ホーム > 御住職の法話目次   御住職の法話 (第215号) 


  【このほうもんは、しでしをたゞしてほとけになり候】
 師弟相対と異体同心の大事

 
     
 

 本年も、残すところあと三ヶ月少々というところまで来ました。日如上人が常々仰せの誓願目標達成も手の届きそうなところまで来ており、何とか今年こそは誓願目標達成出来るよう、唱題を根本とし、心ある方々と励んでいるところであります。   
 しかし、残念なことではありますが、講中一丸となって取り組んでいるとは言えないのが現状です。
 日々の唱題会に参加される方も殆ど同じ顔ぶれであるのが現状で、不協和音も聴こえて来ています。
 御法主日如上人猊下は、
 『末法の題目は自行化他にわたるもので、自らも救い、他をも救わんとするものであります。
 つまり、自行の題目とは唱題行であり、化他の題目とは折伏行であります。唱題と折伏は一体のものであり、信心を根本とした唱題こそが折伏の源泉となるのであります。その故に日寛上人は「観心本尊抄文段」に、
「自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり」(御書文段219)
と、唱題行の功徳が満ちるところに、必ず折伏の実践が伴うことを御指南あそばされています。』(平成22年1月度 広布唱題会の砌)
と御指南されており、師弟相対(していそうたい)の唱題・異体同心(いたいどうしん)の唱題の無いところに、信心の功徳もありませんので、歓喜も湧き上がりません。よって、講中は低迷し、悪知識によって僧俗和合も破壊されていくのであります。
 本日は、更寿会というお祝いの前ではありますが、少々厳しい事を言わせていただきます。
 これは、皆さんに日如上人が仰せのままに、本物の信心をして頂いて、本物の功徳を戴いて欲しいという、切なる住職の願いとしてお聞き入れ下さいますようお願い申し上げます。

 【創価学会の間違えた師弟観】
 大聖人の仏法は、師匠と弟子の関係をきちんと明らかにして、初めて成仏していくことができる教えであります。
 師弟相対は、皆さんもよく耳にされている事と思います。しかるに、理屈だけを理解していても、命に刻み、実践行動出来なければ、修行しているとは言えません。
  かつて池田大作は、
 「私は戸田前会長と十年間、師弟の道を歩んできた。たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。それを自分の人生と決め、だまされても、師匠と一緒なら、それでいい。これが師弟相対だと決めていた」(指導メモ185頁)と言っておりました。
 一見、麗(うるわ)しき師弟相対の姿のように思えるかも知れません。
 今でも実際に、創価学会員を折伏すると、これと同じ考えで「私は池田先生になら、地獄にでもついていく」と言う人もおります。
 しかし、これが本当に師弟相対の信心になるのでしょうか。
 日達上人はこの池田の”師弟観”について、
 「『あの人が師匠だから、あの人が死んで地獄に落ちたならば自分も地獄に落ちても良い』などと言っている人が有りますが、これは大変な間違いであります。これは実は親鸞(しんらん)が法然(ほうねん)に対して言った言葉なのです(中略)法華経にはそのような考え方は有りません。法華経は、『師匠が地獄に落ちるならば、自分は法華経をもって救ってやろう』というのが本当の教えなのであります」(大日蓮・昭和54年9月号120)と、徹底的に池田の邪説を破折されております。
 もし、皆さんが折伏している学会員に、先程の誤った師弟観に惑わされている人があるならば、この日達上人の御指南をもって、真実の師弟観を教えてあげてほしいと思います。

 【本宗で説く師弟相対】
 この師弟相対の源、淵源(えんげん)は、大聖人、日興上人の時代にまで遡(さかのぼ)ることができます。
 法華経の要諦について、奈良時代に活躍した行基(ぎょうき)という僧侶が、
 「法華経を我が得しことは薪(たきぎ)こり、菜つみ水くみ、つかえてぞし」(拾遺1346)
とうたわれています。
 日蓮大聖人の仏法においても、「師に仕える」ことが基本であり、かつ最も大切なことです。先ほど述べた創価学会の根本的な誤りは、師匠を御法主上人ではなく、池田大作としたところにあります。
 日興上人が佐渡において大聖人への常随給仕をせられたこと、また身延においては日目上人が薪水(しんすい)の労をとられたこと、この両上人の師に仕えて仏法を会得せられた姿が、本宗の信行の鏡となっています。
 仏法は単なる理論や哲学などではなく、実際に我々衆生の身の上に実践し生かしてこそ、無碍(むげ)の宝珠(ほうじゅ)と成りうるのです。
 大聖人の御本仏としての御境界も、法華経の行者として幾多の大難に遭(あ )われながらも、不自惜身命のお振舞の上に開かれたのであります。
 よって、その大聖人の仏法を求める私達の信心も、日々の苦難を乗り越えながら、実生活の中で、身をもって仏法を捉えることが大切なのです。
 そのための具体的実践が、「師に仕える」ということなのです。すなわち日興上人が大聖人を御本仏と拝し、常随給仕し奉った信心の振る舞いの中に成仏があり、我々末法の衆生の信行の原点ともなっています。
 「師は針の如く弟子は糸の如し」とよく言われますが、大聖人と日興上人の師弟の如く、師匠が絶対の信頼をもって弟子に仏法を教え、弟子は師匠にまた絶対の帰依をもって仕えていく姿を、師弟相対の信心と言います。
 具体的な例としては、大聖人が信徒にお手紙を与える場合、出家である内弟子を使いとして、その手紙を読ませ、講義し、理解させるという、信徒に対する教化・指導が行われたことが、諸御書に拝されます。
 特にあの熱原の法難は、大聖人の御指南を賜りながらも、直接的には日興上人の御指導や対応によって、熱原の信徒は法難を堂々と乗り切っております。これが師弟相対の信心の表れであります。
 日蓮門下と名乗る者は多くとも、師弟相対は唯一富士門流にのみ伝えられてきた独自の法門です。
 大聖人の教えを正しく理解し、成仏の直道を歩んでいくためにも、日蓮正宗の僧俗は共に、この師弟相対の信心を学び、心得ることが大切です。
 日興上人は御遷化(ごせんげ)の年に『日興遺誡置文(にっこういゆいかいおきもん)』を残されましたが、その第一条に、
「一、富士の立義(りゅうぎ)聊(いささか)も先師の御弘通(ごぐづう)に違(い )せざる事」 (1884頁)
と謳(うた)われています。
 ここに師弟相対による仏法会得(えとく)が何故(なぜ)大切であるのか、示されていると拝されます。
 御本仏大聖人の説かれた教えを寸分も誤り無く、そっくりそのまま受け継ぎ、行じていく所に我々の成仏があるのです。またそれなくして大聖人の仏法は久住いたしません。
 大聖人は、『妙法比丘比丘尼御返事』に、
「謗法と申す罪をば、我もしらず人も失(とが)とも思はず。但仏法をならへば貴しとのみ思ひて候程に、此の人も又此の人にしたがふ弟子檀那等も無間地獄(むけんじごく)に堕(お )つる事あり。」(1258頁)
と誡(いまし)め憂慮(ゆうりょ)せられた通り、どこまでも正しい師匠についていかなければ知らず知らずに謗法を犯してしまうのです。
 さらに『生死一大事血脈抄』には、
 「信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」(515頁)
とありますが、こちらの方は師と弟子を繋(つな)ぐ、信心の上の信頼関係を血脈(血管)にたとえられました。もし血管が師弟の間に繋がっていなければ仏法という血液は流れません。
 それゆえに、御入滅に当っては『一期弘法抄(いちごぐほうしょう)』に、
 「血脈の次第日蓮日興」(1675頁)
と明らかな如く、常随給仕の日興上人をもって仏法の正しい承継者(しょうけいしゃ)と定められたのです。
 よって、本宗相伝の根本はここに確立し、以後日興上人は日目上人に、日目上人は日道上人へと、いつにあっても唯御一人(ただおひとり)にのみ大聖人が日興上人に付(ふ )せられた血脈相承が伝授(でんじゅ)され、御当代御法主日如上人のところにまで伝えられております。
 これをもって、「唯授一人血脈相承(ゆいじゅいちにんけちみゃくそうじょう)」と言います。
 もともと仏教にあっては相伝・相承が重んじられ、釈尊は 迦葉(かしょう)に天台大師は 章安(しょうあん)に、伝教大師は 義真(ぎしん)に法を付(ふ )されました。
 そしてその意義を日淳上人は、
 「仏法に於て相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱(わくらん)されることを恐れるからであって、即ち魔族(まぞく)が仏法を破るからである。そのため展転(てんでん)相承を厳(げん)にして、それを確実に証明し給ふのである」(淳師全集 1324頁)
と示されています。
 とりわけ本宗にあっては「宗祖大聖人の教えを寸分(すんぶん)も違(たが)うことなく」との日興上人の御精神がそのまま反映され、「唯授一人血脈相承」を厳護する意味からも、相伝仏法・相伝の宗旨との宗風が確立したと拝されます。

 【師弟子の次第を超えてはならない】
 また、大聖人は御入滅に先立つこと数日前の十月八日に本弟子六人を制定されました。六老僧です。すなわち、日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の六人の高弟であります。
 この本弟子を定められた理由について日興上人は、
 「うちこしうちこしぢき(直 )の御でし(弟子)と申やからが、しやぅ(聖 )人の御ときも候しあひだ、ほんでし(本弟子)六人をさだめおかれて候。そのでし(弟子)のけうけ(教化)のでし(弟子)は、それをそのでし(弟子)なりといはせんずるためにて候」(歴代法主全書1ー184頁)
と仰せられております。
 すなわち、日蓮大聖人御在世の時から、既に自分が折伏教化を受けた師を通り越して「自分は日蓮大聖人の直接の弟子である」と言う出家・在家の者が現れました。このような師弟関係の誤りをなくす上から、日蓮大聖人は本弟子六人の高弟を定められたのである、と仰せられているのであります。
 つまり、六人の本弟子が折伏教化した僧侶や信徒は、すべてそれぞれ六人の僧の弟子となるという、師と弟子の筋目関係を明らかに説き置かれたということであります。
 これはあくまでも大聖人御在世のことでありましたが、御入滅後は日興上人が「本門弘通の大導師」の任に当たられた以上、日興上人が大聖人のお立場に立たれるわけでありますから、「大聖人直結」を叫ぶ者は日興上人への師敵対関係になることを知らなければなりません。
 だからこそ、日興上人は『日興遺誡置文(ゆいかいおきもん)』のなかで、
 「一、富士の立義(りゅうぎ)聊(いささか)も先師の御弘通に違せざる事」(同1884頁)
 「一、当門流に於ては御抄を心肝に染め極理を師伝して云々」(同頁)
等とお示しになられたのであり、これは自らも師弟相対の大事を表明され、さらに弟子達にもその筋目をしっかりとお示しあそばされた文証なのであります。
 このように、日蓮正宗における「師弟相対の信心」は、大聖人を末法下種の教主・主師親三徳兼備(けんび)の御本仏と仰ぎ奉り、大聖人の甚深の仏法を唯授一人の血脈相承をもってお受けあそばされた日興上人以来の御歴代上人を本師と仰いで仏道修行に励むことによって、末法の私達衆生は三宝一体の御本尊と境智冥合(きょうちみょうごう)し、成仏得道が叶うのであります。
 日興上人が『佐渡国(さどぐに)法華講衆御返事』の、
 「なをなをこのほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をたゞしてほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじくほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごく(無間地獄)におち候也」(歴代法主全書1ー183)
との御指南や、第九世日有(にちう)上人『化儀抄(けぎしょう)』の、
 「手続(てつぎ)の師匠の所は、三世の諸仏、高祖已来(いらい)、代
々上人のもぬけられたる故に、師匠の所を能々(よくよく)取り定めて信を取る可し、又我が弟子も此(かく)の如く、我に信を取る可し、此の時は何(いず)れも妙法蓮華経の色心にして全く一仏(いちぶつ)也。是れを即身成仏と云う也云云」(歴代法主全書1ー341)
との御指南を常に忘れてはいけません。

 【末寺住職と御信徒の師弟関係】
 住職は、御法主上人の任命により各末寺に派遣されております。皆さんは、信仰の筋目としてどこまでも、血脈法水への手続の師匠として、住職の元で信行に励むのです。
 このような信心の筋目を正すとき、末法凡下(ぼんげ)の我々の生命に信心の血脈が通い、大聖人からの法水が流れ通って我が身の全体が妙法蓮華経の当体と顕現(けんげん)するのです。
 大聖人の下種仏法は、己(おのれ)の智解(ちげ)によって成仏するのではなく、師弟相対の信の一字によって成仏が遂(と )げられることを心得なければなりません。
 御隠尊日顕上人は、かつて
 「手続の師匠は、当代の法主であるとともに、またその旨を受け、意を受けて、日本全国、乃至世界の各地にその命を受けて赴き、法を弘宣するところの僧侶であり、その各々の僧侶の命の中に大聖人様の功徳が存するのであるということを、深くお考えいただきたい次第であります。」(大日蓮五四七号 法華講連合会弟二八回総会の砌)
と御指南されました。
 ここで御信徒にあって気を付けねばならない事は、末寺住職・指導教師を飛び越えて、自分達はすべて御法主上人の直檀那(じきだんな)であるという、師・弟子・檀那の筋目を違(たが)えてはならないということです。
  日亨上人は『化儀抄註解(ちゅうげ)』に、
 「宗門一般の僧俗悉(ことごと)く本山法主の弟子檀那の理(り )なりと速了(そくりょう)し・直系師僧の推挙披露(すいきょひろう)を待たずして・直(ただち)に此等の沙汰(さた)を為すときは・此は是れ事行を離れて理門に走り・信行を斥(しりぞ)けて智解(ちげ)に陥(おちい)る物怪(もっけ)なり」(富要一巻116頁)
と仰せです。
  つまり檀信徒の御本尊申請にしても、尊号(そんごう)(日号)を願い出るにしても、登山参詣にしても、すべては末寺住職を通して願い出るのが正しい筋道です。
 そもそも入信当初、御授戒を受けるにあたっても、総本山ではなく各末寺で受けるということは、そこの住職を信心の直接の師匠に取っている姿であります。
 ゆえに、それ以後の葬儀や法事にあっても、末寺住職に導師を願い出ることが出来る道理となるのであります。
 住職は手続(てつぎ)の師、大御本尊へ案内してくれる直接の師匠であるとの認識を、いま一度確認すべきであります。
 日有上人は、
「私の檀那の事、其れも其筋目(そのすじめ)を違(たが)はば即身成仏
と云ふ義は有るべからざるなり、其の小筋(こすじ)を直(なお)すべし血脈違(たがう)は大不信謗法也」(富要一巻247頁)
と仰せられています。
 日因上人も、
 「檀那は是俗(これぞく)の弟子なり、故に師弟血脈相続(そうぞく)なくしては即身成仏に非ず」(富要一巻247頁)
と厳しく仰せられています。
 ここで言われる師弟の血脈とは、住職(指導教師)と所属信徒の間に、本門戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈法水への信心を基(もとい)とした信頼関係を結んでいくことです。
 『化儀抄』二七条にも、
 「信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜられば其の筋目違(たご)うべからざるなり、違はずんば血脈法水は違ふべからず(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり」(富要一巻64頁)
とありますが、これも師・弟子・檀那の筋目を信心をもってただすところに、大聖人已来の仏法の血液(法水)が脈々と流れて来るとの御教示であります。
 すなわち血脈相承によって伝えられて来た大聖人の仏法は時の御法主上人の所にましまし、一般僧侶は師弟相対の信心をもって御法主上人よりこの法水を頂戴するのです。
 さらに御信徒もまた所属寺院住職を小師と立てて、この法水を受け取っていく。かくして大聖人の仏法は正しく時の衆生を利益し、さらに後世へ令法久住していくのです。
 以上の意味から拝しますと、師弟相対とは、師匠が弟子を縛(しば)り付け、また住職が所属信徒を従属させる為のものではなく、あくまでも大御本尊を正しく受持するための化儀であり、師弟相対の信心による徳分によって、末法の衆生は煩悩を転じ尊い功徳を受けるのであり、そこが事の一念三千の姿であると御先師方が説かれているのです。

 【法を根本に師檀関係を結ぶ】

 
日有上人は、 
 「末法今時(こんじ)は悪心のみにして善心無し・師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して・又余事余念(よじよねん)無く妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種(みょうじげしゅ)とも云はるるなり」(富要二巻147頁)
と、末法の衆生は三毒(貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち ))の煩悩が非
常に強い衆生であると御指南されています。
 だからこそ私たちは、仏法を持(たも)たなくてはならないのであり、私も皆さんも妙法を受持する信心の上に相(あ )い対するのです。
 私は皆さんの住職・指導教師として常に良き師となれるよう勤め、皆さんも良き檀那となれるよう努力する、それしか無いのでは無いでしょうか。
 何も、一方的に衣の権威で皆さんを押さえつける気はありませんし、立場の違いこそあれ、御本尊様の前では平等であります。
 皆さんと同じように、功徳を頂ければ罰も受けるのです。
 もし、私に驕(おご)りや誤りがあったなら、私に結果として顕われる、それだけであります。

 【今こそ異体同心の折伏を】
 日如上人は本年の講習会において、「自分の心を中心にしていけば、あれは違うのではないかと言い出したりしていさかいも起こるが、広宣流布という一点に皆で焦点を合わせていけば、異体同心できる」(取意)と仰せであります。
 異体同心とは、身体や、身体の置かれている状況(家庭環境や職場など)のそれぞれ異なる人々が、日蓮大聖人の御意に心を同じくして、一致団結した姿で正法の信仰に励んでいくことをいいます。
 日蓮大聖人は、
 「総じて日蓮が弟子檀那等、自他彼此の心なく水魚の思ひを成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふなり」(御書514)
と仰せですが、私達は、たとえ生まれ育った環境が違い、性格や職業が異なっていても、皆、同じく、魚が少しも水と離れられないような想いで、日蓮大聖人の御教えにぴったりと同意していくことが大切であり、そこに、はじめて即身成仏の血脈が、私達の生命にも流れ通ってくるのです。異体同心の重要なる所以であります。
 具体的には、まず、我が支部の折伏誓願が早期に成就するよう、毎日真剣に祈って戴きたいと思います。折伏成果は、ロビーに張り出しておりますが、何の興味も関心もない、他人事のように思ってはなりません。
 自分の折伏が成就しなくても、素直に折伏成就出来た人を悦べる・応援できる皆さんであって欲しいと心から願うものであります。

                        住 職  ()  (はし) (どう) (ほう)

 

 
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