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   【一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ】
 妙法の四力について
 
     
 

 【仏法とは】
 仏法とは、人間はどうしたら苦しみや迷いを、福徳に満ちた、悟りや成仏の境界へと転ずることができるか、その実践方法を教示された教えです。
 この仏法は、仏様の悟りの内容そのものであり、仏様の当体そのものなのです。この一点から出発をして、時に応じ、機に応じて説かれたのが、お釈迦様の仏法にあってはあの多くの経典であり、大聖人様の仏法にあっては多くの御述作(ごじゅつさく)・御消息(ごしょうそく)文として今日に伝えられています。
 お釈迦様の仏法は、御存知の如くマカダ国・ブッダガヤの菩提樹下(ぼだいじゅげ)において大悟徹底(だいごてってい)され、五十年間という長い間説法をされました。
 その間に説かれた法門は八万四千に及ぶと言われています。しかし、その究極・極理は、お釈迦様が法華経を説かれるにあたり、無量義経(むりょうぎきょう)にて、
『四十余年未顕真実(しじゅうよねんみけんしんじつ)』と言われ、今まで説いてきた教えは仮の教えである、これから述べる事が真実であると、最後八年の法華経に明かされているのです。
 即ち法華経『方便品(ほうべんぽん)』において〝二乗作仏(にじょうさぶつ)〟〝十如是(じゅうにょぜ)〟を説いて諸法実相(しょほうじっそう)・一念三千(いちねんさんぜん)を明かされ『寿量品(じゅりょうほん)』に〝久遠実成(くおんじつじょう)〟を説いて、釈尊在世の衆生の成仏を完全にされたのです。
 ですから、釈尊の仏法は法華経によって大願目・大目的が成就されているのです。
 これを見失い、この筋目をはずれて、膨大な経典を平列に置いて、それをさまざまに分類し、組み合わせ、共通点を見出して、などという方法では、けっして仏の悟りの内容そのものなど理解できるものではありませんし、また仏の真実の姿を拝することなどできないのです。
 法華経『方便品』の最初の所に、
 『爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。甚深無量。其智慧門。難解難入』(開結一五三頁)
とあります。
 これは皆さんも朝夕勤行の時、読誦しているところでありますが、
 『舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量(じんじんむりょう)なり。其の智慧の門は難解難入(なんげなんにゅう)なり』(同頁)
とあります。
 これは、舎利弗(しゃりほつ)は、あのお釈迦様の多くの弟子の中で〝智慧第一〟といわれ、だれよりも、ものを知っている、理解力があるといわれた方であります。しかし、このように優れている、頭の良い舎利弗(しゃりほつ)ですら、諸仏の智慧は難解であり、難入と諭され、ものごとを知っている、理解力があるということでは、仏の甚深無量なる智慧を受け継ぐことはできない、即ち成仏することができないと説かれたのです。
 そこで舎利弗(しゃりほつ)は自ら積極的に仏の真実の姿を拝そうとする姿勢、信ずるという不退の心を持った時、釈尊は法華経を説き進められ、記別(意味:仏が弟子の未来の成仏を認定し予言すること)を与えておられるのであります。
 この『方便品』における説相は何を示されているのかと申しますと、仏法においては、知識・理解力よりも、仏の悟りの内容や真実の仏の姿をどこまでも信じ随うという一点から出発しなければならないことを示されているのです。
  釈尊の法華経を説かれる前の、四十余年の説法は、あくまでも過去において結縁していながらも、法華経を信じきれなかった人々を対機として、これらの人々の機根を練るための方便・権教であります。
 そして、最後に法華経によって得脱せしめたのが、釈尊の化導であることを知らなくてはならないのであります。
 この筋道・筋目をつかまないで究極(きゅうきょく)・極理(ごくり)を見失って、勝手に自分の考え・理解力で釈尊一代の説法の中心を決め、仏を立て宗旨を立てているのが、禅・念仏・真言等の祖師であり、このようなものは邪教という以外にないのであります。
 その結果は大聖人様が、
 「諸宗は本尊にまどえり」(御書554頁)
と喝破あそばされた通りであります。


 【末法の仏とは】
 しかるに、末法の今日、この時に叶った大法は、御本仏日蓮大聖人の御所持あそばされるところであることは、皆様も先刻御承知の通りであります。
 大聖人様の仏法は久遠元初(くおんがんじょ)・本因下種(ほんにんげしゅ)の仏法であり、三世十方の諸仏も、この本法・本仏を信じ修行してはじめて、仏たりえた根本尊敬(こんぽんそんぎょう)の仏であり、法であります。
 そこで大聖人様は、本因妙下種(ほんにんみょうげしゅ)の御本仏として御出現あそばされ、末法に生まれてくる三毒強盛にして、仏になる種を持ち合わせていない一切衆生に、久遠下種の法をそのままに下種するため、その仏法をお示しになったのです。
 そして大聖人様の仏法の一切を、御本懐(ごほんがい)たる本門戒壇の大御本尊として御建立、お授け賜わったのであります。
 そして、戒壇の御本尊はもちろん、大聖人様の仏法の一切ことごとくを滅後の衆生に誤りなく伝えるため、日興上人に血脈相承あそばされたのであります。
 そこで、大聖人様の仏法の眼目(がんもく)・究極(くきょう)はもちろん、本門戒壇の大御本尊と金口嫡々(こんくちゃくちゃく)の唯授一人の血脈付嘱に尽きるのであります。ですから、この二つの大事から目をそらせ、忘れては、いくら信心がある、お題目を唱えているといっても、それは灯も持たずに暗闇をさまよい歩くのと同じ結果となるのです。
 日蓮正宗の信心の要諦(ようてい)は、日蓮大聖人を御本仏(ごほんぶつ)と崇(あが)め、出世の御本懐(ごほんがい)たる本門戒壇の大御本尊を唯一無二と信じ、時の猊下の御指南のままに、自行化他にわたって、南無妙法蓮華経と唱題修行する事にあり、それによって初めて一切衆生の成仏が叶うのです。


 【妙法の四力とは】
 この究極の目的である成仏、また祈りを叶えるために必要な四つの要の力を「妙法の四力」といいます。
 四力とは信力(しんりき)・行力(ぎょうりき)・仏力(ぶつりき)・法力(ほうりき)の四種の力用(りきゆう)のことです。
 信力・行力は信受する修行者がもつ自力を意味し、仏力・法力は対境の御本尊が具える絶対の妙力で、他力を意味します。
 そして、その関係は、御本尊に具わる仏力・法力と、我々凡夫の信力・行力が冥合(みょうごう)してはじめて成仏の大果報を得るのであり、自力の行のみや、他力本願といった、どちらか一方に偏ったものでは利益は顕われできません。
 偏った信仰の例をあげますと、まず、キリスト教などの「神」の信仰は、神を絶対化し、神に対して人間は無力であり、善も悪も神のなすがままという、偏(かたよ)った「他力」信仰です。
 浄土宗や浄土真宗の念仏の教えも同様で、ありもしない架空の西方極楽浄土に阿弥陀仏がおり、南無阿弥陀仏と念ずるならば阿弥陀仏が迎えに来るという教えです。この世は苦しみに満ちた穢土(えど)であり、穢土には絶対幸福はないと説きす。架空の浄土をあこがれるこれらの信仰は、行えば行うほど、やがて倦怠(けんたい)と諦(あきら)めの境界となっていく教えです。
 したがって、ひたすら阿弥陀仏にすがって極楽浄土に往生(おうじょう)する、救いを求めると言う教えです。この世を諦(あきら)める教えなので、大聖人様は、
「善導と申す愚痴(ぐち)の法師がひろめはじめて自害をして候ゆへに、念仏をよくよく申せば自害の心出来(しゅったい)し候ぞ」(上野殿御返事 御書746頁)
と仰せのように、念仏は、『自害の心』が生まれてくると指摘されています。
 一方、禅宗では「自分の心を見つめて仏性を悟る」といって座禅をしますが、これは「自力」のみに執らわれた形での偏った教えです。
 煩悩充満の凡夫が、自分の命にある仏性を座禅を組んだところで顕わすことなどできません。
 大聖人様は、
 『禅宗と申し当時の持斎法師等は天魔の所為なり。教外別伝と申して、神も仏もなしなんど申すものぐるはしき悪法なり。』(上野殿御返事 御書746頁)
と破折されています。
 また創価学会では、ニセ本尊を作成販売するにあたり、「信心の二字の中にしか本尊はない」といって凡夫本仏論を立て、凡夫の信力・行力が本尊に仏力・法力を発現するという本末転倒の邪説を唱えました。これでは、仏よりも煩悩充満の仏に救われるべき衆生の方が上になってしまいます。これは大増上慢(だいぞうじょうまん)・大謗法(だいほうぼう)の言というべきです。
 これらの偏(かたよ)った宗教では、祈りをかなえるどころか、逆に堕地獄の因となってしまう事は明らかです。
 要するに功徳を顕現(けんげん)していくためには、仏様の絶対の力用・他力に対して、それを信受する私達凡夫の力用・自力を冥合(みょうごう)していくことが不可欠なのであり、これによって初めて願いが成就するのです。
 このように日蓮正宗の信心は、他力本願ではなく、「信力と行力」を強盛に励むところにあり、その姿に御本尊様が、私達に有り難い功徳を施して下さるのです。
 日蓮大聖人は『観心本尊抄』に、
『釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法は妙法蓮華経の五字に具足(ぐそく)す。我等此の五字を受持すれば自然(じねん)に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。』(御書653)と、妙法受持の功徳を説かれています。
 この御文について総本山第二十六世日寛上人(にちかんしょうにん)は『本尊抄文段』に、
 『この文の中に四種の力用を明かすなり。謂く、「我等受持」とは即ちこれ信力・行力なり。「此の五字」とは即ちこれ法力なり。「自然に譲り与う」と豈(あに)仏力に非ずや。』(日寛上人文段集486頁)
と、妙法五字の四種の力用について御指南されています。
 さて、この妙法の四力をもう少し詳しく見ていきますと、大聖人様は『当体義抄』に、
 『正直に方便を捨て但(ただ)法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く )の三道、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳と転じて、三観・三諦(さんたい)即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土(じょうじゃっこうど)なり。(略)是即ち法華の当体、自在神力(じざいじんりき)の顕はす所の功能(こうのう)なり。』(御書694)
と説かれています。
 この「但法華経を信じ」の「法華経」とは、末法の法華経である本門三大秘法の御本尊のことです。
 日寛上人はこの御文を、
 『「但法華経を信じ」とは、即ちこれ信力なり。「南無妙法蓮華経と唱う」とは、即ちこれ行力なり。「法華の当体」どは、即ちこれ法力なり。「自在神力」とは即ちこれ仏力なり。故に知んぬ、信力・行力を励む則はち仏力・法力に由り、即ち観行成就することを』(観心本尊抄文段455頁)
と示され、「但法華経を信じ」とは信力であり、「南無妙法蓮華経と唱う」とは行力であり、「法華の当体」とあるのが法力で、「自在神力」が仏力である、と仰せられています。
 すなわち、この本尊のほかに仏になる道はなしと、ひたすら御本尊を信じ奉ることが信力であり、余事を交えずただ題目を唱えることが行力です。そして御本尊の功徳が広大深遠であるのが法力であり、御本仏が衆生を救うために御本尊を顕わされ、それによって救済する力用を仏力といわれているのです。
『観心本尊抄』に、
 『一閣浮提(いちえんぶだい)第一の本尊、此の国に立つべし』(御書661)
と、あるいは『諸法実相抄』に、
『一間浮提第一の御本尊を信じさせ給へ』(御書667)
と仰せられるところの日蓮正宗の御本尊は、一間浮提第一の広大深遠(こうだいじんのん)なる功徳が具わっている御本尊ですが、その功徳を享受出来るか否かは、あくまでも私達の信行の厚薄如何にかかっていることを銘記してまいりたいものです。


 【妙法の四力の関係】
 以上、妙法の四力について説明してきましたが、この四力は、決して別々に存在するものではありません。
 日寛上人はこの四力の関係について、蓮華の花を信力、蓮華そのものを行力、水を法力、日光を仏力に譬えて次のように仰せられています。
 『蓮華は水に依って生じ、我等が信力・行力は必ず法力に依って生ずるなり。(中略)水に依って蓮華を生ずと雖も、若し日光を得されば則ち翳死(えいし)(意味:陰って死ぬこと)疑わざるが如く、我等法力に依って信力・行力を生ずと雖も、若し仏力を得されば信行退転さらに疑うべからず。』(文段集487頁)
つまり、衆生の信力・行力は御本尊の法力を元にして生じ、しかも仏力を得て正しい信心を成就するのです。
 さらに日寛上人は『文底秘沈抄』に、
 『夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く、故に境若し正しからざる則(とき)んば智行も亦随って正しからず。(中略)故に須(すべから)く本尊を簡(えら)んで以って信行を励むべし』(六巻抄42頁)
と、明確に信・行といっても正境たる御本尊が大切なのであり、妙法唱題の真の功力は、すべからく御本尊を根本としたところに顕現することを教えられています。
 もとより、血脈正統の上に伝持されている御本尊にこそ、仏力・法力が具わっているのですから、本宗の御本尊を一心に信じ、題目を唱える受持の一行に、即身成仏を得るところの観心修行があるということです。
 これが、日蓮正宗七百年の伝統です。
 今、私達日蓮正宗の僧俗は、その正境たる御本尊を受持することができ、血脈相承の御法主上人より御指南を受けることができる唯一の和合僧団です。真の「仏力と法力」に、末法時代に生まれた人は、値うことが非常に困難です。日蓮正宗に縁し、信心できる私達は、常に感謝しなければいけません。その喜びと確信をもって、信力・行力を奮い起こし、今日よりさらに折伏に精進してまいりましょう。


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