ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第206号)  
   
 
    【器は我が心身を表はす 我等が心は器の如し
 
     器の四失について  
 
 本日は、『器の四失』についてお話し申し上げたいと思います。
 大聖人様は『秋元御書』(御書 1447頁)というお手紙の中に、私達の信心の姿勢について、同じように御授戒を受け、御本尊を持(たも)ち、大聖人様の弟子となって信心をいたしましても、その人によって、その姿、在り方というものにも五つのタイプ・姿があるということを、器(うつわ)に譬えてお説きになっていらっしゃるのであります。
 この御書は、弘安三(一二八〇)年一月二十七日、日蓮大聖人様が五十九歳の御時、身延から下総国(現在の千葉県)印旛郡(いんばぐん)臼井荘(うすいのしょう)在住の秋元太郎左衛門尉勝光氏に、筒(つつ)御器(ごき)並びに盞(さかずき)の御供養の返書として与えられたお手紙です。
 このお手紙にて大聖人様は、筒御器等の御供養を受納されたことを報告し、秋元氏の深志を讃嘆されます。そして、完器に対する破器の四失(ししつ)(覆(ふく)・漏(ろ )・汀(う )・雑(ぞう))を説き、さらにその四失(ししつ)を用いて四種の謗法の相を顕し、欠ける事のない信心を奨励されます。
 これは、天台大師の『法華文句(ほっけもんぐ)』に、
「過去の根(こん)浅(あさ)く、覆(ふく)漏(ろ )汚(お )雑(ぞう)し、三慧(さんえ)生ぜず」
とあるのに対し、妙楽大師が『法華文句(ほっけもんぐ)記』に、
 「聞慧(もんえ)なきがゆえに、器(うつわ)の現(げん)に覆(ふく)するがごとく、思慧(しえ)を闕(か )くるがゆえに器の漏(も )るがごとく、修慧(しゅうえ)なきがゆえに器の汚雑(おぞう)せるがごとし」
と釈されたところに由来します。
 大聖人は『秋元御書』において、
 「器は我等が身心を表はす。我等が心は器の如し。口も器。耳も器なり。」(御書 1447頁)
と信心の在り方を器になぞらえ、
 「器に四の失(とが)あり」(前 同)と、覆(ふく)・漏(ろ )・汀(う )・雑(ぞう)が衆生の成仏を妨(さまた)げる要因であると御教示されています。
 器と申しましても、皆様が食事で使用されるお茶碗・お皿など、色々ありますが、そうした器の中にも良く磨かれた完全なる器もあるかと思えば、ある時は不始末をして割れたり欠けたりヒビの入った器もあります。
 また、汚れてそのままの器もございますし、中には水の漏(も )れる器もあり、また蓋(ふた)をしたまま取れずに何も入れられない器もあります。
 その器というものは、ただ単なる器ではなくて、私達の信心の姿を表しているということをこの『秋元御書』にお認めになっていらっしゃるのであります。
 それでは、一つ一つ見ていきたいと思います。

①「覆(ふく)」
「覆(ふく)」とは、覆(くつがえ)る、覆(おお)う、ふたが閉しまっている等の意で、正法を信じようとせずに我が身の仏性を開かないことをいいます。この「覆(ふく)」を大聖人は、
 「仏の智慧の法水(ほっすい)を我等が心に入れぬれば、或は打ち返し、或は耳に聞かじと左右の手を二つの耳に覆(おお)ひ、或は口に唱へじと吐き出だしぬ」(前同)
と示され、仏の智慧の法水である文底下種の南無妙法蓮華経を求めない姿に譬えられています。
 皆さんも折伏をして行くなかで、どんなに誠意を込めてお話ししても、聞き入れない方もいらっしゃると思います。それがまさにこの姿です。
 さらに、せっかく信心をしても、功徳功徳と自分の信心修行は人並み以下であっても、功徳だけは人並み以上に欲するという、我がままな人が多いのです。
 ろくに勤行もしない、お題目も唱えない、それでいて功徳がないとか、信心してもすぐ良いことがないとか言って、いつの間にか信心を覆(くつがえ)して退転してしまう人も残念ながら中にはいます。
やはり信心はどこまでも全うするという強い一念、不退転の決意を持って、貫いて頂きたいと思います。
 信心は生涯にわたっての貫き通すことが尊いのであります。一時は歓喜に燃えて精進していても、途中でやめてしまっては意味がありません。
 私達の信心は、始めも中程も、また、人生の晩節を迎えた最後も、常に不退転の信心、発心を繰り返し、また、その精進の姿が常にあるということが大切なのであります。
 大乗の人の菩薩の修行の姿として、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)と、「六波羅密(ろくはらみつ)」が説かれておりますが、この中の一つでもいいのです。良く堪え忍ぶなら、堪え忍ぶということでも結構でありますし、精進なら精進の姿でも結構であります。
 そのどれかを常に自分の信心の鏡として、そこから常にいつの時点においても、また、再び希望を持って立ち上がって行くという、そのような発心というものが基盤となった信心を全うし、決して覆(くつがえ)すことのない、不退の決意に立った信心を目指していただきたいと思います。

②「漏(ろ )」
 「漏(ろ )」とは、器から水が漏(も )れることの意であり、いつまでも水が溜(た )まらないことは、正法を聞いても持続性のない姿勢に譬えられています。
 大聖人は、
 「或は少し信ずる様なれども又悪縁に値ひて信心うすくなり、或は打ち捨て、或は信ずる日はあれども捨つる月もあり」(前 同)
と仰せられています。
 例えば一カ月のうち一日だけ信心をして、あとの三十日は捨ててしまっているということでは、常に水が漏(も )れているようなものです。
 大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』(御書906頁)で、千日尼に対し「なはて(畷)堅固」ということについて説かれております。
 どれほど長く大きな堤防であっても、そこに、ほんの蟻一匹通るような穴があると、その穴が、やがて大きくなって、湛(たた)えた水が漏(も )れていってしまうように、小さな、まあいいやと思う気持ちが、結局自分の信心の功徳の水を押し流していってしまうのだということをよく心に置いていかなければならないと説かれております。
 せっかく信心をしても、その信心の一念心が所々欠けていますと、せっかくの自分が積んできた功徳の水が漏(も )れてしまうこともあると、大聖人様は器に譬えられ、説かれておられるのであります。

③「汀(う )」
 「汀(う )」とは、器自体の汚れにより中身までが汚染されることで、これは修行者の我見や謗法の念慮(ねんりょ)が、清浄な法水(ほっすい)を汚し、功徳を失う姿を指しています。
 大聖人は、 
「水浄(きよ)けれども糞(ふん)の入りたる器の水をば用ふる事なし」(前 同)
と示され、もともと汚れている器に清水を入れても、それを飲むことができなくなるように、法水は清浄であっても、そこに信心の汚れがあると、大聖人様の信心をどこまでも純真に全うすることができません。
 もし自分の器が汚れているならば、どんなに奇麗な水をそこに張っても、その水がゴミのために汚れてしまいます。
 そしてまた、その器の中に不浄な物を盛ってしまうと、それは総てが不浄になってしまうわけであります。ですから、やはり持つ御本尊も、信仰の対象もまた純真な清らかなものでなければならない。と同時に私達の信心もまた、清らかなものでなければならない。清らかなものと不浄なものが交われば全部、不浄なものになってしまう。どちらが不浄であっても、総てが不浄になってしまう。その恐ろしさということを考えなければいけない。そこに謗法の謗法たる所以があるわけです。
 
④「雑(ぞう)」
 「雑(ぞう)」とは、混(まじ)るの意で、正法に邪義を混入させることをいいます。
 大聖人は、
 「或は法華経を行ずる人の、一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申すは、飯に糞を雑(まじ)へ沙石(いさご)を入れたるが如し」(前 同)
と、妙法を信受しながら余事を雑(まじ)えることの愚(おろ)かさを説かれています。

 村山てるさんと、埼玉のある方のところへ、折伏に行った時の話です。
 その方は、学会の草創期の頃は大幹部で頑張っていましたが、今は退転しており、何とか再折伏をしたいということで同行させてもらいました。
 随分と個人的に様々な宗教の勉強をしているようでしたが、仏壇を拝見して唖然としてしまいました。
 草創期に幹部をしておりましたので、日達上人の特別御形木御本尊様を安置し、正本堂御供養にも励まれたようで、「功徳無量」という御染筆も頂いておりました。
 その方の仏壇には、御本尊様の前に水晶玉が置かれ、樒の代わりに「風水だと黄色い花が縁起が良い」と黄色い造花が置かれておりました。
 また、別室には仏像や菩薩像が所狭しと置かれ、これこれは幾らしたと金額自慢を始めました。
 絶対に日蓮正宗には入らないという態度で、一方的に話し、大聖人の仏法を批判し、日達上人の御染筆までも「たいした字ではない」と言い放っておりました。
 まさに自分一人が悟った気になっている人のことを二乗根性(にじょうこんじょう)といって嫌い、法華経以外のお経では、成仏から一番遠い人のことを「二乗(声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく))不作仏(ふさぶつ)」と言いますが、そんな方でした。
 この本尊雑乱(ほんぞんぞうらん)の姿がそのまま家に現れ、広いお宅でしたがゴミ屋敷のようであり、猫の悪臭がただよい、家族みんながどこかしら病気を持っていました。
 自分の父親の、臨終の姿を見て悟ったと言っておりましたが、亡くなった時には両手を天に挙げた姿が、尊い姿のように言っておりましたが、それは「虚空を掴む行為」といって成仏とは遠い姿でしかありません。
 私も黙って「そうですね」と聞いていたのでは罰が当たってしまいますので、言うべきことは言い、帰ってからも手紙を書き「妙彩」を送りましたが、残念なことに、後日「迷惑だ」と電話がありました。
 大聖人様は、今、末法はこの南無妙法蓮華経の一事を貫く時であり、決して余事余経を雑(まじ)えてはいけないということで、
「世間の学匠は法華経に余行(よぎょう)に雑(まじ)えても苦しからずと思へり、日蓮も、さこそ思い候へども経文は爾(しか)らず」(御書1447頁)
ということをおっしゃっておられます。
 ですから同じ信心を持った仲間といるときは一生懸命「南無妙法蓮華経」と唱えるけれども、不信心の親戚の人であるとか、あるいは兄弟等と交わると、途端に昔の念仏、真言、禅宗の執着を捨てることができない、また軽い気持ちで祭りやクリスマスなどに参加する人がいます。
 そういう人は、一つの器の中にせっかく白米を盛っても、そこに石やゴミを混ぜてしまうようなものだということをおっしゃっておられるのであります。
 どこまでも清浄な清らかな信心を全うする。むしろ正法を貫くことによって、わが心身を六根清浄(ろっこんしょうじょう)な命へと変えていく訳でありますから、その邪(よこしま)なもの、不浄を捨てるということが真(まこと)の信心なのだということをお考えいただきたいと思うのであります。
 また、私達がよくよく注意しなければならないのが、我見(がけん)・慢心(まんしん)等で生命が汚れているならば、信心も歪み、利益も得ることができないのです。
 この覆(ふく)・漏(ろ )・汀(う )・雑(ぞう)の四つの失のない完璧な器を『完器(かんき)』といいますがこの四失(ししつ)のない器こそ、はじめて使用できる器でなのです。そして、私たちの信心もこの四失(ししつ)がない完全な状態ならば、御本尊様の御威徳が損なわれずに浴することができると述べられています。
 「信心のこゝろ全(まった)ければ平等大慧(びょうどうだいえ)の智水(ちすい)乾(かわ)く事なし」(同 1448頁)
と仰せのように、私たちの信心が堅固(けんご)であれば仏の平等大慧の智慧の水も満々となり、即身成仏の本懐を遂げられることを知るべきです。
 世間の人は、どんな宗教であろうと、みんな手を携えて世界の平和を願っていけば、崇高な素晴らしい世界の連帯が出来るように思っておりますけれども、事実はそうではないのであります。
 本当の純真な信心というものは、どこまでも正法と邪法の分別をしっかり貫いて、そして不浄なもの、間違った信心を捨てて正しい信心を貫く以外に世界の平和は無いのであります。

 最近では、中国漁船が尖閣諸島付近で違法操業し、その後日本の海上保安庁の巡視船に衝突してきた映像が流出しました。また、北朝鮮が韓国に向けてミサイル攻撃をするという暴挙に出ました。
 以前紹介しました、元アメリカ兵の法華講員の方がイラクへ派遣された時の体験談の中で、
・兵士は9・11の復習に燃えテロリストは皆殺し にしてしまおうとの怨念に満ちている
・アメリカ軍は自らのことを神の軍隊と位置づけている
・よって軍隊の中でも他教徒への差別が行われている
・自身は何度も死の淵にさらされながら、護られてきた
との話がありました。
 これもつい最近、ウィキリークスに漏洩された米軍所蔵のビデオには、2007年バグダッド郊外で米軍ヘリが民間人を襲撃し12人を殺害した現場が映っています。
 犠牲者の中にはロイター社の職員もいましたが、肩からカメラ機材を下げていただけで武装していると疑われ、明らかに丸腰だった周囲の人々とともに爆撃を受けました。
 たまたま現場を通りかかり、道に倒れている負傷者を救出しようとしたトラックも爆撃され、運転手は死亡、乗っていた彼の子供2人も大ケガをしました。ヘリコプターの兵士たちと地上部隊との交信も記録されていますが、笑い声が混じり、そこにはイラク民間人を人間とみなしていない冷酷な会話が聞き取れます。
 私は、これら兵士の根底には、本人達が意識するしないに関わらず、他教徒への差別と憎しみがあるのだと感じています。
 このような不安定で、利己の欲のみを考え、憎しみが渦巻く世界の人々を、その命の底から救済する為には、その不浄な思想・煩悩を清らかな信心によって、その人を仏界へと導く以外にはないということを、我々は考えていかなければいけないのであります。
 そこに、大聖人様の正法正師の正義をもって世界の人々を救済する、広宣流布をしていく大道が開かれているのであります。ただ単に姿・形だけ手を繋ぎ合って、心は全く別々の心で、信心も全く別々の信心をもって、世界の連帯、世界の広布は、絶対に出来ないのであります。
 そこに諸宗の人の姿・形だけの見せ掛けの似非(えせ)平和主義と、大聖人様の正義を貫く上において、一切の人々の命の底から救済していく広宣流布の手だてと大きな違いがあるということであります。
 『秋元御書』に、
 「過去遠々劫(かこおんのんごう)より今に仏に成らざりける事は、加様の事に恐れて云ひ出ださゞりける故なり。未来も亦復(またまた)是くの如くなるべし」(御書1453頁)
と、衆生が成仏できない理由が、三世にわたって等しく臆病風に吹かれて折伏を怠る謗法与同の罪にあることを明確に御指摘くださっています。
 御法主日如上人はこの御文について
 『今日のいろいろな社会情勢を見ていますと、我々だけが信心しているようではだめなんです。我々の力で本当に一国正法流布をしていく、世界に広宣流布をしていくということが大事なのです。その役目が我々にはあるのです。
 自分の生家が謗法であったということはよくありますね。自分一人だけが信心をしていて、両親が信心をしていないというようなケースもたくさんあると思います。そこで、謗法の家の失を脱れようと思うならば「此の事を語り申せ」とおっしゃっています。「此の事を語り申せ」というのは「南無妙法蓮華経が最も尊い」「南無妙法蓮華経でなければ本当に幸せにはなれない」ということをはっきりと言いなさい、つまり折伏しなさいということです。
 過去遠々劫より今日まで我々が仏に成れないのは、折伏することを恐れてしまって、言い出さないからであるということです。これでは一生、仏には成れませんよということであります。さらにその後に、「未来も亦復(またまた)是くの如くなるべし」と、このようにおっしゃっておられます。
 ですから、大聖人様が身命を賭して国主を諌暁せられたそのことを思うとき、私たちは力の及ぶ限り、我が家に謗法があればそれを破折し、そして国に謗法があれば、国の謗法を責めていくべきなのです。
 そこで、今日において国の謗法を責める、国主を諌暁するには、どのようにしたらよいのかということが問題になります。しかるに、今日の日本のような主権在民の世の中にあっては、我々民衆が中心でありますから、我々が一人ひとりを折伏していくことが、この国主への折伏に通じていくわけです。
 御隠尊日顕上人猊下が常々御指南あそばされていたように「1人が1人以上の折伏」を行っていくこが大事なのです。
 要するに、謗国の失を脱れようと思うならば様々な難に遭う。しかし、それを覚悟して精進していかなければ仏には成れないわけです。これまで仏に成れなかった、幸せになれなかったというのは、結局、難に遭うことを恐れてしまって折伏をしてこなかったからであるということであります。』大白法 平成18年12月1日号と具体的に懇切丁寧に御指南下さっております。
 こんなに有り難いことはないのです。なぜなら、我々は迷うことなく、信心修行に励むことが出来るからなのです。
 私たちは、現在「平成二十七年」の誓願に向かって折伏・育成に前進していますが、この御命題こそ自身を成仏に導いてくださる尊い御本仏の御慈悲と受け止め、今こそ勇気を出して折伏に精進してまいりましょう。
本日は

由があ法のす。

        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
   Copyright (c) 2010-2015 NichirenShoshu Hokkeko Jihonji All Rights Reserved