御住職の法話目次  > 御住職の法話(第203号)
 
   【 『一心に仏を見たてまつらんと欲(ほっ)して自(みずか)ら身命(しんみょう)を惜(お )しまず』云云。日蓮が己心(こしん)の仏果(ぶっか)を此の文に依(よ )って顕(あら)はすなり 】

 竜の口法難について①

 本日は、九月十二日であります。皆様も御承知の通り、大聖人様が『竜の口の法難』に遭われた日でありまして、仏法上大変深い意義のある日です。
 今日は、この法難の経緯と意義について、限られた時間ではありますが、今月と来月の二回に分けて、お話しさせていただきたいと思います。
 まず、なぜ幕府は秘密裏(ひみつり)に大聖人様を暗殺しようとしたのか?その経緯からお話しさせていただきます。

 【蒙古(もうこ)の牒状(ちょうじょう)】
 文永(ぶんえい)五(一二六八)年正月に蒙古から属国(ぞっこく)になるようにとの牒状が、鎌倉幕府に届きました。
 その内容は、
 『高麗(こうらい)は既に元と君臣の関係を結んでいるが、それは父子の関係に似ている。日本は、開国以来、中国に朝貢(ちょうこう)してきたが、それは元の時代になって絶えている。
 そこで今後は、日・元間の友好関係を結び、親密な関係を持ちたいと考える。
 止むを得ず戦争になる事態は、両国にとり好ましいものではない。日本国王はそこのところをよくお考えの上で、適切な処置を講じていただきたい。』(桜井時太郎「国史大観」第三巻研究社六二五頁)
といった内容であり、元の国書としては丁寧な言い回しをしているが、殆(ほと)んど脅しともとれる内容でした。
 この書は鎌倉へ送られ、更に京都で御前会議が開かれましたが、幕府・朝廷ともに受理拒否に決定しました。国民の間には蒙古襲来(もうこしゅうらい)の不安が広がっていきました。
 翌文永六年三月には、蒙古・高麗の使者が対馬(つしま)にて、先の牒状について返答がないことを追及し、島民を連れて行ってしまいました。その半年後の九月に島民は返されますが、対馬に二回目の牒状が着いたのです。
 この後も、毎年のように使者が来ましたが、幕府・朝廷は無視し続けます。
 応に日蓮大聖人が「立正安国論」で予言されていた他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が、現実のものとなりました。
 当然のことながら、これまで日蓮大聖人を侮(あなど)っていた者の中からも、日蓮大聖人を信奉する者が出て来るようになりました。
 日蓮大聖人は文永七年に書かれたと思われる「善無畏三蔵抄(ぜんむいさんぞうしょう)」を拝しますと、当時、最も流行(はや)っていた阿弥陀仏を捨て、釈迦仏を拝む者が出てきたことがわかります。
 また、その内容から、鎌倉の人々のうち、一〇パーセントから二〇パーセントが日蓮大聖人の信者となり、二〇、三〇パーセントが日蓮大聖人に対し好意を持ち始めていたことが書かれています。ということは、鎌倉の人々の中で半分近くが、日蓮大聖人に心を寄せていたことになります。
 そのことによって、諸宗の者が日蓮大聖人をより一層憎むようになったのです。他宗の僧は自分達の生活が脅(おびや)かされると脅威(きょうい)を感じていました。また、その脅威は、憎悪(ぞうお)の念となっていくのです。


 【雨乞い対決】
 このような状況下で文永八年を迎えます。大聖人様は御歳五十歳でした。文永八年五月頃から全国的に旱魃(かんばつ)が続き、人々は困窮(こんきゅう)しました。幕府も民心の動揺を抑え、その救済と幕政の維持を計るため、当時、人々から生き仏のように崇められていた良観(りようかん)に、雨乞いの修法を命じました。
 良観は、六月十八日より七日間、雨乞いの祈祷を修し、天下万民を救わんと公言したのです。六月十八日というと、新暦では七月七日に当たり、応に猛暑日です。
 この良観の祈雨について、日蓮大聖人は後年、「下山御消息」の中で、事情を詳細に書かれています。
日蓮大聖人は、この御書で良観のことを「両火房(りょうかぼう)」と書かれています。なぜ両火房と書かれたかと申しますと、のち文永十二(一二七五)年の三月二十三日に鎌倉で大火がありました。良観が住職をする極楽寺より出火し、鎌倉幕府の御所にも延焼しました。その両所が焼けたから、日蓮大聖人は以降、良観のことを「両火房」と称されました。
 日蓮大聖人は、良観が、末法の法華経の行者を弾圧する「僣聖増上慢(せんしょうぞうじょうまん)」だと見抜かれていました。「良観は世間の無智の国主より万民にいたるまで、まるで生き仏のように崇(あが)められているが、法華経の第五の巻・勧持品(かんじほん)から拝せば、第三類の強敵でしかない。(取意)」と仰せであります。
 この僣聖増上慢とは、世の人々から聖者のように尊敬されるもの、その心は常に世俗(せぞく)のことを思って利欲(りよく)に執着(しゅうちゃく)している邪僧をいいます。この邪僧が、国王等をそそのかして法華経の行者に難を加えさせるのです。
 そこで日蓮大聖人は、機会があれば、良観の大慢(だいまん)を倒して仏法の正義を顕されようとお考えでした。一方で良観は、日蓮大聖人のことを、自分の「願の障(さわ)り」になると考えていました。
 そこで日蓮大聖人は、伝教などの故事にならい、良観と祈雨を巡っての対決をしようと考えられたのです。
 祈雨の勝負などは小さなことであるが、ことのついでに仏法の正邪(せいじゃ)を万人に知らしめようとされ、良観の弟子を呼び寄せ、次のように伝えました。
 「七日の内に(雨を)ふらし給はゞ日蓮が念仏無間と申す法門すてゝ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば、彼の御房(良観)の持戒げなるが大誑惑(おうわく)なるは顕然(けんねん)なるべし。(中略)又雨らずば一向に法華経になるべし」(頼基陳状 新編一一三一頁)
と祈雨に際しての約束をことづけられました。
 これに対して良観は、
 「悦びないて七日の内に雨ふらすべき由にて、弟子百二十余人頭より煙を出だし、声を天にひゞかし、或は念仏、或は請雨経(せいうきょう)、或は法華経、或は八斎戒(はっさいかい)を説きて種々に祈請(きせい)す」(新編一一三一頁)
とあるように、良観房はじめ弟子百二十余人は一堂に会して一心不乱に祈ったが、四・五日を経過しても雨の降る気配はありませんでした。かくなるうえはと、さらに多宝寺の弟子数百人を呼び集めて、あらゆる手段を尽くして祈りましたが、七日を過ぎても露ほどの雨も降りませんでした。それどころか暴風が連日吹き荒れたのでした。
 そこで大聖人は、
 「良観が雨のいのりして、日蓮にかゝれてふらしかね、あせをながしなんだのみ下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくてありし事、三度までつかひをつかわして、一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりを越ゆべきか。(中略)いかに二百五十戒の人々百千人あつまりて、七日二七日せめさせ給ふに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。これをもって存ぜさせ給へ。各々の往生は叶ふまじきぞ」(新編一〇五八頁)
と、六月二十四日までに三度の使いを遣わされたのです。
 そして、
 「雨ふらす法と仏になる道をしへ奉らむ。(中略)民のなげき弥々深し。すみやかに其のいのりやめ給へ」(新編一一三二頁)
と諌言(かんげん)されました。
 使いの者が、この大聖人の「雨すら降らせないのに成仏など叶うわけがない」との御言葉をありのままに伝えると、良観が涙を流し、その弟子檀那たちも同じく声を惜しまず泣いて、くやしがったのでした。
 このままでは心のおさまらない良観は、さらに七日間の期限の延長を請い、修法を続けました。
 しかし、前よりもはるかに旱魃(かんばつ)はきびしくなり、大悪風が吹き荒れたのです。所詮(しょせん)、正法のまえに謗法の祈りのかなうはずはなかったのです。
 完全に良観の敗北でした。
 この良観の祈りで雨の降らない原因を、大聖人は『下山御消息(しもやまごしょうそく)』に、
 「一には名は持戒ときこゆれども実には放逸(ほういつ)なるか。二には慳貪(けんどん)なるか。三には嫉妬(しつと)なるか。四には邪見(じゃけん)なるか。五には淫乱(いんらん)なるか」(新編一一四五頁)
と述べられ、偽善者(ぎぜんしや)良観の本性を指摘されています。

 【鎌倉諸宗の不穏な動き】
 良観の祈雨の失敗は、律宗(りっしゅう)のみならず、良観に加担(かたん)した鎌倉の諸大寺全体の恥辱(ちじょく)でもありました。良観は、日蓮大聖人の前に完璧に敗北したわけですから、本来は日蓮大聖人の弟子となるべきなのです。
 ところが良観は、大聖人から僣聖増上慢、偽善者と破折された上、祈雨の修法でも完敗したことを根に持ち、日蓮大聖人を一層憎み、謀(はか)りごとを巡らして貶(おとし)めようとします。
 律宗の僧である極楽寺の良観の祈禱(きとう)が破られたことによって、日蓮大聖人の教法の正しさが鎌倉中に轟(とどろ)いていきます。こうなると、祈雨の敗北は良観一人の問題ではなくなってきます。
 「日蓮憎し」の思いは、宗派を超えて増幅していくのです。諸宗は日蓮大聖人の存在に、大変な危機感を抱きました。
 大聖人との約束に従わないばかりか、かえって憎悪(ぞうお)の念をつのらせ、諸大寺の反対勢力と謀議(ぼうぎ)をこらし、行敏という僧に命じて大聖人と対論させようとしました。
 良観は祈雨に完敗した直後でもあったので、己れの名を出すことを恥じ、まず行敏を対決させようとしたようです。
 文永八年(一二七一年)七月八日、行敏は大聖人に対し、門難(もんなん)の書状を送ってきました。
 その内容は大聖人の所説に対する次の四つの疑難でした。
 一、法華経以前に説く一切の諸経は皆(みな)是(こ )れ妄語(もうご)であり、出離(しゅつり)の法ではないという説
 二、大小の戒律は、世間を誑惑(おうわく)して悪道に堕す法門であるという説
 三、念仏は無間地獄の業なりとの説
 四、禅宗は天魔の所為であり、そこれによって修行する者は、悪見を増長するという説
 以上の四条を、もし日蓮御房が説いているならば仏法の怨敵(おんてき)であるから、対面して日蓮房の悪見を破らねばならない、というものでした。
 これに対して大聖人は、五日後の十三日に「個人的な問答」ではなく、上奏(じようそう)を経たうえで「公場対決にすべきである」旨の返答をされました。
 私的な問答を悪用して、大聖人を陥(おとしい)れようというおもわくが外れた良観等は最後の手段として、大聖人を謗ずる訴状を、問注所に提出しました。
 行敏の訴状は、当時の通例に従って、問注所から大聖人のもとに回され、大聖人は答弁の陳状を求められました。
 大聖人は、ただちに陳状(初答状)を認(したた)められました。これが『行敏訴状御会通(ぎょうびんそじょうごえつう)』であります。
 大聖人は行敏の難状は、良観、念阿良忠(ねんありょうちゅう)、道阿道教(どうあどうきょう)らの策謀によるものと看破されたうえで、彼らの邪義を堂々と破折されています。
 特に、日蓮大聖人は「御会通」の中で、このような訴状を諸派が野合して出すことの是非を問われています。善導が念仏でなければ成仏しないと言った「千中無一(せんちゅうむいち)」や、法然の「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」に対して、良観らはそれに同意なのかと責められています。
 大聖人を倒したい一心で、諸宗の者たちが野合しているから、当然、法義の上で矛盾が出てしまうわけです。
 さらには、大聖人の弟子が「本尊・阿弥陀観音等の像を火に入れ水に流している」「門下が謀反(むほん)を企てる危険な集団である」との訴えも、良観、念阿弥陀仏、道阿弥陀仏などの大嘘から出たと指摘されていいます。
 このように大聖人と良観、さらには幕府の間で、緊迫したやりとりがなされたのです。
 なにしろ、良観たちが幕府に出した訴状は、ほとんど法義に関わることだったから、評定(裁判)にはならなかったようです。良観たちの企みは失敗に終わりました。
 これに対して執拗(しつよう)な良観たちは、いよいよ悪辣(あくらつ)な裏工作を開始しました。
 裁判でどうしようもなくなると、今度は幕府要人の女房や、死んだ実力者たちの女房に、大聖人に対するさまざまな悪口讒言(あっくざんげん)を吹聴したのです。
 この中には、故最明寺入道こと時頼の女房も入っていました。執権・時宗の母です。このあたりが動くとなると、相当に感情的な対応になったようです。「そんな悪い坊主は、斬首せよ。遠島せよ。牢に入れよ。」と眉を逆立てて怒り、一門の要人に、大聖人の処罰を迫りました。このためついに幕府は評定所に僉議(せんぎ)を開いたのです。

 【評定所への召喚(しょうかん)】
 文永八年(一二七一年)九月十日、大聖人は評定所へ召喚され、執権の家司(けいし)である平左衛門尉頼綱より、直接尋問を受けました。
 その尋問は、大聖人が故最明寺入道時頼、極楽寺入道重時の死に対して無間地獄に墜ちたと公言し、建長寺、極楽寺等を焼き払えと言い、道隆、良観等の首をはねよと言ったことについての糾明(きゅうめい)でした。
 これらの尋問に対して大聖人は、
 「上件の事一言もたがはず申す」(新編一〇五七頁)
と一応はこれを認められました。
 ただし、謗法を捨てて正法に帰依しなければ地獄に堕ちるであろうとの諌言(かんげん)は、最明寺殿、極楽寺殿が存命の時からすでに日蓮は申していたことであり、両人の死後にはじめて堕地獄(だじごく)なりと言い出したように非難することは、訴人(そにん)側のつくりごとであると強く仰せられました。
 そして、
 「世を安穏にたもたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合はせてきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失(とが)に行はるゝほどならば、国に後悔ありて」(新編一〇五七頁)
と述べられるのです。
 日蓮大聖人は、このような主張をするのは、国を思い、世の安穏のためだと申されました。その日蓮大聖人を遠流(おんる)、あるいは死罪にした場合は、北条氏一門の中で同士討ちが始まる、あるいは他国より攻められ後悔することになるであろうと、厳しく諌暁(かんぎよう)されました。
 日蓮大聖人は仏の法に則り、道理を言われているのですが、平左衛門尉には通じなかったようです。「すこしもはばかる事なく物にくるう」と書かれていることからして、この取り調べの中心者は相当猛り狂ったようです。
 事態はいよいよ悪化し、
 「御評定に僉議(せんぎ)あり。頚(くび)をはぬるべきか、鎌倉ををわるべきか。弟子檀那等をば、所領あらん者は所領を召して頚を切れ、或はろうにてせめ、あるいは遠流すべし」(新編一〇五六頁)
とも、また、
 「御評定になにとなくとも日蓮が罪禍(ざいか)まぬがれがたし」(新編一〇五七頁)
とも述べているように、大聖人に対する流罪、死罪はすでに避けられないものとなっていました。
 この評定所の僉議そのものが、大聖人を怨(うら)む諸宗の高僧達から、自宗に帰依する幕府の要人やその夫人達、あるいは時頼、重時らの未亡人に対して執拗なまでの讒言(ざんげん)がくり返され、それを真に受けた権力者や夫人達の圧力によって、大聖人を亡き者にせんとして開かれたものであったのです。

 【一昨日御書(いっさくじつごしょ)】
 大聖人は、召喚(しょうかん)されてより中一日おいて九月十二日、平左衛門尉頼綱に対し、反省を促すため『一昨日御書』を送られました。
 その中で『立正安国論』の予言の符合したことを挙げ、日蓮こそ未萌(みぼう)を知る聖臣(せいしん)であり、諸仏の使いであるとして、
 「夫(それ)未萠(みぼう)を知る者は六正(りくせい)の聖臣(せいしん)なり。法華を弘むる者は諸仏の使者なり」(新編四七六頁)
と述べられています。
 しかるに諸宗の謗法の徒のウソの訴えによって、一昨日の尋問において不快の見参を遂げたことも、ひとえに異敵を対治し、国土を安んずるためであると記され、
 「あなたは天下の棟梁(とうりょう)です。国の良材を失ってはいけません。早く賢慮(けんりよ)を回らして異敵を退けて下さい。国や世の安穏を願っています。自分の為に申しているのではありません。あなたの為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上しているのです。(取意)」(新編四七七頁)
と、頼綱の再考を促し、大聖人の胸中には全く私心のないことを披瀝(ひれき)して諌(いさ)められたのです。
 日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経に帰さなければ、「立正安国論」に予言した他国侵逼難(たこくしんぴつなん)が起こることを、この平左衛門尉頼綱宛(あて)の書状で強調されています。
 そして正法を謗ずれば、三災七難が起こるとして、国主諫暁の書である「立正安国論」一巻を平左衛門尉に与えられたのです。
 もし頼綱に憂国(ゆうこく)の真情と一分の智慮(ちりょ)があったならば、この御状を見て心に感ずるところがあったでしょう。しかし、この大聖人の至誠は、頼綱には通じませんでした。
 それどころか、この御状に対して毒気深入(どつけじんにゅう)の頼綱がとった返答は、即日松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵を襲い大聖人を召し捕るという、狂乱きわまりない暴力による報復でありました。   


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