗教でない限り、あまり気にすることもなく日々を送っているのです。
 そして、その教えが正しい教えなのか、誤った教えであるかということも全く分からないのです。
 また、一方では、信心の志があってもなくても、そんなことは、人間が生きていくこととは全然関係がないと考えて、宗教というものを、非常に軽んじている人も多いのです。
 それが、今の世の中の実際の姿なのです。
 けれども、実際問題として、正しい信心を持つか持たないかということは、その人の一生を変えてしまうばかりでなく、その人の家族や、親族の一生をも左右する、大変重要な問題なのです。
 つまり、その人の持つ信仰の有様が、法界の厳しい因果の理法の下に、自身の三世の命はもとより、子々孫々に至るまで一族全員に対し、強い影響を及ぼすことになるのです。
 そのようなことからも、絶対に、宗教を軽々しく考えて、(あなど)ったりしてはならないと思うのです。

 【折伏は自讃毀他(じさんきた)に非ず】
 皆さんも、日頃から御法主日如上人の御指南を拝し、それぞれが折伏を心がけ、日蓮正宗の信仰の話を縁のある方にお話しされていることと存じます。
 その際、キリスト教をはじめ念仏宗や禅宗や真言宗の教えは間違っているから幸せになれない。大聖人様の正法でなければ救われないということを確信を持ってお話しされている事と思います。
 しかし、世間の人は日蓮正宗のように諸宗を比較して、勝劣や浅深や正邪という事を、そんなに簡単に言い切っていいものなのかということを言う人もあります。
 あるいは、日蓮正宗もいいかもしれないけれども、他の宗教を間違っている、悪法である、邪法である、そう言うことが気に入らないというような人もあります。
 こういう意見はまだマシな方で、独善的・カルト・洗脳されていると決めつけ、おかしな創価学会を生み出し、さらにそこと二十年以上も争っている排他的(はいたてき)な宗教と非難攻撃されることもあります。 
 どんな教えであっても、それぞれの宗旨・宗教の人が手をつなぎ合って、世界の平和を祈り、人々の幸福を願い、宗教同士が争うこともなく、お互いに避難することもなく、和合して団結していけばそれが一番良いのではないかというふうに考える人もあります。
 自らの宗旨を賛嘆(さんたん)することは、どの宗旨でも言います。しかし、大乗の戒律の自讃毀他(じさんきた)(自分を誉めて人を悪く言う)の戒に当たる。そういう戒法を犯すことになるというようなことを考える人もいます。

 【折伏は慈悲行なり】
 しかし、本当の仏法の本義を極める上からいきますと、そう言う考え方は全く凡夫の浅知恵であります。釈尊の教導も、御本仏大聖人様の御化導も、決してそういう曖昧(あいまい)な、いい加減な教導ではないのです。
 事実、大聖人様も、この法を打ち立てて、実際に法をもって一切衆生を救済していくためには、そのことを()えて言い切っていかなければならない。そうすることによって大変な法難もある。誤解も受ける。誹謗中傷も受けるさまざまなことを大聖人様もお考えあそばされまして、言うべきか、言わざるべきかということを自問自答されております。
 そのような大聖人様自らがお心のうちを述懐(じゅっかい)あそばされお言葉は『開目抄』や『撰時抄』や『報恩抄』等々のお書き物の中にも拝見することができます。
 例えば『開目抄』には、
 「これを一言も申し出だすならば父母・兄弟・師匠に国王の王難必ず来たるべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟(しい)するに、法華講・涅槃経等に此の二辺を合はせ見るに、いわずば今生は事なくとも、後生は必ず無間地獄に堕つべし。いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしとしりぬ。二辺の中にはいうべし」(平成新編御書五三八)
と、大聖人様は決意の一端を示されておられます。
 そうした中で、大聖人様の御指南から申し上げますと、正しい文証がしっかりとあって、その釈尊の教導の中にも、法華経に爾前権教(にぜんごんきょう)の一切を捨てて、正しい正法に、真実の教法につくことが大事であると説かれているのです。
 その文証に基づいて、はっきりと正邪の分別を立てるということは、当然のことであります。 
 それこそ、仏の本意に叶うことでありまして、また自らの宗旨だけを讃歎して他の宗教を一方的に根拠もなく誹謗するとか、口汚く罵るとかいうことではないのであります。
 また、相手の人格を誹謗したり、その人の立場を否定したり、その人の人間性を云々することでは決して無いのであります。
 ですから私たちも、その人に話をする、教え諭すという意味でも、法華経の教えはこうです、大聖人様の御指南はこうですよ、これが本当の仏の教えですよ、ということをお話しすることが大事なのです。

 【他宗破折の裏付け】
 そうした裏付けをもって、大聖人様の教えに基づいて話をする。大聖人様の教えに基づいて、相手の宗旨の誤りをしっかりと教えて、大聖人様の第一義の真実の門に導くことが大事であると思うのです。
 その文証、裏付けが仏の本意に叶っていれば、決してそれは自讃毀他(じさんきた)ではないという確信先ず持っていただきたいと思うのであります。
 大聖人様は『撰時抄』に、
 「されば現に(すぐ)れたるを(すぐ)れたりという事は慢ににて大功徳となりけるか」(新編平成御書八六九)
ということをおっしゃっておられます。
 残念ながら今の社会には宗教の正邪判別法などは存在しませんし、人々は無関心でいます。しかし、日蓮正宗で他宗を『邪宗教』というからにはこの宗派にしかない判別法があるのです。
 世に存在する数多(あまた)の教えには、高低・浅深があります。この高低・浅深を(わきま)えなくては、正しい教えを選ぶことはできません。
 どういう教えであれ、良いことも説いている。最終的には行き着くところは同じだからどんな教えでもいいというのは大間違いなのです。
 これを明確に判明することを「教を知る」といいます。教を知るための日蓮大聖人様の体系的法門としては、五重相対、五重三段、三重秘伝、四重興廃(しじゅうこうはい)等々が挙げられますが、これらは、いわば宗教批判の原理ともいうべき法門であります。
 時間の都合上割愛いたしますが、いつでもお聞き戴ければお話しいたしますし、勉強会を開いてもいいと思っています。
  極々簡単に述べますと、世の中には、架空の仏や菩薩や神を信仰するものが殆どです。
 例えば、大日如来は釈尊の説いた架空の仏であります。ですから、出身や父母も明かされず、どんな修行をして仏に成ったのかも説かれません。
 大日如来を拝む行為は、あたかも仏壇にウルトラマンや仮面ライダーの人形を置き、「助けて下さい」と手を合わせることと同じです。
 しかも、おもちゃの人形でしたら無害ですが、架空の仏や菩薩や神は人々の心を惑わし結果的に正しい法から遠のかせるので害があるのです。
 あとは狐(稲荷)やワニ(金比羅)などの畜生を拝んだり、歴史的偉人を祀る例(東照宮・太宰府など)もあります。
 これにも、当然なんの功徳もありません。しかも、拝む対象と感応(かんのう)してしまいますから、畜生を拝めば畜生の命に、苦しんで死んだ人を拝めば、自身の命もそうなってしまうのです。
 また、神がかり的になり自らを絶対的存在と言い出す新興宗教の教祖などもいます。
 しかし、物事には、必ず原因があって結果があります。偶然はあり得ません。仏になった、悟ったと云うからには、何をどのように修行したか明らかにしなければなりません。この因果の道理を無視した教えが世の中に氾濫(はんらん)しているのです。
 さらに、ただの人間が、未来を予測し、見えもしない霊を見えると言い、やみくもに恐怖心を植え付け、商売しているインチキ宗教が蔓延(まんえん)しているのが現状です。いくら修行をしようと、人間は人間です、仏ではありません。過去、未来から亡霊まで何でも見えるという似非宗教家(えせしゅうきょうか)にはろくな人がいません。
 日蓮正宗は、むやみに他宗を攻撃しているわけではなく、道理に基づいて間違いを指摘しているのです。
 また、三証といって、道理・文証・現証(功徳)がしっかりしていることも重要視されます。
 本物の教えには、本物の功徳が厳然とあることを知って戴きたいと思います。ただし、奇跡と仏の功徳は違います。
 日蓮大聖人様は、困難を、現在から未来にへかけての人生を、(たくま)しく積極的に生きていくよう説かれています。
 その時に、大切なことは、問題の責任を神や仏、あるいは親や社会に転嫁している間は全く解決しません。題目を唱えながら、この結果もたらした原因を、過去世の自分の生命が犯した罪業に見いだす、つまり、自己の生命の問題として捉えきれたとき、はじめて解決への方途(ほうと)が開かれてくるのです。
 例えば、重い病気に(かか)った時に、その人の境界によって、どのようにして病と立ち向かい、それをどう克服していくかという姿の上にも、はっきりと現れてくるのです。
 また、大地震や天災等の天変地妖による大災害による場合にも、その被害の状況は、正しい信心を貫いた者と、そうでない者とでは大きく異なるのでありまして、それが果報(かほう)の違いとなって現れ、正法を行ずる者は、その福徳として大苦を(まぬが)れ、守られることになるのです。
 このようなことは、先の震災での先の震災での多くの御信徒の体験の中にも、如実に現れているところです。大百法にも何人かの壮絶なる体験が掲載されましたから、世間の人にも、皆さんがそのことを良く教えてあげて戴きたいと思います。
  実際に妙法蓮華経が閻浮(えんぶ)第一の正法として最も勝れているのです。
 それは大聖人様のお悟り・御修行・御化導のうえから、現実にその道理・文証・現証のうえから、大聖人様のの教法を(しの)ぐものは、この法界には断じて一つとしてないことは、この大聖人の御出現以来、七百五十年の今日において、きちんとそれは確立されています。
 したがって、その勝れていることを勝れているということは、それは決して自讃毀他(じさんきた)ではなくて、どこまでも正法を語り、正法を讃歎(さんたん)し、正法を弘め、そして世の中の人びとの迷妄(めいもう)を打ち破っていくことは、むしろその振る舞いこそ仏の振る舞いそのものであり、仏の教導に全く叶った真実の仏道修行であり、そこが大功徳の源泉であると、大聖人様がお示しになっていらっしゃいます。
 皆様には、正しい信心を貫く者とそうでない者との違いが、厳然としてあるということを確信していただきたいのです。
 
 【折伏はほとばしる歓喜より生ずる】
 大聖人様は『法華取要抄』に、
 「喜び身に余るが故に()(がた)くして自讃するなり」(平成新編御書七三四)
とも仰せになっていらっしゃいます。
 私たちも、大聖人様の教法に巡り会ったということ、これを生涯の第一の喜び、誇りとして、功徳をいただいたその喜び身に余るがゆえに、押さえきれずに、人に語り、人に教え、この妙法の讃歎弘通に勤めることが大切だという御指南と拝さなければならないと思います。
 また大聖人様は『呵責謗法抄』という御書には、
 「我と是を云はゞ自讃に似たり、云わずば仏語を空しくなす過あり。身を軽んじて法を重んずるは賢人にて候なれば申す」(平成新編御書七一五)
というふうに言われております。
 大聖人様御自ら御自身を指して、末法御出現の上行の再誕であり、不軽菩薩の妙法弘通の振る舞いのごとく折伏を行ぜられる法華経の行者でもあるとお説きになっておられるのです。
 これは決して自讃でも何でもありません。身軽法重、死身弘法の精神からみても、この妙法弘通こそ、仏の道、真の賢人の道であり、日蓮が弟子檀那としての信心の道であるということをお示しになっていらっしゃるのです。
 したがって、私達は文証が明らかであり、また道理のうえに第一の正法であり、現証のうえにおいて最も勝れた教法であり、そしてまた実際に我が身のうえにいただける以上、また、いただいた以上、大きな誇りと確信をもって、死身具法の精神のうえからも,やはり堂々と折伏を行じて行くということが大切であります。

 御法主日如上人は以下の御指南をされています。

 
『自分自身を取り巻く人々のなかには、学校や職場での仲間や先輩・後輩、なかでも親友と言われる人、様々な恩恵を受けた人、お世話になった人、苦楽を共にして歩んできた人、身近なところでは両親・兄弟・子供、親類縁者、色々な人がいると思いますが、そのなかで未入信の人がいたら、そして、その人の真の幸せを願うならば、何を差し置いても折伏すべきであります。もし、家族のなかで未入信の人がいければ御授戒を受けさせ、一家和楽の信心に住すべきであります。相手との人間関係がこわれることを恐れて折伏もせず、表面のみ親しくするのは、まさに「慈無くして詐り親しむ」、慈悲の心もなく詐り親しむ偽善的行為であり「彼が怨」であります。
 この失を(のが)れるためには、不幸と混乱と苦悩の原因がすべて邪義邪宗の害毒にあり、謗法を捨てて正法に帰することが幸せになるための最善の方途であることをはっきりと伝え、(ちゅう)(ちょ)せず折伏を実践すべきであります。(平成二十二年八月 広布唱題会の砌)

 自分に縁ある人には躊躇(ちゅうちょ)せずに、大聖人様の教えを通して正しく教法を説き聞かせ、人びとの迷妄を打ち破っていくことが大切だと思います。
 どうか、そうした意味で、日蓮正宗慈本寺の法華講員としての大きな強い弘通のの志と確信のうえに、大聖人様・日如上人の御指南のままに、全員が折伏に精進され、本物の信心の功徳と歓喜を受け切っていただきたいということを申し上げまして、本日のお話しとさせていただきます。
 大変、御苦労様でございました。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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