ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第214号)  
   
 
    【日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足一足の裏に寂光の都は近づくなり
 
   身口意の三業を整えて寺院参詣に励むべし  
 
   【本宗寺院の意義】
 皆さんにとって、寺院に参詣することは大切な仏道修行であり、成仏を願い、功徳善根(くどくぜんこん)を積むために、自ら進んで行うべきものです。
 日蓮正宗の寺院は、他宗と異なり小乗・大乗・法華経文上の三宝を安置する寺院ではなく、法華経文底(もんてい)の三宝、本門戒壇の大御本尊のお写しである常住御本尊を安置する寺院です。
 また末寺の意義は、総本山大石寺を本寺とし、総本山に連なる寺院を末寺とする故に、本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下の御指南を根本に、僧俗和合して正法護持と地域広布の役割を果たすところにあります。
 また末寺は、根本道場たる総本山の出城(でじろ)として授戒を行う場であると共に、儀式行事を通して、本宗信徒が信心を錬磨する帰命(きみょう)(自らの命を仏に奉り帰依すること)依止(えし)(徳ある所に止住し離れないこと)の道場です。

 【寺院と信心】
 本宗の信仰の基本は、日興上人が、
 「しでしをたゞしてほとけになり侯」(歴代法主全書 第一巻 183)
と仰せられるように、本仏(日蓮大聖人)と本師(御法主上人猊下)、本師と小師(末寺の住職)、小師と信徒という縦の筋目(すじめ)を重んじ、この師弟相対の信心により、即身成仏の大功徳を成就することにあります。
 また本宗の儀式・法要は、日蓮大聖人の仏法を化儀(けぎ)として形に表したものであり、この儀式・法要へ参詣して仏祖三宝尊へ御報恩謝徳申し上げることが肝要です。
 主な行事としましては、広布唱題会・日蓮大聖人御報恩御講(ごほうおんおこう)・彼岸会(ひがんえ)・盂蘭盆会(うらぼんえ)・御会式(おえしき)などの年中行事や月例行事、また、法華講の各種会合などがあります。
 皆さんにとって所属寺院は修行の道場ですから、これらの法要や行事に参詣し参加することは、大切な修行になります。
 日蓮正宗の寺院には、日蓮大聖人のお悟りと御相伝にもとづく由緒正しい御本尊が本堂にご安置されています。そうしてその御本尊のもとに、日蓮大聖人の「法宝」と「仏宝」と「僧宝」という三つの宝である「三宝」がととのっています。
 従って本堂へ参詣する皆さんの功徳と福徳には、はかりしれないものがあります。
 日寛上人が『寿量品談義』に、
 「一足一足を積んで千里を行くが如く、日日に参詣して南無妙法蓮華経と唱へ奉れば、一足一足の裏に寂光の都は近づくなり。一辺一辺に大山大海の如くなる仏身を、我が己心にこしらえ立つる程に随分参詣唱題肝要なり」(歴代法主全書 第四巻 242)
と仰せられるように、常日頃から寺院に参詣し、住職の法話を聴聞することは、その教えを生活の中に実践し、罪障消滅・即身成仏の功徳を積むことの出来る大切な修行なのです。

 【蘭室(らんしつ)の友】
 さて、日蓮大聖人の『立正安国論』という御書に、
 「主人悦(よろこ)んで曰く、鳩化(はとけ)して鷹(たか)と為り、雀(すずめ)変じて蛤(はまぐり)と為る。悦ばしいかな、汝(なんじ)欄室の友に交はりて麻畝(まほ)の性(しょう)と成る。」(御書248)
と有名なお言葉があります。
 毎年、御会式で耳にされている御文ですので、御存知の方も多いかと思います。私が子供の頃は、鳩が鷹になるというのは何となく理解できるとしても、雀が貝の蛤になるというのは全く意味が分かりませんでした。
 意味としては、物事が大きく変化する事の譬えで、古代中国の俗信です。晩秋に雀が浜辺に集まって騒いでいるのは、海の中へ入ると蛤に変化するからだと考えられていました。

 余談になりますが、同意のことわざに『蕪(かぶ)は鶉(うずら)となり山芋(やまいも)は鰻(うなぎ)となる。』 『田鼠(でんそ)(モグラ)化して鶉(うずら)となる。』というものがあります。
 私には全くこれらのつながりが理解できませんが、古代中国人はユニークな思考をしていました。
 大聖人がここで引用された意味は、劣ったものが優れたものに変る。正しい信心をすると、善く変れるという意味での引用だと拝します。
 「蘭室」とは、非常に香りの高い部屋という意味で、徳の備わった立派な人を指します。こういう方と交わっていると、やはり自分の境界もその人の良縁・善知識の教導に触れて、いつの間にかその人の徳を受けて、立派な人間に改革されていくということをお示しです。
 幸いにも、我が支部には「蘭室の友」と呼べる方が何人もおられまして、日々の寺院の唱題会にも積極的に参詣されておられます。
 この唱題会の前後に、講員同士で交わされる何気無い会話の中に、何十年と真っ直ぐな信心してこられたからこそ発することの出来る、確信であったりアドバイスであったりを耳に挟むことがありますが、大変有り難く、また心強く感じております。
 大聖人は『妙密上人御消息』にも同様な意味のことを
 「一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧(すす)む。麻の中の蓬(よもぎ)、 墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然(じねん)に直(す )ぐなるが如し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし」(御書967)
と仰せです。
 これはどういう原理によるかと申しますと、仏法では身口意三業、その人の心、その人の言葉、その人の振る舞い、その三つが整って、はじめて一つの信となります。
 この信心の世界に自らが入って、皆と同じ様に南無妙法蓮華経と唱えて行くならば、我が身の振る舞い、言葉、修行がおのずからきちんと正されていくということを言われているのであります。
 皆さんの回りにも、信心に対して不承不承(ふしょうぶしょう)、なかなか燃え立つ心のない、従う心のない、また誓願や決意に立って精進する心のない、そういう人もいらっしゃることも現実だと思います。
 しかし、そういう人をなんとか寺院に参詣をさせる、あるいは地区の唱題会やいろんな会合、あるいは折伏にその人を誘い、共に実践をしていく中で、そういう人も広宣流布の志の上に立っていく、折伏の一念に燃え立っていく人に必ずなっていくのであります。
 例えそういう心根の弱い人、いじけている人、あるいは心の曲がった人であったとしても、この我々の信心の組織の中に温かく迎えてあげて、同じラインの上に立たせてあげる。
 そうすると、いつとはなしに、その人も立派な身口意三業の整った人材に、必ずなっていくということを確信して頂きたいと思うのであります。


 【麻畝(まほ)の性】
 「麻畝の性」とは横にしか伸びることの出来ない蓬(よもぎ)でも、真っ直ぐ伸びる麻の中にあれば真っ直ぐ成長するという譬えです。
 寺院に参詣することで、世間で染み付いた、心の汚れを洗い流す譬えに用いられるのが、「麻畝の性」です。
 人々の迷いや悩みを誘発させる原因は、三大秘法の御本尊様から外れたところにあります。
 寺院に参詣することで、御本尊様の仏力に縁をし、世間で染まった謗法の垢(あか)を転重軽受させ、成仏の性分である 「麻畝の性」へと変わっていくのであります。
 「麻畝の性」とは、日蓮正宗の寺院に参詣し、同志の方と共に、三大秘法の御本尊様の元で修行することによって、私達の末法濁悪の生命が浄化されることです。つまり、心の汚れが洗い流されることを意味するのであります。
 日蓮正宗を信心しない考えには様々な悪因が潜んでいます。この悪因を、寺院に参詣することにより、完全に摘み取って、仏様の仏因と引き替えます。それが「麻畝の性」という仏様の性分です。
 この性分を、命に刻むことで、世間の謗法多き世の中に出ても、安穏な境界を現当二世に渡って、維持することが出来るのです

 「麻畝の性」の性分とは、「六根清浄」です。複雑によじれた性格も、正しい道を示す道筋に随えば、曲がった性格も、少しずつ軌道修正され、最高の境界、即身成仏を仏果として得るのであります。 
 総本山第二十六世の日寛上人は、『立正安国論』を御講義されました『安国論愚記』というお書き物の中に、
 「その信心の目的が名聞名利のためであったとしても 又利養のためであったとしても、我が身をこの仏前に運び、そして口に南無妙法蓮華経と共に唱えてみよ。そうすれば、その人の心はおのずから妙法の大善に入っていくものだ」(日寛上人文段集五三下 意訳)
ということを説いておられます。
 身口意三業の中にあって、心が定まっていなくても、おのずからその信心の大道の上に皆と同じ体制の上に立って、皆と同じ組織の中で守られていく間に、その心根も清らかに真っ直ぐになっていくものだ。
 立派な広布の境涯に立ったその振る舞いに、唱える題目の上に、また同じ信心の上に立っていくことができる、ということを言われているのです。
 同様のことは妙楽大師にも、
 「縦い発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶(なお)多し」(止観弘決一之四=大正蔵46ー170・C)
という有名な御文があります。
 どういう人であったとしても、とにかく私達の組織の上に乗せてあげて、同行の者として共に実践していく中で、皆が本物の大聖人の弟子として立派な境涯の人に必ずなっていくことができるということを確信すべきであります。
 それが少年部でも、青年部でも、婦人部でも、壮年部でも、各部、各地区それぞれの立場で、皆が同じ志に立って、同じ様に精進していける、又躍動するそうした組織というものを作って行きたいと思います。

 【家族への折伏は最も大切な修行】
 また、個々の家庭にあっては、親は子共に朝夕の勤行や総本山への登山、寺院の参詣を通し、仏法僧の三宝への信仰のあり方を教えていくことが大切です。
 「自分の意志で」とか「物事を理解できるようになったら自分で決めさせる」というのは間違いです。
 しっかりとまずは御授戒を受けさせ、仏縁を付け成仏の種を植えることが先決です。
 末法に生まれ合わせる衆生は、本未有善(ほんみうぜん)といって、仏になれる種を持ち合わせていない衆生ですので、御授戒を受けない限り成仏の種は植わりません。
 人間は、環境に大きく左右されてしまうものですが、特に子供は周囲に染まりやすいものです。適切な判断基準を持たなければ、人生が大きく狂い、悪道に染まり取り返しの付かない人生になります。
 寺院参詣や勤行・唱題の実践は早ければ早いほどいいのです。寺院参詣を習慣付けることで、世間に横行する悪縁に、紛動されない精神を御本尊様の力により養うことが出来ます。唱題行には精神を養う秘訣があります。
 子供なりに難しい法門は理解できなくとも、実践していけば、命で御本尊様の素晴らしさを感じることが出来ます。当たり前に勤行が出来る子供ならば、例え横道にそれそうになっても戻ることが出来ますし、間違いのない人生を送って行けます。
 皆さん一人一人が、その事をしっかりと心に置いて、家族、一族一門の人達が同じこの信心に立って、まず一家の広宣流布ということを成し遂げて頂きたいと思います。
 本宗の寺院で「唱題行」が行われるのも、日蓮大聖人への御報恩の御講を奉修申し上げるのも、全ては御本尊様と大聖人へ御報恩の誠を尽くし、皆さんの父母や先人に対する報恩と御一家の現在と未来にわたっての幸せのためなのです。
 どうか菩提寺への参詣の意義を理解し、家族みんなで参詣の志を立てて下さい。
 信仰の世界は、「意(こころ)に信じ、口に唱え、身に実践する」事が大切です。そして、あくまでもその中心に広宣流布を願い、広宣流布の戦いをしていく中にこそ、成仏があるのです。
 自分の幸せのためだけに信心をして、広宣流布のことが頭にない人は、御法主日如上人猊下の
 「一般社会においても、自分一人だけの幸せはありえないように、自他共の幸せこそ真の幸せであります。
 しこうして、自他共の幸せを実現するためには、大聖人の御教示に照らして、折伏をもってする以外には道はないのであります。なぜなら、一切衆生救済の秘法は、法華経本門寿量品文底秘沈の大法たる妙法蓮華経以外にはないからであります。」(平成二十二年十月  広布唱題会の砌)
御指南を、しっかりと拝し、反省しなければなりません。
 私たちが仏道を求めていくと、一見、時間的にも金銭的にも生活が犠牲になるように見えるかも知れません。
 しかし、仏道修行というのは仏様が定められたところに、しっかりと自分の身を合わせていくことです。逆に自分の都合・自分中心の信心は修行とは言えません。

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが日寛上人が加賀信徒・松任治兵衛へ宛てられた御消息にこのような一文がありす。
 「かならずかならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみ御供養候とも若信心なくはせんなき事なるべし。たとへ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし阿育王の因縁なりと思ひ出られ候べく候。かならずかならず身のまづしきをなげくべからず唯信心のまづしき事をなげくべけれ」(妙喜寺蔵)
 御本尊様を日寛上人から下附していただいたことへの御供養に、自分は貧しくて何もさしあげるものがない、ただ一万遍の題目を唱えて御供養させていただきます、という松任治兵衛さんの真情を思いやった御慈悲のお手紙です。
 御供養は尊い修行であり、概ね三種類が挙げられます。
 金銭や品物を奉る「財の供養」、清掃などの御奉公をする「身の供養」、唱題折伏に励む「法の供養」です。
 この御供養に優劣はありません。どれもが欠かせない大切な修行です。それぞれが、出来る形で精いっぱいの真心を込めて行うべきだと思います。
 我が支部も、誓願目標達成まであと少しとなりました、油断せずに常に日如上人猊下の御意に沿って折伏弘経に励んで参りましょう。
 今日は、身口意三業のを整え寺院参詣し、口に妙法を唱えるならば、必ずどんな心根もまっすぐになる。大聖人の弟子としての自覚が自然にできて、身口意三業は厳然として整うということをお話し申し上げまして、法話に代えさせて頂きます。


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