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    【法華経の功力を思ひやり候へば不老不死・目前にあり
 
    老いるということ  
 
 本日は、老いるということについて皆さんと考えてみたいと思います。
 私達が生きていく上で、老いる・老化という事は避けて通れない道であります。時間の流れは残酷で、日々、自分の身体は着実に老いて行きます。
 気持ちばかりは若くとも、10年前の写真・20年前の写真と見比べますと変化は如実に感じられるものであります。
 私なども、テレビを見ていて「この女優さん若い頃は綺麗だったのに随分老けちゃったなー」と思わず口にしてしまう事がありますが、同じように自分も年齢を重ねていることには深く思いが至らないものです。
 ここにいらっしゃる誰でもそうだと思いますが「幸せになりたい、何とか自分の願いを成就したい」という何らかの発心の志があって、そしてこの日蓮正宗に帰依され、御本尊様をお受けになり、勤行・唱題を貫き、折伏を全うして、信心の境界を一歩一歩、前進させて来られたことと思います。
 しかしながら、人間は老いるということを含め、この四苦・八苦というものはどなたも逃れることは出来ません。
 生きている以上、私達の悩みや苦しみは尽きません。今はどんなに若さを誇っておりましても、日々老いというものがやって参りますし、病に倒れる日もあるということは、厳然たる事実であります。

 【老化現象】
 老化現象の一例をあげますと、耳が遠くなる・視力の低下・記憶力の減退・精力減退・疲労回復が遅い・不眠・骨粗しょう症・関節痛や腰痛などが挙げられ、見た目も髪の毛が薄くなり・シワも増え歯も弱くなって来ます。いろんなところが弛んでしまい、油断するといろんなものが漏れるようになり、涙もろくなります。
 日本は医学の進歩のおかげで、平均寿命が八十歳を超えるまでになりましたが、長生きする分、様々な病気にもなりやすくなり、なかなか安穏と逝けなくなりました。
 これは、飼い犬や猫などのペットにも言えることで、来院する犬の平均寿命(死亡年齢)などの統計を1980年から取っている病院のデータによれば、 犬の平均寿命はこの30年くらいで確実に延びてきているとされています。
 1980年のデータでは平均3.7歳だったようですが、2008年には14.3歳になり、これらからも見ても飛躍的に延びています。
 寿命が延びた理由としては、「ワクチンの普及による感染症の減少」「診断技術や治療方法の向上」「避妊・去勢手術の普及」「ドッグフードの普及による栄養状態の安定」「室内飼育の普及としつけの向上」など、飼い主さんの意識の向上と獣医療の向上が挙げられます。
 しかし、長生きする分、高齢犬に失明や難聴・呆けといった症状も見られるようになりました。今は、こういう高齢犬のホスピス(終末医療)や老犬ホームまであるようですが、老化という自然の摂理にはどんな生き物も逆らえないということです。

 【老いのとらえ方】
 古来より老化に恐怖心すら抱き、右往左往する権力者は大勢おりました。
御書に、「不老不死」の薬を求めた、中国・前漢(ぜんかん)の武帝(ぶてい)に仕えた東方朔(とうほうさく)という人物の名が出てきます(417頁)。
 同じく御書に「蓬莱山(ほうらいさん)」(1502頁)と出てくるのも、「不老不死」の秘薬があるとされた伝説上の霊山(れいざん)です。
 その蓬莱山に多くの宝玉(ほうぎょく)があるように、法華経の行者のいる場所にこそ、無量無辺の功徳が集まると説かれています。
 「老醜(ろうしゅう)」「老害」という言葉があるように、一般的には、「老い」に対してマイナスイメージが根強くあります。
 最近は化粧品のコマーシャル等で、「アンチエイジング」という言葉を耳にする機会が増えました。英語で言われると何となく格好良く聴こえてきますが、日本語で言えば「抗老化(こうろうか)」「抗加齢(こうかれい)」という意味です。
 化粧品の値段を理解出来ない私のような男性からすると、信じられない値段で、基礎化粧品というものが普通に販売されています。
 女性がこの「アンチエイジング」の為に、日々涙ぐましい努力をすることを私は否定をしませんし、努力が報われる部分もあるでしょう。
 しかし、今が幸せ、今の自分が好きと言えてこそ、この信心修行をしている価値があると思います。
 「老い」の意義を考えた場合、それは、若い頃を思い出し感傷にひたる時期などではありません。最も生の充実を図るべき、人生の総仕上げの時ではないでしょうか。
 「老い」は必ず「死」に至るゆえに、人は「老い」を忌み嫌います。
 よく「私は宗教に興味はない、無神論者だ。死んだら終わりでそれまでである。今からそんな事を考えて暗い気持ちになりたくない。」と言う人がいますが、老いて死んでいくことは、現実に自分が体験することなのに、それを考えることから逃げているようにしか思えません。

 【棄老国(きろうこく)】
 現代の日本は、超高齢化社会に突入してきました。今の人が老いを忌み嫌う理由として、年金・医療・福祉といった 社会保障制度や老老介護が問題になるなど「高齢社会」への不安も、反映されていると思います。
 これは何も現代に始まった訳でなく、若者は老人を役に立たない邪魔になるとし、老人は子や孫に迷惑をかけるという双方の考えから、姥捨(うばすて)てという伝説が古来より残っています。
 御書には口減らしのために老人を捨てていた「棄老国(きろうこく)」という伝説上の国も出ています。(903頁)
 仏典によると、この国が悪習慣を廃止するようになったのは、一人の老父(ろうふ)の知恵がきっかけだったというのです。
 実は、その国のある大臣が、どうしても老父を捨てることなどできず、国法に反して、こっそり養っていました。ところがここに一大事が起きました。 それは、神が現われて、王に向かって「大きな象の重さはどうやって量るか。」などと難問を次々投げつけ、答えられなければ国を滅ぼすというのです。
 その時、大臣は身を隠していた老父の知恵を借りて、国難を救っていくのです。そこで、国王も、それまでの国法を廃し、老人を大切にするようになったといいます。
 皆さんも聞いたことがあると思いますが、日本にも、姥捨(うばすて)て伝説はあります。
 少々調べますと、姥捨(うばすて)山は長野県の冠着山(かむりきさん)を指し、明治のはじめまでは姥捨(うばすて)山と普通に呼ばれていましたが、当時の村長さんの国土地理院への働きかけにより、名前を改めたそうです。
 この「姨捨(うばすて)」の名は、姨を山に捨てた男性が名月を見て後悔に耐えられず、翌日連れ帰ったという説話(『大和物語』など)によるともされます。
 日本各地には様々な棄老(きろう)の風習が民話や伝説の形で残っており、『今昔物語集』にも棄老にまつわる話があります。
 日本では、昔からこの手の話しが本や芝居として語り継がれ、映画にもなっています。
 7世紀に始まる日本の古代法制度下では20歳以下の若年者、60歳以上の老齢者や障害者には税の軽減などで保護がされており、法制にも棄老はありません。このため、村落という狭い共同体における掟(おきて)であったのか歴史研究家によって見解が分かれています。
 功労ある年配者を大切にしていくことは、永遠の繁栄への道です。
 大聖人様は、「日女御前御返事」で次のように仰せです。
「周の文王は老たる者をやしなひていくさ(戦)に勝ち、其の末・三十七代・八百年の間すゑずゑ(末々)は・ひが事ありしかども根本の功によりてさか(栄)へさせ給ふ」(1250頁)
 すなわち、周の文王は、老いた者を大切に養って戦いに勝ち、その子孫は37代800年の間、末裔(まつえい)に至って、心得違いの悪政の時代もあったが、根本である文王の功によって長く栄えることができたのである。
 国であれ、組織であれ、長きにわたる繁栄を決定づけるものは、大聖人様が「老たる者をやしなひて」と仰せのように、高齢の先駆者を大切に養うことにあると言えます。
 こうした日陰の人をはじめ、目立たぬ立場の人々に敬意を持って大切にするからこそ、民は喜び、国は栄えるのです。これは我が講中においても同様であります。
 大聖人様の教えに、四恩報恩というものがありますが、三宝の恩は当然として、父母の恩を報じることは、修行の初歩の初歩として説かれます。
 日本は豊かになり、医学も進歩し長寿社会とはなったものの、少子化も進み介護等の負担は今後ますます増えるでしょう。
 だからこそ、今、先人への感謝の心を持ち、報恩していかなければならないのです。報恩の心を失えば、三毒が充満し人間関係は急速に悪化していきます。
 子供は大人を敬い、大人は子供を慈しむというあり方を軽視することは、人間の尊厳を踏みにじることに等しいとも言えます。
 世代間の壁を乗り越えて、柔軟な姿勢で互いに学び合い、啓発し合うことは非常に大切です。

 【大聖人様が仰せの不老不死とは】
 大聖人様は「如説修行抄」にて 、
 『法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代は羲農(ぎのう)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。』(670頁)
と、広宣流布した世の中はどんな世界なのかを示されておられます。
 全ての人々が大御本尊の信仰に励み、一切の人々が声を揃えて異体同心の心で南無妙法蓮華経と唱えるならば、枝を折るような強が吹くこともなく、地面に穴をあけるような強い雨が降ることもなくなる。
 私たちの住む国土は、古代中国に出現したという、伏義(ふぎ)や神農(しんのう)が帝王として世を治めた時と同じように、争いや自然災害のない平和で穏(おだ)やかなものとなるであろう。
 また、今生では天変地夭(てんぺんちよう)や病などで命を落とすこともなく、長寿を得ることが叶う。三世の生命を説き明かした法華経を信じ、一切の人々が三世の生命を覚知したときに、この世の中が平和で安穏になり、来世は善きところに生まれ変わることが出来ると、法華経の薬草喩品のなかで仏が仰せられているような社会が出現する。このことを疑ってはならないと仰せなのです。
 世法では、「不老不死」を「老いもせず、死ぬこともない」という意味で使用しています。仏法では、法華経薬王菩薩本事品第二十三に「若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」と説かれているように、ここで説かれる「病」とは、病気も含めて人々の生命に巣くう三毒(貪・瞋・癡)の煩悩を指します。すなわち、一切の煩悩・苦しみや迷いを、菩提(悟りの智慧・境界)へと転換しゆく妙法の大功力を説かれた経文です。
 日寛上人は、不老不死について、「常に此に在って滅せず」「常に此に住して法を説く」と述べられております。
 法華経寿量品で、仏様が常にこの娑婆世界において法を説き衆生を導かれていることは、仏様の不滅・常住を明らかにされているのであるから、不老不死に相当するとされるのです。また衆生も仏と同じく常住の生命であると説かれています。
 つまり、お経文で説かれる不老不死は、現世での命を永遠に持続する、という意味に捉えるのではなく、過去・現在・未来の三世に亘(わた)る生命観の上から見たものなのです。
 当抄は、日蓮大聖人様の仰せのままに、御本尊様を固く信じ南無妙法蓮華経と唱へ、他にも勧める修行に励み、広宣流布の時を待つ信心に、現世安穏・後生善処の命を開いて行くことが叶えられると教えて下さっている御文です。

 【むやみに死を恐れる必要はない】
 作家、キリスト教徒だった遠藤周作氏が書いた『死について考える』という本の中に、
 『キリスト教の場合は、キリスト自身が十字架の上で、槍で突かれて苦しんで、最後まで苦しみながら、一見絶望的にきこえる言葉まで口にされました。神よ我を見捨て給うやなどと。しかし、これは詩編のなかの祈りの言葉で神を呪う言葉ではないのですが、それを認めない解釈もあります。非常に苦しんだ死に方です。しかも、その死に方を聖書は肯定しているわけです。そのうえ、キリスト教徒は、イエスの死に自分の苦しみを重ねて考えるようになっていますから、そこのところが仏教徒とは違うわけです。』(40頁)
と述べています。
 そして、椎名麟三氏が洗礼を受けた後、
 『「遠藤さん、ぼくは洗礼をうけたから、これでじたばたして、虚空を掴んで、死にたくない死にたくないと叫んで死ねるようになったよ。」と言ったんです。私には椎名さんの言うことはとてもよくわかる。自分の醜いことをどんなにさらけ出しても、神さまにはたいしたことではないということです。』(32頁)とも述べています。
 私は、読んでいて非常に衝撃を受け、同事に悲しくなりました。遠藤氏は、ホスピスの普及など様々なボランティア活動に従事されていたようですが、死についての考えはとても暗いものでした。これがキリスト教徒の実態です。
 幕府が国家権力を持ってしても殺せなかった御本仏大聖人様とは大違いですし、その頸の座に上られたときでさえ、大聖人様は、
 『日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし』 (種々御振舞御書 御書一〇六〇頁)
と仰せになられました。
 そして御入滅の際には諸天も寿ぎ、大地が振動し季節外れの桜が咲いたのです。
 また、臨終正念ということを仰せになり、何に生きて死んでいくかと言うことを常に御指南されていました。
 『崇峻天皇御書』に
 『人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも 名をあげん事こそ大切なれ』(1173頁)
と仰せです。
 また『御義口伝』に、
 「十界の衆生の心性は所持の経の体なり」(1810頁)
と仰せです。
 自分の地位だとか、財産だとか、肩書きをはぎ取って、本当の一個の生命としての価値を考えたときには、その人がいかなる求道心を持つか、信心を根本にどう生きるかによって、その人の心・命・仕事・人生・縁者が決ってしまうということを言われておられるのであります。
 ですから私達は幸いにして、大聖人様の法界第一の信心のもとに、それを土台にして自分の人生を、自分の仕事を、自分の命を、本当に輝かしい尊いものにしょうとしているのだという、そうした意義をしっかりと心に置いて、生涯を通じて大聖人様の弟子としての信心を全うしていって頂きたいと思います。
 世間の人々の考えに基づけば、日蓮大聖人様の教えが本当に一閻浮提第一の正法ならば、もっと早く世間の人々に受け入れられ、理解されるはずではないのか。本当に立派な教えならば、勤行や唱題をしなくとも、御本尊を御安置してあるだけで、眠っていても、怠けていても、どんどんと功徳が顕れ、世の中の不幸がなくなるのではないかと考えます。
 しかし、よく考えてみてください。日蓮大聖人様の教えは、そんな因果の道理を無視した夢物語を信じ、怠け者を作るのが目的ではありません。一人ひとりの人間の発心によって人格を改革向上させ、いかなる障魔にも動じない不退転の広布の人材を育成し、社会を変革し、国土を浄化して、一切の人々を幸せにしていくのが私たちの信仰の目的であります。
 「不老不死」といっても、先程から述べているように、もちろん、「年を取らない」とか「死なない」ということではありません。それは「境涯」のことであり、「生命力」のことです。
 大聖人様は『経王殿御返事』に
 『法華経の功力(くりき)を思ひやり候へば不老不死・目前(もくぜん)にあり』(686頁)
と仰せです。
 つまり、妙法を信受していくならば、いかなる病にも負けず、年を取っても若々しい生命力で前進し、三世永遠にわたって崩れることのない幸福境涯を築き上げることができるとの御約束です。
 よく法華美人と言われますが、確かに我が講中においても、実年齢よりも若々しく生命力に溢れ、素敵な笑顔で参詣されていらっしゃる方が大勢おります。
 また、長年の信仰で培われた確信と経験は講中の宝であります。どうか後生に憂いが無きよう、法統相続を真剣に祈り行動して下さい。
 最後に、基礎化粧品やサプリメントも大事ですが、「アンチエイジング」の一番の特効薬はお題目であるということを申し述べまして。本日のお話しと致します。ご苦労様でした。 


        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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