ホーム 御住職の法話目次 御住職の法話第211号
   
 
  参詣遙かに中絶せり急ぎ急ぎに来臨を企つべし
 
   南条時光の信心 
 
 
 今月は5月にちなんで、「南条時光の信仰」についてお話し申し上げます。
 5月1日は、日蓮正宗総本山大石寺の開基檀那(かいきだんな)・南条時光(法号・大行尊霊(だいぎょうそんれい))殿の祥月命日に当たります。
 日蓮正宗の大切な伝統行事の一つとして、御法主日如上人猊下大導師のもと、総本山開創(かいそう)に尽くされた功績を称え、客殿に於いて報恩の法要と、南条家への墓参が行われております。
 また、毎月一日は命日に当たりますので、本山の僧侶が全員出仕して、日如上人の大導師される丑寅勤行のお伴をさせていただきます。
 大聖人様の御入滅後、五老僧等は一同に二祖日興上人に背反(はいはん)しましたが、その中を、南条時光殿は大聖人様に対し奉るのと少しも変わらぬ信心で御奉公され、血脈の仏法を厳護されました。
 すなわち民部日向(みんぶにこう)と波木井実長(はぎりさねなが)の謗法により、身延を離山された日興上人を上野の地へお招きし、戒壇建立の霊地、大石寺を寄進されたことは、末法に永遠に輝く大功績であり、故に本宗では特に大行尊霊(だいぎょうそんれい)として、その徳を報ずるのです。
 南条時光殿は、日蓮大聖人から現存するだけで御書を三十編以上も賜り、十七歳の頃、建治元年(一二七五年)十月に大聖人より御本尊を賜っております。
 大聖人の御書と日興上人直々の御指南により、時光殿の信心が磨かれて大檀那へと成長されました。
 応(まさ)に、末法万年にわたる正法広布の礎(いしずえ)をつくる為に出現した人であり、その赤誠(せきせい)を生涯貫かれた人と言えます。

 【生い立ち】
 時光殿は、752年前の1259年、上野郷(静岡県富士宮市上条・下条・精進川一帯。現在、総本山大石寺、本山妙蓮寺などの建っている地域)の地頭であった南条兵衛七郎殿の次男として生まれました。 
 父兵衛七郎殿は、伊豆国南条郷(現在の静岡県田方郡)の地頭でありましたが、後に上野郷の地頭となりましたので、上野殿とも南条殿とも称せられました。当時の日本の政治の中心地であった鎌倉に在って、幕府に勤めていた頃、大聖人の教化を受けて入信されたと思われます。
 温厚な性格の上に情に厚く、村人からも敬慕されておりました。1264年に病にかかり、上野郷の自邸で療養に努めておりましたが、この事を聞かれた大聖人は、同年12月『南条兵衛七郎殿御書』(御書321)を与えられ、病床にある兵衛七郎殿に対し、諸経中王の法華経の肝心、南無妙法蓮華経こそが時機相応(じきそうおう)の教えであり、念仏への執着を断ち、絶対の確信に立てば必ず成仏すると、臨終正念(りんじゅうしょうねん)を説き勧め励まされました。
 それまでは世法に執われ、念仏を捨て切れぬ様でしたが、この御書を何度も拝読し、念仏への思いを断ち切り、翌年3月8日見事な臨終正念の相を示して亡くなったのです。
 兵衛七郎殿死去の報告を受けた大聖人様は、鎌倉からはるばる上野の南条家を弔問(ちょうもん)され、墓参をされたことが『春の祝(いわい)御書』(御書 758頁)に記されています。
 訃報(ふほう)を聞かれた大聖人は、哀しみ惜しまれて、鎌倉よりはるばる上野郷の墓に詣で御回向されたのです。突然の大聖人の御下向(ごげこう)に、南条家の驚きと感激は計り知れません。
 兵衛七郎殿には男子5人・女子4人の子供がいました。当時、上の娘2人は既に嫁いでおり、残された子供の一番上が七郎太郎で9才、次男の時光7才、その下に4人おり、末子の七郎五郎はまだ母の胎内にあったのです。
 働き盛りの夫を亡くし、しかも身重の婦人が領地を守り、6人の幼子を育てていく苦労は大変であったと思われますが、夫兵衛七郎殿が示してくれた見事な臨終正念の信心の姿は、夫人が受け継ぎ、そして残された子供達に受け継がれていきました。

 【大聖人の身延入山】
1274年に至って、大聖人は佐渡流罪赦免となって鎌倉に帰られ、4月8日には3度目の国家諌暁(かんぎょう)をなされましたが聞き入れられず、「三度諌(いさ)めて用(もち)いずんば山林に交わるべし」との古例にならい、5月17日に身延に入られました。
 同日の富木殿御書に、「けかち(飢渇)申すばかりなし。米一合も(売)うらず。がし(餓死)しぬべし。此の御房たちもみなかへ(帰)して但一人候べし」(御書730)と、このような餓死するかも知れない状況のなか、大聖人が身延に入られたことを伝え聞いた南条家では、早速御供養の品々を時光殿がお届けしたのです。
 身延に入山された大聖人様への御供養は、諸檀越(だんのつ)中随一であり、現存する御消息から、定期的に継続されていたことが推察され、水の流れるが如き不退の信心と、厚い外護の姿を知ることができます。
 『南条後家尼御前御返事』(御書741)に、大聖人は、亡き父君と姿ばかりではなく、心も似通うほどに成長された時光殿の姿を見るにつけ、立派な子供に恵まれた父君の喜びはいかばかりか、涙を止めることが出来ませんと、お喜びになられております。
 また同書に、
 「今年のけかちにはじめたる山中に、木のもとにこのはうちしきたるやうなるすみか、をもひやらせ給へ」
と述べられておられるように、山の奥深くに構えられた草庵は、まことに粗末なものであったようです。
 時光殿はこの御書を拝して大いに感激し、大聖人に対し赤誠の御奉公の決意を固められたのです。 さらに、同年11月11日の『上野殿御返事』(御書744)には、父子二代の信心を褒め讃えられ、末法の法華経の行者を供養する大功徳をご教示され、念仏・真言・禅等が悪法である所以を説かれるとともに、時光殿の信心を励まされております。

 【日興上人との出会い】
 1275年(文永12年)1月、大聖人の御名代として日興上人が、父兵衛七郎殿の墓参に来られました。この時の日興上人と時光殿の出会いは、以後60年にわたる師弟関係の出発であり、妙法広布・令法久住(りょうぼうくじゅう)の基盤確立のため、重大な意義を持つものとなったのです。この時、日興上人30才、時光殿16才であります。
 この日興上人との出会いによって更に信心を深めた時光殿は、母君と共に身延の大聖人に一層の外護の御供養を続けられるのであります。大聖人はその度ごとに御書を下されておりますが、大聖人の弟子檀那中、身延に居られた僅か9年の間に、南条家ほどたくさんの御書を頂いた方はおりません。
 大聖人より数々の御書を賜り、更に師と仰ぎ、兄とも仰ぐ日興上人の御教導に浴する時光殿の信仰は、日興上人と共に熱烈たる折伏を展開しました。
 親戚にあたる新田・松野・興津家等を始め、竜泉寺の住僧である日秀・日弁・日禅、四十九院の日源等、さらに熱原の神四郎・弥五郎・弥六郎等多くの農民達が入信し、それはやがて竜泉寺の院主代・行智の怨嫉をかい、熱原の法難へと発展してしまうのであります。

 【弟の死】
 1279年(弘安2年)の9月5日、弟の七郎五郎殿が亡くなりました。南条時光殿等、家族の悲嘆は大きく、また七郎五郎は死去の八十日ほど前に、時光殿に連れられて身延に詣でて、その折、面会あそばされており、五郎の成長を楽しみにされていた大聖人様の落胆も、大きなものであったと拝されます。 
 このことは、弘安三年の秋から、弘安五年の正月まで、故五郎のことに触れられた御消息が、八通も現存していることが物語っております。

 【熱原の法難】
 時光殿は日興上人の陣頭指揮のもと、自邸を拠点として富士地方の折伏に立ち上がりました。その折伏の勢いが起因となり、弘安二年の熱原の法難へと発展していきます。
 1279年(弘安2年)9月21日、稲刈りに集まった20人の農民が無実の罪を着せられて鎌倉に連行された上、神四郎・弥五郎・弥六郎の3人は、法華経の信仰をやめないというだけで、斬首(ざんしゅ)されてしまう事件が起こりました。
 時光殿は大聖人・日興上人の御指導のもと、師を外護し直ちに自邸を対策拠点とし同志を自邸の奥深くにかくまい、同志の中心者として熱原の信徒達を団結させ、あるいは身に危険が迫った人々をかくまいました。
 また、幕府に対し不法処分の取り消しを訴え、さらに不当な処分を受けないよう手を打ちつつ逮捕された者の家族を激励するなど、生命をかけて謗法者の弾圧と闘ったのです。この時、時光殿は弱冠二十歳の青年でしたが、少輔房(しょううぼう)、能登房、名越(なごえ)の尼等が権力の魔の前に退転し、逆に攻撃する中、地頭職にありながらも、率先、身命を賭して信徒達をかばい、日興上人のもと懸命に闘いました。
 それは弘安二年十一月十六日にお認(したた)めの『竜門御書』に、
 「願はくは我が弟子等、大願ををこせ。去年去々年(こぞおととし)のやく(疫)びゃう(病)に死にし人々のかずにも入らず、又当時蒙古のせ(攻)めにまぬ(免)かるべしともみへず。とにかくに死は一定なり。(中略)をなじくはかり(仮)にも法華経のゆへに命をすてよ。つゆ(露)を大海にあつらへ、ちり(塵)を大地にうづ(埋)むとをもへ」(御書 1428頁)
と、法華経の故に命を捨てることの尊さを御指南された後、追伸に、 「此はあつわら(熱原)の事のありがたさに申す御返事なり」(同頁)と、熱原の法難の尊い意義を讃歎され、またその折の上野殿の活躍を称賛されて、「上野賢人(うえのけんじん)」の号を贈られています。
 南条時光の熱原法難に際しての、不退の信心と護法の行動に対して、格別に褒め称えられております。

 【打ち続く試練】
 この法難の後、幕府は時光殿に対し、圧迫を加えてきました。
『上野殿御返事』に、
 「其の上わづかの小郷にをほくの公事(くじ)せめにあてられて、わが身はのるべき馬なし、妻子はひきかゝるべき衣なし」(御書1528)
と、駿河国富士郡の上野郷という小さな領地の地頭として、過分の租税や、法外な人足の提供を強要され、大変な経済的な圧迫も受けて、自分が乗る馬や、妻子に与える着物にも不自由するという状況でありました。 
 このような苦境にあっても時光殿をはじめ南条家の人々は、一層強い信心に立って大聖人のもとに真心の御供養を続けられたのです。
 上野殿の健気(けなげ)な信仰の姿には、このような悲しみと、幕府より大きな年貢を課せられ、多くの公事(くじ)に苦しみながらの窮乏(きゅうぼう)生活が裏にあったことを忘れてはならないのです。

 【病に伏せる】
1282年(弘安5年)2月、熱原の法難と、幕府からの圧迫による心労からか、24才の時光殿は病に倒れました。大聖人は御自身も病床にあるにもかかわらず、「法華証明抄」(御書1590)に、 
 「此の者嫡子(ちゃくし)となりて、人もすゝめぬに心中より信じまいらせて、上下万人に、あるいはいさめ或はをどし候ひつるに、ついに捨つる心なくて候へば、すでに仏になるべしと見へ候へば、天魔・外道が病につけてをどさんと心み候か。(中略)鬼神めらめ此の人をなやますは、剣をさかさまにのむか、(中略)日蓮が言をいやしみて後悔あるべし、後悔あるべし」
と、御自らの病をおして励まされました。
 当時、日本国中のほとんどの人びとが、大聖人様を信仰せず、かえって迫害を加えているなかで、南条時光殿が、どこまでも大聖人様の信心を捨てず、すでに成仏を果たそうとしているので、天魔・外道、また鬼神等が病を付けて脅そうとしているのであろう。南条時光の病を即刻、治しなさい。日蓮の言葉を用いなければ必ず後悔するぞと、鬼神達に対して警告を発し、南条時光の病気平癒について御配慮くださり、激励をなさっておられるのであります。
 そうして、南条時光殿は、命の蘇生を計って、以後51年の寿命を延ばすことができたのであります。

 【日興上人の身延離山】
 大聖人の御遷化(ごせんげ)の際は散華(さんげ)の大役をつとめ、御入滅後、他の有力信徒が五老僧などの指導を受けるなかを、時光殿は日興上人に信伏随従し血脈付法の大導師として信心の誠を尽くされました。
 大聖人御入滅後、時光殿の純真にして強盛な信仰は、師であり兄とも頼む、第二祖日興上人に信伏随従し、外護の任を貫かれたのであります。
 1289年(正応2年)春、身延の地頭波木井実長と民部日向の度重なる謗法に、日興上人は大聖人の正義を護るため、身延を離山され、時光殿の懇請(こんせい)に応じて、上野郷の南条邸(現在の下之坊)へ移住されたのであります。
 さらに時光殿は、末法万年の令法久住の戒壇建立の地として大石ヶ原の寄進をされ、ただちに創建の工事が起こされたのです。時光殿は、大施主として資力を傾け、人夫を督励(とくれい)し、同志の協力を得て、樹木の伐採(ばっさい)・開墾(かいこん)と、かなりの難工事であったと思われますが、1290年(正応3年)10月12日、日蓮正宗総本山大石寺の基となる六壷が完成されたのであります。日興上人46才、時光殿32才であります。
 涅槃経に「内には弟子有って甚深の義を解り、外には清浄の檀越有って仏法久住せん」とありますが、大石寺開創における日興上人と時光殿の姿は、まさにこの経文の通りであったと言えます。
 大石寺が建立されてからも、時光殿は一層の地の利を得て、日興上人・日目上人を外護申し上げ、大石寺の興隆発展に尽くされました。
 1332年(元弘2年)5月1日、16才の時から約60年、大聖人・日興上人にお仕え申し上げ、令法久住・広宣流布の礎をつくるための一生を捧げた南条時光殿は74才の天寿を全うされ、安祥としてその生涯を閉じられたのです。
 父南条兵衛七郎殿を始めとした南条家の信仰は、幼くして父君を亡くしながらも、母君の訓育を得て立派に成長し、大石寺開基大檀那として昇華し、一門よりは、子供の妙蓮寺歴代の日相師・日眼師、甥の第三祖日目上人、孫の第四世日道上人・第五世日行上人を輩出し、法統相続されたのです。
 正中元年(1323年)には、亡くなった妻・妙蓮の供養のため、下条堀之内の自邸を改め妙蓮寺としました。

 【南条時光殿の信仰を鑑として】
 こうして駆け足で振り返ってみても、時光殿が壮絶な人生を乗り越えられて来たことが伺えます。
父を早くに失い、兄や弟を亡くし、幕府からは弾圧を加えられる。そんな中にあっても疑うことなく、正月を三日後に控えて幼子に晴着の一枚も買えぬ程困窮した生活の中にあっても、身延の奥深き雪中、寒苦を忍ぶ大聖人に思いをはせ、御供養の品々を絶やすことがありませんでした。
 弘安四年九月、二十三才の南条時光殿が病の身でありながら、身延の山中で、不自由な生活をなさっている大聖人を偲(しの)び奉り、御供養の品々を使いを以てお届けしました。使いの者より、時光殿の病を知って心を痛められた大聖人が、筆を取られ、
 「参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。是にて待ち入って候べし」(南条殿御返事 御書一五六九㌻)
と仰せになられるのです。
 普通の人なら、大聖人の御慈悲のお言葉と拝せず、「病を患いながらも御供養申し上げているのに、急いで登山せよとおっしゃるとは…」とへそを曲げてしまうでしょう。
 その信心は、大聖人滅後もそのまま日興上人に捧げられるのです。
 身延離山の折は一家をあげて日興上人を自邸に懇請(こんせい)し、自領を供養し、一門を督励し、大石寺を建立されるのです。
 生老病死は万人が避けて通れない道です。人生のそれぞれの場面において、正しい信心をどこまでも、ひるむことなく堂々と、また強盛に貫くならば、南条時光殿の生涯のように充実した、揺るぎない尊い境涯を全うできるのだ、ということを学んでいただきたいと念願する次第です。
 私達は、南条時光殿の信仰を鑑として、「一年に一人が一人の折伏を」の御指南を実践行動するべく精進して参りましょう。


                 住 職  ()  (はし) (どう) (ほう)
 

 
   Copyright (c) 2010-2015 NichirenShoshu Hokkeko Jihonji All Rights Reserved