ホーム > 御住職の法話目次  御住職の法話 (第205号)  
   
 
    【菩薩と申すは必ず四弘誓願ををこす
 
    誓願について  
 
 
我々日蓮正宗の僧俗は、日々、日如上人猊下の元、全国、全世界の各支部が折伏弘教に励んでおります。
 宗門では、「折伏目標」とは言わずに「折伏誓願(・・)目標」というように「誓願」の文字が入ります。
 たった二文字ではありますが、実はそこに深い意義が込められておりますので、今日はそのことについてお話ししたいと思います。

 「誓願」とは、仏・菩薩が一切衆生を救わんと誓いを立て、その成就を願うことをいいます。
 法華経の『方便品』に、
 「舎(しゃ)利(り )弗(ほつ)当(まさ)に知るべし 我(われ)本(もと)誓願を立て て一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき」(新編法華経 111頁)
 とあるように、釈尊の願いは一切衆生を「我が如く等しくして異ること無からしめん」、すなわち成仏せしめることであり、その成就を願って法華経を説かれました。
 誓願について天台大師は、『摩訶止観(まかしかん)』の第七に、
 「発願(ほつがん)は誓うことである(中略)誓願を立てることによって行を持ち、初めて目的を達成することができるのである(趣意)」
と釈しているように、誓願は目的(仏道の成就)に向かって進むためになくてはならない決定心(けつじょうしん)です。
 また、信心修行する凡夫の立場から誓願という場合、この誓願の誓(せい)というのは、誓(ちか)いであります。これは何を誓うのかと申しますと、自分の心に堅く、しっかりと信心の志を固めて、御本仏に対してその信心をお誓い申し上げること、そこに誓願の誓という意味があるわけです。
 それから誓願の願いという字でありますが、これは何を願うのかというと、自分の心に願いを持って、それを御本仏に対して祈るということであります。
 この自分の心願の成就を祈ると同時に、自分はこのように信心を全ういたします。自分はこのように精進しますと、御本仏に対して自分の信心を深く誓って、約束をするということがあって、はじめて誓願と言えるのです。

 【総別の二願】
 諸仏・菩薩の誓願には、『摩訶止観』や日蓮大聖人が『法華真言勝劣事(ほっけしんごんしょうれつじ)』に、
 「総別の二願満ぜずんば衆生の成仏も有り難きか。能く能く意得べし云云」(御書 310頁)
と説かれるように、総別の二意があります。
 別の誓願(別願)とは、阿弥陀仏の四十八願、薬師の十二願、釈尊の五百大願などの個別の願をいいます。
 総の誓願(総願)とは、すべての仏・菩薩に共通する誓願で、四弘誓願などをいいます。
 仏法では、小乗の人であれ、大乗の人であれ、菩薩と言われる人は、基本的に、生涯を通して四つの誓願を立てる。また立てることが必要だということを言われております。これを四弘誓願(しぐせいがん)と申しまして、仏道修行の上における非常に大切な肝要を説かれたものであります。

 【四弘誓願(しぐせいがん)】
 これはどういうことかと申しますと、一番目は
●「衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)」
と申しまして、仏道を志すものは、ただ自分だけ、自分一人が救われれば良い、仏道を成就すれば良いということではなくて、自他共に、この法界のありとあらゆる衆生と共に、むしろ衆生をことごとく救い切っていくという、いうならば広い慈悲の志を持って、そして仏道修行を目指すということが大切だということであります。
 そして二番目は、
●「煩悩無数誓願断(ぼんのうむすうせいがんだん)」
と申しまして、人間は、みんな毎日毎日、一念一念、一瞬一瞬を、この煩悩によって生きているわけであります。
 色々な欲望、願い、希望と言葉は変わりましても、その基はこれまた煩悩であります。その煩悩を断ずるということは非常に難しい。またそんなことをしたのでは、たとえ一日たりとも生きることは出来ないわけですが、その煩悩を持った、煩悩によって穢(けが)れた自分の命を、仏道を志すことによって、その罪障といわず穢(けが)れといわず、ことごとく清らかな命へと改革していくことを志すことです。
 三番目は、
●「法門無尽誓願学(ほうもんむじんせいがんがく)」あるいは、「誓願知(せいがんち)」とも申します。
 深い大海のような仏法のあらゆる法門の中で、その一番奥底の本義を究めたい、せっかく仏道を志すならば、その観心の根本の教え、究極の教えを究めたい、知りたいと願うことです。
 四番目が、
●「仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)」、「誓願証(せいがんしょう)」とも申します。
 仏道における無上菩提を証する、成就する、真の涅槃(ねはん)の境界、あるいは即身成仏の境界を目指していくということであります。
 宗祖日蓮大聖人は、
 「菩薩と申すは必ず四弘誓願ををこす。第一衆生無辺誓願度の願成就せずば、第四の無上菩提誓願証の願は成ずべからず。」(御書706)
と、四つの誓願の中でも特に「衆生無辺誓願度」が最も重要である事をお示しです。
すなわち「上求菩提(じょうぐぼだい)、下化衆生(げけしゅじょう)」と申しまして、天台大師の『摩訶止観』巻第一上にも「上求仏道、下化衆生発菩提心」という言葉で説かれております。
 つまり、上は仏様の境界にできるだけ近付くように努力をし、下はまだ正しい教えを信じていない人たちに教えを広く説き被(こう)らしむということです。
 自分の利益・成仏のみのために修行するのではなく、一切衆生をことごとく救っていくために法を説いていくことが大切なのです。

 【大聖人様の誓願】
 大聖人様は、御承知のように、そうした四弘誓願(しぐせいがん)を更に一歩進めて、御本仏の立場において、『開目抄』に、「三大誓願」(御書572頁)
という三つの大きな誓願を立てられました。
 御存知と思いますが、「我日本の柱とならむ」という先ず第一の誓願を立てられておられます。大聖人様は、末法における主師親三徳兼備の仏様でいらっしゃいますから、その御境界の上から、「我日本の柱とならむ」と仰せであります。
 柱ということは、これは主徳を表すお言葉であります。一切衆生救済の御本仏の立場において、法界の全体の人々を救済する柱となる、その根本の仏とならんと誓願されておられるわけであります。
 その次に大聖人様は、「我日本の眼目とならむ」という誓願を立てていらっしゃいます。眼目というのは師徳を表す御言葉であります。一切衆生の盲目を開く、その開目の師、開導の師となる。ですから一切衆生の根本の師匠の立場に立って、大導師の立場から一切衆生を教導し、一切衆生の仏法における盲目を切り開いて、そしてこれから末法万年の人びとを教導していくという意味において、「我日本の眼目とならむ」と誓願されておられるわけです。
 次に大聖人様は、「我日本の大船とならむ」とおっしゃっておられます。大船ということは親の徳を表すお言葉で、一切衆生をこの娑婆世界から真の仏道を成就した涅槃(ねはん)の彼岸(ひがん)の彼方へと導いていく船の大船頭、大船師の立場において、これは父母の徳を示しておられるわけであります。
 その慈悲と、功徳と、真実の救済を与える父母の立場に立っての御慈悲を明かされていらっしゃるわけであります。
 このように、大聖人様は、「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ」という三大誓願を、『開目抄』にきちっと説き明かされていらっしゃるわけであります。

 【立願(りつがん)の志を持て】
 ならば私達も、大聖人様の弟子檀那という以上は、皆様一人一人が生涯を通して、この三大誓願にならって、お互いに自分の境界における願目を立てていただきたいと思うのであります。
 それが身近なことであれ、家庭のことであれ、人生のこと、仕事上のこと、信心の上のことであっても結構であります。一人ひとりが、常に御本尊様に対して、大聖人様に対して祈願する願目を持っている。
 それと同時に大聖人様に対して約束することを持っている。そういう願いと誓い、つまり約束をきちっと守るという人であっていただきたいと思うのであります。
 「あなたは御本尊様に対して何を願っていられるのですか?」と質問されれば、きちんと「私はこのことと、このことと、このことを願っております」と答えられる。
 また「あなたは大聖人様に対して何を約束するのですか?」と聞かれれば、「私はこのことを約束して、日々修行しております」ということを、間髪を容れず即座に言える、そういう一人ひとりになっていただきたいと思います。
 せっかく信心をするのですから、常に御本尊様に対して何を願って勤行・唱題をし、信心しているのか。
 その願うことがなければ、朝夕、真剣な勤行や唱題は出来るはずがありません。 
 いやしくも大聖人様の弟子檀那というならば、僧侶は僧侶として、信徒は信徒として、少なくとも三大誓願にならって三つの誓願を一人ひとりが打ち立てていただきたい。貫いていただきたい。それがなければ、自分を戒めることも、信心の姿勢をきちっと惰性に流されないように維持することも、そしてまた清らかな唱題を貫くということも、出来ないのであります。
 一人ひとりが願いを持つ、立てるという立願の志というものを持っていただきたいと思うのであります。

 【正境に縁してこその誓願】
 妙楽大師の書かれた『弘決(ぐけつ)』の最初に、 
「縦(たと)い発心(ほっしん)真実ならざる者も、正境(しょうきょう)に縁すれば功徳猶(なお)多し。《中略》若し正境に非ざれば縦(たと)い妄偽(もうぎ)なくとも亦(また)種(しゅ)を成ぜず」
と言われております。
 自分の願いというものが、たとえその四弘誓願(しぐせいがん)に反するような、いうならば自分の我欲から出た願いや、それが、たとえ仏道の本質から離れたことであったとしても、正しい御本尊様に向かって、そのことを願うことによって、ひたすら自分が信心に精進し、全う出来るとするならば、それで良いということを言われているのであります。
 逆に、どんなに偉そうな誓願を立ててみたところで、その願う対境、願う本尊が、いいかげんな間違った偶像や、邪義、邪教に毒された宗旨の本尊であっては、いくら祈っても決してそれは真実の仏道修行にならないばかりか、悪業を積んでしまうことになるのです。 
 逆に大聖人様の一閻浮提第一の御本尊様の下に願い、そのことによって自分の信心が清らかに成就するならば、それは決して恥ずかしい願いではないんだということを、妙楽大師は私達に教え、勇気づけて下さっているのであります。

 【究極の誓願は法華弘通である】
 「大願とは法華弘通なり」(御書 1749頁)と大聖人様は末法万年の人々を救済するという誓願を打ち立てられていらっしゃいます。世界の広宣流布が、必ずこの妙法の力によって、この功徳力によって、必ず成就することができるという大誓願をお示しでございます。
 従って、私達も日蓮が弟子壇那と名乗る以上は、その大聖人様の深い広布の誓願に立って、その上に自らの願いを託して、そして一つでも二つでも、その解決のために、清らかな、堂々とした、信心を全うしていくことが大切だと思うのであります。
 何の願うこともなく、ただ惰性で勤行唱題をする、あるいは、罰が怖いから勤行をするとか、そういう低次元の信心をしてもらっては困るのであります。
 自ら心に誓願をもって、そして自らの一念心で、祈り切っていく、信心をしていくことが大切なのであります。その心なくして、功徳もあり得ないということを深く心に銘記していただきたいと思うのであります。
 信心は自分だけの我欲のことをもって、祈っても意味がないのです。それはとても叶いません。やはり、そこには大聖人様の本誓願に叶った信心の上に、それを願うことが大切であります。どういうことかといいますと、それは広宣流布の志ということを深く心において、その上に願っていくことが大切であります。
 五座の勤行の中にも、まず四座において広宣流布ということを御祈念し、そのことをお誓い申し上げる上において、自分の小さな願い、自分の願いというものを、そこに託していくことが大切だと思います。
 それと同時に、また勤行の中において観念文の中にも、久遠以来の一切の罪障の消滅を祈るということがあります。罪障消滅を深く心に期する。それも自分だけの罪障消滅ではなくて、一家、一族、皆の罪障消滅を深く御祈念申し上げていくことが大切であります。
 それと、やはり三宝の恩、一切衆生の恩、父母の恩などの、知恩報恩(ちおんほうおん)の志を失って、不平不満、愚痴の上に、自分の願いだけ、ひたすら我欲をむきだしにして祈っても意味がありません。それではとても叶いません。やはり、その報恩の志が大切です。 例えどんなに厳しくしつけられた親であったとしても、親らしいことをしてもらったことがないような親であったとしても、その親があって今日の自分があり、そして今幸いにこの大聖人様の一閻浮提第一の正法に巡り会うことも出来たのでありますから三宝をはじめすべてに深い報恩の気持ちを持てなければ諸願は叶いません。
 それと信心は、自分の心を中心に、自分の心にそうことだけはやるけれども、一度自分の心にそぐわないことはやらない。自分が気に入った時に、気に入ったように、気に入ったことだけをやる。そういう我がままな信心であってはいけないのであります。
 やはり自行化他にわたって、どこまでも大聖人様の御義に叶う信心をする。大聖人様の教えに叶った信心をして、本当に日蓮が弟子旦那として恥ずかしくない自分に日々成長していく。
 その過程において、大聖人様の御認可をいただいて、そして過去、現在、未来と、三世にわたっての命を改革するほどの大功徳をいただくことが出来るんだということを、深く心に固く信じていただきたいと思うのであります。
 ですから、自分の願いが叶いさえすれば幸せになれると思うのは錯覚です。自分勝手な願いがすべて叶ったとしたら人間の世界は混乱し、壊れてしまいます。
 ゆがんだ自分勝手な願いが転換されるところに本当の功徳があるのです。
 無慈悲な願いを懐かなくなることが仏法の功徳がなのです。これは六根清浄にも通じます。
 凡夫の願いは自分勝手なものが多すぎます。そんな願いがすべて叶ったら、世の中は混乱してしまいます。現実の世界は至る所で、凡夫の欲望が混乱を巻き起こしています。
 普通の親は教育のために、オモチャ売り場で泣いてせがむ子供の願いを聞き入れないのと同じで、仏様の功徳は分かり易く言えば、泣いてせがむ子供の矯正こそが功徳なのです。
 大聖人様の誓願とは一言で言えば、一切衆生の救済であり、我々の使命もそこにあるのです。
 衆生救済のためには真剣な唱題と折伏しかないのであります。
 本年もあと二ヶ月あります。それぞれが誓願を立て頑張って参りましょう。


        住 職  () (はし)  (どう)  (ほう)  


 
   Copyright (c) 2010-2015 NichirenShoshu Hokkeko Jihonji All Rights Reserved