ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第212号)  
   
 
    【法華経を保持ち奉るより他に遊楽はなし
 
    現世安穏・後生善処について  
 
 【現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)とは】

 「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」とは、法華経の『薬草喩品(やくそうゆほん)第五』の中に説かれる句です。
 『薬草喩品(やくそうゆほん)』では、
 「是の諸(もろもろ)の衆生、是の法を聞き已(おわ)って現世安穏(げんせあんのん)にして後に善処に生じ」(法華経 217頁)
と説かれ、法華経を聴聞し、信受することにより、現世は安穏に暮らすことができ、後生は善処に生まれることができると説かれています。
 宗祖日蓮大聖人様は、
 「願はくは「現世安穏後生善処(げんせあんのんごしょうぜんしょ)」の妙法を持(たも)つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引(ろういん)なるべけれ。須(すべから)く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。」(『持妙法華問答抄』300頁)
「法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)とは是なり」(『四条金吾殿御返事』1143頁)
とお示し下さっております。

 【大聖人様の法難】
 しかし、大聖人ご在世の鎌倉時代、大聖人のお弟子やご信者など多くの人々がその許(たもと)から離れて行ったという記録があります。それは大聖人が龍ノロの頸(くび)の座の難を免れて佐渡ケ島への流罪が決ったその前後の事でした。
 大聖人は立教開宗宣言の直後、地頭東条景信に追われて清澄山を下山することになります。
 その後、鎌倉の松葉ケ谷のご草庵を何者かに焼かれ、伊豆の伊東では流罪にあわれる。小松原では母君の病気見舞に来たところを東条景信に襲われ、最後は幕府の手によって捕らえられて、瀧ノロの刑場で首を刎ねられんとし、そして佐渡ケ島に流罪になりました。

 【弟子門下の不安と不信】
 門下の中の信心薄き者にとっては、これほどの恐ろしい法難はありませんでした。佐渡に流罪となれば、生きて帰れることなど考えられません。
 この大聖人のお姿を当時の弟子信者は目のあたりにして一つの疑問を抱くのです。
 それは『法華経の薬草喩品(やくそうゆほん)第五というお経の中に「現生安穏。後世善處。」と書いてあるではないか。』と。
 これは大聖人の弟子、信徒のみならず、我々でも皆願うことです。信心していて現世が安穏になることは、真に有難い功徳です。そして、願わなくとも後には善き拠に生まれると書いてある。だから皆信心したのであります。
 ところが自分たちのお師匠様である大聖大のご生涯を拝見するとき、「お師匠様の今の生活は幸せといえますか。石を投げられ棒で打たれ、島流しに会う、命があるのが不思議でしょう。食べるものも、着るものも、住むところでさえ不自由にして、それで現世安穏(げんせあんのん)とは言えますか。どこが現世安穏(げんせあんのん)なのか、大難は四箇度、小難は数知れず、一つも現世安穏(げんせあんのん)ではないのではないですか」という批判です。
 さらに「ということは、法華経に説かれている釈尊のことばに偽りがあるから、大聖人は現世安穏(げんせあんのん)が実現しないのか。あるいは大聖人御自身が真の仏のお使い、法華経の行者ではないのではないか・・・。」とこういう疑問が涌いて来たわけです。

 【法難は法華経の行者たる証明】
 それを弟子や信徒がお師匠様にお尋ねになる。
 日蓮大聖人はそれに対してこう答えます。「それは、現世安穏(げんせあんのん)とは、困ったことや悩み事が全部解消するとか、今まで辛くあたっていた人が優しくなる等のように、自分を取り巻く環境が全て変わって、自分も穏やかになるということを言っているのではない。」と仰せになるのです。
 「それではお師匠様にとっての現世安穏(げんせあんのん)とは何なのですか。」と、お弟子が尋ねると、何と驚くべきことに、「難来たるを以て安楽行と心得べし」と、こうおっしやるのです。
  御自分が法華経の行者として布教の務めを果たすその途上で、これを妨害する人が出て来る、これが法難であります。それが次から次に来る。これをもって、これはたまったものではない、といって背を向けたら法華経の行者ではありません。様々な妨害がそこに加わるということは、お経に説かれた仏様の未来記すなわち予言です。
 これが適中したということは、自分が法華経の行者であることの何よりの証であるから、「難来たるを以て安楽行と心得べし」これが現世安穏(げんせあんのん)の偽わざる姿なのだと、こう解釈あそばされたのです。
  しかし、大聖人はこういう説明を門下に対し、日夜怠らず、繰り返していたにもかかわらず、いざとなると、皆退転して逃げてしまいました。
 干人いれば九百九十九人までがいなくなってしまったのです。なぜ逃げ出したのか、お弟子にはお弟子の言い分かあるのです。
 では何といったか。それは、「日蓮大聖人はお師匠様にておわしますが、あまりに恐し。」
 それは、鎌倉幕府が日蓮大聖人の一門を弾圧している時に、南無妙法蓮華経と自ら声を出して大音声に唱えるということは、自分は日蓮大聖人の信者であるということを世に公言することになったわけです。
 鎌倉時代はそれをすれば命にかかわる迫害を受けることもあるので、日蓮大聖大の信者であることを宣言し、御題目を唱えることを世に訴える手段とした場合、大変な勇気がいる行為になるわけです。
 でも大聖人はそれをしなさい、「南無妙法蓮華経と声も惜しまず唱うべし」と言う。
  今、平成の今日に我々が御題目を声に出して唱えましょうという意味あいと、鎌倉時代の頃に大聖人が門下に、声を出して唱えなさい言った意味とはずいぶん趣が違うことも事実であります。
 しかし、それを要求されますと、お弟子は牢獄につながれる。信徒が武士なら、お家断絶か所領没収という苛酷な制裁が待ち受けている。その通りやったのでは、身がもたない、家庭がもたない。そこでお弟子は、「日蓮御坊はお師匠様におわしますがついて行けない」と訴えるわけです。
 また、残った弟子は、「もっと和らかに法を広めてはどうだろう」と進言するのです。お師匠様のように真正面から行ったら身がもたない。しかし私達は法華経を捨てはしない。「もっと和らかに、穏やかに法を広める方法があるかも知れないから、これを探し求めて研究したい」とこう進言しました。
 しかし「現世安穏(げんせあんのん)」とは、決して表面的な生活が穏やかだという意味ではありません。正しい信念があるからこそ、どんな困難にも左右されない安らかな境地にいるということなのです。
 大聖人は『開目抄』に、
 「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然(じねん)に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ」(御書 574頁)
と、諸難が起ころうとも、疑うことなく正法への信仰を続けるよう戒められています。
 退転してしまった人々は、これらの正法信仰の心構えを、肝心な時に忘れてしまった拙(つたな)き者というべきです。
 私たちは、
 「あひかまへて御信心を出だし此の御本尊に祈念せしめ給へ。何事か成就せざるべき(中略)『現世安穏(げんせあんのん)、後生善処(ごしょうぜんしょ)』疑ひなからん」(御書 685頁)
と仰せられるように、たとえ魔の用()きが起ころうとも、御本尊を信じて唱題していくところに、「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」と仰せられる現当二世(げんとうにせ)の功徳があると拝することが大切です。

 【謗法者の罰】
 弟子の中には、大聖人様が真の法華経の行者ならば、なぜ迫害する者が罰を受けないのかと疑問視する声があがりました。
 それに対して大聖人様は、『開目抄』にて3つの理由を挙げられています。
 第一に、法華経の行者が過去世に正法誹謗した罪があるときは、転重軽受(てんじゅきょうじゅ)のために難がある。
 御本仏日蓮大聖人は久遠元初の仏であられる故、宿業がある訳ではなく、衆生を導く上でこのように仰せになられたのです。
 第二には、謗ずる者が地獄に堕ちることが確定していれば現罰はない。
 第三には、諸天善神が謗法の国土を捨て去っているために現罰がない。
 それでは、誹謗の者が生涯にわたって安穏であるかというとそうではありませんでした。大罰を受け、不幸な死を遂げています。大聖人在世では、東条景信は早く身を滅ぼし、平左衛門尉頼綱(へいのさいもんのじょうよりつな)は幕府反逆の罪によって斬罪(ざんざい)、一族滅亡の姿を示しています。
 今日、池田大作が大謗法を犯しているのになぜ罰が顕われないのかと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、既に堕地獄が確定しているからだと言えます。
 しかるに、何も現証が顕われていないかと言えばそうではありません。今回の東日本大震災で、日本が大変な時期であり、多くの学会員も被災したにもかかわらず、一切姿を現さず、一応本人が出したとされるコメントが聖教新聞に掲載されたのみであります。
 創価学会の公式行事にも顔を出すことはありません。それについて一切触れられないということも異常であります。すでに、何らかの現証は始まっているのだと思います。
 また、余談になりますが、最近の学会員の仏壇の樒は、造花が多いそうです。私も実際に見たことがあります。
 単純に信仰心が無いからだと思っていましたが、学会員から脱会した人の話によると学会の時は、樒の枯れ方が異常に早かったそうです。
 日蓮大聖人は「木絵二像開眼の事」(御書638頁)に、
「法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するに其の身に鬼神入るが如し。今真言を以て日本の仏を供養すれば、鬼入りて人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入りて功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ。鬼をあがむるゆへに、今生には国をほろぼす。魔をたとむゆへに、後生には無間の獄に堕す」
との御金言が、はからずも学会のニセ本尊によって証明されているとも言えます。

 【我々の信心】
 私たちは今一度、自分の信心を見直す必要があります。
 どんなに文明が進もうと今も末法です。末法の衆生を法華経の寿量品では「失心狂子(しっしんきょうじ)。」(本心を失い狂ってしまった子供)と表現し、日蓮大聖人も観心本尊抄に「末代の幼稚」と表現しておられます。 
 これは、仏法のことが何もわからない人を指すのです。ただ知識が無いだけではなく、残念なことに、大聖人様の救済の大慈悲に対しても背を向けてしまう。こういう人たちが生まれて来る時代なのです。
 私たちは、この末法という時代、大聖人の大慈大悲を身に体し、四箇の格言に示されるような誤った信仰・思想を持つ人々の邪義を悉く(ことごとく)破して、正法を顕現する破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏を行じていくことが肝要です。
 『秋元御書』に、
 「謗国と申すは、謗法の者其の国に住すれば其の一国皆無間大城になるなり」(御書 1450頁)
とあるように、謗法の罪は身を破り、家族を不幸にし、また一国を没し、ついには世界全体をも滅ぼしてしまいます。
 大聖人の正法を持つ者は、日本はもちろんのこと、世界中の人々を救うために、正法の正義とその功徳の大なることを説き弘め、親が子の悪行に心を痛めるように、慈悲の心を以てその謗法を除いてあげることが大事です。
 折伏を行ずる者は仏の使いであります。ゆえに自然と御本仏の眷属(けんぞく)としての生命力が湧いてくるのです。さまざまな折伏の功徳の中でも、このことが最もはっきりとわかるのです。
 たとえ、打ち沈んだ弱々しい境界であっても、折伏を行ずると、生き生きとしてくるのです。そして人を救うに当って、智恵と勇気が具わってくる。
 いままで自分のことだけで頭がいっぱいの愚痴の凡夫が、このように人を救い国を憂うる境界に一変するのは、まさに御本仏の眷属(けんぞく)としての命が湧いてきたゆえであります。
 信心が鈍いと来る難に溺れてしまいます。御題目を忘れて、御本尊様の前に座れなくなるのです。
 真に南無妙法蓮華経を身口意の三業に持ち、法華経を持つより外に喜びや幸せはないのです。
 これは、住職の綺麗事ではなく、大聖人様が仰せになっているのです。そこを深く考えなくてはいけません。
 世間のいろいろな災難が来ても心配する必要はありません。聖人、賢人といえども難は来るのです。苦を苦と悟り、楽を楽とひらくことが大聖人様の教えです。
 苦しみが来ても崩れず、楽しみに有頂点になってもいけない。苦楽ともに、南無妙法蓮華経と唱える。必ずそこに幸せがくるのです。

 【信仰は実践である】
 御法主日如上人猊下は、3月の広布唱題行の砌、
「自分の心に任せて仏法を見るとすると、我見に陥り、真の異体同心は生まれません。自分の心を仏法に任せていくところに、真の異体同心が生まれるのであります。
 つまり、自分の心を中心にするのではなく、自分の心を仏法に任せ、広宣流布の一点に焦点を合わせて、実践行動を同じくして誓願達成へ向けて折伏に励んでいくところに、真の異体同心の団結が生まれるのであります。(中略)
 ただし、この異体同心の団結は、その根本に大御本尊に対する絶対の信と、弛まざる唱題がなければ、築くことはできません。」
と御指南下さいました。
 大聖人様は、『最蓮房御返事』に、
 「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親(さしん)無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥(たし)かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(御書642頁)
と仰せられるように、一切を御本尊にお任せして、日夜、御金言のごとく自行化他の修行に励むことこそ最も大切であり、そこに現当二世にわたる磐石な境界を築く、「現世安穏(げんせあんのん)・後生善処(ごしょうぜんしょ)」の功徳が顕れるのです。
 今、皆さんもご承知のように、原子力発電所の問題も、被災地の復興も汲として進まず、日本は政治も経済も混乱しております。
 こういう時だからこそ、我々は勇気と慈悲をもって立ち上がらなくてはなりません。
 『如説修行抄』に
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤(つちくれ)を砕かず、代は羲農(ぎのう)の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得其の人の所住の処は常寂光土なり」(御書670頁)
と、全ての人々が大御本尊の信仰に励み、一切の人々が声を揃えて異体同心の心で南無妙法蓮華経と唱えるならば、枝を折るような強が吹くこともなく、地面に穴をあけるような強い雨が降ることもなくなる。
 私たちの住む国土は、古代中国に出現したという、伏義や神農が帝王として世を治めた時と同じように、争いや自然災害のない平和で穏やかなものとなるであろう。また、今生では天変地夭や病などで命を落とすこともなく長寿を得ることが叶うと仰せです。
 我々が生きる意味・信仰する目的も、究極はそこにあるのだということをそれぞれが再度自覚し、日如上人のお気持ちにお応えすべく前進して参りましょう。


        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
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