ホーム 御住職の法話目次 御住職の法話 (第204号)
 
 
   【法華経の第五の巻をもて日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はず、うれしくぞ侍りし】
 
竜口法難について
 
     
    【松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)襲撃】
 文永八年(一二七一年)平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)頼綱(よりつな)は大聖人を逮捕するために、数百人の武装した兵士を率いて松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)に押し寄せました。
 そのありさまは、たったひとりの僧侶を捕らえるには余りにも物々しく、異常なものでした。
 「評定所に召還(しょうかん)されてから二日後、去る文永八年九月十二日に、御勘気(ごかんき)(龍口法難)を蒙(こうむ)りました。その際の御勘気(ごかんき)の様子も尋常ではなく、法律の範疇(はんちゅう)を逸脱(いつだつ)していたように、見受けられました。(中略)平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)は、大将として、数百人の兵士に、胴丸(どうがん)を着させて、烏帽子(えぼし)を掛けさせました。そして、平左衛門尉(へいのさえんのじょう)は、眼を怒らして、声を荒くしていました。」(意訳)(種々御振舞御書 新編一〇五七頁)
と、あたかも天下の大(だい)謀反人(むほんにん)を捕らえるような大騒動でした。
 頼綱(よりつな)ら一行は松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)に着くや、仏像・経巻を踏みにじり、暴虐の限りを尽くしたのでした。
 このとき大聖人は、
 「常日頃から思い焦がれてきたことは、まさしく、このことである。法華経のために、身を捨てらることは、何と幸せなことであろう。
 そして、法華経のために、臭き頭を刎(は )ねられることは、あたかも、砂を金に替えたり、石で珠を購入するようなものである。」(意訳)(種々御振舞御書 新編一〇五八頁)
と、今こそ法華経身読(しんどく)のまことの時なりと感ぜられ、泰然自若(たいぜんじじゃく)として唱題されたのです。
 そのときに、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の一の郎従(ろうじゅう)・小輔房(しょううぼう)は、大聖人が懐中にしていた法華経第五の巻をもって大聖人の頭を、三度にわたって打ちさいなんだのです。この法華経第五の巻には、如来滅後の末法に法華経を弘通するならば必ず三類の強敵(ごうてき)が競い起こり、刀杖の難に遭(あ )うと説く『勧持品』第十三が納められているのです。不思議にも今、大聖人はその第五の巻軸をもって、打擲(ちょうちゃく)されたのでした。
 大聖人は『妙密上人御消息』に、
 「法華経の第五の巻をもて日蓮が面を数箇度打ちたりしは、日蓮は何とも思はず、うれしくぞ侍りし。不軽品の如く身を責め、勧持品の如く身に当たって貴し貴し」(新編九六九頁)
と仰せられ、小輔房(しょううぼう)こそ日蓮が身にとって経文符号の恩人であると、甚深の境智を明示されています。
 小さな草庵(そうあん)は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)主従によってたちどころに足の踏み場もないほど荒らされました。兵士達は経巻を広げて身にまとい、足で踏みつけ、あたかも自らの破壊行為に酔いしれているようでした。
 その時でした。突然、大聖人は大音声を放って、
 「あらをもしろや平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)がものにくるうを見よ。とのばら、但今ぞ日本国の柱をたをす」 (種々御振舞御書 新編一〇五八頁)
と叫ばれたのです。
 この大聖人の大音声に、今まで夢中で狼藉の限りを尽くしていた平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)とその郎従は、一瞬われに返り、大聖人の烈々たる気迫に、顔色を失い、静まりかえりました。
 この大音声こそ、大聖人の仰せられる「第二の高名」でありました。
 後に大聖人は、本仏としての境界から、この時のことを諸書に述べられていいます。
 『報恩抄』に、
 「平左衛門並びに数百人に向かって云はく、日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ」(新編一〇一九頁)
 『佐渡御書』に、
 「日蓮は此の関東の御一門の棟梁(とうりょう)なり、日月なり、亀鏡(ききょう)なり、眼目なり、日蓮捨て去る時七難必ず起こるべしと、去年九月十二日御勘気(ごかんき)を蒙(こうむ)りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし」(新編五七九頁)
 頼綱(よりつな)とその郎従は、この大聖人の威厳と大音声の気迫に打たれ、「もしかしたら、これは、間違ったことをしているのかも知れない。」と思ったからなのか、兵士たちの顔色が変わったように大聖人様には見えました。
 その後、気を取り直し、やっとの思いで大聖人を捕らえたのでした。
 日蓮大聖人の逮捕の翌日、つまり九月十三日に「関東御教書(かんとうみぎょうしょ)」が幕府から出されています。鎌倉幕府より蒙古襲来(もうこしゅうらい)に備えて御家人に対し、九州に赴き防戦するようにとの命令書です。
 そうなると日蓮大聖人の逮捕は、外寇(がいこう)に備えるための思想統制を目的とした予防検束(けんそく)であったとも言えます。
 とにかく日蓮大聖人は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)により、その御教書(みぎょうしょ)が発せられる前日の九月十二日に不当に逮捕されたという事です。


 【評定所(ひょうじょうしょ)への連行】
 『撰時抄』に、
 「さんざんとさいなみ、結句はこうぢをわたし」(新編八六八頁)
 『神国王御書』に、
 「日中に鎌倉の小路をわたす事朝敵のごとし」(新編一三〇五頁)
とあるように、大聖人は身を縄で打たれ、松葉ヶ谷(まつばがやつ)から重罪人のごとく鎌倉の街中をひき回され、幕府の評定所へ連行されました。そして大聖人は、再び平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)と対面しました。
 平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)には、すでに十日の対面のときに仏法の正邪を十分に理をもって説かれました。そして、さらにこの九月十二日に『一昨日御書(いっさくじつごしょ)』をもって再度、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)に「正法に帰依し国を安んずべし」と諭されました。
 したがって、こうして再び評定所で対面しても、すでに平左衛門には大聖人に問うべきことは何もなかったのです。


 【幕府の策謀(さくぼう)】
 評定所での判決は、表向きは「佐渡流罪」でした。
しかし大聖人を憎む平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)や武蔵守宣時(むさしのかみのぶとき)ら幕府の要人、そして良観ら諸宗僧侶や権門の女房たちの奸策(かんさく)とはたらきかけによって、評定衆の中に、今こそ日蓮房を斬るべしの意見が強くなっていたのです。
 大聖人は、
 「一分の科(とが)もなくして佐土国へ流罪せらる。外には遠流(おんる)と聞こへしかども、内には頚(くび)を切ると定まりぬ」 (下山御消息 新編一一五一頁)
 「外には遠流と聞こへしかども内には頚(くび)を切るべしとて云々」(妙法比丘尼御返事 新編一二六四頁)
と仰せられているように、表向きは流罪であっても内々には斬首(ざんしゅ)の刑に処さんとしている幕府の意向を察知されていました。
 『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』の第十二条では「悪口の咎の事」を定めています。
 「争いの元である悪口はこれを禁止する。重大な悪口は島流し、軽い場合も牢に入れる。また、裁判中に相手の悪口をいった者は直ちにその者の負けとする。また、裁判の理由が無いのに訴えた場合はその者の領地を没収し、領地がない場合は流罪とする。」(現代語訳)と言うものです。
 大聖人の破折が悪口と幕府に決めつけられても、第十二条の適用によって罪を問うのであれば、最高刑は流罪にしかなりません。ところが、実際に日蓮大聖人に対して行なわれようとしたのは、竜の口における死罪でした。


 【竜の口の奇瑞(きずい)】
 「種種御振舞御書」(新編一〇五七頁)に沿って、竜の口の刑場に至るまでの状況を見ていきます。
 日蓮大聖人は、武蔵守(むさしのかみ)の屋敷から竜の口の刑場に向かうに際して、若宮小路にさしかかりました。日蓮大聖人はその若宮小路で、鶴岡八幡宮に向かわれ「各方、騒いではなりません。格別のことはありません。ただ、八幡大菩薩に向かって、最後に申すべき事があります。」と云って、馬から降りました。

 大聖人様は、
「八幡大菩薩は、法華経の行者であり、一分の咎も無い私が処刑されんとしているのを黙って見ているのですか。今夜、日蓮が首を切られて、霊山浄土へ参った時には、『まず、天照太神・正八幡大菩薩こそ、誓願を果たされなかった神でありました。』と、遠慮無く、教主釈尊へ申し上げることになります。 もし、八幡大菩薩が心に痛みを憶えるならば、急いで、御計らいを実行しなさい。」
と諫暁(かんぎょう)されるのです。
 処刑を前にして、鎌倉武士たちがもっとも崇めていた鶴岡八幡宮に対し、厳しく仰せになる日蓮大聖人のお姿を見て、取り囲む武士たちも大変驚いたことでしょう。
 その後の事も、「種々御振舞御書」を意訳しながらお伝えします。
 その後、私(日蓮大聖人)は、再び、馬に乗りました。 由比ヶ浜に出て、御霊の社の前に至ると、また、私は、「少し待って下さい。この場所に、知らせたい人がいます。」と、云いました。
 そして、中務三郎左衛門尉(なかつかささぶろざえもん)(四条金吾(しじょうきんご)殿)という者の許へ、熊王という童子を遣わせました。
 すると、四条金吾(しじょうきんご)殿は、直ちに、裸足のまま駆けつけてきました。私は四条金吾(しじょうきんご)殿に、こう云いました。 
 「今夜、日蓮は、首を切られに行きます。この数年の間、願い続けてきたのは、まさに、この事であります。この娑婆世界において、雉(きじ)となって生まれてきた時には、鷹(たか)に捕(つか)まってきました。そして、鼠(ねずみ)となって生まれてきた時には、猫に喰われてきました。
 或いは、人として生まれてきた時には、妻や子や、そして、敵のために、命を失った事は大地微塵(みじん)の数より多くても、法華経の御為には、一度たりとも失ったことはありません。
 そのために、日蓮は、貧道の身となって、生まれてしまいました。故に、思うような父母の孝養も出来ません。また、国の恩を報ずる力もありません。 しかし、これから、『首を法華経に奉って、その功徳を、父母へ回向することに致しましょう。その功徳の余りは、弟子・檀那等に分けることにします。』と、常日頃から申してきたことが、まさしく、実現するのであります。」と。
 すると、四条金吾(しじょうきんご)兄弟の四人は、馬の口にとりすがって、鎌倉龍の口の地まで付いてきました。
 「この場所(龍の口)で、首を切られるのであろう。」と、思っているところに、案に違わず、兵士どもが私を取り囲んで、騒ぎ始めました。
 すると、四条金吾(しじょうきんご)殿は、「只今で、お別れでございます。」と云って、泣きました。
 私は、こう云いました。
 「不覚の殿方でありますなぁ。これほどの悦びを、どうか、お笑いになって下さい。どうして、以前からの約束を違えられるのですか。」と。
 そのように申した時に、江の島の方から、月のように光った物が鞠(まり)のようになって、東南の方角より西北の方角へ輝き渡りました。
 文永八年九月十二日の夜は明けていなかったために、まだ薄暗くて、人の顔も見えないほどでした。 
 ところが、その光り物の明かりによって、まるで月夜のように、周囲の人々の顔も、全員はっきりと見えました。
 私を切ろうとして構えていた太刀取りは、目がくらんで、倒れ臥してしまいました。
 兵士どもは怖じ恐れて、気後れする余りに、至る所で逃げ去った者が出ました。
 或いは、馬から下りて畏(かしこ)まる兵士がいたり、或いは、馬上でうずくまっている兵士がいました。
 そこで、私は、「如何に、兵士どもよ。このように大いなる禍(わざわ)いのある召人(めしゅうど)から、遠のいてしまうのか。近くまで、打ち寄ってみよ。近くまで、打ち寄ってみよ。」と、声高に呼んでみました。
 けれども、急いで、打ち寄って来る兵士はいませんでした。
 また、私は、「このような有様では、夜が明けたらどうするのか。首を切りたければ、急いで切るがよい。夜が明けてしまったら、見苦しいではないか。」と、勧めてみました。
 けれども、兵士どもからは、何の返事もありませんでした。
 それから、かなり時間が経過してから、「相模国の依智(えち)(現、神奈川県厚木市)に在住している、本間六郎左衛門尉重連(ほんまろくろうざえもんのじょうしげつら)(※北条宣時(のぶとき)の家人。塚原問答後に、日蓮大聖人へ帰伏することになる。)の館に、お入り下さい。」と、云われました。
 私は、兵士どもに、「道を知らないので、誰か先頭に立って、案内せよ。」と、申しました。
 けれども、先立って行く人は、誰もいません。
 しばらく休んでいると、ある兵士が、「その道こそが、依智に向かう道でございます。」と、云いました。
 そこで、道に任せて、依智へ行くことにしました。
 そして、文永八年九月十三日の正午頃、依智に行き着いて、本間六郎左衛門の館に入りました。
 このように日蓮大聖人は頸(くび)の座に臨(のぞ)むといわれるのに堂々たる態度でした。死刑が執行されるのを前にして、ここまで冷静沈着に振る舞われるのは、生死の迷いを超えられている御本仏としての御境界のゆえと言えます。
 更にそれは、光り物に恐れおののく武士に向かって、「首を切りたければ、急いで切るがよい。夜が明けてしまったら、見苦しいではないか。」と仰せになられるお姿にもよく顕れています。
 本間邸へ到着後、大聖人は、昨夜以来の任務で疲れ切っていた警固の武士たちの労をねぎらい、酒をとり寄せ、ふるまわれました。
 警固の兵士たちは、はじめのうちは念仏を謗(そし)る悪僧日蓮と聞かされ、その命を断たんとしたが、まのあたりに見る大聖人の人格と細やかな慈愛、そして御身にそなわる不思議な力に心打たれるものがあったようでした。
 それはまた自分たちが信じている念仏に対する疑念と反省に変わっていったのです。
 そして、やがて兵士たちの中には、大聖人に掌をあわせて、火打ち袋より念仏の数珠を取り出して捨てる者もあり、また「今は念仏申さじ」(新編一〇六一頁)と誓状をたてる者もおりました。
 この様子を見て四条金吾(しじょうきんご)も安心して帰ったようでした。


 【光り物について】
 大聖人は後にこの光り物について『四条金吾殿御返事』に、
 「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ竜口の頚(くび)をたすけ、明星天子は四・五日已前に下りて日蓮に見参し給ふ。いま日天子ばかりのこり給ふ。定めて守護あるべきかと、たのもしたのもし」(新編四七九頁)
とあり、竜の口の光り物は、諸天の内でも三光天子の月天子による守護であると仰せられています。
 法華経の行者は種々の難に値うが、同時に必ず諸天の守護を受けることは、法華経の『法師品』『安楽行品』『普門品』等に明らかです。
 この時の光り物について『日蓮大聖人正伝』では、
 『近年の学者たちが稲妻であるとか、流星であるとか、隕石が空気中で燃えてできる火球であるなどと、科学的知識を駆使していろいろな説明を加えています。しかしこの光り物に、たとえどんな科学的理論づけがなされようと、それはただ単に一箇の光り物に対する想像でしかありません。肝心なことは、なぜこの光り物が、この日、この時刻、この場所に出現したのかということなのです。』(一九〇頁)
と説明されています。
 大聖人の処刑が迅速に行われようとしたことに、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)の大聖人への容赦ない姿勢を見ることができますし、真夜中の処刑は、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)が大聖人を本気で闇から闇へ葬り去ろうとした意志の表れともとれます。
 四条金吾(しじょうきんご)は、大聖人の許へ走りながら、こうした幕府の無言の圧力を肌にひしひしと感じていました。そしてこの刑から免れられないことを悟り、「我も死なん」と覚悟したのでした。
 国家権力をもって、一人の人間を死刑にしようとした場合、覆ることはまずありません。
 現代の日本であっても、裁判で死刑が確定し、法務大臣が「執行命令書」にサインすれば死刑は執行されます。この死刑が今まさに執行される直前になって、何らかの理由により中止になることなどあり得ません。
 しかし、光り物の出現によって鎌倉幕府の力をもってしても、結局は大聖人様を斬首(ざんしゅ)できなかったのです。
 また大聖人が諸天善神に対し叱咤(しった)した後、斬首(ざんしゅ)の直前にいたってこの現象があった、という不思議な「時」の一致は、法界を貫く本仏の力用と、依正不二の深義を説き明かした仏法以外に説明できないのです。
 更に言えば、提婆達多があの手この手で釈尊を殺害しようとしても出来なかったのと同じで、大聖人様は御本仏ですから、凡夫が傷を付けることは出来ても、殺すことなど出来るはずも無いのです。


 【発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)】
 この竜の口の法難は仏教史上、未曾有の、頸(くび)を刎(は )ねられるという大難に値われたことによるのでありまして、大聖人の御一代における重大なる意義をもった法難であります。
 すなわち、文永八年九月十二日、大聖人御年五十歳の時、名字凡夫(みょうじぼんぷ)の日蓮は頸(くび)を刎ねられ、久遠元初の仏身、御本仏としての日蓮大聖人がお生まれになったということであります。
『開目抄』に、
 「日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頸(くび)はねられぬ、此れは魂魄(こんぱく)・佐土の国にいたりて云云」(御書 二二三㌻)
と仰せのように、日蓮という者は竜の口において頸(くび)を切られてしまって、その魂が佐渡の島へ行くのであると申されております。このことは何を意味しているのでありましょうか。
 これは、いままでの上行菩薩としての振る舞いは自分の真実の姿ではない、実は久遠の本仏であるという、いわゆる発迹顕本(迹を発(はら)って本を顕わす)という深義をここに示されたのであります。
 また、「丑(うし)の刻」は、陰の終わりにして死の終わり、「寅(とら)の刻」は、陽の初めにして生の初めを意味しており、「丑寅の刻」とは生死の中間であり、陰陽の中間の意であります。
 『上野殿御返事』にも、
 「三世の諸仏の成道は、ねうしのをはりとらのきざみの成道なり」(新編一三六一頁)
とあり、「子丑の刻」は大聖人の凡身の死の終極であるゆえに、「頸(くび)はねられぬ」といわれたのであります。「寅の刻」は、久遠元初(くおんがんじょ)の自受用身(じじゅゆうしん)(※「ほしいままにうけもちいるみ」とも読み、仏様の自由自在の境界を意味しています。一念に具わる三千の生命を、自由自在に操ることが出来るのです。)の生の初めとの意味です。
 釈尊は二月八日、明星の出ずるときに大悟し、大聖人もまた、文永八年(一二七一年)九月十二日、竜の口において、明星の輝く寅の刻に久遠元初(くおんがんじょ)の御本仏と開顕されたのです。
 ところが、相伝のない身延や日蓮門下ではこの竜の口の発迹顕本を、凡夫の日蓮が初めて上行菩薩の自覚を得た、などととらえているのであります。彼らは大聖人を釈尊の遣使還告(けんしげんごう)、すなわち釈尊の弟子が末法に遣わされて法華経を弘めたとしか理解できないために、日蓮は迹で、本化の菩薩上行が本であると立てているのです。
 もし彼等にならって、竜の口の法難をもって上行菩薩の再誕・日蓮大聖人とみるならば、それでは宗旨建立の時に初めて南無妙法蓮華経と唱えられた大聖人の御振る舞いは一体、何であるかということになるのであります。
 上行菩薩としての御振る舞いは既に立宗の時に示されているのでありまして、上行菩薩としての御自覚なくしては、末法尽未来際を救うべく、題目は唱え出されないのであります。竜の口の法難をもって他の日蓮門下が、大聖人を菩薩の位にしか拝することのできない決定的な因は、相伝がないためでありまして、それ故に今日まで、正しく御法門を伝えることができないのであります。
 ここに竜の口の法難は、上行菩薩の迹を払って久遠の御本仏という深い御内証を顕わしたところに深義が存するのでありまして、大聖人御一代における重大なる御振る舞いを示されたところであると拝するものであります。
 大聖人様はその後、佐渡へ島流しにされ大変なご苦労をされます。
 もちろん発迹顕本されたと言っても、大聖人様の姿形が変わるわけではありません。しかしその御振舞は、「佐渡へ渡る前後では大きく異なる」とご自身で仰せのように、いよいよ末法に出現された御本仏として、一切衆生救済のため真実の御化導が始まるのでした。
 その契機が竜の口の法難なのです。我々はこの重要な意義をふまえて、御難会に参詣し御報恩感謝と折伏成就をお誓い申し上げることが肝心なのです。

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